そしてはじまりの物語〜マルス



夜闇に沈んだ海を滑るように、船は行く。空には、降るような星々。月光は、世界を常とは違った幻想的なものに変えてしまう。
ただ、星々の輝きを頼りに、闇の中を進む船。



「マルス兄様」
甲板に出ていたマルスの耳に、夜風に乗って、声が届いた。続いて、大きな翼をはためかせる音。マルスは笑って、頭上を見上げる。
「夜の飛行散歩かい?シーダ」
有翼馬に跨がった天空騎士が、月光を浴びて、天空(そこ)にいた。帆先ほどの高さで位置を維持していたシーダはマルスに、嬉しさの溢れんばかりな微笑を返し、少しずつその高度を落とす。有翼馬の羽ばたきに因って起こる風に、マルスは髪を押さえて、目の前、甲板中央に降り立たんとしているシーダを見守った。
空気を捕まえる為の大きな羽を、もう一度、ぴんと広げ、有翼馬はゆっくりと翼を畳む。それを確認してから、シーダは甲板の上に滑るように降りた。
「シフェラザードの機嫌もよさそうだね」
「ええ、もうずうっと船倉に閉じ込められてて、すっかりつむじを曲げちゃってたから。少しの間だけど飛べて、すっごく喜んでるわ。ね、シフェラ」
二人の言葉に同意するように鼻を鳴らす己の愛馬の首筋を、愛しそうに軽く叩く。そんなシーダに、マルスは悪戯っぽく微笑した。
「『喜んでる』のは、シーダも、だろ?本当に退屈そうだったからね、ジェイガンに飛行(フライト)を禁止されて」
「気付いて下さってたの?」
途端にシーダの頬が、嬉しさを湛えて紅潮する。彼女はいつでも、マルスに対する好意を隠そうとしない。そして、マルスもシーダが好きだった。彼を『兄様』と呼び慕うシーダを、愛しいと思う。
「明日には、ガルダの港に着くって言うのに」
それでも一応、たしなめるように言うマルスに、シーダはむくれた風に頭を振る。
「だけどもう、我慢の限界だったんですもの。シフェラも私も。…飛べないって事が、こんなに苦しいなんて、知らなかったわ!」
自国から離れた事のなかったシーダは、いつでも好きな時に、周囲を出し抜き、城を抜け出し、自由にタリスの野山を飛行していたのだ。たった一日ではあったが、彼女にとっては、堪え難い一日だったのだろう。優しく見つめるマルスの前で、シーダはちょっと眉根を寄せて、その唇に人差し指を立てる。
「…ジェイガンには、内緒にしておいてね、この事」
マルスもつい、笑って頷いてしまう。くるくるとその表情を変える、タリスでできた、可愛らしい妹。
「ジェイガンは、ドーガに騎士の心得を説くので忙しそうだから、大丈夫」
「ドーガは、まだ気持ち悪そうだった?」
「うん。まだ、ね。ちょっと青い顔してた。だけど、明日になったら、船も降りる訳だし」
船酔いをした甲騎士と、その横で「ふがいない」と口を募らせていた騎士団長を思い浮かべて、マルスは小さく笑った。
明日になったら、ガルダに着く。明日になったら、船を降りる。そして、明日になったら、彼等は『アリティア軍』となるのだ。
「ガルダでは、オグマ達が待っているわ。マルス様に、紹介しますね。オグマの事」
「シーダの大好きな『オグマ』だね。今までにも、色々聞かされたものね。…だけど、シーダのオグマが、あのオグマだったなんて思わなかったよ」
「ええ。私もオグマがそんなに凄い人だったなんて、全っ然、知りませんでした」
溜息を吐いて言うシーダに、マルスも頷き掛ける。シーダにとっては、幼い頃から一緒にいてくれた、強いオグマ。大好きなオグマ。それ以外の何者でも、なかっただろうから。
オグマ。かつて、『大陸一の』と謳われた剣闘士。
剣闘士は、身分としては奴隷に当たる。しかし、闘技場の最終勝者となった剣闘士は、莫大な賞金と普通民としての身分、加えて、周囲の人々からの尊敬とを得る事ができる。オグマも、そういった最終勝者の一人となる事は、当然だと思われていた。ところが、オグマは逃亡したのだと言う。後一人勝ち抜けば、普通民となれた筈の、その試合の前日に。最後の相手を恐れたのだ、と罵る者もあったが、ともあれ、彼はいなくなり、『オグマ』の名は、そのまま伝説となっていたのだ。
そういう次第であったから、シーダから、ガルダで合流するのはオグマだと聞かされた時の騎士達の顔は、それはそれは見物であった。あのアベルでさえ、たっぷり5秒は口を開けたままだった位に。…今現在、傭兵として剣を振るっている、というシーダの話の時には、すっかり、いつもの表情に戻っていたが。
「…もう寝た方がいいよ、シーダ。夜明け頃には、港に入るからね。明日は、シフェラも疲れるだろうし」
落ち着いた響きのマルスの言葉に、シーダも素直に頷く。
「そうします。…でも、マルス様は?」
「僕も、もう少し風に当たったら、寝るよ。…シフェラの足音、響かせないようにね。ジェイガンに見付からないように」
「大丈夫。その辺は、抜かりないもの」
輝くばかりの笑みとお休みなさいの言葉をマルスに投げて、その蹄に布を巻き付けられた有翼馬を伴って、シーダは物音一つ立てず、船倉への階段を降りて行った。



夜闇に沈んだ海を滑るように、船は行く。空には、降るような星々。ただ、星々の輝きを頼りに、闇の中を進む船。
まるで、今の自分のようだと、マルスは思う。五里霧中で、何一つ、確かなものなど持っていない。…だけど、進んで行くのだ。もう、道は選ばれてしまった。己の道をただひたすらに、歩き続けるしか術はない。そして、いつか皆で帰るのだ。満々と水を湛えた、緑なす大地。全ての優しい思い出に繋がる、懐かしい故国へと。


きっと、還る。


明けない夜など、存在しない。しかしまた、夜明け前の闇は尚、一層に濃い。



END


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