陽のすべて月の秘密〜カイン


私は貴方のもの
貴方だけのもの



「マルス様、どちらにいらっしゃいますか。マルス様」
よく晴れた冬の日の空気は、凛と澄んでいて、カインの声も、常よりもよく通るような気がする。視線を軽く周囲に投げると、カインは足を砦の中庭に当たる部分に向けた。こんな天気の良い日には、そこが砦中で最も陽射しの暖かな場所となる。障害物のない、ちょっとした広場になっているため、カインはよくここで、アベルと剣の手合わせをする。他の者も、各々好きな事をやる為に集まる、そういった場所の一つになっていた。マルス自身もよく、本を持ってやってきたりするのだ。
だがしかし、中庭に顔を出した時、その場にいたのはゴードンだけだった。人の気配を感じたのか、ゴードンは今まで目を落としていた本からふいに顔を上げた。カインと目が合って、一瞬、驚いたようにその眼に見開いたが、すぐに笑みを作った。
元々、兵士の駐留する場所であった砦では、生活必需品くらいしか置かれていない。特に、タリスでは諸外国の書物を公的には入荷しない所為もあり、本は嗜好品であると同時に、非常な贅沢品でもあった。殊に、政治学や経済学、軍事、兵方書の類いとなると、タリス王の厚意がなければ、まず手に入らなかったろう。マルスに贈られたそれらは、いつでも誰もが読めるように、本棚に収められていたが、それを利用する人間となると、ほとんどアベルとゴードンの二人に限定されていた。今、ゴードンの手にしている本も、そんな内の一つに違いない。……カインも昔、アリティアで読んだ事自体はあるのだが、どうもその手の本は、肌に合わないらしい。読んでいると、すぐに眠くなってしまうのだ。…こんな事をアベルに言うと、また揶揄されてしまうのだが。
「お早うございます、カインさん。いいお天気ですね」
定型の挨拶に軽く同意の返答を返し、カインの眼はするりとゴードンの手にした本の上を滑って、周囲をもう一度、見交わす。
「…マルス様を見掛けなかったか?」
「今日は、まだお目にかかってません。…けど、物見塔の方ではないでしょうか…」
穏やかな口調はそのままに、ゴードンの声音が少し硬くなる。『物見塔』という単語を、己の内に飲み込んだカインも、喉の奥に固いしこりのようなものを感じていた。
しかし、そんな引っ掛かりも努めて振り捨てて、ゴードンに笑顔で礼を言うと、カインは物見塔へと、軽く駆け出した。



王子は、ここ2年というもの、一度もこの砦より外には出ていない。誰に何を言われたでもなかったが、極自然にそうしている。そして、その代わりででもあるかのように、余程の悪天候でもない限り、砦の北端に位置する物見塔に昇るのが、日課となっていた。
「少し、外に出た方が、気も紛れるのでは」と上言したカインに対して、マルスは笑って言ったものだ。
「物見塔から見える景色が、一番気持ちがいいんだよ。僕から楽しみ、奪っちゃわないでよ」
たった一人だけ取り逃がしてしまったアンリの直系を、ドルーア帝国が…皇帝メディウスが、血眼になって捜している、という話は、2年前の悪夢の夜から、ここタリスに流れつくまでの放浪の旅の間、幾度も耳にした。そして、その噂話を裏付ける、アリティアの王子に懸けられた莫大な賞金。例え情報協力のみであっても、かなりの報酬を約束するそれは、戦に巻き込まれ、飢え、疲弊した民衆にとって、どれ程甘やかに映るものか。宮廷騎士として、王家の事のみその目に入れていればよかった平和な頃には、決して気付かなかっただろう、そんな人々の窮状とその心情も、理解できるようになった。…納得など、できはしなかったが。
マルスの所在が、いつ、どのようにドルーアに洩れるか判らない。だから、マルスはなるべく人目に触れないように、身を潜ませていなくてはならない。それは、カインのみならず、宮廷騎士の誰もが、よく判っていた。
何よりも、マルスの容姿は、目立ち過ぎる。
『アンリの印』といわれ、アリティアに於いては、光神ナーガの祝福の象徴であった、微妙な色合いを帯びたマルスの髪は、ドルーアにとっては、小暗い呪詛の対象でしかないのだ。手足を汚し、ボロ布を身に纏い、その髪を隠して、ドルーアによる落ち武者狩りから逃れた。そんな体験が、王子の一部をひどく老成させてしまったのだろう。
当然の事のように己を殺し、カイン達に対して、「面倒をかけて済まない」と寂しげに笑う。子供っぽい無邪気さ。罪のない我儘。過去にマルスを彩っていた、そんなものも、すっかり姿を潜めてしまった。未だ16才にもならない王子。
アリティア陥落以来、胸の奥に染み付いてしまった影がある。それは、清水に落とされた一滴のインクのように、事ある毎に、カインをじわじわと侵すのだ。物見塔も、カインの胸にそんなインクを落とさせる場所だった。
塔内部の狭くて急な石段を昇りきると、そこは、四方に窓の穿たれた部屋になっている。窓は、部屋全体の面積に反して、かなり大きい。視界が大きく拓けている分だけ、危険度もかなり高い。だが騎士達は、マルスに対して、物見塔に昇らないように、言った事はなかった。守役である騎士団長のジェイガンでさえ。
それは、我儘らしい我儘も言わないマルスの、ささやかな願いだったから。
その位、適えてあげたかったのだ。


そして、一滴のインクが落ちる。


軽やかな足取りのまま、一気に石段を昇ったカインの視界が、真っ青に染まった。それは、雲一つない蒼穹の色。窓の大きさに切り取られた空は、目を刺すばかりに眩しくて、カインはその手を翳して、太陽の光を遮った。そのまま、視線を下方に移すと、東南の島タリスの田園風景が広がっている。
彼等の現在の住家である東の砦は、小高い丘の上に位置しており、もともとタリスは地形の起伏に乏しい、という事もあり、随分と遠くまでその景色を眺める事ができる。元々、この砦自体、戦闘時の城塞としてではなく、周囲を監視する物見塔としての役割のみを期待して、作られた物だったのだろう。
眼下の湾で、波の弾いた光が眼を射ぬく。緑なす大地は、どこまでもなだらかに続いて、遠く、ぽつりぽつりと民家の影が映っていた。水と緑の王国、と呼ばれた祖国アリティアの情景と、瞬間、ダブる。気候も風土も、全く違うというのに。
(マルス様も、そう思っていらっしゃるのだろうか)


インクが、もう一滴。


カインは我に返って、急いで周囲を見渡した。
当の王子を捜すために、ここまで来たというのに、つい景色に見とれてしまった。家具も何もない小さな物見台の事、ぐるりと視線を走らせれば、それだけで部屋の隅々までが目に入る。
いた。部屋の隅で俯いたまま、石壁に凭れるように座っている。
「マルス様」
掛けた声に対する返答はない。カインは、マルスに近付き、そっとその顔を覗き込む。耳に入ってきたのは安らかな吐息。
日向ぼっこをしている内に、つい、居眠りをしてしまった、という状態そのままのマルスに、カインの頬がつい緩む。こんな所は、昔から全然、変わらない。
王宮内にしつらえられた緑豊かな庭園は、王子の大のお気に入りで、木陰で本を広げたまま、よく寝入ってしまっていたものだった。王子が生まれた頃、宮廷騎士団に騎士志望の小姓として入団した為、マルスとたまに、ではあったが、会えるようになったのは、14才で騎士候補の従士となってからの事である。マルスは、7才になっていた。
会いに行く度、瞳を輝かせて、ころころと子犬のようにじゃれついてきた、小さな子供。カインにとって、常にマルスは、幸福の具現だった。
目の前で眠る王子が、小さく身を竦めるのに気付いて、カインは慌てて、身に付けていたマントを外した。そして、そっと王子に被せ掛ける。陽射しは暖かでも、風は未だ冷たい。特に、物見台に吹き付ける風は、大地の上で感じるものより、遥かに強い。
マルスの、乱れて落ちかかった前髪が、その面に影を作っていた。その影は、マルスの表情を寂しげなものに見せて、カインは、そっとマルスの額に乱れかかった髪を掻き上げた。
「アルテミスの如き」と称された、グラ国王の美しい従姉妹姫と英雄アンリの末裔である、アリティア国王の婚儀を祝福しない者など、大陸中を捜したとて見付からないだろう、と、そう言われていたと、幼い日、両親から聞かされた。人々は、遂に果たされえなかった100年の恋の成就を、そこに見たのだろう。そして、生まれてきた子供達は、100年前に生まれる筈だった、アンリとアルテミスの子の如く、思われたに違いない。
アリティアの姉弟、殊に世継ぎの王子たるマルスは、大陸中の歓喜と祝福とに包まれて、この世に生を受けたのだった。当然、彼には誰よりも、何よりも、光輝く未来が待っている。その筈だったのに。


立て続けに、二滴。


マルスの髪は、幼い頃の思い出のままに、柔らかだった。風に晒されていた所為か、今はひんやりとした硬質な感覚をも、伝えている。さらさらと指を滑る不思議な感触に、尚もその手で梳いてみる。
幼かった頃ならいざ知らず、今現在、主君である王子に対して、こんな風に触れるなど、騎士として、許される事ではない。…だけど、今だけならば、構わないではないか。マルスが子供の顔をして眠る、その間だけでも。
繰り返し髪を梳くカインの手の感触に、意識が浮上したのか、その時、マルスの瞳が、ぽっかりと開かれた。
「うあっ!」
思わず、飛び退く。
「……あれ?カイン?…」
「す、すみません、マルス様!大変、失礼を…」
「…何だ、夢だったんだ…」
焦りまくったカインの言は、まるで耳に入っていないかのように、マルスは呟いた。…実際、耳に入ってはいないのだろう。焦点の定まらない視線は、夢見るように宙をさ迷っている。マルスは、深く息を吐いた。
「…酷い夢を見たよ…。アリティアが陥落するんだ」
カインは、思わず息を飲む。しかし、マルスの声は、澱みなく続く。
「父様が殺されて、母様と姉様が捕まって…。そんな事ないのに。カインはちゃんと、ここにいるんだもの。全部、悪い夢だったんだ。…もうすぐ、ばあやがお茶を入れてくれる。そうしたら、マリクとお菓子を食べて、一緒にエリス姉様に会いに行こう…」
彼の意識の中では、ここは王宮の庭園なのだろうか。側には、兄のような少年騎士と友人がいて、女官長が午後のお茶の時間を告げる。将来、祭司長となるべく神殿に入った姉に、こっそり菓子を差し入れにいくのが、少年達にとってのささやかな冒険。
「マルス様!」
うっとりと閉じかけていたマルスの瞳が、大きく見開かれた。数度、繰り返された瞬きに、浮かんでいた暖かさも幸福の色彩も、かき消える。
「……そっか。…夢か」
マルスは、小さく頭を振った。額を軽く押さえた手に、髪が落ち掛かる。
「ごめん、カイン。…なんか、質のよくない夢、見ちゃったよ…」
そう言って笑うマルスに、カインは反射的に手を伸ばした。止めどなく注がれたインクはもう、胸の中を真っ黒く濁らせていて、自分でも、どうしたらいいのか判らなかったのだ。
何よりも、大切だった。何よりも、守りたかった。そんな存在が傷付いていくのを、ただ見守っているしかできなかった。何をする事もできなかった、その無力感。…何よりも、自分の力の無さが悔しくて、胸が痛い。
いつも胸を浸していたインクの名は、『慙愧』と言った。
「…カイン?」
胸元から聞こえて来たマルスの声に、ふと我に返る。一体、自分は何をしていたのか。しっかりと己の腕に抱き込んでいる、この暖かいものは何だろう。背中を汗が伝う。半ば硬直した体は、真実をその目に見る事を、はっきりと拒んでいた。…見るのが、怖い。しかし、このままでいるのも、非常にまずい…ような気がする。なので、意を決して、視線だけを落としてみた。己の胸元へと。
「…っ!失礼致しましたっ!」
尤もそうであって欲しくなかった事実を、目の当たりにしてしまって、カインの硬直は瞬時に解けた。己の腕を振りほどくと、跳びずさるように床に片膝を付き、騎士の礼を取る。己の主君をその腕に抱き締める、など、先程の行為と比する事もできない。騎士として云々以前に、王族に対する、完全な不敬罪だ。唇を噛んで、床を見つめるばかりのカインの頭上から、マルスの声が降って来た。
「…カイン。もしかして、僕を捜してた?」
その言葉に当初の目的を思い出し、カインは弾かれたように顔を上げた。
「そうでした。王宮から、タリス王の使者と申す者が参っており、マルス様への目通りを願っております。その者の携えていた書簡には確かに、タリス王の臘印の押されている事もあり、正面門脇の小部屋へと通しました。しかし、タリス王よりの書簡を、マルス様に直接渡すよう、申し付けられた、との事で、我等に預ける訳にはいかない、と申しまして。…御足労を願えますか?…」
「僕の居場所が判らなくって、使者殿を待たせちゃったんだね。手間掛けさせて、ごめん」
塔を降りる階段へと足を向けながら、マルスは不意に立ち止まり、振り向いた。マルスの視線を受けて、己の顔が強張っているのを自覚したが、言葉は喉に詰まって出てこない。何か、言わなければならないのに。
しかし、そんな彼の心情も知らぬげに、マルスは、床に落ちてしまったマントを拾い上げて、カインに手渡した。
「マント、ありがとう」
そして、何事もなかったかのように微笑する。
「行こう」
風が、吹き抜ける。マルスの髪が空気を孕んで、巻き上げられる。陽光に照らされたそれは、一瞬、真実の色を露わにする。
闇色の中に隠された、藍の色彩。
光神ナーガの祝福は、消え失せたりはしないのだ。王子がここに在る限り。
その時、カインは不思議な情景を見たような気がした。暗黒の中、マルスが光を纏った神剣を空に掲げて、闇を払う。それは、その名の示す古代の戦神そのままの姿で…。それは、単なる幻想に過ぎないのかもしれない。だけど、それでも。
(行きます。貴方の指し示す場所へ、何処までも共に…)
きっと何処までも、王子に付き従って、行くのだろう。王子の為に生き、そして、王子の為に死ぬだろう。
従士であった昔から、『我が主君(マイ・ロード)』と献じ、生涯にただ一つの剣を捧げたかったのは、国王ではなく、王子にだけだったと。


いつか言えるだろうか。


世界は未だ、暗黒の支配の元。…未来は、見えない。



END







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