碧の悠久刹那の紅〜ナバール


紅は激情
熱夢
血潮の色
天を焦がす炎獄

刹那全てを巻き込む狂気



一階が酒場、二階が数室の小部屋となったその宿屋は、豪華過ぎず、さりとて粗末過ぎない、要するに、ここガルダでは最も一般的なものだった。船を降りて後、マルス自身の主張によって、通りに面したこの場所が選ばれ、アリティアの騎士達も、ようやっと少し息をつく事ができるようになった、そんな時にそれは起こった。
マルス以下、アリティアの騎士達も宿の一部屋に集まって座っている。そんな彼等の表情は、皆、一様に硬い。
「…それじゃ、シーダが何処へ行ったか、全く判らないっていうんだね?」
「申し訳ございません!私が目を離したりしなければ、このような事にはっ」
己の責の重さに、カインは床に膝を突く。何という失態。
他の皆は、宿周辺の調査、探索に当たっており、シーダ姫とマルス王子の身辺警護が、カインに割り振られた仕事だった。
マルスと騎士達の6人は三人ずつの中部屋に、そしてシーダは小さな個室に…マルスを個室に、という意見は、マルス自身の「自分一人だけ個室では、不自然である」と言う至極尤もな意見によって却下されたが、シーダの「私、マルス兄様と同じ部屋でいい」という意見もまた、マルスを除くほぼ全員からの猛反対によって、敢え無く却下されていた…と決められたが、一人、個室に入っていった筈のシーダが、いつまで経っても現れず、不審に思ったカインが室内に足を踏み入れたところ、そこはもぬけの空だった、という訳だ。大通り側に大きく取られた窓から出入りしたとは、思われない。そのように人目に立つ経路を取る意味がないからだ。そのような形跡も、残ってはいなかった。他に出入り口といえば、小さな階段へと続く廊下への扉があるだけだ。そして、カインは宿屋の小者に呼ばれて、場を外した時があった。その時に部屋から出たに違いない。
唇を噛み締めるカインに対して、慌ててマルスは手を振った。
「確認しておきたかっただけだってば。立ってよ、カイン。別に責めてる訳じゃないんだから。カインの所為じゃないよ」
その言葉の後半部は、騎士達全てに対するものだった。視線を彼等に投げながら、きっぱりとした口調で続ける。
「カインが席を外した、ほんの僅かな時間だけで、天空騎士が拉致されるなんて、そんな可能性は薄いと思う。シーダはきっと、自分の意思でここから抜け出したんだ。シフェラザードが騒いでいる様子もないし、今のところは、無事だと思うよ」
有翼馬は、己の相方たる天空騎士との間に不思議な絆を生むという。例え、遠く離れていても、彼等は主人の危機を察知する。その特性ゆえに、有翼馬は『聖獣』とも称されるのだ。
その事実に基づくマルスの言に頷きつつも、ジェイガンは口を開いた。
「そうですな。しかし、『今のところは』です。海賊やドルーア兵が横行しているという場所で、姫君がお一人でいては、今後も無事である、という保証は、何処にもありません」
「うん。確かに、早く見付け出した方が、いいね…」
今だ、タリスとの貿易活動は続けられてはいても、もうすっかり海賊の根城となっているらしい事は、港に船を停泊する時、海賊へと支払った『港使用料』なるものが、証明している。しかし、海賊達とドルーアは、どの程度の繋がりなのか?元々の街の自治を担っていた人達は、どうなってしまったのか?
情報量が少なすぎる。最終的には、駐在のドルーア兵と事を構える、としても、まだ自分達には、ガルダの現状がよく飲み込めていないのだ。
下手に動いて、衆目を集めてしまうのは、得策ではない。少なくとも、状況判断の材料となるだけの知識が得られるまでは。しかし、シーダをほおっておく訳にもいかない。見るからに世間知らずのお嬢様然としたシーダが、このような場所でどのように映るものか、2年前の流浪の旅は、マルスに深く教えてくれていた。
ならば、どうする?どのように動けば、最も効果的なのか?
困ったように眉根を寄せ、しかし、めまぐるしく冷徹な思考を巡らせるマルスを知ってか知らずか、ドーガは身を乗り出した。
「ともかく、早くお捜しした方が、いいです!危ないです!」
「でも、何処へ行ったのかも、判らないのに…」
マルスのみならず、多分、誰もが思っているであろう事を、おずおずとした調子でゴードンが口にすると、ドーガは、表情を引き締めながら、憤然としたように言う。
「何もしないより、ましだろう」
「……そうだね。何もしないより、いいに決まってる」
ともかく、動いてみない事には、何も始まらないのだ。
マルスが、今までずっと伏せられていた瞳を上げる。その色は、もうすっかり落ち着いたものとなっていた。
「皆で手分けして、捜そう。こまめに連絡は取り合うようにして、できるだけ、目立たないように心掛けて」
口を硬く引き結んで、マルスの前に控えていたカインが、一番最初に身を翻した。身を包む潮風避けのマントを取り上げ、大きく扉を振り返る。しかし、アベルは飛び出しかけた彼の進路をさりげなく己の体で遮り、その肩口を指先で軽く押し戻した。
「お前の仕事はまだ、終わっていないだろう、カイン」
目の前の落ち着いた表情の親友に、カインは問いかけの視線を向ける。
「マルス様とシーダ姫の警護。それが、お前の仕事だっただろう?」
マルスの警護の為に居残れ、と、そう言っているのだと、いつも言葉少な目な友人の言に含まれた意味を正しく読み取って、カインは、アベルに鋭い視線を向けた。それは殆ど、睨んでいる、といってもよかったかもしれない。
自分は、その『シーダ姫の警護』という仕事に失敗したのだ。己の失態を償う為の機会すら、与えられない、というのか。
「シーダ姫の捜索は、俺達の仕事だ。お前は、ここにいろ」
カインの視線を全く怯んだ様子もなく受け止め、淡々と重ねて言いつつ、しかし、アベルはそれを跳ね除ける程の強さを内包した視線を返す。
カインは、悔しそうに唇を噛み締め、アベルから目線を外した。この場合、アベルの方が正しかった。
「僕なら大丈夫だよ、一人でも。だから…」
「いけません」
俯いたカインへのマルスの執り成しは、アベルに一刀の元に切って捨てられた。…何だか最近、アベルはマルスに対して、妙に強気になったような気がする。いや、『強気』という言葉は多分、能わない。地が出ている、といった方が正しいのかもしれない。
今まではあくまでも、主君に対する騎士の態度を貫き通しており、過ぎる程に丁重且つ礼儀正しく、有り体に言えば、冷たいと見える程、他人行儀であった。それが現在、流石に言葉遣いの丁寧さは変わらないが、確かに存在していた内面の硬さが取れ、淡々と現実を見つめて捕らえ、どんな時でも己のペースを崩さない、まるでカイン自身と接する時のような、カイン曰わく、「アベルらしいアベル」なのだった。
アベルに見据えられ、しゅんとした様子のマルスを見て取って、カインは複雑な気持ちだった。人慣れない親友がマルスに打ち解けるのは、嬉しい事の筈だ。なのに、この胸内のもったりとしたものは何なのだろう。諸々の集合体のようなそれの中で、現在の自分でも認知できる感情が一つ。それは、寂しさ。一体、何に対する感情なのか、それは判らなかったけれど。
「…判った。アベル、シーダ姫の事は、頼んだ」
取り敢えず今は、様々な思いは全て棚上げする事にして、軽く頭を振るって、アベルに視線を合わせる。きっぱりとした口調だった。カインが理を解した事をちゃんと読み取って、アベルは軽く片手を上げた。
「任せておけ」
落ち着いた物腰の彼を年相応に映させる笑みを投げ、アベルはマントを翻して、扉へと消えていった。その後に続くように、他の騎士達も街角へと散らばって行く。それをマルスと二人して窓越しに見送り、カインは祈るようにその瞳を閉じた。



皆の影が見えなくなってから、マルスはゆっくりと窓辺を離れた。部屋の隅に置かれた粗末な木製のテーブルへと足を運び、備え付けの椅子へと腰掛ける。何も意識はしていないのだろう、考え事に没頭したその動作は、ひどく緩やかだ。
一体、シーダは何処へ行ってしまったのか。思考の中心は、その一点に尽きる。
確かにシーダは、好奇心旺盛で、何でも見て歩きたがる。その場の感情で行動してしまう、そんなフシもある。ガルダの港に着いた時も、ひどく興奮していた。だけど、状況が読めないような人間ではない。理性で感情を押さえる事ができない程、子供な訳ではないのだ。この後、合流する予定のタリス兵から、という伝言にも、『できるだけ、目立たぬよう』と、注意書きがなされていたように、自分のこのような行動がどれ程に危険なものか、判らない筈はない。
ならば、何故?
決まっている。彼女にとって、危険さと秤にかけても尚重い、そんな理由があったのだ。
それは、何だ?
その時、窓の下に当たる大通りから、幾人かの子供の声が耳に飛び込んできた。途端、マルスが椅子を大きく響かせて、立ち上がる。何事かと振り向いたカインには一視だにせず、マルスはいきなり廊下へと飛び出した。一拍の後、カインも追って走り出す。階段を駆け降り、一階の酒場を横切り、通りへと飛び出す。宿の玄関口の前で息を切らせて、通り過ぎただけだったのか、今はもういない子供の影を捜すように、マルスは視線を泳がせた。
シーダにとって、危険さと秤にかけても尚重い、そんな存在は一体、何だ?
彼女の中で、大きな位置を占めている存在。何よりも、重い存在。
その時、マルスの脳裏を一つの影が過ぎって通った。『彼』を語る時の、シーダの嬉しそうな、幸せそうな表情。『彼』は現在、ここガルダの街にいる筈だった。確証はない。だけど、多分、間違ってもいない。
そして、子供。港で垣間見た、シーダの袖をしきりに引いていた、まるで浮浪児のようだった子供。彼女がタリス兵からの伝言を提示したのは、そのすぐ後ではなかったか?
そんな子供のいるような場所も、ただ一つしか存在しない。
「マルス様?」
問い掛けるカインを真っ直ぐに見やって、マルスは、きっぱりと言った。
「カイン、シーダは貧民窟だ。『オグマ』に会いにいったんだ。その事を他の皆に知らせておくれ。皆まだ、あまり遠くへは行っていないと思うから」
「…しかし…」
「今は僕よりも、シーダの方が危険度が大きい。…これは命令だよ、カイン」
常日頃、滅多に使われぬ『命令』の一言に息を飲みつつ、それでも尚、躊躇するカインに、マルスは力づけるように微笑み掛ける。
「大丈夫。僕は部屋に戻って、カインの帰りを待ってるよ」
その笑みに押されるように、カインは硬い表情のままに頷いた。



すっかり、感情のままに行動してしまった。今まで、できるだけ周囲に姿を見せないように心掛けていたと言うのに。これでは、シーダの事は何も言えない。街中を移動する際、頭に巻いていた布をそのままにしていたのが、不幸中の幸いだった。思索に没頭すると、周囲が見えなくなってしまう自分が情けない。己は、常に考え深く行動しなければならない義務があるというのに。昔からその傾向はあって、カインなどはそんなマルスにすっかり慣れっこになっているらしい辺り、情けなさも倍増である。
カインを見送った後、マルスは落ち込みつつ、宿屋の玄関を潜り抜けた。
…何だか、周囲の視線が注がれているような気がする。やはり、先程の店内走り抜けの所為だろうか。
マルスは、更に落ち込んだ。せめて、早く部屋に戻って、おとなしくしていよう、と足早に階段へと歩みを向ける。軽やかに数段、駆け上り、…しかし、前方から階段を降りて来た男達と擦れ違いざま、その足元が小さく揺らいだ。気付かないままに肩を押されたのか、それともぶつからないようにと体を捻った時、バランスを崩したものか。
上体が泳ぐ。後方へと。息を飲み、その身を硬くする。
マルスの腕は無意識の内に、支えとなるものを求めて、空をさ迷った。マルスの望みが聞き届けられたのか、本来ならば、見付かる筈もないそれは、確かに後方に存在していた。
そのまま滑り落ちる事を覚悟した体が、揺れただけでその場に止まった。何故か、と考えるより前に、マルスの目に飛び込んで来たのは、腰に預けられた細く長い一振りの剣。古びた鞘の上からでも判る、優雅な曲線を描いたそれは、無駄な装飾のない、実用一辺倒、といった様子の造りにも係わらず、とても美しかった。それはまた、持ち主そのもののようであったかも知れない。
しっかりとした筋肉に支えられたその腕は、如何にも剣を握るに相応しい。己の縋った腕の持ち主を見上げたマルスの目に映ったのは、切れの長い漆黒の瞳。ばらばらと額に落ち掛かった不揃いな闇色の髪は、その怜悧な印象を一層に強めている。端整な、殆ど『美貌』といってもよいであろう、その容姿。しかし、女性的なものは、微塵も感じさせない。それはどこまでも、鋼の強さを備えた男のものだった。
見るも鮮やかな、紅の色。
「…どうした?」
低く響く、闇夜の声。
「…あ、いえ…。どうも、すみません」
マルスは、目を瞬いた。
何故、そんな風に思ったりしたのだろう。長い黒髪、漆黒の瞳を持ち、黒い胴着に青みがかった灰色の上着を身に纏い付けた目の前の男に、『紅』を連想させるものなどありはしない筈なのに…。
慌てて、その腕から身を起こすと、男はすぐにマルスに興味を失ったように、その脇を通り過ぎた。その後ろ姿を見るともなしに見送って、マルスは小さく息を洩らす。
何と印象的な人物である事か。
戦士の持つ剣は、ある程度の重量を備えた幅広剣である事が常である。己の力と剣の重さとで、相手を叩き切る為の武器。それが、剣というものだった。しかし、あの剣からは、それだけの重量を感じられない。しかし、マルス自身の持つ小剣のように、突き刺す為のものとも思えない。
大陸では珍しい漆黒の髪と瞳、変わった形の曲刀、異国風の丈の長めな上着。騎士とはまるで違う、だけど、確かな戦闘慣れを物語る身のこなし。
大陸外から流れて来た、異国の傭兵。
酒場の隅の席、今では一人杯を傾けている男は、それ以外の何者でもなかった。
「こりゃあ、随分な別嬪だ」
酒気を帯びた声が自分に掛けられているのだ、と気付くまでには、少々の間が必要だった。我に返ったマルスが視線を下方へと流すと、階段のすぐ脇のテーブルから、杯を掲げた数人の男の姿が目に入った。赤く上気した顔やとろりとした目を見るまでもなく、泥酔していると容易に知れる。
「惜しいねえ。女だったら、今日の寝床へ引き込みたいところだ」
「これだけ別嬪なら、男であっても構わねーさ」
何か面白い冗談でも聞いたかのように、男達が嘲笑う。その声音に不穏なものを感じ取って、マルスは再び、階段へと足を掛けた。
「待ちなよ、逃げる事はねーだろ」
「ここへ来て、一緒に飲んでいきな」
このまま、振り切って階上に逃げてしまうのは、非常にまずい。何せ、相手は酔っ払いだ。変に彼等を刺激して、後々まで尾を引く結果になりかねない。ここは、相手にも納得できる形で、丁重に断るのが得策だった。
「すみません。先約があるんです」
屈託なく男達に笑みかけて、マルスは数段上りかけていた階段を一息に降りる。そして、指し示した。隅の席で一人座っている、先程の紅色の男を。



マルスが目の前の空席につくと、男は心持ち顔を上げた。
「すみません。少しの間、ここに居させて下さい。連れが戻るまでの間だけ」
背中に酔客の視線を感じる。相席を拒まれたら、困った事になる状況だったが、男は何も言わないだろう、と思った。多分、誰が居ようが居まいが、一切、気には止めないに違いない。事実、男はすぐに視線を落とし、何事もなかったように杯を口へと運ぶのみで、何も言いはしなかった。だから、暫くして、男が言葉を発した時には、かえって驚いた。
「この街には、来たばかりか?」
それは、独り言めいた呟きに近かったが、確かにマルスへと掛けられた言葉だった。本当に驚いて、目の前の男を見つめ直す。定型的な内容だったにも係わらず、いや、だからこそ、かも知れない。
「この宿を選んだのは、お前か?」
再度為された問い掛けに、マルスは唯、頷いた。その言葉から、単なる好奇心以上のものを感じ取って、今度は、もう少し注意深く、男を見据え直して。
「街の大通りが一望でき、且つ、通りからは死角となる、最高の立地条件だ。追われる者には、最適だ、とも言えるだろうな」
「…偶然です。僕はそんな事には、関係ありませんから…」
「そうか?」
マルスが身を硬くしたのを見て取って、男は目だけで嗤う。全てを見通すかのようなその仕種にちょっとした意趣返しがしたくて、マルスは口を開いた。
「…貴方は、何かに追われている、という訳ですか?」
男が小さく目を眇め、杯を口元へと運ぶ。
「…なるほど。見掛け程、馬鹿ではないらしい…」
『見掛け程、馬鹿ではない』とは、一体、如何なる意味なのだろう。褒められたのだろうか、それとも、けなされているのだろうか。アリティアの王太子として生まれたマルスは、いまだかつて、このような言葉を掛けられた事はなかった。ただの一度も。
目を瞬いて、目の前の男を見つめ直す。
「マルス兄様!」
再び、マルスが口を開くより前に、酒場にシーダが飛び込んで来た。後ろから、カインといま一人、見知らぬ男が入ってくる。金の髪を持つその男こそ、『オグマ』なのだろう、と見て取ったマルスの前、シーダはすっかり半べそをかいていた。
「ごめんなさい!ごめんなさい、マルス兄様。私、いっぱい心配を掛けて…。もうこんな事、しないから。本当にしないから!」
だから、嫌いにならないで。
シーダの涙を浮かべた瞳は、そう語る。それに、苦笑混じりの、しかし、愛情の籠った笑みを浮かべて、マルスは差し出されたシーダの手を取った。
「ジェイガン達が帰って来たら、きちんと謝っておくんだよ。皆、捜してたんだから」
幾度も忙しく頷くシーダの捕らえたままだった手を、元気づけるように握り締める。それでようやっと、シーダに微笑らしきものが戻ってくる。
目の前で展開された、そんな情景をどのように見て取ったものか、男はうっすらと笑んで、立ち上がった。それは、『これで話はお終い』という意思表示に相違ない。
「そこの兄さん、傭兵かい?いい話があるんだが、乗らないか?」
男は、威勢よく掛けられた声の元へと歩んで行く。きっとこれから、商談に入るのだろう。己の剣を貸し出す為の商談。
マルスも遅れて立ち上がり、今度こそ確実に、己に割り振られた部屋へと向かい、階段を上っていった。



「…マルス王子。アリティアの王太子。ドルーア一級の賞金首…か」
「…何だって?何か言ったか?」
「…いや…」
これは、面白い事になりそうな…。
ナバールは薄く笑みを浮かべた。確かに、楽しげな、といってもよいものであったが、それは、あまりにも凄絶なものを含んでいた。
「仕事内容は、護衛、という事だったが」
「ああ。そりゃ、多少の危険はあるがね。その分、礼金は弾むよ」
人好きのする笑顔をした目の前の男は、相場の3倍に近い金額を提示した。話を聞く限りでは、条件のいい仕事であるといえた。
「…サムシアン。『サムスーフの悪魔』とか呼ばれている連中がいるらしいな。山麓で徒党を組んでいて、国境を接する国々もほとほと手を焼いている、という話だ。近く、軍を派遣して、大規模な山狩りを行う予定もあるらしい」
目の前の男の顔が強張る。それには、委細構わず、ナバールは先を続ける。
「傭兵を大量に雇い入れて…。…国を相手取って、戦争でもする気か?相手は、オレルアン軍か、それとも、ドルーア軍か」
ひたと見据えるナバールの前、男は凄味のある笑みを浮かべる。人の良さげな風貌だけに、まるで仮面を剥ぎ落としたかのようなその変貌ぶりは、まさに悪魔めいていた。
「…詳しい話を聞こう」
テーブルから杯を持ち上げる。依頼主からの酒を口にする、それは契約を飲む、という事に他ならない。
一口含み、…そして、ナバールは腰掛けた椅子に立て掛けていた剣に手を掛けた。立ち上がりざまに走った、一瞬の閃光。ぽかんとした表情のまま立ち尽くす男には、もう目もくれず、ナバールは再び杯を口にする。次の瞬間、男は赤い霧を噴出させて、くず折れた。一瞬とぎれる、周囲の喧騒。漂うは、濃密な血の匂い。
「俺は、俺に剣を向けた者は、決して許さない事にしている」
短剣を握り締めたままの物言わぬ骸に語り掛け、ナバールは己が切り捨てたばかりの男からの酒を飲み干した。
「…契約成立、だな」
テーブルに置かれたままだった男の杯と己の空になった杯とを軽く重ねるように触れさせる。その杯の響かせた細く高い金属音は、いつまでも空気を震わせていた。



「…ねー、カイン。僕、馬鹿みたいな見掛けかな…」
「…………急に、どうなさったんですか?マルス様」
先程まで階下でちょっとした騒ぎが起こっていたようだったが、今では落ち着きを取り戻したらしく、もうすっかり静かになっていた。様子を覗きに行っていたカインも、部屋に戻って来てから、何だか言葉少なで、階下の様子については、ただ、「喧嘩があったらしい」とだけ、マルスには告げるに止まった。
「ごめん。何でもないよ」
物言いたげなカインの視線を感じたが、マルスはそれ以上何も言わなかった。多分、先程まで一緒にいた男の事を問いたいのだろう、と思ったが、それはマルス自身にもよく判らない事だったから。
『紅』を思わせる、不思議な印象の傭兵。
また会う事になるのではないだろうか、という漠然とした予感があった。


悪魔の山での邂逅など、想像するべくもない。それはガルダの港町での一夜の話である。



END


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