罪と罰と最後の祈り〜ミネルバ


ああ主よ 哀れなる罪人なるわれを
カンタータ第135番/J.S.バッハ



あの人の話をしましょう。

赤の女が微笑んだ。慈愛の聖母もかくあれかしといった風な、どこまでも美しく、夢見るような微笑で。



乾いた空気の満たすこの国では、室内の湿度を外部に奪われないためと外部から風に乗った砂埃を入れないために、一般的に窓は小さく作られる。その上、王城の最奥ともなれば、四方を高い壁に囲われ、ただ明かり取りのための天窓が設えただけの暗く冷えた空間となる。そちこちに据えられた灯の燃える火は、光でもって周囲を照らす以上に、その温かな色合いに大きな意味があるのだ。
燃料の獣脂と、花を煮詰めて取った香料と、両者の綯い交ぜになった匂いが周囲を漂う。本来、獣脂が焦げる匂いを消すために混ぜられた香料はひどく甘く、鼻についた。竜王国の王城はどこもかしこも、独特のこの匂いが立ちこめている。しかし、その王城の中でも更にこの部屋は特別だった。壁に据えられた書棚から本を取り出し、無造作に開くとそれだけで、香の匂いが広がった。紙は匂いを吸うものだという事を実感する。
幾年もの時を跨いで大陸中から集められた王室の蔵書は、諸外国に関する知識を主とするものが多かったが、しかしそれは単なる興味を意味してはいない。大陸に置かれた大使館の集めた世界の動きは、国際情勢をにらんだ月次報告と年次論書として、王の元へと送られる。これらはただ、それを理解するための前提知識としてのみ供される。ミネルバもまた、これまでこの部屋に立ち入った事など殆どなかった。そんな時間があったら、剣や槍の扱いや飛竜の騎乗術を身につけるべきだと思っていた。何も知らなくてよかった、平和な時代の話だ。
書棚から記録を取り出し、机へと積み上げる。机の上に既にある大量の文献の中から書類をひとつ、またひとつとつき合わせ、確認する。歴代の王が裁可したあらゆる事象が、この書類の中にある。王の側に書記が控え、全てを記録するのはこの国の倣いであったが、それはあくまでも建前とばかり、重要な議案についての決裁関連の資料がところどころ抜け落ちている事例もある。それも、各々の王の性格とでもいったものだろうか。それでも、竜王国の王がどのような存在であるのか、彼らがどのように王としての責務を果たしてきたのかは読み取れる。国を背負い動かす者としての強烈な自負。それを持たない王など、ただの一人も存在しない。
どこからから吹き込んだ冷えた空気が、灯りを揺らした。周囲はひどく静かだった。城内に幾らもいる使用人達の動き歩く気配さえない。自然光の入らぬ城の奥でも、昼日中であれば陽の匂いのようなものは届く。それもないとなれば、現在は夜か。既に人々も眠りにつくような時間なのかも知れない。最近では、この部屋に篭もったまま過去の記録と資料とを漁り、眠くなったら仮眠を取る、起きたらまた資料にあたるの繰り返しに時間の観念もなくなりつつある。顔を上げたらそこに在るだろう女の姿も、今や気にならなくなる程に。
女の存在に気がついたのは、かなり前の事になる。始めは小さな衣擦れの音や軽い空気の動く気配。裳裾を引く密やかな動き故に、それが女であると判る。戦場の喧噪も遠い王城の奥深く、敵でもなく暗殺者でもない、害意を全く発さない、ただ在るだけの気配は常にミネルバの意識に触れており、ミネルバを常に苛立たせた。新王付きとなった女官達を追い払い、独り部屋に篭もってみても、その気配は傍に在る。そしてある時、ふと顔を上げた瞬間、ミネルバは見た。胸元の深く刳れた深紅の長衣。豊満な躰。白い肌に散る豊かな髪。赤い女の影は、しかし、一瞬で消えた。元からそんなものはなく、全ては幻であったかのように。
以来、たった独りの夜、ミネルバは女の影を見る。女はただ、部屋の隅に立っている。害意もない単なる気配でしかない存在など、変わり者の姫よとミネルバを嗤った宮廷のお喋り雀達程にも意識をかける価値がない。
誰にも気にかけられない気配ひとつ。ミネルバの他には、その存在にすら気づかない。
扉を叩く音がした。女官が何か食べ物でも持ってきたのか、それともまた何か、国璽の必要な書類でもあるのか。
「入れ」
顔を上げる事もしなかった。
対して、扉が開かれる速度はひどくゆっくりだった。それはいつもどこかビクついたなりで現れる女官らしくはなく、ミネルバ腹心である三姉妹長姉の無駄というものを一切排した様子らしくもない。扉を開けはしたが、入室するつもりもないのか、その人物は扉の前に立っている。ミネルバが顔を上げるのを待つつもりであるらしい。それは礼儀に叶った所作ではある。がしかし、ミネルバの周囲にはそのような行動を取るような者は殆どいない。何よりも、ミネルバが手間のかかる儀礼を嫌っているからだ。故に現在、扉の前にいる人物の正体については限定される。
鋭くひとつ舌を打ち、あからさまに迷惑そうな表情でミネルバは顔を上げる。しかし、扉の前にあったのは、ミネルバが予想した同盟軍の盟主である青の王子のほっそりとした姿ではなかった。品の良さそうな姿は共通していても、青ではなく赤であり、男ではなく女であった。
「こんにちわ」
場所も時間も状況にもそぐわぬ挨拶をただ一言。そして、赤い髪の尼僧は微笑んだ。



ミネルバが彼女を認識したので、彼女は部屋に入れるようになった。ミネルバに小さく会釈して、彼女は書庫へと足を踏み入れる。その滑るような所作は、ミネルバの傍にある騎士達のものとは違う。品良く優雅で、まるで宮廷の貴婦人のようですらある。聖職者とは皆こういったものなのか。
ミネルバが同盟軍へと参加した時、彼女は既に軍にいた。従軍司祭に尼僧は珍しかった事に加えて、彼女の身体的特徴は明らかに竜王国出身である事を示していて、それはミネルバをひどく驚かせた。だが、それだけだ。
敵国の人間を受け入れる軍に、己も参加しているのだ。更に言うなら、ミネルバは当の敵国の王女でもある。国に繋がれない僧侶を裏切り者よと責める資格などあるはずもない。
尼僧は美しかった。鮮やかな赤毛の華やかさとは裏腹に、大人しやかな面立ちは清楚であり、白い頬は滑らかだった。竜王国の者らしく、また竜王国の者らしくない。同じく赤い髪を持つのに、ミネルバとは随分と違うものだと思う。そして、部屋の隅に立つ女とも。
小さく小首を傾げ、困ったように尼僧が微笑む。知らず、注視していたらしい事に、それで気づいた。
「何か私にご用がおありだったのではないのか?尼僧殿」
言い訳じみたその言葉は、全てが出任せだった訳ではなかった。入室してからこっち、ミネルバの側に寄ろうともせず、ただ一心に書棚を見て回るのみの彼女に対する、純粋な疑問である。しかし、返る答えはミネルバには全く予想もつかないものだった。
「いいえ?」
「…では、ここには何をしに?」
「本をお借りしたくてまいりました。王宮の書庫は蔵書がとても充実していると聞いておりましたので」
如何にも当然といった様子のそれに、偽りの影は見えなかった。恐らく当人にとっては自明の理というもので、しかし、ミネルバにとってはあり得ない答えである。
確かに書庫は本を探すための場所だ。しかし、状況というものがある。今現在、当の書庫はといえば、気難しさでは位に昇る前から定評のあった『鬼姫』がひとり、勉学のためと称して篭もりきりである、その場所だ。誰もがミネルバの不興を買う事を恐れて近付かない。ほんの一握りの者達以外は。
気負いもなくただ、穏やかに立つ尼僧が、少し心配そうな顔をする。
「お邪魔でしたか?」
「…いや…」
一呼吸、その後に言葉を返す。決して邪魔ではなかったが。
「安心致しました」
その言葉も恐らく真実なのだろう、毒気を抜かれてぽっつり呟くのみといった様子のミネルバの答えに、いかにも安堵したらしく微笑んだ。ミネルバを恐れてではなく、ミネルバに不快な思いをさせていないという事を喜ぶ、その笑み。
なるほど、これが『聖女さま』というヤツか。
同盟軍の一部で囁かれる彼女を示す呼称に相応しく、清く正しく美しく、慈愛に満ちた汚れなき存在。
「王宮の書庫は、そんなにいい本が揃っているのか?」
大陸の地理、歴史、政治、経済。この書庫に集められたのは、そんなものばかりだ。聖職者の、それも女にとって面白いものでもないだろうと思う。がしかし、尼僧は嬉しそうに頷く。
「ええ、とても。興味深いものばかりです」
言いながら、彼女は一冊の本をそっと書棚から抜き出した。どっしりと厚みのあるその本は、背表紙が外れ掛けていて、丁寧に扱わないと崩れてしまいそうでもある。本来ならば修繕されてしかるべきものに対する書庫係の怠慢に目を眇めたミネルバに気づいた風もなく、彼女は軽やかに続けた。
「民間伝承の中に、真実は隠されているでしょうか?口伝えの古い伝説や、子供に語るおとぎ話。異界に住む魔物や妖精や、古い神々のお話の中に」
『伝承における歴史』
そんな本まであったとは、知らなかった。
苦笑するミネルバは、軽く肩を竦めた。
「竜人がいるくらいだからな。暗黒竜が本当にいても、もう驚かない」
百年前に救世主アンリが戦い倒した暗黒竜は、巨大な飛竜だったと言われている。それはあえて主張するまでもない常識とされる説であり、例えば『伝承における歴史』が示すような、暗黒竜実在説を提唱する研究者がいたら、それは主流から外れたはぐれ者、変人として忌避される存在でしかない。
しかし、二脚蜥蜴と呼ばれたマムクートが竜に変化するという事も、これまでの戦いを通じて、既に彼らは知っている。体に多大な負担を掛けるそれは命を削るに等しい、とは、青の王子を通じて軍内にいる竜人の老人が語った事であるが。
「だから、光神ナーガもまた、存在するかもしれない。…尼僧殿には、耳の痛い話か?」
彼女の信仰する聖教は、たったひとつの神を奉ずる。故に、光神ナーガは作り話、物語の中の存在でなければならない。
「私の神は主ただひとりですけれど、他の方々にとってもたったひとりの神は存在するでしょう。だから古い神々もまた否定したりは致しません」
異端であると断ぜられても仕方のない思想。
「…それはまた、随分と拓けた思想の持ち主だな、尼僧殿」
異端審問官が怖くはないのか?と揶揄するミネルバの前で、尼僧の姿は揺るぎなく、ただ静謐だった。
「私は、自身の選んだ主を信じておりますから」
花のようなその微笑みは、自信に満ちている。か細くたおやかで、常に宮殿の奥深く護られて然るべき姫君のようでありながら、彼女はしなやかで力強い。世界を遮断し、書庫に篭もるミネルバなどよりもずっと。
ミネルバは、暗く嗤う。
「私は、目に映らないものは信じない主義だ。だから、神も信じない。…そもそも、本当に神が存在するならば、私には今頃、神罰が下っていてしかるべきだと思わないか?」
女は今でも、部屋の隅に立っている。ミネルバが自身の手で斬り殺した女。
何か言えばいいのに。恨み言でも何でも。
訴えればいい。それを聴くのは、ミネルバの義務なのだから。
心からのミネルバの思いに被せるように、打ち消すように、あるいは重ねるように。

「神はいます。どこにでも、どのような形でも」

深く静かな尼僧の瞳は、どこまでも強い。
「しかし、何も為さない。救わない。そして、術もなく、ただ人は死ぬ」
ミネルバよりも一回りは確実に小さくて。
「何かを為すのは人、そして、国のために為すのは王です」
それでもミネルバよりもずっとずっと大きな女。

竜王国歴代の王は皆、幾夜もの時を迷い苦悩し、それでも周囲にはそんな心情など全く気づかせる事もなく、全てを裁定した。国家の発展と安寧とに続く最善の道を、自己の責任の下に選んだ。勿論、先代の国王もまた。
先代、とは、誰だったろうか。兄の事か、父の事か。現国王と呼ばれるミネルバは、皮肉でなく思う。
元々、王太子だった兄が王位を継ぎ、王となった。しかし、兄は父王を弑した咎により王位を剥奪された。現在は王位継承の事実さえも否定された廃王となったと、確かそんな話を伝え聞いたような気がする。
そして、この話には既に同盟軍は全く関与していない。今や妹姫即位を正当化しなければならないのは、竜王国の方であったから。
同盟軍は、青の王子は何もしていない。全てミネルバの国が、国民がやったのだ。そして、何も言わない、何も言えないお飾りの王に過ぎないミネルバ自身が。
同盟軍の侵攻と共に、速やかに『解放』されたこの国の、それが現状だった。
新王は国民にも重臣達にも顔を見せず、それでも誰もが大して気にしない。国王が欠席であろうと、会議は進む。ミネルバがいなくても、国は動く。ただ、差し出される書類に署名するだけの新王は、何の力もない名ばかりの王と周囲は見なす。そして、それは誤りではない。
ミネルバが全て壊したのだ。自身の欲望のために。それでもいいと思っていた。欲しいものは手に入ったのだから。
文献の中の王達のように、国を背負い動かす者としての自負など欠片もない。最早、国などどうにでもなればいいとすら思う。
「神が救うのは、人の心です。今を生きる事への不安、死後の世界への不安。図らずも犯した罪への赦しと、ただ心の安寧を」
与え給う、と尼僧は言う。
いいや、決して赦されない。許さない。
ミネルバは兄を殺したが、重臣達は、国民は、兄を捨てた。彼らは兄を裏切ったのだから。

ミネルバは、決して彼らを許さない。

「だからこそ、人は死者を悼むのです。今は傍にいない彼らが確かに存在した事。虚ろとなった心の隙間に彼らが未だいる事を確認する作業が、残された人々が生きていくのに必要なのですから」
彼らは兄を記録毎、記憶毎全て捨てて、消して、そして全てをなかった事にしようとする。そして『心の安寧』を得ようとする。何と弱い、汚い、卑しい心根か。
なのに、目の前の尼僧はただ端然とそこに立つ。人は弱い。それだけなのだと。けれど、何よりもしなやかに強くもあるのだと、自身に拠って証し立てるかのように、ただそこに立つ。
「だから、あの人の話をしましょう」
そう言って、赤い髪の尼僧が微笑んだ。慈愛の聖母もかくあれかしといった風な、どこまでも美しく、夢見るような微笑で。



何を言っているのか。
怒ろうとした。怒鳴ろうとした。呆れ返って、嘲笑って、それとも、何の事を言っているのか判らないといった振りをして。
ミネルバはそのどれも行動に移す事ができなかった。
声が出ない。息も出来なくて、目の前が真っ赤になった。両の手で顔を覆って、目を瞑る。世界が闇に包まれて、少し息が出来るようになる。細く浅い呼吸で、この暗闇を体内に取り込んで、世界と同化してしまえば何も感じずにいられる。深い深い虚無の闇。そこに沈んでしまえば。
その時。
そっと触れる手があった。

武器を握らない手はとても滑らかに柔らかい。小さな優しいものを触れるためにある手が、ミネルバの髪を梳き撫でる。まるで幼子を宥めるように。ここにいるよと言葉にせぬまま訴えるかのように。
馬鹿にしているのか、と言いたくて、それでも、声を出したら涙も共にあふれ出てきそうで、全てを封じるためにミネルバはただ顔を伏せ、目を固く閉じる。世界は闇。光は差さない。自身も闇。己は決して赦されない。なのに。
柔らかな手の温もりは、決して去らない。ここにいるよと訴えるかのように。



どれくらいの時間が経った後の事だろうか。
「私にお兄様の話をするのは、嫌ですか?」
尼僧がはっきりと話の対象を指定して、それでももう胸が詰まったり息が苦しくなったりはしなかった。目を開けて、顔を上げる。闇はない。ただ嗅覚を麻痺させそうな甘く鼻を突く香の匂いがそこここに漂っている。揺らぐ灯りの色が、書庫に据えられた書棚を照らしていた。
傍らに立つ赤い髪の女は、とても小さく見えた。ミネルバよりも年も下だろう、どこかあどけなくさえ映る。まるで何もかもが初めて眼にするような、ようやっと見知った場所に帰ってきたような、そんな気がした。
全く不思議だった。まるで憑き物が落ちたかのようだった。ただ、何をしたでもないのに疲れ果てていて、虚脱状態にあるだけなのかもしれないけれど。
「…いや」
先程、同じ事を尼僧に言った。書庫を訪ねてきた彼女が「お邪魔でしたか?」と問うた時に。もう遠い昔の事のような気がした。
一体、何の話だったろう。
ああ、兄の話か。あの、男の。

思い出すのは、あの兄が妹達にだけ見せた屈託のない笑顔。
そして、傲岸不遜な男の、人を食った笑み。

幾日もこの部屋で過ごして、歴代の国王の足跡を追った。克明に生き生きと書かれたそれらの記録の中に、最も新しく、そして近いうちに廃棄されるだろう先代の国王のものもあった。
さもありなんと、あの男の傲岸な口ぶりまで思い浮かべられそうなものもあった。ミネルバにとっては意外な程、情に溢れた決定も。先王の治世を学ぶためのそれは、生き生きとした彼の姿を再生する行為でもあった。
彼がどのような王であったのか、ミネルバは初めて知ったのだ。彼の将軍であり第一の部下であった、王位継承権者第二位であり最も近しい身内であったはずの当時、紗にかかったように見えなかったものが、今は見える。
園遊会や夕食会、舞踏会など、どうしても欠席できない場に嫌々出て行くミネルバと違って、華やかな席が好きだった。だけれど、たまに行き会う宴席で、醒めた目をした兄を幾度か見かけた事がある。遊び好きで社交的で、たけど、本当はそんなに人の多い場所は好きではなかったのではないかと思う。もしくは、人というものが好きではなかったのか。
いつも違う女を連れていた。だけどいつも同じような女。美しく、豪華で大人らしい物の判ったような女達は判で押したようにミネルバには同じに見えた。
たくさんの人に囲まれて、彼を取り巻く人々も友人と称す者達も多かったのに、いつも同じような顔をした人間ばかり。その中にいる兄だけが、浮き上がって見えていた。誰よりも華麗で豪奢で傲慢な、唯一の人物。
ミネルバをからかって笑う楽しそうな兄の姿と。同じ人々に囲まれて浮き上がる孤高の男と。有能な国王としての姿と。

今、知りたいと思う。あの男の事が知りたい。彼の本当の姿が見たい。
焦がれるように、そう願う。

「少しずつでいいんです。目を背けず、向き合えるようになる事、考えるだけでなく、口にする事ができるようになる事、そうしたら、段々気持ちが楽になります。色々な事が認められるようになります」
何を、だろう。兄に対する思いをか。それとも、既に兄はいないという事をか。
まるで、危機的状況を脱した患者に面談した医者の如き対応だ。勿論、ミネルバはそのような状況に陥った事などないし、そのような状態の医者に相対した事もなかったが。
尼僧を見上げる。見下ろされて嫌ではないのは、立てば己の方が背が高いと知っているからか、それとも母性に満ちた尼僧の微笑みが彼女の大きさを顕示するからか。
それとも、『医者』だからか?
「すまなかったな」
苦笑混じりのその言が理解できなかったのか、尼僧が小首を傾げる。ミネルバは続けた。
「頼まれたんだろう?ここに来て、私と話をしてほしいとでも」
誰に、とは問わなかった。尼僧をここに寄越した人物が、彼女にどのような事を依頼したものか、ミネルバには容易に想像できるところだったのだ。そして恐らくは『誰がそれを頼んだのか』については秘密にするという約束にでもなっていたのではないかと思われる尼僧も、あっさりと頷いた。
「心配されていましたよ。お食事も禄に取られていないと…」
あからさまに人物を特定するような言である。彼女は全く隠す気などないらしい。
全く、ミネルバに仕える少女騎士は、変わらない。変わらないものを貴重に思い、愛おしいと思うのは、自分がひどく変わってしまったからだろうか。その立場も考え方も、感じ方さえも。
今では全てが遠いけれど、それでも、時にふと懐かしむ瞬間がある。今、この時のように。
「お忙しいでしょうけれど、時には休まれる事も必要でしょう」
尼僧が視線を一渡り、周囲に投げる。ミネルバの前の机に散乱する古書や文書文献。揺らぐ灯りは、そろそろ燃料が切れかけている事を示唆する。その下に立つ赤い女に視線が留まる様子はなく。
尼僧はただ、ミネルバに向き直った。

それが全てなのだ。

「お気遣いに感謝する…」
ミネルバの言葉に、尼僧は困ったような顔をした。彼女が気づいた通り、それは尼僧を閉め出す言葉だった。
少し悲しげに微笑んだ尼僧がそれでも付け加える。「また、お話して下さいますか?」

いつか、話す気になった時に。

あの男の事を。ミネルバが殺した兄の事を。

「…そうだな。いつか…」

いつか、この尼僧と兄の幻影を共有していいと思えるようになったら。

永遠に来ない未来を語って、微笑った。



尼僧が来るまで、文献と文書の付け合わせに取り組んでいたのだ。大分読み進んで、内容の繋がりも理解できるようになってきたところだったが。
ミネルバは、深々と息を吐く。
既に作業に戻る気にはならなかった。

尼僧が選んでいた本は、本当に読みたいようであったので、修復作業が済んだら届けさせると約束した。そして、尼僧が帰っていって、再びミネルバは独りになった。いや、まだ女はいる。胸元の深く刳れた深紅の長衣。豊満な躰。白い肌に散る豊かな髪。ミネルバの目にのみ映る女は変わらず、部屋の隅に立っている。

幻影が、眼奥に翻る。顔も定かではない女の、唇の刻んだ嗤い。その塗られた唇の、剥き出した肩に落ちた一筋の髪の、飛び散った血の赤だけがただ、鮮明に残る。
他の誰にも見えなくとも、ミネルバにとっては決して幻ではない。確かに女はそこに存在する。それが、ミネルバにとっての現実だ。

責めればいい。あの女には権利がある。最後まで兄を見捨てず、兄に殉じて、ミネルバの刃にかかって死んだあの女にだけは、ミネルバに恨み言を言う権利がある。

そして、ミネルバは赦しなど求めない。決して赦されぬ事をしたのは自身であり、そして、それを後悔していない。

女からあの男を奪い、自分だけのものにした。そして、二度と手放す気もない。決して、あの女には返さない。



あの男は神の庭になどいないから。

恐らく遠からず、私もあの男と同じ場所にいくのだろう。

『地獄』と名付けられた場所で、我らは再びまみえるだろう。


女よ。お前は『地獄』には行かない。あの男への忠誠を最後まで尽くしたお前は。だから。



幾らでも恨み言を言え。
そして、ひとりで行くがいい。『天国』へ。



END







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