千の花〜パオラ


ただ 香りのみで 存在を知る
胸の奥に 密やかに咲く花



そもそも、肉親というものに縁が薄い質だったからかもしれない。
幼い日に父母は死に、それと同時に親切だった親類達もまた失って、彼女に残されたのはただ、何も知らない小さな妹達だけだったからこそ、このたったひとつのものに執着したのかもしれない。
彼女自身、まだ幼いといっていい年齢で、目の前から一遍に全ての物が消え、または、何か見も知らなかった物にすげ変わる、そんな現実を目の当たりにして、まるで荒野にたったひとり取り残されたような、足元の定まらない心細さの中で、ただ、掌に収まる小さな手と、不安げに己を見上げる瞳に宿った信頼だけが、彼女にとって、たったひとつ、唯一無二のものだった。
彼女に無条件に捧げられる盲信。それは、明日の食事にも事欠く暮らしの中で、彼女を世界一の幸せ者だと信じさせてくれ、生きる希望を与えてくれるよすがだった。
だからこそ、今でもこうして生きている。今まで、こうして生きてこられたのだ。
だから、彼女は決めたのだ。この世にも希有な美しい存在のためなら、どんな事でもしようと。
どんな事でもしてあげようと思った。小さな妹のために。



「あの子だって、もう子供じゃないんだから…」
一人でどこかに出かけたらしく、姿が見えない末妹を、もう一人の妹はそのように擁護した。
実際、擁護という言葉は当たらないかもしれない。彼女の声の響きには、未だに末妹を案ずるパオラへの呆れと、教え諭しがある。
「だけど、心配だわ。ここは、人がたくさんいるんだし…」
敵軍の中だったら、こんなに心配はしない。末妹の、本能にも近い生存欲を知っているから。しかし、ここは戦場ではない。周囲には、味方である人々がいる。
基本的に、人間を信用しない妹にとって、多国籍軍である現在の同盟軍は、居心地の悪い場所なのではないかと思うのだ。
「『殺しちゃ駄目』とは言ってあるわよ」
しかし、そんなパオラの心情など、くみ取る様子もない。苛々した様子の滲む口調で、きっぱり言い捨てる。
とりつく島もない。
「いい機会だから、はっきり言っとくわ」
腰の手を当て、胸を張り、少女は、目を眇めてパオラを見やる。
「あの子を過保護にして、いい事なんか、ひとっつもないんだからね」



…そんなに、『過保護』にしていたかしら…。
パオラは、しっかり者の妹に指摘された事を反芻し、考えた。
そんなに言われる程の事もないと思うのだけれど。
しかし、その思いを言葉にする事はなかった。口にしたら、理路整然とした反意を示されるであろう事は、経験上よく知っていたのだ。
この妹は、末妹に関する事においては、兎に角、厳しかった。パオラの対応は、彼女にとっては甘やかしに他ならないらしく、日頃から、この話題に関してだけは、パオラとはやんわりと、しかし、決然と対立した。
しかし、彼女が末妹を嫌ってはいない事は知っていたので、それが深刻なものとなる事はなかった。少なくとも、これまでは。
最近は、とかく厳しいような気もするのだけれど、多分、それでもまだ、大丈夫なのだろう。彼女から末妹に対する忌避の念は、やはり感じないから。どちらかといえば、パオラ自身に対する怒り、または苛立ちといった方がいいのかも知れない、そんな感情の方が強いように思われる。
それもおそらく、彼女がパオラを『過保護』だと感じているからで。
そこで、意識は初めに戻る。
そんなに言われる程に過保護な訳ではない。どころか、最近は、庇護の手を放し掛けていると言ってもいいくらいだ。
末妹は、同盟軍に参加してから、彼女らと共に過ごす時間が減った。それは、とてもいい事だと思う。あの、人を信じない子供が、家族以外の拠り所を見つけたのならば、それは、何よりも嬉しい、喜ぶべき事なのだ。
末妹は、人間を信じない。あの、半分人であり、半分有翼馬である奇跡の獣の目には、人間など、ほんの矮小な存在に映っているのかもしれない。少なくとも、自分とは、全く違う生き物だと感じているに違いない。国に縛られ、つまらない地位や名誉、約束事に縛られ、人としての禁忌に縛られ、大地に縛られる。
彼女が、『家族』という枠組みに信頼を寄せるのは、『家族』は彼女に不利益となる事はしない、裏切らないと感じているからだ。
それを知るからこそ、パオラは決して、あの子供を裏切らない。彼女の中の有翼馬が持ち合わせる、人間に対する細く儚い信頼の糸を断ち切らないために。
パオラは、部屋の隅にそっと視線を移した。この北の国では、床に絨毯を隙間なく敷き込んでもなお、凍る空気はゆっくりと、しかし確実に這い上がる。そこに直接尻をつけて座り込み、ただ、外へと視線を飛ばす妹は、何も見てはいないようにも見えた。
「お茶を入れましょうか?」
言いながら、返事は待たなかった。パオラと妹達は、この国の底なしの寒さに慣れていない。それが可能な時には、少しでも体を温めるべきである。いざという時、病に倒れて戦えなくなり、敵の手にかかる、など、最も愚かな末路といっていい。
戦場に生きる者として、自己の体調管理は必須なのだ。
そこまで理解してか、同盟軍の盟主殿は、己へと用意された高価な茶とそれに輪を掛けて高価な茶器まで、配下の兵士達に解放している。好きな時に使っていい、と。
鷹揚なのか愚かなのか。それとも、高価なものをそれと意識していないのかもしれない。
パオラには、理解しがたい話であったが、軍上層部の姿勢を批判するつもりもない。実際、そのような権限などありはしなかったし、あったとしても、何も言わなかっただろう。彼女達は、同盟軍に協力はしていても、彼らと同じものではない。
客分のようなものだ。
かつ、軍上層部の姿勢とやらの恩恵に、存分に浴してもいる。
パオラは、いっぱいに息を吸い込んだ。
熱い湯に薫る茶の馥郁たる香りは心地よく、心と体を緩やかに解きほぐすかのようだ。
さすがに、高価な茶葉は違うものね。
二人分の茶器を揃え、暖炉に掛けられた湯釜には、得た分以上の水を追加して、簡易な炊事場を兼ねた続き部屋を渡る。すると、そこには先程まで存在しなかった人が存在した。
「アベル」
掛けられたパオラの声に、アベルは顔を上げる。一瞬、不安げでどこか所在なげに見えたには、気のせいだったのだろうか。
同盟軍の盟主殿の騎士は、常のごとく落ち着き払った様で、唇の端だけで軽く微笑んで見せる。この軍の中で、最も安定した地位にいるが故の余裕、という訳ではない。多分、王子に付き従ったという辺境の島国での亡命生活でも、彼はきっと、このようだったのだろう。目に見えるような気さえする。
何故かは判らない。だけど、パオラには彼が理解できたし、多分、彼にもパオラが理解できた。
黒髪のアベルは、パオラにとって、不思議と心安らぐ相手でもある。
「ちょうどお茶を入れたところだったのよ。よかったら、一緒にいかが?」
そうは言っても、アベルは誘いを断るだろうと思っていた。いや、判っていた。彼は常々、休むべき時とそうでない時をはっきりと決めて行動していたし、そして今は、休むべき時ではなく、それこそ彼の主君である王子のため、働くべき時間でもあったから。
だから、
「…そうだな。もらおうか」
アベルがそう言った時、パオラはかえって驚いた。ほんの2、3回の瞬きで表現されたそれは、一呼吸分の応答の遅れとなって現れたが、しかし、彼は気づいた様子もなかった。
珍しい。
パオラは、丁度手元にあった茶をアベルの前へと置く。もうひとつは、卓の隅へと寄せつつ、彼に気づかれぬ程の注意を払って、彼の様子を窺った。
アベルは、目の前に出された茶を取り、口に運ぶ。それがどこか機械的に映るのは、思い過ごしというものだろうか。
それでも、パオラはただ、沈黙していた。思い過ごしかも知れないのだから、と己に言い訳しながら、そうでない事もまた、知っていて、何か言った方が、した方がいいのではないか、と思いながら、どうしたらいいのか、判らないのだった。
妹達以外で、こんなに人を心配するのは初めてで、そして、妹達に対して、こんなにも掛ける言葉を悩む事はない。彼が家族ではないから、だから、こんな思いを抱いてしまうのだろうか。
初めて出会った、彼女の主君である竜王国の王女と彼の主君である同盟軍の盟主である王子との会談の席で、共に後ろに控えて。何も聞こえていないかのようにすましかえった冷徹の仮面は、まさにその時の体勢そのままに、半歩控えて物事を観察していた。その裏に垣間見えた、守るべきもの…彼にとってはおそらく、祖国と主君…に対する、忠誠と愛情。
その時得た共感は、彼に対する好意の源泉である。パオラと彼の『守るべきもの』は、全く違っていたが、それでも、互いの対象に向けられる想いというものは確かに同質であったから。
彼は、パオラと同じ存在ではない。事実、別種の存在である彼が、パオラと全く同じであるはずもない。しかし、似通った存在であるのだと思った。
ならば、こんな時、私だったら、どうだろう。どうしてほしいと思うだろう。
パオラは思う。少なくとも、人にあれこれと詮索などされたくはない。
更に思う。人に、何か話したく思うだろうか。
それもない。ただ、気持ちの整理をつけるだけの余裕が欲しいと、そう思うだけだ。全ての決定とそれに伴う責任とは己に帰依する。ならば、人の意見を入れる余地は残したくない。それが、己の行動に対する言い訳になってしまうから。
結局のところ、パオラにできるのは、美味しいお茶を入れる事だけだ。
お代わりを用意しようと彼へと背を向けた、丁度その時、部屋の扉は勢いよく開かれた。
「アベル、いたーーーーーっ」
ひんやりした、ほぼ外気と言っていい空気と共に飛び込んできた少女は、軽やかな足取りで、まっすぐにアベルへと向かう。そんな寒さなど物ともしない、輝くような生命力に溢れたパオラの末妹。悪戯っぽく瞬く瞳は、いかにも魅力的で、誰もがこの娘を好きにならずにはいられないだろうと思われた。
「あ、お茶だー。もらっちゃお」
卓の隅に置かれていた杯を目聡く見つけ、手の中に攫う。そんな無作法も、つい許してしまえるほどに。
今、パオラの目の前で微苦笑するアベルのように。
「どうした?」
常のごとくそっけない響きの声も、どこか優しく映る。
なのに、彼女は己の受ける恩恵を歯牙にもかけない。それが、当然の事だから。
何者にも束縛されない自由の獣は、ただ、己の興味と好奇心とに従って行動する。
手にした杯にほんの少し、口をつけただけで、大仰に顔をしかめて、熱さを訴えていた少女は、ただ、アベルの言葉に、当初の目的を思い出したようだった。
「そう。そうだよ。あのね。敵が、剣の使い手の場合の対処について知りたいんだ。私も地上にいる場合、なんだけど。実地で教えてもらえると嬉しいなー、と思って。言葉で言われてもわかんないしさー」
あたし馬鹿だから、と明るく笑う、彼女のあまりにも明け透けな物言いに、パオラは目を瞬かせる。おそらく、当のアベルもパオラと同じ思いだったろう。
それは、万国何処であっても変わらない、騎士としての常識から、大きく外れた発言であった。
騎馬の戦士や天空騎士の主となる武器は、槍である。
騎乗中であるならば、槍最大の短所である、重量からくる使い勝手の悪さは軽減され、また、武器の重さはかえって、突進の力を増大させる。攻撃の速度は、その手の長さ故に、己の空間を広く取らせ、彼らに、戦場における優位を築かせる。
そんな槍の得意が多い中、アベルの剣技は、他の者達からは一線を画していた。常の槍扱いに見受けられる巧みさは、手にした武器が剣に変わっても健在で、さすがに剣士と同等とはいかないだろうが、充分、地上でも戦える力を持っていた。
戦闘というものに対する感性なのか。アリティア騎士随一の戦上手といわれる彼は、槍にも剣にも精通し、それ故に、そのどちらの死角、弱点をもまた、知っている。
勿論、それは、パオラにとっても、喉から手が出る程に欲しい知識であり、技術であったが、教えを乞うて、得られるようなわけもない。
互いの騎士としての意地や矜持もある。しかし、何より、彼は他国人だった。
現在、同盟を結んでいるとはいえ、それは、未来永劫を指しはしない。今日までの味方が、明日には敵とならないという保証はない。その瞬間の利益によって結びつく、それが国同士の同盟というものだ。
互いに、国に属する騎士であり、戦士である限り、相手を完全な味方であると見る事はない。過度のなれ合いは、明日の死を招く。
現在、彼が敵ではない事を感謝しつつ、その技量を間近で見、盗めるものは、盗む。戦闘中の癖もまた、見覚える。近い未来、役に立つかもしれないのだから。彼が、敵となった時に。
「剣の扱いだったら、私が…」
妹の面倒を見るのは、自分であるという意識の故か。彼を助けるためだったのか。それとも、彼も当然理解しているはずの、そんな同盟者としての互いの立場を、再認識することが嫌だったのかもしれない。
しかし、言いかけたパオラの言葉を遮るように、アベルは口を開いた。少女の言の裏にある、冷然たる現実には、まるで気づかなかったかのような、軽い調子で。
「『戦場で有翼馬から落ちるなんてあり得ない』んじゃなかったのか?」
姉たちに、剣の訓練の必要性を説かれる度毎の、それは少女の決まり切った返答。
騎乗の者は、馬から、有翼馬から降りた瞬間に、今までの優位は全て、不利へとすり替わってしまう。特に、腕力で男に劣る女にとって、それは、文字通り、致命的となる。
『落ちる時は、死ぬ時だ』とうそぶく少女の言は、まさしく真実である。
しかし、常の言葉を引用された少女は、頬をぷっくりと膨らませた。
「意地悪言っちゃ駄目ーっ。今回は、ちゃんと目的があんだからー」
「目的?」
「そお!倒さなきゃなんない奴がいんのーっ」
拳を前に突き出す彼女には、その『倒さなきゃなんない奴』とやらの姿が映ってでもいるのだろうか。
「ほんと、よかったよ。アベル、ちょうど暇そうで」
既に彼女の中では、アベルに剣技を教わるのは、決定であるらしい。あっけらかんと言われて、アベルはまた、苦笑した。
「…『暇そう』か」
だけど、その苦笑には、自嘲が混ざり込んでいはしなかっただろうか。
「え。暇じゃないの?」
きょとんと彼を見返す少女は、やはり、彼の様子が常と違う事に気づいた風もない。
だけど、それでいいのだろう。己の変化に気づかれる事など、彼自身、望んではいない。
常に冷静で客観的に物を見る、そんな自分を崩される事は、自尊心が許さないのだ。
「いや。確かに、時間はあるな」
軽い溜息混じりに、アベルが立ち上がる。その言葉の響きには、口元に掃かれた苦笑と相まって、既に少女の願いを聞き入れた色がある。
「今、訓練場、空いてたよー」
うきうきと前に立って歩き出した少女を追って、アベルもまた、部屋を出る。
戸口でパオラを振り返り、出された茶に対する謝意を口にした。それに、パオラは微笑みを作って、返す。
「アベルー、早くー」
少し離れたところから、少女の呼ぶ声がした。
アベルは、既に廊下を相当先に進んでいるらしい少女の元へと歩み出す。
「…で、倒す敵というのは、誰なんだ?…」
「…んー。名前、忘れちゃったー。ちゃんと聞いたんだけどなー…」
遠く離れていく声は、ひどく和やかに響いていた。



「ごめんなさい。お茶、すぐに入れ直すわね」
末の妹が口を付けた杯を引き上げながら、パオラは踵を返した。暖炉に掛けられた湯釜は、先程、減った分を補うために水を差しておいた。もう、暖まっているといいのだが。
「何で、あんな事やらせておくのよ!」
炎を噴くような声と感情とが、パオラの背を激しく打って、彼女の足を止めさせる。振り向くと、怒りと苦渋とが悲痛をまとって震える、そんな声音そのままの様子で、妹はこちらを睨み据えていた。
やはり寒かったのだろうか、立ち上がって、ないまぜになった感情が溢れそうな目をして、パオラを見つめていた。
パオラは、小さく小首を傾げる。
「あの子が、他国の騎士を訓練に連れ出した事だったら、そんなに悪い事でもないかもしれないわ。彼の方が、技量は上だもの。多くを学ぶのは、あの子の方だし、より情報を集める事ができるのも…」
「誰が、そんな事言ってるのよ!」
パオラの言に被せるように、彼女は吼えた。地団駄を踏まんばかりの様子に、パオラは微笑む。昔、まだ彼女が幼かった頃、家族が皆そろっていた頃の彼女は、こんな風だった。自分の言葉が、感情が周囲に伝わらない事に苛立って、顔を真っ赤に染めて、小さな拳でパオラに打ちかかったものだった。
「何故、そんなに怒っているの?」
貴方の言葉を聞きたいから、貴方の心を知りたいから、だから、話してほしいのよ。
だが、パオラの言葉の裏に隠れた思いは、妹に伝わった様子もなかった。いや、伝わっていたのかもしれなかったが、少なくとも、パオラの願いを聞き届ける気にはならないようだった。彼女の常と変わらぬおっとりした物言いに、むっとしたようにこちらを睨み、唇を硬く噛み締めた。
「…お茶を入れるから、それからお話しましょうか」
「そんなもの、必要ないわよ!姉さんは、絶対、本当の事なんかしゃべらないって、わかってるんだから!」
再び踵を返し掛けると、それを待っていたかのように、妹は口を開く。
彼女の言う、『必要ない』ものというのは、新たなお茶の事だろうか。確かに、新しく用意するまでには、もう少し時間がかかりそうだけれど。
「もう、姉さんの言葉なんか、期待しちゃいないわよ。だけどね、だけど、私にだって、言いたい事はあんのよ!!」
何故だか判らないけれど、妹はひどく興奮しているようだった。
「やっぱり、お茶は入れましょう。きっと、落ち着くと思うから」
パオラがそう言うと、彼女は息を呑んだ。激した息をしゃくり上げて、口角を押し下げた、まるで、ひどく虐められた子供のような顔をして、パオラを見つめるのだった。
彼女がこんな風な顔をする事は、時々あって、その度にパオラは戸惑ってしまう。
差し伸べた手を払ったのは、妹の方なのに、手を払われたら、パオラはその手を引っ込めるしかないのに、そうする事が罪悪であるかのようにパオラを見る。そんな時、パオラはいつも気詰まりに黙り込み、思い悩みながら、ただ、妹のために何かをするべく動くのだ。ちょうど今、茶を入れようとしたように。
幾度か、妹が口を開きかけ、また口を噤む事を繰り返し、その間、パオラは彼女の前にいた。何をするでもなく、ただ、立っていた。今日は常のように、動いてはいけないような気がしたから。
しばらくの後、妹は細く息を吐いた。そんな動作の立てる音さえも確かに響く、そんな沈黙があった。
「…お茶はもう、いらないの。私は落ち着いているから」
その言葉通り、彼女の声音には既に、興奮の色はなかった。ただ少し、震える語尾に、その名残があるだけだ。
頷くパオラに、更に続ける。
「だけど、姉さんに言いたい事は、あったの。何も答えなくてもいいから、だから、聞いてほしいの」
『答えなくていい』の意味が、少しわからなかったけれど、それでも、パオラは頷いた。彼女が、妹の言葉を聞かない事など、あるはずもない。
合った目線だけで微笑みかける。しかし、妹は常のように、微笑い返しはしなかった。強張った口元を、ようやっと、といった様子で持ち上げてみせる。それは、ひどく作為的な笑みで、先程パオラの中に生まれた戸惑いは少し、大きくなる。
妹は思い切るようにひとつ、息を呑み、そして、静かに口を開いた。



「姉さんは、今までずっと、私たちの母親のようだった」
確かに、彼女はパオラの答えなど、必要としていなかった。おそらく、今までずっと口にせず、それでもずっと心の奥底で暖めてきたのだろう思いを吐露する、それは独白だった。
そして、彼女の言う通り、パオラはまさに、彼女達の母親のごとく振る舞ってきた。ずっと、妹達を護ってきた。妹達は、パオラの生きる目的そのものだった。
「だけど、姉さんは、母親じゃない。保護者でも何でもない」
すとん、と。
妹の言葉が、その場に落ちる。
現実主義者の妹は、むき出しのその言葉から目を反らそうとも、逃げようともしなかった。抜き身の刃のようなそれを、無造作に手に握るように、彼女はまっすぐにパオラを見つめた。ただ、事実のみを告げる冷然とした表情で。
それでも、パオラは未だ微笑んでいた。その言葉は、確かに間違ってはいなかった。パオラには、彼女達を護る義務はない。ただ、パオラがそうしたかっただけだ。『母親』だとか『保護者』だとか、そんな言葉はどうでもよかったのだ。
そんなパオラの心情が判ったのだろうか、妹はひどく悲しげな顔をした。
「姉さんが、あの子のために、そこまでしなくちゃいけない理由なんてないじゃない」
そんな顔をしなくてもいいのに。
『理由』など、全く必要ないのだから。
妹の、今にも泣き出してしまいそうな声が揺れる。
「あの子があんななのは、姉さんのせいじゃないのよ」
あの子が、人間ではなくなったのは、まだほんの幼い頃の事だった。
竜王国は、天翔ける騎士を多数抱える国である。飛竜の主人のみならず、魔法生物である有翼馬との感応を果たした者達も、天空騎士と呼ばれ、有力な騎士として取り立てられる。王宮には、天空騎士のつがいとなった有翼馬がたくさんいたのだ。
彼女たち三姉妹は、そんな有翼馬の間で育った。パオラはまだ、10才にもならなかったが、有翼馬は比較的、人間の子供に気を許しやすく、故にこの不思議な生き物達の世話の手伝いという職にありつけたのだった。
パオラは、運が良かった。親のない、行き場のない子供など、他に幾らでもいたのに、こうして、生きていくための糧を得ると同時に、王宮の隅に寝起きする場所まで与えられた。何よりも、妹達と共にいる事も許された。勿論、妹達も近い将来、パオラと同じ仕事をするという条件で、ではあったが。
パオラは、その生活に満足し、すっかり安心してしまっていた。
そもそも自立心が強すぎ、野生の状態ではその殆どが単体生活、縄張り意識も強固なこの生き物が、半ば飼われているというのも、ひどく珍しい事であるといわれる。それが更に、厩舎で子供を産んだという事、それは、この天空騎士の国でも希有な、奇跡に近い事だった。そんな話が王宮内の、どんな外れに行っても聞かれたあの頃、好奇心旺盛なあの子が、どのように行動するかなど、判って当然だったのに、なのにパオラは、彼女が有翼馬の厩舎に近づく事を止められなかった。
有翼馬は、生まれたばかりだった。まだ己の力も制御できない魔法生物と視線を合わせ、あの子は一瞬で魅入られた。
あの子の意識は、完全に食われてしまった。
あの子は、昔の、人間だった頃の自分を覚えてすらいない。
人間でさえ、なくなってしまったのだ。
それが、パオラのせいでないはずもない。
だけど、だからこそ、あの子が綺麗なのも事実だった。
「あの子が、あの人の事、気に入るのは判ってたわよ。いかにもあの子が好きそうな外見だもの」
今度は妹は、泣きそうなのに、怒っている。目を赤くして、それでも気強く鼻先を拳で擦る。
気高く雄々しく力強い、この妹は、人間そのもの。だからこそ、こんなにも愛おしい。
「だけど、酷いじゃない。あの人と知り合ったの、姉さんの方が先なのに」
こんな可愛い事を言うから、もうどうにもしようがなくなってしまって、パオラはつい、笑ってしまった。
むっとした顔をする妹を、パオラは優しく抱き寄せる。
「なんなのよ。そんなんじゃ誤魔化されないのよ」
もう子供じゃないんだから。
そう言い募る妹に、
「誤魔化そうなんて、思ってないわよ。ただ、すごくこうしたくなったの」
もうしばらく、このままでいて。
この妹達が、パオラの元から飛び立つのも、もうすぐだろうけれど、でも、あともう少し、本当に去ってしまうまでは、このままでいて。
妹は、抵抗しなかった。パオラの心中の願いを聞き届けるかのように、大人しく、抱き締められていた。
この妹は、あの子を人間として扱い、また、人間として好いている。そして、己の身内、妹として愛している。
同国人の中でも、ごく限られた者しか知らない。皆、あの子はただ、おかしいのだとしか思っていない。だけど、彼には話してあった。あの子が、人間ではない事を。
彼は、あの子に興味を惹かれ、また、あの子に好意を抱く。パオラには、それが判っていた。
今、腕の中にいる妹には、決して理解できないだろう。パオラと、パオラに似た男とが、あの子が人間ではないが故に惹かれる気持ちなど。
私たちは、常に理由を必要とする。
行動する理由。行動しない理由。ここに在る理由。生きる理由。
だけど、あの子は違うのだ。
あの子は、何も必要としない。他者も、理由も、世界も、自我さえも。全てから解放されたあの子自身が、世界にたったひとつの宝石であり、生ける奇跡だった。
パオラと同じように、彼はそれを理解する。
そして、パオラもまた、理解する。あの子の存在が、いつか彼の『理由』になるだろう、と。
パオラにとって、今、この腕の中にある妹が、永く『理由』であったように。
パオラを信じ、無条件の愛情をくれた、小さな子供。
世にも美しい獣は、もう一人のパオラに手渡した。パオラは両手に妹を持ち、そして、彼は持ってはいなかったから。
だけど、今では二人とも、片方の手に握りしめる手を持っている。
時折、胸を刺す痛みは、多分、片手が空虚になったため。それもまた、慣れて、いつか何も感じなくなるだろう。


妹のために生きたかった。ただそれだけだった。


パオラは、うっとりと仄かに微笑む。
彼女は、現状に満足だった。



END







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