千の花〜カチュア


いつでもあなたが幸せであるように



熟れすぎた果実のような、濃厚に甘い匂いがした。どこかで花が咲いているのかもしれない。この匂いから察するに、大輪の、色の強い、肉感的な姿の花が。
つい先だっての冬の国から一転、この国は熱く蒸した空気に包まれている。
しかし、だからといって、この国が常に熱いという訳でもない。それは地方によって大きく異なり、島を下ればやはり、冬に相応しい気候…それでも、氷の国と言われる程のものにはならなかっただろうが…も存在する。
寒さと暑さと、湿度と乾燥と、全てが同じ季節に現れる。それこそが魔法のようだとも称されるこの国は、大陸世界で唯一、飛竜と有翼馬とを産する場所でもあった。
100年前、竜の王国が建てられ、そして、滅亡した地は、今でも不浄なる呪いに満ちているともいわれ、故にかこの国は、建国当初から、とかく血塗られた歴史に彩られている。
簒奪。反乱。国土を荒らす内乱の度に、民衆は飢える。カチュアもまた、そんな状況の中で生まれ、育った。
残る最古の記憶は、ただ、呆然と見つめていた、多分、それまで家族で住んでいたものなのだろう、黒々とした骨組みもむき出しになった家の残骸と。何が焼けたのかも判らない、諸々の入り交じった焦げ臭い匂いと、その時、一心に握りしめていた姉の手の暖かさと。
その後も、大して変わり映えはしない。何とか成長し、自分で自分を生かす事ができるようになっても、全てを焼く戦場の匂いはついて回った。まるで、身の内に染みついてでもいるように。
まるで、つい先刻の事のようだ。
戦場の喧噪と熱狂。全ての音が意識の外に排除される世界で、雲一つない空はただ広く、その色の深さ故に、思いの内に残る。
どこまでも青い空に、小さく色を添えるように散在した、有翼馬と飛竜、そして、その騎士達。雨降るように墜ちていく。散りゆく花のようだった。
王城から登る一筋の煙もまた、今まで、幾度となく相対してきた戦場のならい以外の何ものでもない。ただ、そこが、カチュア自身、幼い日から勤め、生活した、己の家にも等しい場所であり、故郷そのものだったとしても、ただ、それだけの事だ。
そもそも、土地に執着などしてはいない。カチュアにとって、ここはただ、偶然、己が生まれた国であるというだけだった。この国に帰還する、という事は、この国を攻め落とすという事だと知ってもいた。
なのに、あの瞬間、己の中で何かが永遠に失われた。ぽっかりと口を開けた虚無の中、それでも、暖かな姉の手は、彼女の前にあった。幼い日と変わらず、彼女へと差し伸べられていた。
それこそが、救いであり、恩寵だった。
その時、ついと後ろ髪を引く感触があった。
振り向く間もなく、背後から頬に冷たい鼻面が押しつけられる。
「慰めてくれるの?」
真っ白い巻き毛が美しいカチュアの相棒の方が、ずっと姉に近いような気がする。忍耐強く、愛情深く、心優しい。
元々、彼女を慰めに来たのは、己の方だったのに。
周囲には、姉のつがいである乱暴者のアエロ。タリスの姫の片割れ、陽気な悪戯者のシフェラザード。そして、愛らしいケライノ。妹と意識を同化させた有翼馬は、有翼馬であると同時にカチュアの妹であり、妹の体を借りて喋る、カチュアの友人でもある。
自立心が旺盛で勝手気まま。高い矜持を持った美しい獣たち。
穏やかな気性のカチュアの相棒オキュペテは、彼らとも上手につき合っているようだったが、彼女は本当は軍馬達が大好きなのだ。なのに、仲良くなりたい相手に近づくと、彼らは離れる。離れる分だけ、彼女は近づく。逃げる相手を追いかけ回し、すっかり彼らを怯えさせ、ついには軍馬の主達からの申し渡しで、この厩に隔離させられた。いかに戦場に慣らされているとはいえ、そもそも、馬はおとなしく、臆病でさえある生き物だ。そんな彼らにとって、魔法生物の気はあまりに強烈で、彼女に染み付いた血の匂いはあまりに濃厚だった。そんな己自身に彼らは恐怖しているのだと、どうしても彼女には判らない。ただ、嫌われている事を悲しむだけだ。
以来、カチュアは時間さえあれば、この厩に彼女に会いにくる。己の顔を見れば、ほんの少し、彼女の気持ちが浮上するのだと判っていたから。
勿論、軍馬達が悪い訳ではない。どんなに彼女が繊細で優しい心根を持っていても、種族の性、生き物の性は越えられない。反対に、彼女に慣れた軍馬が、有翼馬を怖がらなくなったら、そちらの方が危険だ。雑食性の有翼馬は、馬を捕食する事だってない訳ではないのだから。
カチュアはオチュペテの巻き毛を撫で下ろす。こんなに優しくなければ、もっと生き易かっただろうに、だけど、だからこそ、何よりも愛おしい、美しい相棒。
その時、オチュペテがカチュアに摺り寄せていた頭をもたげた。中空に向けて静止した鼻を、やがて、くすんと鳴らす。風に漂う嬉しい匂いを嗅ぎ分けたかのように。
それから間を置かずして、その人は現れた。カチュアにとっては、こんなところで会う筈のない、それは人物だった。



その上、今この場にいる相手に見つけて驚いたのは、カチュアだけではないらしい。彼もまた、無造作に運んでいた足をぴたりと止め、こちらに顔を向けていた。
口を幾度か開いては閉じ、何か言った方がいいのかと思ったが、結局、何を言うべき言葉もない、そんな事を再認識して、カチュアは現状に気づく。
しっかり、目が合ってしまった。これでは、気づかなかったふりもできない。
それから、数瞬遅れて、また気づく。
相手と交わるつもりはない、と、何気なく視線を下げて、示せばよかったのだ。
しかし、その行動を取る事ができる時期は失われた。ここまできてしまったら、目を反らしたりしたら、負けである。
結果、この思いも寄らない邂逅は、今まで避けてきた相手と思う様見つめ合ってしまうという、あまりありがたくない、有り体に言って、かなり面倒くさい状態にカチュアを追い落とした。
沈黙。
時間にして、ほんの数呼吸分。しかし、それは物理的な重量さえ伴っているかのように感じられるものだった。
カチュアはうんざりと、しかし、表向きは全くの無表情で、相手を見上げる。対する相手も、カチュア自身と同じような顔をしていたが、彼も同じようにうんざりしているのかどうか、そこまでは窺えなかった。
さらに沈黙。
何か切っ掛けがなくては、延々、見つめ合いは続きそうだと、互いに思っているのが判る。そして、互いに、どうすべきか、漫然と方策を考える。そんな不毛な対峙を断ち切ったのは、最初にこの対面を作り出したも同然の、彼女の相棒だった。
ぶるりと、まるで馬そっくりに鼻を鳴らす。親愛の籠もったそれは、カチュアに宛てたものではなかった。目の前にいながら、近づいてはこない男に焦れたように、オキュペテは鳴いた。
今度は、カチュアの口は開かれっぱなしとなった。この彼女の催促に、男は我に返ったかのように、再び、歩を進め出す。カチュアの凝視を物ともせず、まっすぐに歩み寄り、そして、カチュアの目の前で止まった。今度は、固まっているのは、カチュアだけだった。男が手を伸べる。いかにも慣れた仕草で、カチュアの背後へと。カチュアの相棒も、当然のように、その手に鼻面を押しつけた。先ほど、カチュアの頬に鼻を擦り寄せた時と同じく、従順に、かつ嬉々として。
何故、とか。
どうして、とか。
何時の間に、とか。
ぐるりと巡った単語の切れ端は、言葉になる前に霧散する。
カチュアは目を閉じ、大きく息を吸い込み、また息を吐き出した。
「…裏切り者…」
何の意識もなかった。零れた呟きに、自分が驚いたくらいだった。しかし、その言葉は、誰の耳に届いた様子もなかった。それに、カチュアは心の底から安堵する。自分でも驚くくらいの、まるで拗ねた子供のような声だったから。



ひとしきり、オチュペテの相手をして、そして、男はカチュアに向き直る。
「面倒を掛けて、すまない」
瞬間、カチュアは男が何を言っているのか、判らなかった。男も、それに気づいたのだろう、更に続ける。
「彼女も外に出たいだろうに。こんな場所に入れられているのは、俺達の馬のせいでもあるから」
言い様、再び、男の手を彼女へと伸ばされる。彼女は、男の言っている事を正しく理解している事を示すように、男の手をそのざらりとした舌で小さく舐めた。
「別に…」
別にそれは、男のせいではない。
そう言おうと思ったのに、それより早く、男は言った。
「それに、君の有翼馬に勝手に会いに来ている事も」
これには、少しむっとした。
「別に、彼女は私の物ではありませんから」
つっけんどんに言いながら、それは確かに真実だった。カチュアは、オキュペテを支配している訳ではない。オキュペテが、カチュアと共にいたいと思っているから、だから彼女は共にいてくれるのだ。オキュペテが、男と会う事を望んでいるのなら、それを止める権利など、カチュアにはない。
理屈では判っているのに、己は腹を立てている。この感情は理不尽だし、あまりに狭量だ。こんな風に思いたくなんかないのに、目の前の男は、カチュアが気を悪くしている事に気づいている。
カチュアは、やっぱり、この男は嫌いだ、と思った。
理不尽で狭量でも、それがどうだというのか。
大体、この男は女たらしだ。最初は姉、次はあの妹、そして、現在はオキュペテ。皆、あっさり籠絡されて、この男の言いなりだ。竜王国の騎士で、現女王の側近である、そんな女達ばかりを誑し込んで、一体、どういうつもりだろう。
もしかしたら、何か企んでいるのかもしれない。
そうだ。何で今まで、気づかなかったんだろう。この男は、新たに生まれ出たばかりの竜王国に近づいて、何かをするつもりなのだ。
姉。妹。オキュペテ。
カチュアの大切な存在がぐるりと巡る。
姉。妹。オキュペテ。
彼女達を傷つけるような真似は、絶対に許さない。
ひとしきり、有翼馬を撫でさすり、彼女がそれにすっかり満足したと見てから、男は手を引いた。男のその手は完全に、馬に対してなされるものだったのだが、オキュペテに不服はなかったようである。元来、高い矜持を誇る有翼馬ならば、そのような扱いはよしとしない。姉のつがいアエロならば、侮辱と捉えてあの手に牙を立てるくらいの事はするだろうに。
重ね重ね、相棒の気性の穏やかさ、愛想の良さが恨めしい。
目を眇めつつ、その様子を見守っていたカチュアは、おもむろに口を開く。
「…で、何が目的なんですか?」
まずは、このまま、踵を返すだろう男の足を止める事。相手に先んじた攻撃は、こちらの戦況を有利にする。相手が心を鎧で覆う前に、不意の剣戟で一突き。
カチュアの攻撃は、半分成功し、また、半分は失敗した。男は足を止めて振り向いたが、この表情には何も表れていない。少なくとも、カチュアが期待した類のものは。
ただ、無言で言葉の続きを促す。奇妙な落ち着きと沈着さ。
つくづく、腹の立つ男だ。
「姉と妹と、私の相棒。私達姉妹に近づく事で、貴方にどんな利益があるんです?」
挑発的な言葉にも、男は全く動じなかった。あくまでも、冷静だった。カチュアの目には不自然に映る程に。
カチュアの指摘が正しいから、だから驚かない。それが正解なのだと思えた。
どんな表情の変化も見逃すものか、と男を睨み据えるカチュアの視線を真っ向から受け止めて、そして、男は微笑んだ。小さく、それでもはっきりと。
下げた手で、拳を握りしめたカチュアに、男は軽く首を振る。その口元に微笑みを湛えたままで。
「ああ、すまない。君を愚弄するつもりではないんだ」
嘘ばっかり。
「ただ、君は、そんな結論に達するだろうと思っていた」
お陰様で、つい今し方、思いついたばかりだ。
表面上は、それをおくびにも出さず、見つめるカチュアの前で、男は柔らかく微笑む。常に冷静沈着なこの男の、こんなに優しい顔など、カチュアはこれまで、見た事もなかった。
「…君は聡明だと、王子もパオラも言っていたから」
どきりとした。男の口にした二人。王子と姉。意味合いは違うが、どちらもカチュアの中で重要な位置を占める二人。
カチュアにとって、何よりも大切な家族である、暖かな手をした姉。そして、大人で子供で、強くて弱くて、図太くて繊細で、優しくて残酷な、青の王子。
男の属する世界を形作る、というより、おそらく、世界そのものであるといっていい。対ドルーアを戦う同盟軍の盟主であると当時に、救世主伝説に列なる新たなる『光の公主(スター・ロード)』。それは、この男の仕える主君でもある。
何故、気づかなかったのだろう。これが、本当に陰謀なのだとしたら、それは、あの人が関わっているという事なのだ。あの人が、カチュアの祖国に新たな争乱の種を蒔こうとしているという事なのだ。
震える息を静かに吸う、そんなカチュアに気づきもしない男は、更に続ける。
「だが、この件に関しては、本当に何の企みもない」
本当に?
あの人が、謀略を練っていないと言い切れる?あり得ない事であると、確信できる?
カチュアは、小さく唇の端を持ち上げる。
絶対にない、とは言い切れない。それが己の、己の国の益になるのだったら。あの人はそのくらいの事は、考える。
カチュアは、青の王子の人となりに、一片の幻想も抱いてはいない。何より、一度は側近く仕え、あの人の仕事ぶりを間近に見、また触れた事もあるのだから。
カチュアの眼差しに、今度は苦笑をひとつ。
「俺は、王子に仕える者だ。王子の命でしか動かない。君は、本当に王子が何らかの企みに荷担していると思っているのか?」
思っていた。つい先刻までは。荷担していてもおかしくないと。
なのに、男からの問いかけを受けたその時、同じ人を知る者同士に通ずる何かが込められたその眼差しを目にした瞬間に、疑惑は全て氷解してしまった。
「…いいえ」
あの人が、そんな事をする訳がない。
できない、とは思わない。あの人は、そんな事はしないのだ。
この新しい秩序の構築に対して、あの人がどんなに時間を割いて、どんなに綿密な計画を練ってきたか、カチュアはよく知っている。全てを一から作り上げるに等しい、この新女王による新たな国の立ち上げに、どれだけ力を尽くしてきたか。
結果、己が後ろ盾となって建てた新王国に、己の影響力を充分に残した新政権を樹立させた。あの人は、それで満足するだろう。そもそも、全てが欲しいと望む人ではない。7割の成功でよしとする、本人いわくの「小さい」人だ。
己の今までの労力を無にするかもしれない、そんな危ない橋を渡る訳がない。あの人の不精は、筋金入りなのだ。
しかし、だとすると、また新たな疑惑が浮上する。
「じゃあ、何で私達に関わってるんです?」
「友人とつきあうのに、理由が必要なのか?」
「…ゆーうーじーんー?」
思う様嫌そうに言ってやったら、男は唇の端を持ち上げて見せた。
「そんなに不思議か?君の姉さんは、素晴らしい人だろう?」
「まぁ、確かに姉さんは『素晴らしい』ですよ」
それを、鼻息ひとつで吹き飛ばす。
「だから、貴方と仲がいい、というのが、不思議な訳です。何か面倒な事に巻き込まれてるんじゃないかと」
軽く肩を竦める動作と相まって、我ながら完璧な嫌みったらしさだった。それはもう、勝った、とカチュアに確信させ、いつから勝負事になった、という、心の奥底に残っていた冷静さからのつっこみも、軽く無視してしまえるくらいだった。
なのに、男は動じた様子もなかった。怒りを感じた様子も。
ただ、驚いたように目を見開き、そして、口元だけで微笑んだ。作った、とあからさまに判る微笑だった。
「君は思っていたより、姉さんを知らないんだな」
何を言うか、だ。だったら、貴方は姉の何を知っているというのか!
目の前が真っ赤に染まり、そして真っ白になった。何も考えていなかった。いわんや、己の行動の後にくる結果など。ただ、翻った手は空を切り、男の手に捕らえられて引き寄せられた。
「…全く。君は、アリティア男を殴るのが趣味か?これでは、聡明という評価も、疑わしくなってくるな」
それで、カチュアは我に返った。耳元に届く言葉に、相手がどんなに近くにいるのかを思い知らされ、男を突き飛ばそうと藻掻いたが、男の手は万力のようにカチュアの腕を捕らえて、ぴくりとも動かない。
「ちょっ、何すんのよ!放しなさいよ!」
「もう何もしないと誓えるなら」
「なんかしてるのは、あんたの方でしょーが!馬鹿!!」
男は溜息をひとつ。そこで手を放した。途端にカチュアは飛び退き、身構える。男との間に取られた距離は、もう二度と捕らえられない程度のもので、彼女の考えている事を如実に示すその行動に、男はまたひとつ、溜息をつく。害意のない事を示して、両の手を上げながら。
「別に俺は、襲ったりしない。…そんな目で見るのは止めてくれ」
「あたしが、何を、どんな目をしてるって…!」
「……頼むから、落ち着いてくれ…」
男は困惑している。途方にくれている、と言った方が正確かもしれない。それは、カチュアが男から引き出したかった反応に近くて、だけどそれは、こんな状況下での話ではなくて、予定ではもっと、己は落ち着いていて、はっきりと言いたい事も言えるはずで。
悔しさに、何だか泣けてきそうになって、カチュアは唇を噛み締める。この男の前で泣くなんて、そんなみっともない事になったら、自分で自分が許せない。
「私は、落ち着いてます」
目に力を込めて、相手を睨み据えて、はっきりと言い切る。言葉の効果だろうか、そうすると、真っ赤に燃えたぎってどろどろだった思考は、少し冷えて固まり、目元に集まった熱は、少し拡散し、周囲の様子が、少し目に入るようになってきた。
「貴方は、姉は友人だって言ったけど…」
大丈夫。声も震えていない。私は落ち着いている。
小さく深く、深呼吸。
「じゃあ、妹はどうなんです?私達の末妹、あれも『友人』ですか?」
その時、オキュペテが警告の嘶きを上げた。
声に反応して、カチュアの意識は、一気に明瞭となる。周囲では、オキュペテが心配した風に、カチュアと男とを交互に窺い見ている。姉のアエロが、興味津々といった様子を隠しもせず、こちらを覗き込んでいる。カチュアは彼を蹴り飛ばしてやりたかった。姉に執着するアエロにとって、カチュアと男とはどちらも敵である事も、そのアエロが、この状況を本当に楽しんでいる事も知っていたから。
そして、ケライノ。
妹と同じ目をした有翼馬は、ただ、こちらを見つめていた。
途端にカチュアは、後悔する。できるものなら、つい今し方の発言を全て、消し去ってしまいたい。羞恥のあまり、顔も上げられなかった。
ケライノの見聞きした事は、妹の見聞きした事と同じ事だ。彼らの意識は、直結している。二つの体にひとつの意識が宿っているようなものなのだ。
その当人の前で、こんな事を聞くなんて、趣味が悪すぎる。あの無邪気な妹か、もしくはアエロからだって、今までの会話が姉に洩れるかもしれない。
この男が、姉さんを『友人だ』と、はっきり言い切った事を。
彼らがどんな関係なのか、カチュアには判らない。もしかしたら、姉本人さえ、己の気持ちに気づいていないかもしれない。だけど、姉はこの男が好きなのだ。多分、友人として、ではなく。
残酷だと思う。姉の気持ちを無視してしまえる目の前の男も、己の欲望の前には、全てを薙ぎ払ってしまう妹も。
「っ姉さんを傷つけたら、許さないんだから!あんた達に、あの人を踏みつけにする権利なんか、ないんだから!」
涙が出る前に逃げ去れた。それだけが、この件において、己を評価できる、気持ちを浮上させてくれる唯一の行動だった。



対して、取り残されたアベルは、またひとつ、溜息をつく。まるで、それが反射になってしまったかのようだった。
軽く頭を小突かれて、それでアベルは頭上を見上げる。そこには、アベルが側近くに寄っても怒り出さないもう一頭の有翼馬。
『カチュア姉を苛めちゃ、駄目ーっ』
そんな声が聞こえてきそうだ。
「…どちらかというと、苛められたのは俺の方だと思うが…」
しかし、そんなぼやきもこの獣には通じない。更に小突かれ、髪の幾筋かを噛み切られ、アベルはまたまた、溜息をつく。
アベルの友人の妹で、この獣の姉である少女。
実はアベルは、彼女がそんなに嫌いではない。己を嫌っている事も明白な相手に対して、何故、と、我ながら、思わないでもなかったが。
それは、直情径行の彼女が、アベルの幼馴染みである赤毛の騎士を思わせるからかも知れず、または、あの少女がアベルと同じように、王子に唯一の想いを捧げ、そして切り捨てられた存在であるせいかも知れなかった。
どちらにしても、甘い事に変わりはない。
それでも、あの少女を傷つけたくないという想いがある。
少女の妹と意識を共有する獣が、アベルの肩口に顔を擦り寄せた。それを、無意識のうちにも慰撫して返す。
アベルは、この奇跡の獣を愛おしむ。少女の姉が感じているのと同じ感情で。
少女には理解できないだろうその感情は、だから、彼女と姉との障害にはならない。優しく穏やかな、たおやかな姉。妹達も、それを素顔と見紛う。それは、彼女の一面ではあったけれども、決して、全てではない。しかし、彼女は、妹達の前でその仮面を脱ぐ事は、今後も決してないだろう。
アベルには彼女が理解できる。多分、アベルは彼女の同胞であり、同じ穴のムジナであったから。
何も気づかせなければ、断層などないも同然なのだ。
彼の髪をせっせと噛み切り続ける獣の顔を、宥めるように撫でさする。その手は、奇跡の獣、世にも希有なる愛玩動物に対する慈しみに溢れていた。



END







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