陽のすべて月の秘密〜アベル


桜の下には 死体を埋め
薔薇の下には 秘密を埋める
知っているのは 月ばかり



大木の形をそのままに利用した、簡素ながら存在感のあるテーブルの中央に置かれた、ランプの内部の小さな炎が波打つ度に、燃料である獣脂の焦げ付く匂いが、室内に色濃く蓄積されていくような気がする。この2年間ですっかり馴染んでしまった、鼻を突く、埃っぽさの篭もる匂い。アリティアで一般的に使われる、蜜蝋の甘い香りとは、随分違う。
それはそのまま、この国とアリティアとの違いを現しているかのようで、アベルは改めて、目の前にしつらえられた会談の席、下座に当たる場所に背中を見せて座っている、年若い主君に意識を向けた。普段、漆黒と人目に映るその髪は、それだけでも、『黒髪』といえば、普通、深い栗色やアベル自身のような多少、灰の混ざったものを差すアカネイアでは非常に珍しかったけれど、今はランプの淡い光に照らされて、本来の、微妙に蒼を混ぜ込んだような色合いを見せている。
『漆黒』と見紛う程に深い、藍の彩。伝説の英雄アンリと同じ彩の髪。
如何に宮廷騎士団で、騎士の叙勲を受けたとはいえ、元々、下級貴族の出に過ぎないアベルにとっては、このような状況下にでもならなければ、王家の人間など、会話を交わす事はおろか、間近く観る事すら許されなかったに違いない。殊にそれが、第一王位継承権者ともなれば。
『このような』状況。それは、アリティアという国の崩壊に他ならない。『ドルーア戦役』と呼ばれる100年前の戦乱時に現れた英雄アンリ。『光の公主』という尊称で知られるその名は、ここ、アカネイア大陸の者であれば、3才の子供であろうとも識っているだろう。ドルーア戦役、…いや、もう既に『第一次』ドルーア戦役と称さなければならないのだろう。寝物語と化していた伝説の中の暗黒竜、メディウスがその鎌首を擡げ、今また、アカネイア全体が、ドルーアの恐怖に脅かされているという現実を省みるなら。
英雄アンリの興した国、アリティア。人々の眼には神にも等しい、その血を引くアリティアとその王家に、大陸全体から期待と希望の視線が注がれていた事をアベルは感じ取り、そして、それを苦々しく思っていた。他の騎士団員達のように、それを誇る気にはなれない。なれる訳がない。信仰にも等しい、アリティア王家へのその信頼は、依存心としてアベルの目には映るのだ。自分からは、何もしようとはしない人々に対する、怒りと苛立ち。何故、人々は、全てをアリティア王家に頼ってしまおうと、…押し付けてしまおうと考えるのか。
一度口にすれば、周囲から反感を買うは必定であろう、思想。それはきっと、『異端』と断じられ、糾弾されるものなのだろう。しかし、それも仕方のない事だ。そう、確かに自分は、おかしいのだ。どんな時でも、心の一部が冷えきっていて、世界そのものを嘲笑しているもう一人の自分の存在を感じている。2年前、アリティア国王コーネリアス一世の率いる軍が壊滅的打撃を受けた時、自らも衝撃を受けながらも、心の何処かで、右往左往する周囲への小気味良さを、確かに感じていたように。
それは『異端者』の一言で、済まされてよい事ではないのかもしれない。だけど、アベルはアベルなりに、アリティア王家を尊重していたし、アリティアという国を愛していた。それも、異端である自分の一部分と同様に、確かに存在する真実。
アベルの属する宮廷騎士団は、国家正規軍と違って、『国を守る』のではなく、『アリティア王家を守る』為に存在する、いわば近衛だったから、その成すべき事は、あくまでも王家の人間の警護である。コーネリアス一世の戦死により、アベルの剣を捧げなければならない存在は、国王から、次代の国王となる王太子へと移った。それに否やはない。騎士とは、王家に命を捧げた者なのだから。落城の際、王太子を守って、城から落ち延びたのも、宮廷騎士団(アベル)の成すべき事だった。
そして今も、自分の成すべき事の為、アベルはここに在るのだ。ここ、辺境の小王国、タリスに。



「何ですと?!」
思わず、声を荒げたジェイガンに対して、マルスは軽く手を背後に打ち振るった。非公式であっても、これはタリス国王とアリティア王太子との会談だ。例え、マルスの守役であり、宮廷騎士団長であるとはいえ、臣下であるジェイガンには、会話に口を挟む事は、基本的に許されてはいない。表向きはマルスの警護の為、その実、この密談の内容を彼等に聞かせておきたいマルス自身の思惑で、その場に控えているだけなのだ。その事をよく知っているジェイガンは、マルスの諫めるような所作に口を噤んだ。会談の席につくマルスとタリス国王へと、己の不調法に対して、謝意を表して頭を下げる。
感情の顔に出やすい騎士団長(ジェイガン)と表情を他者に読ませない騎士(アベル)
自らの背後に控え立つ騎士二人に対して、鷹揚に頷き返すタリス国王を確認して、マルスは居住まいを正し、真っ直ぐに国王を見据えた。
一呼吸、二呼吸。
国王の思いも拠らない、しかし、可能性として十分に考えてみるべきであった申し出に、何と答えるべきかを考える。
「…恐れながら、国王陛下」
タリス王の言葉を深く己の内に刻みつつ、しかし、口から滑り出る言葉は、その心中に反して、ひどく穏やかだ。
「私がアリティアの王太子であったのは、2年前までの話です。今では単なる亡国の王子に過ぎません。そんな私に対して、シーダ王女を、と言うのは、余りにも過分なお話では…」
「国は、取り返されれば宜しいのだ。その為の援助は、出来うる限りさせて戴く」
礼を逸しない程度にやんわりと、否定の意を含ませるマルスの声を遮るように挟まれた言葉は、にべもない
「マルス殿。…こうお呼びしても、宜しかろうな?」
己の優位を正しく理解した視線は、真っ直ぐにマルスに向けられている。
「我がタリスは、貴殿のアリティア奪還に全面的に協力させて戴く。出来得る限りの援助を行いましょう。交換条件は、二つだけ。反ドルーアの意を全世界に表する事、そして、事が成った暁には、我が娘シーダを王妃として迎える事。…悪くない話だと思うが」



「何が『悪くない話』だ!裏は見えておるわ、タヌキめが!」
ジェイガンは、憤りも露わに、テーブルに拳を叩き付けた。
「2年前、この砦に移されて以来、我等は体のいい幽閉状態だったではないか!それに、三貴王国の一、アリティアの王子、マルス様に対して、『マルス殿』などと、まるで下位の貴族の子弟に対するかの如き振る舞い!!」
タリス城の国王の下を辞して、夜闇に紛れて、己達の居住地たる東の砦へと馬を進めている間、言葉少なに、だからこそ、その怒りの燻りを感じさせていたジェイガンは、アベルと共に、マルスの部屋に招き入れられて、すぐに、その感情を爆発させた。その様子にマルスは、気に入りのソファに身を沈ませながら、苦笑交じりに言葉を挟む。
「ジェイガン。僕はもう『王太子殿下』じゃないんだから、それは当然だよ。それに、2年前、アリティアの者を匿うなんて、バレたら、タリス自体の命運だって、危うい状況だったんだ。なるべく、目立たないようにしたかったのも、当然だ」
「マルス様は、お優し過ぎます!タリス王は、我等を利用するつもりなのですぞ?!事もあろうに、シーダ姫をアリティアの王妃に、などと!」
「シーダは、いい子だよ?」
「今は、姫のお人柄について、話している訳では、ありません!」
訪れる人とてないこの小さな東の砦に移って以来、有翼馬に打ち跨がった無邪気な姫君だけが、裏心なくアリティアの人々に接してくれる唯一の人間だった。そんな姫を嫌う筈とてない事は判っているであろうのに、強いて口にするマルスに、ジェイガンはその眦をつり上げる。己の納得できぬ事には、一切、折れぬ主義の彼には、話の焦点をずらそうとするマルスの言動は、我慢がならなかった。彼にとって、目の前の少年は、主君であると同時に、己が育てたに等しかったから、時々、昔のように子供を叱り付ける口調になってしまう事があったが、この時もまた、そうだった。
ジェイガンの一喝に、マルスはソファの中で、小さく身を竦めた。そんなマルスの仕種も、幼い日からの約束事のようなもの。しかし、その後のマルスの言い様は、至極落ち着いていて、ジェイガンの口を噤ませるには、充分だった。
「だけど。…僕らには、他に選択肢がない。だから、王の条件を飲むしか、術はない。…そうだろう?」
諦観でもなく、自嘲でもない。その口元に刻まれた王子の微笑は、優しさと、まるで幼子を宥めるような慈愛とだけが滲んでいて。
「……ジェイガン。この話は、また明日にしよう。少し、冷静に考えてみなくちゃね…」
だから、王子の穏やかな言葉に、憤懣やるかたなく、そして、屈辱と哀しみとを色濃く背負って、ジェイガンは、その場を辞するしかなかった。ジェイガン自身、これ以上、この話を続けていると、どうしようもなく、己の醜態を晒してしまうであろう確信に、このまま、この場に居続けたくはなかったのだ。



「マルス様。タリス王の申し出、本当にお受けになるおつもりですか?」
「…他に選択肢はない、って言ったろ?」
ジェイガンが、半ば茫然とした様子で下がった後、本来なら共に辞するべきであるアベルがその場に残った事も、マルスは当然の事のように受け止めた。組まれていた足を外すと、軽やかにソファから降り立って、すいとアベルの前を横切ると、作り付けの戸棚からマグを二つ取り出した。それをテーブルの上に置くと、今度は部屋の端の物入れを開いて、酒の入っていると思しき瓶を取り出す。その様を困惑したように見つめているアベルに気付いて、マルスは瓶を掲げて小さく笑った。
「シーダがこの間、差し入れてくれたワイン。今年の新酒なんだって。美味しかったよ」
そのまま、テーブルの二つのマグに、高級であろうワインがなみなみと惜しげもなく注ぎ入れられ、マルスのソファの向かいにその内の一つが置かれるのも、やっぱり、アベルはそのままに見守っていた。その行為の指し示す意味が、よく判らなかったのだ。
「…どうしたの?座りなよ」
ようやっと気が付いたのは、マルスが先程までのようにソファに座り、目の前の座をアベルに示した時だった。事もあろうに、王子はアベルの給仕をしていたのだ。
給仕をする事も、目の前の座を勧める事も、一国の王子のしていい事では断じてない。それも、己の家臣に対して。
開いた口が塞がらない状態のアベルに対して、マルスは悪戯っぽく微笑む。
「座ってくれないかな。色々、話す事もあるし」
「…ご命令とあらば」
「『命令』じゃない。『お願い』してるんだよ」
アベルを真っ直ぐに見据えるマルスの言葉は、はっきりとした響きを持っていた。その率直さからも、それは彼の本心からの言葉であろう事がよく判る。再度、目線で促されて、糸を引かれたように座に着いたアベルに、マルスは満足そうな笑みを浮かべて、マグを目の高さまで掲げた。
「今日は、お疲れ様」
ワインは王子の喉を、まるで水ででもあるかのようなさりげなさで通っていく。まるっきり子供のような外見からは、想像もできないその姿を、アベルは唖然と見守った。ひとしきり喉を潤すと、マルスはマグをテーブルに置き、アベルに真っ直ぐの視線を向けた。
「そういえば、アベルと二人だけで話すのって、初めてだよね。2年も一緒にいるのに」
マルスの言葉に、先程から開きっ放しのような気がする己の口元を引き締める。
その通りだった。マルスの側近くに仕えてきたのは、もっぱらカインで、アベル自身は、できるだけ王子との距離を持とうとしていた。
宮廷騎士とは、特定の個人に剣を捧げるものではない。そう思っていたから。
元々大貴族の子弟で、幼い頃から王子自身との面識も深かったカインが、傍目にもはっきりと判るほどに、マルスに心酔し切っていたのが、それを顕著なものにしてしまっていたのかも知れない。といって、決して、カインが嫌いだった訳ではない。同じ年であり、したがって、小姓、従士と、騎士見習としての少年期を殆ど一緒に過ごして来たカインは、アベルにとっては数少ない、心を許せる友人だったし、明朗快活でおおらかな彼の気質を、とても好ましく思っていた。それは、彼等が正式な騎士となった今でも、全く変わらない。…ただ。
(何だって、ああも王子に対する忠節に厚いんだ)
それは、恋愛にさえ比する程の重さで。
アベルはマグを手に取り、しかし口はつけぬまま、こっそり目の前の主君を透かし見た。
白磁の肌。青灰色の瞳。軽く伏せられた睫は思いの他、長い。若き日からその美貌を謳われたという王妃によく似た、しかし、確かに少年の色を掃いたその容姿。繊細な面立を縁取るのは、英雄色に揺れる髪。
「……………」
一瞬、怖い考えに陥ってしまったアベルは、目の前のマグに逃避した。大きく一口、含む。そして、寄せられ気味だった眉が跳ね上がった。
美味い。仄かな甘みと滑らかな喉漉しが、この上なく心地好い。口を離した時には、マグの中身が三割方減っていたほどである。しかし、そのマグに更にワインを次ぎ足そうと、瓶を持ち上げたマルスに気付いて、アベルは慌ててマグを退避させた。如何に美味かろうと、タリスの王女から、己の主君である王子への献上酒を、当の王子の酌で飲む、など。…世の中には、していい事と悪い事というものがあるのだ。
「いえ、もうこれで充分です。これ以上は、…」
「…そう?」
不服そうに小首を傾げて、それでもアベルの給仕は諦めたらしく、自分の殆ど空になってしまったマグを埋めているマルスを、何だか疲れたように眺めながら、アベルは手の中のワインを口に含ませた。



「…アベルの言いたい事は、判ってる…と、思う」
とりとめのない事を話し続けてしたマルスが、ふいに口を噤み、和やかだったその場の空気が急に固いものへと変化してしまった時、再び開かれたその口から洩れた言葉は、しかし、相変わらず柔らかだった。
「タリス王の申し出が、気に入らないんだろ?」
アベルに投げ掛けられたマルスの微笑は、全く屈託がない。しかし、アベルは表情を硬く引きしめた。
あんな申し出が、気に入る筈がないではないか。ようするに、自分から動く気などないが、タリスに火の粉が降り懸かる前に(それも、遠からぬ事のように思われるが…)ドルーアは何とかしたい。誰かにドルーアを倒して欲しい。そういう事だ。そして、この大陸に流布するアリティア信仰を利用すれば、存外、周辺諸国の賛同も得られる。そこでマルスは、…アリティアの名は、利用されるのだ。
「……タリス王の考えも、判っているよ。ジェイガンは、『利用』しようとしてるって言ったけど、それは、穏当な考え方だよね。良くて、傀儡。悪ければ、捨石だ」
未だ子供っぽさの残る唇から澱みなく滑り出た言葉の、その口調に余りにも似つかわしくない不穏さに、アベルは弾かれたように顔を上げた。
「僕達が、上手くドルーアを倒す事ができたら、タリスは、アリティアに恩を売る事ができる。…多少の無理だって、何としても聞き入れない訳にはいかない程の大恩をね。おまけに、シーダが王妃になって、男の子でも生まれたら、その子はアリティアの次の国王になる。…タリスは、三貴王国の国王の外祖父になるんだ。この危険さは、アベルにも判るよね」
それは、タリスによる、アリティアへの内政干渉が起こり得る、という事。
将来生まれる自分の子供の事も、人事のように語り続けるマルスの口調は、冷静そのものだ。再び、ワインで口を湿らせると、そのまま、先を進める。
「ドルーアを倒す事ができなかった場合、タリスは知らぬ存ぜぬを押し通すと思う。僕達は、タリスとは、何の関係もないって、ね。…シーダが、同行する、っていうのだけは、予想外だったけど…。きっと、タリス王にも、予定外だったろうね。これは」
権謀術数を巡らす王も、愛娘には弱いらしい。
国王の御前でなされたシーダの宣言に、周章狼狽しきっていたタリス王の顔でも思い出したのか、楽しげに笑いを洩らすマルスに、アベルは信じられないものを見るような思いだった。
勝ち気で才気煥発な姉姫の影に隠れた、ひ弱なおとなしい王子だと、そう言われていた。平和な頃のアリティア宮廷では、「姉姫と男女が入れ替わっていたら…」などと囁く人々すらいた。剣術よりも読書を、帝王学よりも音楽と美術を愛する、といわれた、アリティアの王太子。そんな世情を覆してしまう、目の前のマルスの姿。
「…しかし、タリスから援軍が出される、という話は、…」
呟くように反論めいた言葉を口にしながら、アベルには、よく判っていた。マルスの言う事が、正しいのであろう事が。そして、アベルが判っている事も、多分、マルスには見えていた。だから、面白そうにアベルを見つめながら、マルスが紡いだ言の葉も、本当はアベルにも、良く判っていた事だったのだ。
「援軍は、多分、傭兵を寄越すだろうね。賭けてもいい。もし、僕らが失敗した時に、『彼等はタリスの正規兵ではなく、自由意思で、反乱軍に参加したのだ』って、建前が成り立つように。…どっちにせよ、彼等はシーダの護衛だよ。戦力としては、考えに入れられない」
言い切ったマルスは、流れかけた視線をふいにアベルに止めて、困ったように笑った。
「…そんな顔、しないでよ」
自覚はなかったが、どうやら随分と情けない顔をしていたらしい。アベルは、目を瞬いて、大急ぎで、自身の表情の選択権を取り戻す。
「僕には、今、それしかカードがないんだから、仕方がない。それでできるだけの効果を上げなくちゃね。今は、アリティア奪還が最優先事項。…だけど、僕だって、全てを譲って、諦めてしまう気なんかない。支払った分の代価は、その内、ちゃんと取り返すつもりだから」
その時、王子の上に現れていたのは、したたかな程の強さ。他の者は知らないであろう、王子のもう一つの顔。それは確かに、王としての力を内包した輝きだった。
「…もうそろそろ、寝た方がいいね。明日は、…もう、今日、か…、皆に色々報告しなくっちゃいけないし…」
軽く息を吐いて、マルスはソファから起き上がると、とうに空になっていた二つのマグを拾い上げた。アベルは、小さく俯いたままだ。
「あ、そうだ」
ふと思い付いたように、顔を上げる。
「この事、皆には内緒だよ。色々、混乱させちゃいそうだからね」
マルスの酌で酒を飲んでしまった事か、今の話についてか、それとも王子の真実の姿についてなのか。アベルは目線で頷いた。
どちらに対しての言葉であっても、大差はない。今晩の事は初めから、誰かに話すつもりなどなかったから。
立ち上がり、出入り口の木戸へと向かいながら、アベルは思う。…しかし、訊いてみたい事はあった。
「…マルス様。なぜ、このような事を、私などに?」
カインにも、ジェイガンにさえ明かす気はないのだろう、タリス王の本当の狙いと自身の本当の顔とを、何故、アベルに見せる気になったのか。木戸の前でのアベルの問いに、マルスは微笑を浮かべた。それは、常の優しげなものではない。どこか、諦観と哀しみの入り交じったような、微妙な表情は、どちらかというと童顔な王子を、老成した賢者のように映させる。
「多分…。皆の中でアベルだけが、僕に夢を見ていないから」
英雄アンリは、全能の神ではない。だから、その子孫に当たるアリティア王家の人々も、神などではない。神ならぬ者に、全てを託してしまうのは、卑怯だ、と。
アベルが、そう思っていた事を、目の前の少年は、気が付いていたのか。
「おやすみ」
穏やかな笑みが投げ掛けられ、ゆっくりと木戸は閉じられた。



石造りの廊下は夜の外気を含んで、凍ってでもいるかのように、硬い手触りがする。大きな間隔で置かれた松明は、その狭間でかなり広範囲の暗闇を作り出しており、その寒々しさを増長していた。外の星明かりが頼りの暗い廊下を感覚に任せて歩きながら、アベルは、「王子の剣となって、彼の人をお助けするのだ」と言っていた親友の姿がふと脳裏を過ぎって、微苦笑した。


ならば、王子の盾となって、王子を守っていくのも、悪くない。


アリティア王家に捧げられた己の剣の持ち主が、今現在、マルスである事が嬉しい。マルスに固執するカインの気持ちが、ほんの少しだが、判るような気がした。…あくまでも、ほんの少しだったが。
物見の窓へと吹き込んだ風は、微かな潮の匂いを孕んでいた。明けの明星が輝きだし、大きな月が大地に沈んでいこうとしている。もう間もなく、朝の初日が水平線を照らし出すだろう。
だけど、まだ少し位、睡眠を取れるだけの時間はある。
アベルは、小さく欠伸を漏らし、しかし、しっかりとした足取りで、己に与えられている、砦内の自室へと歩んで行った。


それは、彼等がアリティア軍として兵を挙げ、ガルダの港を目指して船を出す事になる2日前の出来事。



END







 ◆→ FORWARD〜PASCAL 1-3
 ◆◆ INDEX〜PASCAL