碧の悠久刹那の紅〜オグマ

豊穣
魔除けの色
聖別された祝福
約束の悠久なる大地

港町ガルダ。辺境の島であるタリスにとっては、今現在、唯一の大陸への玄関口である。過去使われていた、アカネイア聖王国の貿易港ワーレン、ペラディへと繋がる海路は、ドルーア帝国によって聖王国が滅亡せられた時、封鎖された。
数年前までは、様々な国旗を掲げた船が停泊し、数々の品を積み込み、船出していった。汗と埃と潮、そして、香水と白粉と安酒の匂い、空の白むまで続く嬌声と笑い声。荒くれた船乗りの男達と美しく着飾った気っ風のいい港の女達とが作り出していた、そんな猥雑な活気に代わって、現在、港を支配しているのは、駐留するドルーア帝国の兵士達、そして、彼等の子飼いとなった海賊達による蛮行、搾取、そして恐怖。
ガルダは、聖王国からは遠く、また、タリスの半植民地的な街でもあった為、前述の二つの港に比べれば、比較的被害は少なかったと言えるだろう。しかし、それでも海賊の横行は目に付き、例え、支配国であるタリスからの船であっても、必ずしも安全は保証されない。タリスからガルダまでのたった一日の船旅であり、尚且つできるだけ目立たぬよう、ガルダでは最も目にする型の小さな貿易船で海へと乗り出したアリティアの騎士達の道程も、決して気楽なものではなかったのだ。
ガルダでも下層に位置するそこは、殆ど、貧民窟、といってもいい場所であった。元々、小さな家々の立ち並んでいたと思しき一角のそこここに、海賊の暴行から帰るべき家も失ってしまった人々の、俄か造りの小さな家が寄り添い合うようにして並ぶ。貧困と怯えと卑屈さとが色濃く漂うこの場所に、その少女は、あまりにも似つかわしくなかった。
身を包む潮風避けのマントからすらりと伸びた手足は、少女の均整の取れた、ほっそりとした体付きを約束している。澄んだ大きな瞳と相俟って、まるで、はしっこい子鹿のよう。その身なりは、ごく普通の街娘の物と相違なかったが、その醸し出す雰囲気と身ごなしは、少女が単なる街娘などではない、という事をも、また、証明していた。
多分、気紛れに、お忍びで遊びにでも来た金持ちのお嬢様。
少女は、物珍しそうに辺りを見回しながら、ゆっくりと歩き回っている。その足取りからは、確固たる目的地の存在は、見いだせない。
路地裏で少女を観察していた男は、その顔に浮かび上がる笑みを押さえようともしなかった。
久し振りの上玉だ。ノルダの人買いに売り飛ばすか、それとも、身内を脅して、身の代金を搾り取るか。いずれにせよ、かなりの大金が稼げそうな商品だった。
そして、ゆっくりと唇を嘗め回す。その瞳は、既に少女を掴まえた後の事を想像しているのか、愉悦に揺らいでいた。
男は、身の内を駆け巡る期待と興奮とに、ともすれば逸りがちになる己の四肢を宥めつつ、精一杯のさりげなさを装って、少女の背後に回り込むように近付いた。…が、不意にぐん、と音のする程の勢いで、体が後方に引っ張られた。始め、何が起こったのか、全く判らなかった。しかし、背中に感じる人の気配に瞬時に理解する。決して小さいとはいえず、それなりに腕っ節を誇っている己の襟首を掴み、一気に暗い路地裏へと引き込んだ人物の存在。その存在は男の片腕を捻り上げ、もう片方の腕を、首にしっかりと巻き付けている。男が争うようにその身を捩っても、筋肉の張った強腕は、びくともしなかった。相手に反撃する間も与えず、一気にはがい締めるその早業は、背後の存在の戦闘慣れを如実に物語る。
「…あの人は、お前が気安く近付いていいような人じゃないんだ」
耳元に鉄錆びた声を聞いたと思った刹那、腹を抉る灼熱に、男の意識は白濁し、その後、速やかに暗闇へと飲み込まれていった。
シーダは困惑していた。総面積でいって、それ程広いという訳ではない、と聞いていた。しかし、貧民窟、というものが、これ程までに入り組んだ作りになっていようとは、全く思わなかったのだ。通りを漂う独特の臭気に、マントの端で鼻と口を覆う。
こんな所に、本当に人が住めるのだろうか。
自然豊かな島国(タリス)で、比較的自由に育てられたとはいえ、所詮、芯からお姫様なシーダには、貧民の生活など想像もつかない。ふらふらとそこここに集まっている人々の虚ろな瞳。その瞳に宿っているのは、己とは違う階級に属する存在に対する、不信、反感、打算、そして、値踏み。自身は全く、そうとは気付いてはいなかったのだが、しかし、己の目に映る以上の人々の視線が、自分に集まっているのを感じ取って、シーダは身震いした。刺すような、又は粘っこいそれが、肌を総毛立たせる。このまま、ここにいてはいけない、と本能が叫び出す。
加えて、マルス達に黙って出てきてしまったという事実と、目的も果たせないままに刻々と時間だけが過ぎていってしまうという現実に、焦燥感に駆られた彼女は、一度、彼等の元へ戻った方がよいのではないか、と至極賢明な考えに辿り着いた。
(…きっと皆、心配しているわね…)
恐らく、必死で己を捜しているだろう騎士達の、そして、とりわけマルスの顔が目に浮かんで、シーダは慌てて、足の向きを変えた。
大丈夫。来た時と同じ道筋を逆に辿れば、宿屋の前の通りに戻れる筈。…走っては駄目。どうしてかは判らないけれど、そんな気がする。だけど、速く。できるだけ、速く。
逸る心に反して、足が固くなる。何故、こんなにも震えているのだろう。何が、そんなにも怖いというのか。
(しっかりしなさい、シーダ。貴女だって、騎士なのでしょう!)
幼い日、誕生祝いに贈られた有翼馬(シフェラザード)といつも一緒にいたくて選んだ天空騎士としての道だったけれど、お姫様芸と言われたくなくて、剣術だって真面目に学んだ。一端の男などには負けない自信だってある。
精一杯己を鼓舞して、頭を擡げる。と、その時、シーダの目の前に一人の男の影が、壁の如く立ち塞がった。上がり掛ける悲鳴。しかしそれは、頭上から降って来た声に、飲み込まれる。よく聞き知った声であった故に。
「シーダ様」
息を飲んで立ち竦んだシーダの目に映ったのは、ずっと捜していた人物だった。彼に会う為に、この場に足を踏み入れたのだ。会いたくて、マルス達に黙って宿屋を抜け出す程に会いたくて。貧民窟で見掛けた、という情報だけを頼りにここまでやって来て、だけど、他には何の当てもなく、ただ路地をうろつくくらいしかできなくて。諦めかけていたところを、ふと現れた。まるで、魔法のよう。彼が今、目の前にいるという事が、信じられない。手を伸ばしたら、彼の名を呼んだりしたら、消えてしまうのではないか。そんな気がする程に。
「…オグマ!」
オグマは消えたりはしなかった。決して、美男子であるとは言えないであろうが力強く、充分に魅力的なその顔には、古い傷跡が白く浮いている。古びてあちこちすり切れた服をその身に纏っていたが、彼のこれまでの経歴を語るかのように硬く引き締まった体付きは、隠しようもなかった。浅黒く日焼けた肌の色。明らかにタリスの民ではない、だけど、シーダの大好きな、少し茶色がかった金の髪。
驚きと喜びとに殆ど感動してしまって、涙ぐまんばかりのシーダには気が付かないかのように、オグマは軽く腕組みをして、彼女を見下ろした。
「…一体、何をしているんですか。こんな所で。…マジは、伝令の役を果たさなかった、という訳ですか?」
素っ気ない声とその言葉に、シーダも我に返る。
「そんな事ないわ!マジは、ちゃんと私達に伝言を届けてくれたわ」
船から降りてすぐ、街の子供の手を介して届けられた、一枚のメモに記されていた、図象化された波と斧。波はタリス王国を、斧はタリス義勇軍を表す紋だった。その斧の形も、タリス特有のそれであった為、彼等もそのメモを信用したのだ。決して、マジに落ち度はない。
言い募るシーダに対して、オグマの声音は、冷たい、と取れるほどに平坦だった。
「……で、その伝言には、何とありました?」
「………『今晩、〈海乙女亭〉という酒場で落ち合いましょう』って…」
「それだけじゃないでしょう」
畳み掛けるオグマに、シーダが身を小さくする。
「…………『海賊とドルーア兵の動きが不穏だから、約束の時間までは、極力目立たぬように』って……」
「…で、何でシーダ様は、こんな所に来ている訳ですか?」
「…………オグマの意地悪」
シーダは恨みがましそうに、上目遣いに目の前で仁王立ちをしたオグマを見据えた。もうどの位、会っていなかったと思っているのだ。少しぐらい、嬉しそうな顔を見せてくれたっていいだろうに、会った途端の第一声が『これ』だなんて、ひどすぎる。
「会いたかったんだもの!もう3カ月近くも顔も見てなくって、ずうっと会いたかったんだもの!こんなに近くに来ているのに、夜までなんて待てなかったんだもの!!」
シーダの口をついて出た激流は、彼女にとっては確かに真実の吐露だった。感情の乱れ故か、潤んだ瞳は大きく見開かれて、オグマを映す。その目の中、オグマはもう先程までの無表情を作ってはいなかった。オグマもまた、その明るい茶色の目を大きく開いて、ただ、シーダを見つめていた。
いつまでも、小さな子供だと思っていた。ぐずって泣く彼女に、幾度、肩車をした事だろう。オグマの腕にぶら下がって遊んだ子供。だけどもう、その腕にぶら下がれる程、小さくはない。意思力を示した瞳の輝きは、シーダをとても美しく見せていた。ほっそりとした、しかし、円やかな線を描きかけているその肩が揺れる。数年の内には、すっかり女性らしい体付きになるだろう。そう。今、オグマの前で、シーダは『女性』なのだった。
呆然としたオグマの耳に遠く、幼かったシーダの笑い声が聞こえたような気がした。
ああ、時は、流れて行くのだ。穏やかに、だけど、確実に。
信じられないものを見るかの如きその表情に、シーダがむくれたように唇を突き出す。その子供っぽいいつもの仕種に、我に返ったようにオグマは目を瞬いた。
「……シーダ様は、3カ月で随分と大人っぽくおなりだ…」
「まぁ、オグマ。私、子供じゃないのよ。もう14才になったんだから」
「14才…」
まるで初めて気が付いたかのように呟くオグマに半ば腹を立てて、シーダは足先で小さく石畳で敷き詰められた路を叩く。
「そうよ。オグマがいない間に、もう誕生式だって済んじゃったわよ」
オグマがタリスに身を寄せて10年。初めてのオグマのいない誕生式だった。末座に控えたオグマの姿のない式の、何と味気無く、心寂しかった事か。…頭では、判っているのだ。オグマは、父王の命を受けて、ここ、ガルダでの情報収集、調査任務に当たっていた。だから、シーダの側にいる事ができなかったのも、オグマ自身の所為ではないのだと。
だけど、それでもつい、恨みがましく彼を見上げるシーダのそれは、甘えなのだと、オグマは正しく読み取って、この上なく優しく微笑んだ。
「そうか。姫も14才か。大きくおなりな訳だな…」
「オグマ。子供じゃないったら!女性(レディ)に対して失礼よ!」
「姫。貴婦人(レディ)は『約束の時間を待てぬ』などと、だだを捏ねたりはせぬものだぞ」
シーダの言に対する、オグマの見事な切り返しに、咄嗟に二の句が継げなくなる。幾度か、口を開いては閉じる事を繰り返し、…そしてシーダは最後に、頬を膨れさせてオグマを見上げた。
「…………オグマって、本っ当に意地悪」
拗ねたその口調に、オグマもつい、笑い出す。そんな彼に思わず振り上げられたシーダの拳を大仰に避けながら、オグマはやはり、笑っていた。それはそれは楽しそうな、幸せそうな笑顔で。きっと、シーダは気付かないだろう、彼女自身にしか浮かべさせる事のできない、オグマのその笑顔。
「失礼を、シーダ姫。ご無沙汰を致しておりました。それ程に我が身を案じて戴いておりましたとは、このオグマ、感激に絶えません。麗しき我が姫君の御為に、いつでも我が身、投げ出さん所存にございます」
ようやっと笑いを治めたオグマは、主君に対する略式の礼を取って、シーダを向かえた。だけど、悪戯っぽい光を湛えたその瞳の色が、その口上の丁重さを裏切っている。
「風も冷たくなって参りました。このままでは、お風邪を召さないとも限りません。万が一にも、そのお美しき御声が掠れるような事あらば、タリスの民は、如何ほどに嘆き悲しみましょう。つきましては、姫君。姫のお御足を汚すご無礼、お許し戴けるのであれば、御身の兵たるタリスの者の仮の宿りへとご案内致したく…」
「許す」
大仰に頷き掛けた少女は、目の前で身を折る男と見交わして、ついに吹き出した。
「お帰りなさい、オグマ」
私の元に。
そんなシーダの心の声も、確かにオグマには届いていたのだろう。次の瞬間、オグマは小さく目を見開いて、それでも満ち足りた笑顔で言ったのだから。
「ただいま、シーダ様」
時は、流れるのだ。穏やかに、だけど、確実に。
時は少女を大人に変える。
夢見るような時間が過ぎて、だけど、夢は終わらない。
END・
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