千の花〜ミシェイル


狐のように 位に就き
獅子のように 治め
犬のように 死んだ



遙かな昔。この大陸世界で、暗黒の呪いと恐怖と共に囁かれる伝説の名を冠した島があった。圧政に喘ぐ人々は、牛馬のごとく使役され、泥にまみれ、動けなくなった者は顧みられる事もなく、捨て去られる。反乱は、即座の死を意味した。
それでも、追い詰められた鼠が猫を噛むように、幾度となく反乱は組織され、その度毎に、人々はその数を減らしていく。
やがて、人々は諦めた。何よりも、反抗さえしなければ、生きてはいられるのだ。
救いもなく、望みもない、死んだ心を抱えた人々は、いっそ無感動にただ、生きていた。
永遠に続くかと思われる地獄は、それ故に、たったひとつ生まれた光を唯一としたのか。
人々の、今にも消え入らんとする勇気を鼓舞させ、彼らの肉体の死を意味する反乱へと、これが最後と駆り立てた、その若者だけが、その島で唯一の『生きている』人間だったからか。
彼らは立ち、内乱は勃発した。
それは、彼らだけではなく、この大陸世界に住む人間全体を巻き込んだ戦いの一端であり、また、世界の歴史を動かす大いなる一歩でもあった。
歴史が軋みを上げて動き始める時、世界は贄を必要とする。大地は、自らが動くに値するだけの血を欲するのかもしれない。
地には、たくさんの、たくさんの血が注がれた。そして、若者は、流された血の上に君臨する国王となった。
若者は、自らの建てた国の名を新たな島の名として宣したが、それに異議を唱える者はいなかった。既に元の名は、人々にとって拭い去りたい過去でしかなかった。
人々の記憶とは、いつになったら消えるものなのだろう。
100年間、竜王国マケドニアの名で称された島は、今、再び、呪いの名で呼ばれる。
ドルーア島。
熱い太陽に相応しい、燃えるような色彩とそれに見合う芳香を放つ大輪の花。それは徒花故に、なお一層、人々の心に染みつくものか。
それとも、大地が覚えているのかもしれない。
かつて、この地に捧げられた人々の怨恨と呪詛。その命と血潮の温さ、鮮やかさを。



目立たぬ小さな入り口から、狭く湿った通路を通り、突き当たりの粗末な扉を開くと、闇に慣れた目を慰撫するかのような朧げな光が、周囲を包み込むかのごとく照らし出す。
ここまでの道程に反して、室内は思いのほか広い。
窓一つないこの部屋での光源といったら、今、ミシェイルの掲げている灯りくらいのものだったのだが、黄金はほんの少しの光も反射する。周辺が暗いほどにそれは顕著で、まるで、どんなに微量な光も余すことなく貪欲に吸収消化し、変質したそれを再び自身が発してでもいるかのように映る。
闇と交じり合う、湿った仄暗い光は、純度の高い黄金特有のものだ。壁面を埋めるそれに施された、みっしりと細かな意匠のそこここに、無造作に嵌め込まれた宝石は、時折、ごく僅かな灯りを弾いて、黄金とは全く質の違う光を作り出す。
最も奥まった壁から3面に広がりを見せるそれは、なかなか壮観な眺めであり、大した見世物であるといってよかった。
壁面に被せられた黄金の装飾は、その継ぎ目がどこにあるのかもわからないほど、壁と溶け合うように一体化していた。実際、壁自体が金でできていたのかもしれない。
この部屋は、国王の寝室の奥の奥、完全に隠されていた扉からしか出入りできず、長く王太子であったミシェイルも、この部屋の存在は知らなかった。いつ、作られたものなのかも判らぬそれは、代々の国王のみが守る秘密の場所であったらしい。
全く、呆れたものだった。
王位を得ると共にこの部屋の主ともなったミシェイルには、既にこの空間に対する驚異も、感慨もない。
もし、これが、彼らが万が一に備えて作った、隠し財産だとでもいうのだったら、少しは気にも留め、己の先達である者たちへの、共感と同情の入り混じった微笑いのひとつも洩れたのかもしれないが。
ミシェイルは、手元の灯りを掲げる。黄金に由来しない光は、闇をも影をも放逐し、部屋の中を照らし出したが、それでも、部屋全体を映すほどには至らず、柔らかな光と交じり合った闇は、そこここに群れていた。
「ご老人」
ミシェイルは、灯りを周囲に向けた。あっさりとした様子で、一渡り。何かを探す風もなく、ただ、周囲を照らすためだけといった風情で。
黄金の壁近くに据えられた長卓と、背凭れのない椅子がひとつ。それが、この部屋にある家具らしき物の全てだ。室内の装飾に反して、粗末に見えるほどにあっさりとしたそれらは、何者かを隠す程の余地もない。
この部屋に、ミシェイルの他は誰もいないことは瞭然としていた。
「ご老人、いるんだろう」
しかし、そんな事実は目に入らないかのように、ミシェイルは更に呼びかける。部屋の中央、何もない、薄闇の掛かる中空に向かって。
「何か用かな、飛竜の王よ」
返るはずのない応えがあった。部屋の中央、何もない、薄闇の掛かる中空から。



「奴等だ。やってくれたぞ」
『奴等』が何を指すのか、今更言うまでもない。この老人が、それで察せぬはずもない。
「聞くところによると、俺には、父殺しの疑惑があるんだそうだ」
他人事のように語る若い王の声は、どこか楽しげであった。それに気づいてか、薄闇の中の人物もまた、興味を引かれたらしい様子が透けて見える。
「既に、城下には行き渡り、城内の重臣達の耳にさえ届いているという。全く、『噂話は最後に当人の耳に入る』とやらいう俗説は、正しいという訳だな」
その時、中空がそのまま、引き歪んだ。限界まで伸ばされたそれは、毟り取るかのように千切られ、引き裂かれた。
何度、経験しても慣れる事のない、肌を泡立たせる感覚は、決して目には映らぬその現象を、現実のものとして証し立てる。
何もない虚無の中空を渡り、老人が現出する。その姿をこうして目にするのも、これで幾度目になろうか。
背を覆う、白銀の髪。喉下へと流れる、鈍い輝きを秘めた髭。この老人を目にする度、ミシェイルは、有翼馬を思い出す。淡い色合いの巻き毛に包まれた優雅な姿と、人をも喰らう激しい気性を持った魔法生物。
「久しいの、飛竜の王」
暖かな血の流れの存在さえ窺せない、死人のような白蝋の肌は、その微笑みさえも色のないものにする。
「こうして顔を合わせるのは、いか程振りとなるであろうか」
言いながら、既に答えも合わせ持っているのだろう。神とも呼ばれる大賢者の目には、森羅万象全ての事共が明らかだ。例え、その両の目が固く閉じられたままであっても。
ミシェイルは、この老人が目を開いたところを見た事がない。
それが、肉体の機能としての視力を捨てる代わりに、世界の全てを見通す眼を得た、との大賢者の伝説を裏付けるものと言えるものか、しかし、視力のない人間には到底見えないその挙動は、彼が騙りであるという証拠となるのか。
目の前の老人が、伝説といわれる存在である事を、理性と良識は危ぶみ、感情と本能は迷いなく肯定する。そうでない事の方が、信じ難いと。人前に出さえすれば、その耳目を残らず引きつけるだろう、この圧倒的な引力を、神か魔物かと称さない者がいるというのか?
「久しいな、ご老人」
それでも、彼を見た目通りの『ご老人』と呼ぶのは、ミシェイルの、国を背負う者としての自覚故。
口元だけで微笑んで、ミシェイルは反復する言葉を返す。己を『飛竜の王』と呼称する、つい先程までは確かにこの場に存在しなかった、現在は確かに血肉を備えた老人に向かって。
老人は、ミシェイルを『飛竜の王』と呼ぶ。これは、マケドニアの通名が『竜王国』であるが故か、または、この国が飛竜の産地であるが故か。ミシェイルが、国王であると同時に、飛竜を駆る騎士である事に由来するのかもしれない。
神にも近い幻獣である『竜』ではなく、現実の獣である『飛竜』と彼を呼ばわる事を、無礼と受け取る者もあるのだろう。例えば、先代、ミシェイルの父王のような人間は。
しかし、ミシェイルは、老人の言い様を非礼であるとは思わなかった。事実、この国は飛竜の王国だった。夢幻などではない、地に足の着いた、現実の存在だった。それに何より、彼は『飛竜の王』になりたかったのだ。
「ぬしが、父殺し、とか」
ゆったりと老人が語る。常のごとく、平坦な調子で。
「おうよ」
ミシェイルは片眉を上げてみせる。面白いだろう、と、嗤いながら。眼奥に、冷え冷えとしたものを漂わせながら。
対する老人は、ただ静かだった。その様は、まるで何ものも映さぬ鏡のようであった。目の前の存在からは、既に感情などという人間的なものは、消え失せてしまったのかもしれなかった。
「…この戦いで、そなたが滅する時、それは真実となる」
淡々と発せられた言葉にも、何も感情も乗ってはいなかった。興味すらも。
ミシェイルにとって、目の前の老人は大いなる謎であり、そして、何ものでもない存在である。解き明かそうと思わない謎は、ただ、そういうものだと飲み込む、自然現象のようなものだ。朝、太陽が空に昇る事。夜、星が空に瞬く事。
誰も、不思議だとは思わない。
そして、空の星に心があると思う者もいない。
「それは、予言か?」
「いや。予言の如き不確かなものではない」
推察。または推論。神の如き、と称された男による。
「それが、人の世というものである故」
歴史は勝者によって作られる。敗者はただ、死して暗く冷たい墓穴に横たわるだけだ。それが、これまで幾らでも繰り返されてきた世の習い、必然というものだった。
「なるほど」
一呼吸程の間を置いて、ミシェイルは呟いた。死者は、語る言葉を持たない。彼が弑したと噂される当の父王もまた、既に語る事もない。己が何故に死したのか。
「だが、一つ、誤りがあるな」
この言葉に、老人は顔を上げる。開かれない目をこちらに向け、無言のまま、ミシェイルに続きを促す。
この老人の意識をこちらに向けさせた事に、ミシェイルは小さな満足を覚える。それが希有な事なのだと、理解していたために。
「この戦いに俺が勝っても、それは真実となる。俺は、この噂話を否定などしないからな」
この言は、多分に虚飾もなされている。正確には、否定できない、が正しい。否定すればする程、彼らの、国王に対する不審の念は募るばかりだろうと知っている故。
「ふむ…」
老人は、小さく顎を引いた。
「しかし、それで何か、不都合があるか?」
噂はまた新たな嘘を呼び、沈む澱は、次第に池の底を隠すようになる。本来の深さも、その水の色も、全く判らなくなるように。そして、ある時、噴出するのだ。積もり、腐ったその姿をさらけ出して、支配者へと牙を剥く。
彼らは、その集合体でひとつの巨大な生き物である。打てば響くようには動かないが、一度走り出したら、自らの意志で止まる事もできない。暴走する飛竜のようなものだ。
ミシェイルは、決して、民衆というものを甘く見てはいなかった。が、同時に彼らは、我欲に正直、かつ己の利益というものに敏感でもある。ミシェイルに力がある限り、そして、ミシェイルが彼らを痛めつけない限り、父殺しの疑惑程度は目を瞑る。
ようは、ミシェイルの力量の問題なのだ。
「乱世の梟雄を彩る伝説の一つとなるか。…それも、よかろう」
乱世の梟雄。
戦時においては英雄となり、平時においては賊となる。父殺しの汚名を着たミシェイルが、これからならねばならぬ者だ。
ミシェイルは、目の前の老人をしげしげと見やる。
何故、己はこの、有り体に言って胡散臭い人物と会って話そうという気になるのだろう。
護衛もなく、武器一つ携えるでもなく、全く無防備な様で、ミシェイルは老人に会いに来る。老人が常に姿を現すとも限らず、ミシェイルはただ、中空に語りかけるのみに終わる事もある。それでも、この黄金の部屋に足を運んでしまうのは何故なのか。
初めて老人と出会った日の事を、ミシェイルは鮮明に覚えている。
この部屋の存在を彼に教えたのは、他ならぬ老人だったと、ミシェイルは理解している。
ミシェイルの目を、今まで全く気になど留めていなかった寝室の隅の緞帳奥に移させ、隠された扉を発見させ、たった一人でその隠し通路を進ませ、そして、何が奥に待つかも判らぬ通路突き当たりの扉を、無造作に開けさせた。
何処にも逃げ場のないこの部屋で、老人はミシェイルを待っていた。
初めて存在を知った部屋。黄金作りの礼拝堂。歴代の王達の脆弱の象徴。ミシェイルの先達が、神の救いを買おうとした証拠が、歴然とここに在る。
神と呼ばれる老人との邂逅には、いっそ相応しい舞台だ。
ミシェイルは、皮肉に思う。
「この国の玉座は、血で購わなければならないと、相場は決まっている」
老人が軽く、片眉を上げる。
「そうさな。ぬしの妹もまた、この地に近づいている」
結局のところ、この老人に知らぬものなどないのかもしれない。ミシェイルは思う。本人は否定するが、やはり、この老人には未来が見えているのかもしれないと。
父を弑し、玉座を奪った簒奪者。まことしやかに流れる噂話には、まだ続きがあった。
父殺しの大罪により、現王の王位継承権は剥奪される。次なる王位継承順位を持つのは、鬼姫と呼ばれた姫将軍。彼女は現在、同盟軍に参加して、兄王子の廃嫡を訴えている。正義は我にあり、と。
正当性はどちらにあるのか。
勝った者が正当となる。単純な話だ。
「あの妹が、成し遂げるのなら、それもいいだろう」
反逆者として、どちらかが死ぬ。それもまた、決定された未来だ。
どちらかが生き残り、この国の真の王となる。幾度となく繰り返される、この島にかけられた呪い。更なる血潮を望む大地。
多分、ミシェイルも欲しかったのだ。それとも、信じたかったのか。神などではなく、ただ、常に空にある星のような何か、人の世がどのように流転しても、決して揺るがぬ何かがそこにあるのだという事を。
この地に捧げられた無数の命も、ただ、大地を覆い尽くす花になる。千の花、万の花は、咲き誇り、散り、枯れ果てて、地に還っていく。
気の遠くなるような時の果てに存在する、そんな未来を、か。
「おや。もう諦めたか」
「まさか」
ミシェイルは笑う。屈託もなく、芯から楽しそうに。
この国には、建国の神話と共に語られる、ひとりの英雄の名があった。
竜王国と呼ばれるマケドニア、初代国王アイオテ。
人々の血と怨嗟と、確かな希望との上に君臨した建国王の再来と称される若き王。
父王を誅殺し、その玉座を己が物とした、野心に狂った王太子。
彼がどちらとなるのか、未だ判らず。
だが、そんな事は、遠い未来に生きる者共が勝手に判断すればいい。
今はただ、滾る血に己を任せるだけだった。
「妹の血を玉座へと注ぎ、俺は、この国の真の王となってやるさ」
差し出しそこねた父の血の代わりにな。



若き飛竜の王は、先王を殺害などしてはいない。当の王以外では、彼が最もよく、その事を知っていた。
確かに、先王は飛竜の王の要求どおり、王位を譲って引退はしたがらなかったし、あの時期の父と息子の関係は最悪だった。飛竜の王が、いっそ毒でも盛るか、と考えたことも、一度や二度ではなかった。
しかし、それよりも前に、先王は死んだ。死因は、苦悩と心痛だった、ともいわれたが、彼だけは真実を知っている。
人は、簡単に死ぬ。ただ、彼がその鋭い爪の先で指し示し、止まれ、と命じただけで、その心の臓は動きを止める。
何という脆弱な生き物。
老人は仄かに微笑う。
『同程度の力量を持つ正反対の人間を、同条件下で育成したら、どうなるか』
反発。戦い。殺し合い。相手を憎み、消滅させようとして、己の影を滅ぼした。それが、己の滅びに繋がるとも気づかずに。
二人の人間の子供を魔道士として育て上げ、行った実験は、ひとつのパターンを結果として提示した。
今回もまた、その発展系となる。
『同程度の力量を持つ兄と妹が、ひとつの玉座を相争う』
それは、生き残った片割れの滅びへと繋がるか?
そして、青の王子。竜帝陛下に愛された血を持つ、運命の子供。
彼か、竜の大地の王か、どちらかが、この世界の新たな覇者となる。
実に、興味深い。
中空が引き歪む。この場へと現れた時と同様、老人は息をするかのように、空間を渡る。一瞬で、まるで夢のように、その姿は消え失せる。
既に主も去って久しい部屋で、幻の神に捧げられた黄金が、闇に燈った一条の灯りのように、ただ、その場を照らしていた。



END







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