千の花〜エスト


花占い
望みを叶えてくれるまで



「あんた、ちょっと気にしすぎ」
どこまでも冷たい姉の物言いに、エストは唇を尖らせた。
「気の合わない人間なんて、どこにだっているもんなのよ。相性が悪いんだと思って、諦めなさい。そして、できるだけ、当たり障りのないように接するのね」
癖のない栗色の髪は、軽く頭を揺するだけで元の位置に戻る。すんなりと伸びた足を無造作に組んで、切れの長い瞳でエストに視線をくれる。
この次姉は、いつだって意地悪だ。
「あんただって、もういい加減、『嫌いだからって簡単に殺しちゃ駄目』って理屈くらい、わかってるんでしょ?」
姉が、エストよりも背が高くて手足が長いのも、姉の髪がさらさらの栗色なのも、エストの髪が赤みの強い跳ねっ毛なのも、姉自身やエストのせいではない、という事くらい、今では判っている。
「だけど、やなカンジなんだもん」
しかし、理解する事と感情は別なのだ。
「諦めなさい」
姉は再び、宣告する。どこまでも、冷静に。
この姉に、このように言われると、エストはいつだって沈黙する。
物事を冷静に判断できる、というのは、この姉の大きな長所であり、それは全くエストに欠けている部分だった。殊、他人との関係構築については、特に、そうである事を、確かにエストは知っていた。
ようするに、このような話題に関して、この姉に理屈で勝てる訳がないのである。
無言のエストに対して、もう話はおしまいと見たのか、姉はその場を離れかける。
「ああ、一応、言っておくけど」
振り向き、その時、初めてまっすぐ、エストを見据えた。
「絶対、殺しちゃ駄目だからね」



「…ほんとに、やなカンジー」
エストは、ぶんむくれていた。姉との会話の後、部屋を出てから、ずっとだ。
『仲間』は殺してはならない。
そのくらい、判っている。戦場以外の場所で、『仲間』を殺したなんて、そんな事はもう、ずっと昔、ほんの子供の頃の話だ。
本当に、あの姉はエストを全く、信用していない。
もう、感情と本能とに振り回される子供じゃないのだ。
どんなに気の合わない相手だって、いきなり、殺したりなんかしない。相手が、エストを怒らせたりしなければ。
「よぅ、赤毛」
そう。相手が、エストを怒らせない限り。
先程までより、もっと突き出した唇の端から、空気が洩れた。エストは、特にそう称されるほどに、赤い髪をしている訳ではない。ただ、姉妹の中では一番、赤みを帯びた髪をしていたけれど。
こんな風にエストを称するのは、二人の姉とエストとを比べる、ただ一人だけだ。
エストと初めて会った時、そいつはこう言った。
「姉ちゃん達ほど、美人じゃないな」
付き添いのように共にいた傭兵が、慌てて付け足した。先に同盟軍入りしていた姉二人がとても美人だったから、二人の末妹であるエストが加入するのを楽しみにしていたのだと。
言い訳にも何もなりゃしない。
夢を壊して、悪うございましたね、とちょっとやさぐれ気分になったエストにとって、以来、そいつは天敵とでもいった相手なのである。
なのに、何でこいつはことある毎に、エストに絡んでくるんだろう。
エストは、嫌そうな顔そのままに、振り向いた。
「…お前、そんな顔してっと、ますます美の少ない女」
彼と喧嘩をした時、エストは美少女だと慰めてくれたアリティアの騎士の言葉を挙げ連ねる物言いに、かっと頭に血が上る。
エストは、大きく息を吸って、呪文のようにひとつの言葉を胸の中で繰り返した。
殺しちゃ駄目殺しちゃ駄目殺しちゃ駄目…。
なのに、そんなエストの心中も知らぬげに、そいつは、きょろきょろと周囲を見回した。
「今日はひとりかよ」
めっずらしー、と独り言のように呟いた。その言葉通り、エストは、大抵、誰かと一緒にいる。単独行動を取る任に就いた時でも、すぐに共にいる事ができる相手を作ってしまう。
たった独りという状況を痛切に感じる事は、エストには耐え難いのだ。
だけど、それだって、気の合わない相手とでも一緒にいたいほど、気が滅入っている訳ではない。
「私だって、たまにはひとりで静かにしていたい時もあんのよ」
言外に、だからどっか行けよ、の意を滲ませたつもりだったのに、そいつには通じなかったらしい。
「嘘くせー」
言いながら、エストの後をついてくる。
「何でついてくんのよ!」
「お前が、俺の行く先に歩いてんだよ。誰がついてなんか行くかよ」
正面を向き直ったエストは、ひとつ大きく息を吸い、そして、息を吐いた。おもむろに両手の指先を地に付き、腰を上げる。隣の相手があんぐりと口を開けているのには気づいたが、気には留めなかった。微妙な足の位置を直すと、呼吸を整え、心の中で数を数える。
いち、にぃ、さん。
そして、力一杯、大地を蹴って、駆け出した。
「お前、いきなり走るかぁ?!」
「何よーっ、やっぱついてきてんじゃんよーっ」
「俺の前を行くのが許せねーんだよ!」
「子供みたいな事言ってんじゃない!」
流れていくのは、周囲の人々の驚いた顔、呆れた顔。そして、またか、と言いたげな物の判ったような顔。
実際、それはいつもの事だった。彼らが互いに、目の前の相手との勝負に勝つ事だけが、先決となってしまうのは。
今は、全力で疾走する事だけが全てだった。二人の行き先を知る者は誰もいなかった。当の彼ら自身にさえも。



時々、エストは自分の体が人間である事を忘れる。野生の有翼馬ででもあるかのように精力的に動き続け、そして、それはしばしば、人間としての耐久度の限界を超えてしまう。今、この時のように。
ああ、本当に、人間の体の脆弱さときたら!
どこまで走ってきたものかは、わからない。ただ、規定の場所から出てはいないはずだ。周囲に人の気配もなく、今まで、来た事もない場所ではあるけれども。
地に倒れ伏したエストは、息を喘がせながら、億劫そうに体を横に転がした。自身と同じように転がっている相手を見るために。
「…あんたって、ほんと、馬鹿でしょ…」
エストと同じ、ひ弱な人間の体のくせに、意地と根性だけで、こんなになるまで走り続けるなんて、馬鹿としか言いようがない。
「……お前、人の事、言えんのか…」
「そんなん、せはぜはしながら言ったって、全然、説得力ないし…」
話す間にも、息は切れ、冷たい風は鋭く胸の奥を刺したが、吹き出す汗はまだ、止まる気配もない。
エストは、再び、ごろりと転がり、大の字に横たわった。
天は頭上遙か高く、頬をなぶる風は、天の川の流れを作り出し、細く棚引く雲を翻弄する。
空を飛びたいなぁ…。
あの流れに飛び込んで、どこまでもどこまでも、息もできなくなるくらい高く飛んでいったら、きっと気持ちがいい。何よりも気持ちがいいだろう。
「…お前って、ほんと、可愛くねー…」
舌打ち混じりの悪態にも、さして腹が立たなかったのは、未だ朦朧とした意識のままの夢見心地を引きずっていたからだろうか。
「それは知ってるから、今更、指摘してくれなくてもいい」
エストの二人の姉は、とても綺麗だ。だけど、エストは違う。
エストは彼女達とは、決定的に違う。
それを悲観している訳では、決してなかったし、自分を可哀想だと思った事もない。現在の自分に不満なんかある訳もない。ただ、時々、色んな事が理不尽だと思ったり、そんな諸々に腹が立ったりする。それだけだ。
ぼんやりと空を見つめていると、横の相手がぽつりと呟いた。
「…嘘だよ」
たっぷり、十も数えた後、エストはその顔だけを横に向けた。
「はぁ?なに?」
何が嘘?
相手の顔は、みるみる赤くなる。あっという間に耳まで赤くなって、そんな様が何とも面白い。
「聞き返すかよ、馬ー鹿」
わめき散らしながらも、やっぱり顔は赤いままだ。
何で急に怒り出したのかは不明だが、訳のわからない事で八つ当たりをされるのはごめんだ。
いつもなら、言い返すところだったが、今日のエストはまだ、つい先刻受けた姉からの助言を忘れてはいなかった。
『できるだけ、当たり障りのないように接するのね』
当たり障りのない接し方、というのも、どのようにすればいいのか、謎ではあったのだが、ここはひとつ、当の姉を見習ってみるのがいいかもしれない。
つまりは、聞き流しておこう、という事だ。
結局、独り言だったんだろうし。
そもそも、今までもエストに対して、嘘なんかたっぷり吐いていそうなのだから、そのどれが嘘か、なんて、どうでもいいと言えば、どうでもいい。
こんなに空は綺麗なんだし。
一度途切れた会話を文脈として捕らえられず、三歩歩いて忘れる鳥頭、と姉によくからかわれるエストは、横に転がる相手との短い会話をそれで忘れた。



この北の国は、エストの祖国である国とは全然違う。
風の匂いでも、それは如実に感じ取れる。竜王国の風は、ある種猥雑なほどに活力に満ちていて、暑い。だけど、この国は、硬く厳しく、冷たい。極彩色に彩られた祖国とは正反対に、ごく限られた色しか見つけられない景色は物寂しく、それでもどこか綺麗だと思う。
決して、長居をしたいとは思わないが。
エストは、ぶるりと身を震わせた。
前に来た時は、全く氷に閉ざされていて、こんなところにいつまでも住み続けるなんて、どうかしている、と思ったものだったけれど、今日は天気もよくて、少し空気も温んでいる。温い中に混じり込んだようなほんの少しの冷たさは、身を引き締めてくれて、気持ちがいいけれど、ずっと外気に触れていると、やはり寒い。
その時、隣からぬっと腕が伸びた。
「…なに?」
目の前にあるのは、隣の人物が着ていた上掛けだ。勿論。
「着とけよ。寒いんだろ」
お前も一応、女だからな、とうそぶいた。エストから逸らされたその顔は、ほんのりと赤い。先に体を起こして、地べたに直接座り込んでいる相手は、エストからは見上げる形になってしまって、それがしゃくでエストは身を起こす。相手と同じように座り込んで、相手の手にある物をしばらく見つめて、それから、口を開いた。
「あんたの方が寒いんじゃないの?」
顔が赤いのは、熱でもあるからなんじゃないだろうか、と何とはなしに気遣った。エストが人に気を遣うなんて、彼女をよく知る者がいたら、目を剥いただろう。しかし、今いる相手は、それ程エストに精通している訳ではない。
馬鹿にされたとでも思ったのか、むっとしたような顔をしたので、付け足した。いかにも、付け足した、といった様子で、ぽそぽそと。
「女の方が、寒さには強いんだよ。ほら、あっちこっちにお肉がついてるから」
何で、こんな言い訳してるんだろう、私。
自分でもよく判らない。そもそも、こいつが何で、エストに上着なんか貸すのかも判らない。
軽く混乱しているエストに対して、そいつは鼻で笑って見せた。
「お前のどこら辺に、女としての肉付きが?」
「何だと、こら」
「…ああ、もう」
急に、相手はがしがしと頭を掻いた。心底うんざりしたようにその口調に、虚をつかれて、エストも黙り込む。
「もう、お前、何も言うな。俺も言わないから。つべこべ言わずに、それを着ろ」
それに対して、再び、エストは口を開きかけ、そして、そのまま口を閉じた。その言葉が命令形だったにも係わらず、そこに混じり込んでいたのは、いつものような挑発ではなく、何故か、懇願にも似た響きだったせいかもしれない。
恐る恐る、上着に手を伸ばした。それが自分の手から離れた事で、エストが受け取った事が判ったのだろう、彼がむっつりと不機嫌そうな顔のまま、それでも、ほっとしたように言った。
「…初めっから、素直に受け取れよ。…って、お前、何、匂い嗅いでんだよ」
「いや、爆発するかと思って」
「する訳ねーだろ!」
「うん。硝煙の匂いはしないね」
じゃあ、遠慮なく、と、もそもそと上掛けを着込む。相手はまた、むっつりと顔を逸らした。
何故、エストに服を貸す気になったのかは不明だが、寒さを防げるのならば大歓迎だ。実際、薄手の上掛け一枚で、体感温度は随分と違う。
しかし、きちんと着てみると、その上掛けは、エストには大きかった。彼が着ていた時には、ぴったりの大きさだったのに、自分が着たら、指先が辛うじて出る程度の長さになってしまったのだ。それの意味するところは、ひとつだけだ。エストよりも彼の方が、ずっと大きいし、腕も長いのだ。
つまりは、エストは、彼に比べて、腕が短い。
腕が短いという事は、槍でも剣でも、手に持った武器は何でも、相手に届くのがそれだけ遠くなる、という事だ。戦場では、不利になる。実際、彼の方が、エストよりも強いかもしれない。
地上では、であったが。
エストは横目で、隣の相手に視線をくれる。
そう簡単には、殺されてくれないかもね…。
そんなエストの視線に不穏なものを感じたのか、不意に彼がこちらを向いた。
「…なんだよ」
「いや、何でも」
罪のない顔で首を振る。勿論、彼は全く信じていないようで、胡散臭げな顔をしていたが。
「あんた、戦場長いの?」
話を逸らすために聞いたようなものだったが、この問いは彼を驚かせたようだった。
「何だよ、お前、急に…」
ますます、胡散臭そうな顔になる。なんで、そんな顔するんだろう。エストは、ちょっぴり唇を尖らせた。
「別に、話したくなかったらいいよ。ちょっと思いついただけだもん」
「ちょっとって、お前な…」
噛みつきながらも、…まぁ、いいか、と呟いた。どうやら、彼にとっては未だ先程の、お互いに『つべこべ言わ』ない、が有効であるらしい。
「戦場自体は、そんなに長くないな。だけど、ずっと剣の勉強はしてた。俺の育った村は、そんなに裕福じゃなくて、男が傭兵になるってのは、珍しくもなかったし。村を出たくもあったしな」
こいつったら、明るい夢を胸一杯に抱えて、意気揚々と生まれた村を出てきたんだろうな。
そんな事が、何となく判るのは、彼の単純明快な性質のせいだろうか。明るく裏表もなく、伸びやかで。
「お前は?」
「私?」
俺一人に話させる気かよ、との視線の圧力に、エストは、唸りながら腕を組んだ。
「…どうだっけかなぁ…」
ますます、相手の視線は険しくなるが、そんな顔をされたって困る。本当に覚えていないのだから。
「……私の国では、天空騎士は、有翼馬とつがいになったら、訓練を始めるのね」
不承不承、話し出す。知っている事、覚えている事を絞り出すようにしながら。
「で、私はいつ、天空騎士になったんだか、覚えてない。でも、小さい時からずっと最年少だって言われてた」
そして、当然のように、今でも最年少である。
戦場では貴重な戦力である天翔ける騎士達に、年齢による制限など存在しない。伴侶となる有翼馬をもっている事。それだけが、天空騎士である条件となる。
「お前の姉ちゃん達は?」
「…二人が騎士になったのは、前の戦役の頃だったかなぁ。うん。その頃は一緒に飛んでたかも」
「……で、お前は、2、3年前に騎士になった姉ちゃん達より、ずっと前から、戦場にいるのかよ。記憶に残らないくらい昔っから」
「んーまー、そーかなぁ…」
溜息混じりに、手元の下生えの草を毟る。何でそんな、怒ったような顔をするんだろう。エストの記憶力の悪さが、そんなに気に入らないんだろうか。
だけど、それであんたに迷惑かけた訳じゃないじゃん。
ちらりと隣に視線をくれる。彼は憤然とした様子を隠そうともせず、吐き捨てるように言った。
「そんな子供の頃から、んな稼業やらされんのかよ、お前の国では」
「やらされてる訳じゃないよ。それに、こんなん私だけだもん」
「ますます悪いだろ。何だ、お前だけって」
呆れたように、息を吐く。その様が、見下されているようで気分が悪い。
天空騎士という存在に慣れた国において、ひいては、この大陸世界において、エストという存在は、異質だった。異形、といってもよかった。
エストを、本物の魔女だ、という人もいた。戦場では、敵味方の隔てなく恐れられ、心を持たぬ殺人兵器、とも、血に飢えた凶戦士、とも称された。
それは、正確ではなかったけれども、間違いでもない。
彼女には、人殺しの禁忌がない。躊躇いがない。
有翼馬は、人を喰らう獣である。それが魔法生物と呼ばれる故なのか、決して人と交わらない、決して触れてはならない禁忌の獣である。
エストは、遙か幼い日、自身、それと判らぬうちに禁忌を犯した。
彼女のように有翼馬と意識を共有する者は、他にいない。彼女は、人間でありながら、有翼馬そのものでもあった。そして、人として異形であり、有翼馬としても、異質だった。
そんな彼女が生きていくためには、戦場に出るしかなかったし、エストはそれが嫌ではなかった。そういうものだと思っていたし、何より、エストは戦場が好きだったのだ。
「子供なんか、戦場に出すべきじゃねえんだよ」
なのに、吐き出すような物言いが、エストの居場所を否定する。
「だから、そんなん本人の勝手でしょうが」
顔も上げず、感情のままに手だけを動かしていたところ、エストの手に届くところにある下生えの草は、皆、随分と短くなってしまった。
「…なんで、庇うんだよ、そんな奴ら」
「庇ってる訳じゃないよ」
実際、エストの方が訊きたい。何でそんなに絡むんだよ、と。
戦場はいつだって、彼女を解放してくれる。生き物としていびつな彼女が彼女のままでいる事が認められる、そのままの彼女が評価される場所なのだ。
「何だよ。そいつらも、お前の頭撫でてくれる連中なのかよ!」
「…何の事?」
何だか、話が逸れてきているような気がする。
エストは、顔を上げる。感情の高ぶりのままに、相手は立ち上がって、エストを見下ろしている。握りしめた手が震えているのが、判った。
「お前、自分を甘やかしてくれる奴が大好きだもんな。姉ちゃん達とか、アリティアの騎士とか」
何だか、じゃない。明らかに、話が逸れている。
しかし、何故、そんな話になったのかについてはともかく、いきなり登場したある一人の存在が誰を指しているのかは、すぐに判った。
「…アベルが、どうかした?」
姉たちはともかく、何でアベルがここで出てくるんだろう。
アベルとは、この軍に合流してから知り合った。軍の盟主の側近であるアリティアの騎士は、初めて会った時から、エストに優しくしてくれる。
エストは、アベルが大好きだった。優しい長姉の友人で、剣も槍も上手くて、戦場でも強くて、綺麗な軍馬を持っていて、そして何より、綺麗な黒髪をしているから。
しかし、アベルの名を口にすると、相手の顔がますます、赤くなった。どうやら、ますます怒らせてしまったらしかった。
…何か、不味い事でも言っただろうか。
己の胸に手を当てて考えてみても、よく判らない。
「…あのさ。何の話だったっけ?てか、あんた、大丈夫?座った方がよくない?」
落ち着いて、と言いたかったのだが、エストの物言いは逆効果だったようだった。今や相手は、頭から湯気が立ちそうな勢いだ。完全に血が上っている。血迷っている、ようにも見える。
対して、エストは妙に冷静だった。相手が何故、怒っているのかも判らないし、まるで取り残されてしまったような気分だった。
こういうのって、気持ちよくない。こういう場合は、相手と一緒に怒らなくっちゃ、腹を立てなくっちゃ。
置いてけぼりは、つまんない。
「…あのさ」
エストが、言いかけた時だった。その言葉を遮るように、彼は言い放った。
「何だよ、あんた、あんたって!『アベル』はちゃんと呼ぶくせに!お前、俺の名前、知ってんのかよ!」
エストは、思わず黙り込んだ。それくらい、思いも寄らない言葉だった。
名前。こいつの名前。
…なんだっけ??
エストの様子から、本当に彼女が彼の名前を覚えていない事に気づいたようだった。彼の顔が、みるみる赤く染まっていく。
「っお前の名前も、一生、呼んでやんねーからなーっ」
だから、なんで、あんたと一生つき合わなきゃならんのよ、というつっこみを入れる間もなかった。ものすごい勢いで走り去るその姿は、覚えてろーっ、という捨て台詞がないのが不自然なくらいだった。エストは、それを見送りながら、やっぱり、置いてけぼりにされたような感は否めなかった。全然、すっきりしなかった。
なんで、こんなにもやもやした気持ちになるんだろう。
そんな感情的な部分は、しかし、より大きな目の前の素朴な疑問に駆逐される。自分に理解できない事は深く考えない、そんなエストの性格のせいもあったかもしれない。
だから、彼が走り去った後もその場に留まり、ただただ、エストは悩み、考え、己の浅い容量しかない記憶の底をさらい続けた。
あいつの名前、なんていったっけ???



「だから、『ラディ』でしょ」
姉はあっさりと言い、軽く肩をすくめた。別に、エストの記憶力に期待はしていないけれど、という風に。
「最初に紹介されたわよ。仕事を離れて同盟軍に参加してる元傭兵って。ちょっと見、うっかり者っぽくはあるけど、この戦いが名を売る機会になると見てるんだから、結構、目は確かよね。相棒のシーザの方が決めたのかもしれないけど」
「…ふーん」
いかにも気のない相づちに、姉は振り向く。きりりと引き締まった、彼女を一番綺麗にみせる表情で。
「あんた、何もやってないでしょうね」
「やってないよぅ」
そして、胡散臭そうな顔。なんで、みんなそんな顔をするんだろう。嘘なんか全然、吐いてないのに。
「じゃあ、今着てる、その上着はなんなのよ。奪い取ってきたんじゃないの?」
「貸りたんだもん」
そういえば、奴の服を着込んだままだった。長い袖先を隠すように、もじもじと手を背中に回す。エストが居心地悪くなるくらい、たっぷり時間をかけて、じろじろとその様子を見ていた姉は、遂に諦めたような息を洩らした。
ここが引き時と、エストは慌てて、彼女に背を向ける。訓練場に向かう途中だったらしい姉に、現在、エストに絡む気がないのも幸いした。
「ちゃんと返しておきなさいよ」
背中に当たった言葉に、
「はーい」
明らかに、気の入らない返事を返して、エストはすたこらと逃げた。
宿舎の廊下は、誰もいない。みんな、訓練場に行っているのかもしれない。
その時間、と決まっている訳ではないけれどこういうものは、人が多い時にいった方が、相手をしてくれる人がいて便利だ。次姉が行ったのだから、長姉もアベルもいるかもしれない。だけど、エストは今、みんなに遊んでもらう気分にもなれなくて、人気のない宿舎内をてくてくと歩く。
ラディ。ラディ、ね。
心の中で幾度か呟き、エストはその名前を覚え込む。
今度、何か言われた時には、ちゃんと言い返せるように。
「…戦場じゃない場所って、大変だなぁ…」
戦場だったら、こんなの覚える必要もない。ただ、目の前の障害物を斬ればいいだけの、単純なもんなのに。
エストは、腕を軽く上げて、大きな上着の袖口からほんの少ししか出ない己の手を確認する。
ここは、エストの得意な戦場ではないけれど、それでも、負けたくなんかない。
何だって、いっぺんにできるようにはならないから、だから、今できる事から、やっていこう。

次の戦いでは、きっと勝つ。

目の前の扉を勢いよく開き、エストは声を張り上げた。
「おばちゃん!牛乳ちょーだい!」



END







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