ひとつの花〜ミネルバ

わたしを忘れないで

名前も知らない女だった。
顔すらも、よく覚えてはいない。記憶にあるのはただ、女を示す記号のようなものだけだ。
胸元の深く刳れた深紅の長衣。豊満な躰。白い肌に散る豊かな髪。
それでも、決して忘れないだろう。
艶やかに笑った女の唇の赤さ。あの微笑みを。
「陛下」
全ては、悪い冗談のような気さえする。しかし、これが現実なのだ。
己を示すこの新しい称号に、ミネルバは未だ慣れる事ができない。
窓辺からゆっくりと離れ、振り返る。
今まで眼下に広がっていた、花と緑と太陽の織りなす鮮やかな色彩から一転、城内の灰色の石造りの壁が作り出す湿った影は、世界を飲み込まんとするかの如く、色濃く暗い。視線の先、開け放した戸口の前に立つ人物の姿も、ただ、物言わぬ影としか映らぬ程に。
しかし、その表現もまた、ある意味、正しかったろう。己の腹心である三姉妹の長姉は、確かに影のような存在である。無駄な事は何も言わず、常に冷静に淡々と、今すべき事をこなす。
実年齢以上に落ち着いた少女騎士は、今、扉を前にして、こちらを見つめている。その面に現れているのは、言わずもがなの、入室の許し。
「入れ」
軽く顎先で示すと、彼女に仕える騎士は、緩やかに頭を下げて、部屋へと入ってきた。その手には、常の如く、書類がある。常の如く、青の王子よりの文書だろう。
「青の王子よりの御伝書です」
ミネルバの想像を裏付けるように、彼女は言う。
「『何か、足りないものがあるようでしたら、遠慮なく申し付け下さるように』との御伝言もお預かりしております」
文書を差し出しながらの言は、気配りに満ちている。紳士的なその対応を、本心と信じてしまいそうなほどに。
いや。本心ではあるのだろう。あの王子は、心にもない事は決して言わない。ただ、真意なり本来の目的なりが、同時に存在しているだけだ。そして、それを責められる程、ミネルバも清廉潔白な訳ではない。
実際、足りないものは幾らでもある。この国にも、今現在、ミネルバのいる、この急ごしらえの政務室にも。
謁見の間に近い手頃な部屋を片づけさせただけの場所は、一番最初に運び込ませた机、先程まで使っていた机以外には、何もない。それでも、現在のこの国と、そして、ミネルバには相応しかったかもしれない。
未だ兄の匂いが残る、国王の間を使う気にはなれなかっただけにしても。
ミネルバは、溜息混じりに向き直る。机には、この国の新たな王として、しなくてはならない事が文字通り、山と積まれている。ぼんやりと、外を眺めている暇などないのだ。
「…『お心遣いに感謝する。だが、現在は必要ない』と、その旨、王子にお伝えするように」
席に着きながら言い、ミネルバは娘へと手を差し出す。常ならば、そのまま受け渡されるだろう書類を手にしたまま、しかし、娘は動こうとしない。
顔を上げると、そこには、物言いたげな娘の顔があった。
ミネルバは、皮肉げに微笑う。
「少しくらい、見栄を張らせてくれてもいいだろう。本当に必要になったら、救援も依頼するから」
我ながら、全く信憑性がない。
彼女は、かの王子との会談の折りも、傍らにいた。ミネルバが現在のような状況に陥ったその経緯を知っているのだ。ミネルバは、何があっても、救援など頼むつもりはない事もまた、目の前の娘には判っていただろう。
賢明な判断ではないかもしれない。真に国のため、民衆のために、王子の手を借りた方がより早く問題は解決するのかもしれなかったが、ミネルバにとって、これは自尊心の問題であり、決して譲れない一線だった。
だが、娘は緩やかに首を横に振る。
「…お見せするべきか迷ったのですが、陛下…」
また、首を横に振ったが、これは否定の意ではなく、ただ、戸惑いを表したものらしい。やがて、彼女が視線を伏せるのも、全くいつもの彼女らしくなく、ミネルバもまた、彼女へと向き直る。
幾呼吸かの間の沈黙があった。
娘の洩らす息遣いと溜息さえ、はっきりと耳に届いた。
その懐から封書を取り出す時の擦れた音も、彼女の手が、封書の端についた黒い染みを撫でた際の乾いた音も。
「これを、あの女が持っていました」
彼女の顔を見るまでもなかった。『女』が、誰の事を指しているのか、疑問の余地もなかった。
その後、彼女が部屋を出た事も、気づかなかった。机の上に置かれた封書に、魅入られたかのようだった。突如、毒を持つ生き物に化けるかも知れない。そんな思いすら抱かせる程、ミネルバにとって、それは呪いに満ちたものであるのに、目を逸らす事もできない。
引かれるように、封書を手に取る。宛名はない。差出人もない。それはただ、素っ気ない程に白い封筒だった。封をする部分に蝋を垂らした跡が残っていたが、既に蝋印も落ちている。皺だらけでもあったから、女の懐にある際、崩れてしまったのかもしれない。
ミネルバは、封書を開き、中にある数枚の紙を取り出した。
名前も知らない女だった。顔すらも、よく覚えてはいない。それでも、ミネルバは女を知っていた。
華やかな席上、竜王国の若い国王の傍らにあった、女そのものといった風だった、あの女。
早い時には一晩で『お気に入り』が入れ替わるあの兄が、幾度となく女を取り替えながら、それでも、あの女はずっと兄の側近くにいた。
国王の情人、と呼ばれた女。
次代の女王の世になれば、厳しい処断を受ける事になっただろう、罪人のひとり。
戦いは終わり、兄は、父を弑し、王位を不当に奪った大逆の者として死んだ。その罪により、彼が元より持っていた王位継承権は奪われ、兄に次ぐ継承権を持っていた第一王女ミネルバが新たなる王となる。正当なるこの国の主として。
なんと欺瞞に満ちた事か。
あの兄は、父を殺したりなどしていない。ミネルバはそれを知っていた。青の王子も、また。
しかし、物語は作られた。
兄に真っ正面から立ち向かう事。真剣に対峙する事。
決して、手加減などさせない。ミネルバを真っ直ぐに見つめさせる。
それだけが望みであったミネルバと、青の王子の利害は一致した。
何処からともなく流された噂は、たったひとつの仮定であり、決して、人々を派手に煽動するものなどではなかった。何を決めつける事もなく、ただ、もしかしたら、という小さな疑惑の種。噂話に語られる説で、全ての物事が説明される。理路整然と、あまりにも明快に。一点の曇りもないその推察は、いつの間にか、周囲に、民衆に、それが真実なのだと信じさせてしまう。
そして彼らは、本来、敵であるはずの同盟軍へと、彼らの国王を売り渡した。罪にまみれた王だと。そもそも、この戴冠自体が間違いだったのだと。
一部の強硬派の抵抗を封じ込む事で、この戦いは集結した。同盟軍への被害など、殆どなかった。
それは、いっそ見事と言っていい手並みだった。
全ては同盟軍の、あの青の王子の計画通り。物事が決められた通りに進むのを、ミネルバはただ、見つめていた。
嘘を嘘と知りながら、ミネルバはこの道化芝居に乗り、そして、兄を殺した。
だが、決して、後悔はしていない。
兄と槍を交わらせた時、その閃きの鋭さに、振り下ろされる槍の力強さに、紛う方なき真剣を感じた。互いに相手へと命を賭けた。
あの兄が、ミネルバを見る。妹ではなく、女でもない。ただ、対等の者として、好敵手として、ミネルバを見る。
あの瞬間が、欲しかった。それさえあれば、何もいらないと思う程、己の命さえ青の王子に売り払っても構わないと思う程、欲しかった。
身内殺しの忌むべき簒奪者。己の欲望のために国を売った売国奴。
それは、己にこそ冠されるべき称号であると、ミネルバは知っている。それでも、構わなかった。構わないと思っていた。あの女の目に向き合うまでは。
女の目は、雄弁に語っていた。何もかも、知っているのだと。
新女王と自ら宣しただけの第一王女。本来、何の権利もありはしない。
女の目は、確かな嗤いに濡れていた。
封書を開くと、中にあったのは、数枚の紙。ただ、そこに綴られた文字の手には、覚えがあった。優雅な風でありながら、紙を傷つけそうな程に強い筆遣い。今現在、己の横に積まれた書類の中にも、それはある。
前国王の署名と同じ筆跡。
あの女へと贈られた、兄からの手紙。
知らず、手が震えた。見たくない、と思う。握りつぶせ、と、破って捨ててしまえ、と、己の意識の片隅、ほんの少し残った冷静な部分が喚き立てる。それでも、体は動かない。相反する感情の故だろうか。見たくないと思いつつ、ミネルバは確かに、兄の息吹を欲していた。
あの最後の瞬間、槍を伝った、男の体を貫いた衝撃と、ミネルバの手の中に滴った血の温み。全ての音が消え、時間が止まった。ミネルバと兄と、世界にたった二人だけになったような気さえした、あの瞬間。
ミネルバだけのものだったあの瞬間が幻想だったと、見せつけられるだけかもしれないというのに。
ミネルバは、自嘲気味に嗤う。
あまりにも愚かで、浅ましい。いつまでも、都合のいい幻想に囚われている事も、真実を見ようとしない事も。
気持ちを切り替える。事務的に行えばいいのだと。
改めて、手紙を持ち直し、視線を落とす。それは、こんな言葉で始まっていた。
『新たな国王となる妹へ』
この時の思いを、どのように表現すべきだろう。混在した全ての感情が噴出し、決して底を見通せない混沌とした沼となる。
それは、きわめて事務的な、感情など少しも滲ませない言葉で綴られていた。先程、ミネルバがそうしようと思ったように。
国王の玉璽、各国との間に結ばれた条約の写し等の保管場所。他国との、とりわけ、グルニア、ドルーアとの間に結ばれた同盟の破棄条件とその後の対応について。
感情の欠片のようなものが透けて見えたのは、あの女に関する部分についてだけだ。
この手紙を預けた女は、兄が王となって以来、諜報活動を主任務としてきた工作員である。今まで計画した、ほぼ全ての裏仕事を見知っている。詳しくは女に聞き、そして、女はそのまま、新国王の側仕えとして残すべきである。
「…結局は、女の命乞いか…」
ほんの少しでも調べれば判る事を。己の情婦を生き長らえさせるために、このような話をでっち上げるとは、恥も外聞もなくしたか。
『だが、お前は、この話を信じないだろう』
よく判っているではないか。
『ならば、確認するがいい。もし、新国王が入城いたら、全面的に協力するようにと、女には命じた。どんな質問にも答えるだろう』
女の協力?
ミネルバは、嗤う。自嘲的に。皮肉な思いに。
新国王に斬りかかる事が、協力か?
兄の言が真実であったのか、既に確認する術もない。女は死んだ。彼女の兄と同じように。ミネルバの手に掛かって。
既に、戦場の声は遠かった。城仕えの者も避難したものか、人の気配も感じられない城内は、まるで廃墟のようだった。まるで他人のような顔をした己の家を歩いた。ミネルバは、行かなければならなかった。現在では、ミネルバ自身のものとなったはずの、今まで一度も足を踏み入れた事のない場所へ。
重厚な扉を開け放つ。そこは、代々の国王が、己の時間を捧げた場所。国王の、国王たる証が存在する場所。
これからは、ミネルバのための場所である場所。
今まで、兄だけのものであった執務室に、既に誰もいないはずの場所に、その女はいた。人形のように、身を屈めて、下座に控えて。
次にそこに顔を出す者が、この戦いの勝者なのだと、女は知っていたのだろうか。あの時の女の姿に、祈りを感じるのは、全てが終わってしまった今だから、だろうか。
女が顔を上げた時、ミネルバは思わず足を止めた。そこにいる存在のあまりの意外さに。
対して、女もまた、一瞬、動きを止めた。そこに、どんな感情が内在したかは判らない。しかし、ほんの一呼吸の後、女は笑った。微笑ったのだ。ミネルバを混乱させる、穏やかで暖かい笑みで。
女は微笑みながら、ゆっくりと立ち上がった。手に持った短刀が、ひどく不釣り合いに映る程に柔らかく、それは殆ど、幸福そうな、といってもいいくらいで。
ミネルバは、まだ呆然としていた。そのため、反応が遅れた。反射的に、武器を己に向けた敵に対して、動いていた。腰に差した剣を抜き、目の前に迫った女へと突き出した。
女は隙だらけだった。手にした護身用の短刀すら、持ち慣れていない事は一目で判った。
一直線に走ってくる女一人、その攻撃をかわして、無傷で捕らえる事など造作もなかっただろう。常の状態だったなら。
女は、剣へと吸い込まれたかのようだった。まるで、自身の意志で飛び込んだようにすら見えた。全てがゆっくりと流れていった。
女の死は、新王に対する無言の痛烈な批判だ。女は、命を賭して訴えた。決して認めない、と。
綺麗事だけでは、決して、国は動かない。清濁飲み干して動じない、堅牢な意志こそが、国王を国王たらしめる。
手紙の最後の言葉は、帝王学などかじりもしなかったミネルバへの、兄なりの餞別だろうか。
ミネルバは、青の王子を思う。
今回の一件、兄を罠にかけて殺した事を、あの王子は肯定するだろう。
王子にとって、護るべきは同盟軍である。最も重要なのは、己の手にあるそれの被害を最小限に抑える事であり、彼はそのためにできる事をやった。己の手の者を護るため、最善を尽くした。
反吐が出る。
勢いのまま、手紙を握りつぶすと、ミネルバはこれを細く捻り、灯から火を拾う。燃え移った火がゆっくりと広がり、手紙をただ、黒く縮れた炭へと変えていく。窓辺へと差し出した炭の固まりが、細かく散って、風に解けていく。それを全て、この目に焼き付けて。
罪は全て、己が内に抱えて、墓場まで待っていく。兄のように。王子のように。
それが、支配者として背負うべき定めであるならば。
決して忘れない。
女を切り捨てた剣の重み。血の温みと鉄錆びた匂い。
そして、最後の瞬間の女の、満足と安堵とを湛えた瞳の色を。
END・
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