罪と罰と最後の祈り〜エリス


主よ 人の望みの喜びよ
カンタータ第147番より/J.S.バッハ



その塔の周囲には、常に砂の嵐が渦巻いていた。
ただ一時の例外もなかった。ほんの数分、風が止まるという事もあり得なかった。そのように造られた、それは場所であった。



床を滑るように歩む。世界を歪ませる事のないように、空を切る事のないように。それは、魔道士としての彼の基本所作であったが、のし掛かる法則の重圧は、余人にその振る舞いを強いるだろう。
その塔の内部は、常に静寂に包まれている。壁ひとつ隔てた外部を吹き巻く風も、ここには決して届かない。己の胸の打つ鼓動、覚えず顰められた呼吸、身動く際の衣を擦る音のみが、ただ耳をつく。元来、風がもたらす筈のほんの数粒の砂すらも、ここにはない。この空間を支配する法則は無情かつ厳格で、徹底して異物を排除する。
彼自身も、例外ではない。塔に入ると、彼は常に己が異物である事、決してこの空間に相容れないのだという事を肌で感じ取る。
故に、彼はこの塔に惹き付けられる。
遙かな過去、威容を誇ったのだろう塔も今や崩れかけ、しかし残った土台部分は在りし日の栄華を忍ばせる繊細な美に満ちている。
完全なる平行と揺るがぬ直線が形作るその設計。どのように積んだものか、巨大な石組みが描く天井の緩やかな円弧。壁をくり抜き、完璧な等間隔に埋め込まれた灯明かりは、永劫に燃え尽きる事がない。幾何学の織り成す黄金律。人ならぬ者達の残した遺産。現在では完全に失われた前時代の残り火。
人々の前に姿を現せば、如何ほどに現世の発展に貢献するものか。しかし、不幸にも又は幸いにも、塔はその存在すら認知されない。古代文明の科学技術(テクノロジー)が生み出す砂嵐は、決して塔を人目に触れさせない。
認知されないものは、存在しないと同じ事だ。
神祖と謳われた彼の師と同じように。
地竜の王が眠りについた後、暗黒皇帝として世界を操った彼自身と同じように。
存在しない場所。存在しないもの。存在しない人。…己は今でも『人』だろうか。
水分を失ってかさつく皮膚はしかし、蝋のように白くなった。まるで血などどこにも流れてはいないかのように。
爪は硬質化して尖り、そして目は。
時折、金属的な色合いを帯びるようになった、この瞳。そのうち、瞳孔も縦に割れたようになるのだろう。地竜の王のように。
彼の師のように。
石組みの廊下は冷たく凍って、歩む彼を拒絶する。故に、彼はまだ生きている。恐らく、彼の人としての意識が崩れ去るその瞬間までは、生き続けているのだろう。
目的の扉の前で手を翳す。その手が、ふいと固まった。
人の気配。人ではないものの気配。彼自身とは違う、しかし同じく人ならぬ人である、決して交わらぬ、しかし同族である、それは者の気配。
緩やかに扉は開く。そこに、光があった。



「お帰りなさい」
赤々と燃える火。温められた部屋の空気。そして、部屋の中央に置かれた卓の前に座る女。
「…何をしているのだ?」
「夕食」
女は、すいと手を卓へと向ける。並べられた料理を示して、
「御一緒させて頂こうかと思って」
大陸一の美女の名に相応しく、輝かしく微笑う。
「いつも独りで頂くのも、味気ないのですもの」
女は常に、彼にこんな風に微笑みかける。虜囚としての己の立場を心得ていないものかと当初は呆れ、三貴王国の救世の英雄の末裔であり、光神の花嫁でもあった身の上故のもの知らずと軽く見、己の美貌を武器として快適な環境を得ようとする女の本能かと侮り、そして今では、彼は、この女を半ば恐れている。
夜の娘。争いの先触れ。最高の美を意味する黄金の林檎を捧げ持つ者。彼女は、名を戴いた太古の女神の、まるで現し身のようでもある。
深淵を抱え、謎を沈めた惑いの女。
「何故、私が帰る時間が判った?」
並べられた皿の中身は全て、温かなものは温かく、冷たいものは冷たく、最も料理を楽しめるだろう温度に調えられていた。彼がこの塔へと訪れる事は決して常でなく、その殆どは気紛れに左右される。来るかどうかも判らぬ者を待っての準備にしては、気が回りすぎている。それ故の問い。
しかし、女は可笑しそうに笑う。しなやかな、夜露を含んだ草花の持つ響きとその波動。
「あなた、ご自分の魔道気がどんなものか、判っていらっしゃらないの?」
世界を観る者は、ただ世界から乖離する。無色透明な存在でいる事が最も相応しい。その根本原理に則って、彼は自身の魔道気の殆どを封じ込んでいる。彼にとって、それは習慣であり、記せずとも行う所作である。故に、彼の痕跡は常に何処にも残らない。
少なくとも、これまではそうだった。なのに。
目の前の女は微笑い、そして自身の向かいの席を指し示した。
「さあ、お座りなさいな。お人形さんが作ってくれた折角のお料理よ。温かい内に頂きましょう」



自動人形達は、彼に忠実だった。命じられた通り、女の世話をした。それが当然だった。そもそも、人形達はそのように造られている。塔の外へは出させない、という原則に反しない限りに於いてという注釈のついた彼の命令は、女の世話をする事、すなわち女の望みを叶える事であり、女の望みに従って料理を彼の部屋へと運び込む事は、彼の命も女の命も同時に満たすものだった。
肉体の活動を維持させるための熱量。彼にとって、食料とはただ、それだけのものだ。各種栄養素を満たした高濃度の液体は、利便性もよく、何よりも効率的に必要分の熱量を摂取できる。
そんな、彼にとっての常とは全く異なる、目の前の風景。
上がる湯気の向こうには、仄かに微笑みながら料理へと向かう女。
一体、どこから持ってきたのか、その白い手の中にある銀の匙は、まるで女を彩る装飾品のようだ。まるで魔道士のように気配も立てず、皿の中から魔法のように料理をすくう。
そういえば、この女もまた、魔道士であったのだった。正確には、魔道士のようなもの、と称すべきであったが。
彼らのように世界の法則を読み取らず、世界の法則を読み解く者。光神の花嫁と呼ばれた大祭司。彼と同じ者であり、また決定的に異なる者。彼自身とは似て非なる存在への関心を持って見据える彼を意に介した様子もなく、女は銀の装飾品を口元へと運ぶ。
「…全く、手が動いていないようですけれど」
その後に、彼の不躾な視線に寛大な赦しを与える事を、優雅な頷きひとつで示し、女は軽く小首を傾げた。
「口に合わないものでもありまして?」
いかなる食物に対しても、好き嫌いで論じる事は許されない。そんな原則が成り立つのは、人の世の最下層に生きる者達と最上層に存在する者達の二種である。前者は、食物を選ぶ権利などないが故に。後者は、その食物に関わる者達を守る義務がある故に。
後者に属する女は当然の如く、出された物は、何でも食べる。銀の匙も然り、自動人形達は、料理の食材を一体何処から調達したものか、女は気にも留めていないようだ。興味もないのかもしれない。
ただ苦笑でもってその事実を受け取り、彼は目の前に用意された、煌めく匙を手に取った。
「このスープ、とても美味しいわね」
潮の風味漂うそれが、一体どのようにして作られたものか。先程までの疑問がまた湧いて出たが、彼はただ、「ああ」と返すだけに止めておいた。口を付けた料理が美味である事は、確かであったので。
時折、かちりと食器に匙が接触する音がする。それもまた、主に彼自身が立てる音である。女の手にある匙は、不思議なほどに一切の音を立てない。まるで、世界に融け込むかのようだった。
しばらくの沈黙があった。
ふと、息を吐くと、女は匙を傍らへと置いた。
「何か、お話はありませんの?」
突如、彼の前に顕現した女に、彼は目を瞬かせる。女は不服そうな様子で、彼を見つめていた。まるで、生きた世の人間のようで、更に言うなれば、子供のようですらある。
「共にお食事をするのなら、話題を提供するのは殿方の務めというものではなくて?」
そして、続く言葉の意味は、彼には理解不能であった。別に望んだ訳ではない、と言いたいが、それでも、そんなものなのかと思う。世の男というものも、大変であるらしい。
話題か、と彼は思い、この女と対話したい事があったかと考え、そして、見つけた。つい最前、当の女が発した言葉について。
「私の魔道気が、どのようなものだというのだ?」
彼の問いに、目を見開いた女は、やがてくすりと笑った。
会話は、どのように展開させるかという組み立てが大切なものよ?と、女は微笑う。幼子に対するように、噛んで含めるように。それが、会話の広がりを楽しむという事なのだと。
それでも、「まぁ、いいわ」と女は息をつく。
「貴方が、御自身を理解していない、というお話ね」
端的な会話というのも、たまには面白いものね。
その呟きは、耳に届いてはいたが、彼はそれを無視した。修辞は、法曹家の技であって、彼に必要なものではない。彼にとって真なるもの、それは本質のみである。故に、呟きの前に発した女の言葉、ただそれだけが重要なものとなる。
「これは、異な事を」
自身を客観的に観、そして理解する事は魔道士としての基本である。そして、彼は魔道士である。それも、大陸最大の魔道士の肩書きを持つ。少なくとも、表向きは。
有り得ぬ事を告げる女は、それでも涼しい顔を崩さない。毛程も表情を変えぬ彼をひたと見据え、そして軽やかに微笑む。
「例えば、貴方はとても欲張り。自覚はあって?」
彼はこれまで、随分と多くの戦乱を操ってきた。当事者達がそうと知らぬ間に、彼の書いた計略通りに動いているなどと気づきもしないうちに、紛争を作り、戦を起こし、そして終わらせた。何のために?
彼が望むものを手に入れるために。
世界を欲する。傍目には、そのように映るのかもしれない。しかし、彼はそのようなものには全く興味はなかった。彼が望んだのはただ、世界の本質だけだ。
世の歴史。宇宙生成の謎。喉から手が出る程に欲した、神の領域にまで達する知識。それらを手に入れるためなら、世界など幾らでも投げ捨てても構わない。
それは、世界の支配を欲するよりもずっと業の深い、欲望というものだったかもしれない。その観点で言うなら、なるほど確かに彼は人の世の誰よりも欲が深い。
「欲張りは、魔道士の護るべき律に反するわ」
魔道士は、人の世を左右する欲を持ってはならない。人の世に干渉してはならない。魔道士となる儀式で、彼らは最初に宣誓を立てる。故に、彼の欲望は魔道士としての倫理に外れる。
しかし、彼は元来よりの魔道士ではない。魔道士である以前に、世界の意味と本質とを見極める観照者であり、魔道士の神祖と呼ばれる師の後継者である。
「貴方の手は一対しかないし、人の子に所有を許されるのは、それで抱え込めるものだけなの。神様がお決めになった摂理というものよ」
それが、人には許されぬものであるというのなら、人でなくなっても構わない。
そんな彼の心を、何処まで理解しているものか。もしかしたら、全てを知っているのかもしれない。女は微笑う。その微笑みの中に、何があるのか。何もないのか。それすらも見せぬ、深淵の笑み。
まるで全てを手の内に納められているかのような錯覚。女を捕らえているのは、彼の方だというのに。
「ああ、貴方の魔道気のお話だったわね」
この女と共にいると、まるで自身が物を知らぬ子供にでもなったかのようだった。
「貴方は、異界そのものよ。そんな存在が動けば、空間も歪むわ。存在を消し去ろうとした貴方は、そこに虚無を創り出して、世界を引き摺って移動しているようなもの。だから、判ってしまうのよ。貴方のことは」

この女には判るのだ。

この女は、彼の前に全てを引き出し、曝してしまうのだ。他の誰も、彼の兄弟弟子であった男も気づかなかった事実を。彼が無色透明たり得ず、空白であり、虚無であるという事を。世界から否定されているという事を。
決して、観照者とはなり得ないのだという事を。

その事実を突き付けられる度に、揺らぎ崩れかける、人の意識。全てを手放し、虚無へと還りたがる、意識。世界の本質も、神の知識も、全てを欲さない、何もいらない、そう思いたがる意識をねじ伏せる。まだ、手放してはならない。

彼の、望みを、叶える、ために。

「…そなたは、まだ話す気にならないのか」
それは、彼が女を捕らえた理由。本来ならば帝国へと護送し、女の母に当たる神剣王国の王妃をそうしたように、地竜の王へと下げ渡すべきであったのにそうしなかったのは、全く傷付けることもなく、この塔へと幽閉したのは、この女だけが持つ力故。
それ故に、彼は女の言葉を欲する。
「貴方は、いつも同じ事を言うのね」
幾度となく繰り返された彼の問いに、女は可笑しそうに微笑う。
「私は、何も言わないわ。初めにそう言ったでしょう?」
「人の気は、変わるものだ」
「変わらないのよ、私は」
言葉遊びのような会話は、この女と対する時の常である。表層を撫でるようでありながら、深く本質まで潜り込む。
「貴方が変わらないように、私も変わらないの」
彼と同族であり、また異種である女。彼と同じように世界から隔絶しつつ、彼とは異なり世界から否定されない女。

塔の外には、解放されたと人は信じているだろう、それでももう一つの閉じられた世界。この世界の外から彼と彼女と人間と古代竜族と、全ての者共の愚かな営みを見つめる存在と。その更に外から、全てを包み込むセカイ。
世界は全てが閉じられており、また常に解放される。

「私を動かす事ができるのは、私自身と神様だけよ」

女は、この閉じられ調和した世界の一部である。また、解放された世界の一部である。

彼によって操られる世界。師によって操られる彼。
この世界に、如何ほどの価値があるというのだ?

(彼によって操られる世界。師によって操られる彼。師を操るのは、一体、誰だ?)

価値などない。滅ぶならば、滅びればいい。
そう思いながら、求めていたのは、恐らく、彼を否定しないセカイ。

(彼は、この世界に生まれた。存在を許容されて生まれた。彼を否定したのは、誰だ?)

「その言葉も答えも、全部、神様のもの」

彼とは違い、真に無色透明である女は微笑う。



「貴方は、本当に欲張りだわ」



END







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