千の花〜シーダ

花を下さい
両手にいっぱいの花を
愛を
喜びを

幼い頃、侍女達に語り聞かされた、童話の中のお姫様のようだ。
王女を初めて見た時、シーダは、そう思ったものだった。
囚われた花の檻の中、救いにくる騎士を待つ。白い花のような姫君。
溢れんばかりの高貴さと、匂い立つ美しさ。自身、光り輝くようでありながら、どこか淋しそうな風情を漂わせて、かの人はより一層、物語の中の人めいて見えた。
だからこそ、彼女は幸せになれるのだ。
今がどんなに哀しくても、最後は必ず、めでたしめでたし、で締め括られる。
物語とは、そういうものなのだと決まっているのだから。
「姫様は、いらっしゃいますか?」
開いた扉に、にこやかにシーダは告げる。
姫様、が、誰を指すのか、それは言うまでもない。
この大陸世界全ての国の宗主国である聖王国の、現在では、たったひとりの王位継承権者であり、彼ら同盟軍の旗印である、巷で言われるところの『聖王女殿下』だ。
今現在、目の前で困惑の表情を浮かべる少女の主人でもある。
「…お一人ですか?」
「はい」
伝説の魔道士の娘だという少女は、どう判断すべきか迷っている、という風だった。
王女が、不意に戦闘の最前線である騎士の国へと現れてから、数週間が経っていた。
本来、国に護られてあるべき姫君が、勝手にこんなところまで来てしまった、と、怒っている人たちがいる事は知っている。それでも、最も気心の知れた相手だろう魔道士の少女以外、周りに誰も寄せ付けず、籠もりっきりになってしまうのは、悲しいと思う。
実際、シーダは祖国にいる頃、悪戯が過ぎる、と父王に叱られ、自室での謹慎を命じられる事も珍しくなかったが、そんな時はいつも辛かった。外に出たい、空を飛びたい、と父王に泣きつき、許しを乞うたものだった。
姫君は、誰かに謹慎を命じられた訳ではないのだろうけれども。
「お菓子を持ってきたんです。私の祖国のお菓子。姫様には珍しいかと思って」
人に会うのが億劫になっていたとしても、誰にも会わないのは、やっぱりあまりいい事じゃない。何よりも、心が沈んでしまうから。
だけど、ほんの少しの間だけでも、話し相手がいれば、随分違うと思う。
シーダが示した包みの、見るからに手作りらしい素朴さ故か、魔道士の少女の表情も少し、ほぐれる。
姫君を大切に思っているのは、彼女もシーダと同じだから。
つかの間の逡巡。その後、少女は思いきったように、顔を上げる。
「では、少々、お待ち下さい。お会いできるか、姫様にお伺い致します」
「はい」
会ってもらえたら、いいのだけれど。
そう長い間、心配する必要はなかった。奥の間へと消えた少女が、再び姿を見せたのは、ほんの数分後の事。
「姫様が、お会いになるそうです。どうぞ、こちらに」
喜びに高鳴る胸を押さえつつ、シーダはしずしずと少女の後へと従った。
シーダは、今までにも姫君の私室を幾度か訊ねた事がある。未だ、聖都奪還がなる前の話ではあるが。
同盟軍の盟主である王子から頼まれて、姫君の気持ちを引き立たせるための話し相手として、通ったのだ。当初、高貴な姫君の話し相手、という任務は、シーダにとってはひどく重荷ではあったのだけれど。
美貌で知られる聖王国の貴族。その、貴族の中の貴族として、まさに、磨き抜かれた血の結晶である、生き人形。
それが、当の姫君なのだと、そう思っていたから。
だけれど、実際に彼女に会って、言葉を交わして、そうしたら、あっという間にそんな気持ちは霧散した。義務感なんて、すっかり消え失せてしまった。
確かに、側近くで見た姫君は、綺麗だった。きめ細やかな白い肌も、金の滝のような髪も、貴石のような青い瞳も、小さく、それでいて完璧な造作の面立ちも。
それでも姫君は、よく笑い、楽しみ、ほんの小さな事にでも気持ちを割く、シーダ自身がそうであるような、ごく普通の女の子だった。
シーダよりも、ずっと落ち着いた、己の本分を弁えた、尊敬すべき大人であり、また、素直で可愛らしい少女でもあった。
シーダは、綺麗なモノが大好きだった。けれども、だからというだけでなく、シーダは姫君の事が好きだった。
友達として、というのは、適切ではない。好き、というより、惹かれる、という気持ち。
憧憬や、崇拝、または、恋にも似たような想いは、シーダの大好きなもう一人の人、同じく、高貴な国を背負う王子に対するのと、似通ったものがあったかもしれない。
そう言えば、二人はよく似ているかもしれない。外見が、という訳ではなく、シーダよりもずっとずっと大人だ、という点において。
現在、シーダを先導する魔道士の少女の、痩せた小さな背中を見つめながら、シーダは思う。
この少女の年齢もまた、シーダと同じか、それよりもほんの幾つかだけ下だったはずだ。
同盟軍に合流するまで、ひどく苦労をしたとかで、今でも細く小さくて、もっとずっと子供のように見えるけれども。
「お入り下さい。姫様がお待ちです」
落ち着き払った少女は、扉を開くと一歩引き、シーダに対して頭を垂れてみせる。
常ならぬ、宮廷儀礼に則った最敬礼のせいだろうか。足音を立てる事さえ、大きな息づかいさえ無法な気がする。
怖ず怖ずと扉に近づいた。何だか自分だけが子供のような、ひどく場違いなところに来てしまったように思えた。
「…シーダ?」
鈴を振るような、それでいて寂しげな声に、シーダの中に生まれかけた萎縮は消え失せた。本当は、消えてなくなった訳などではなく、今後、シーダの中に根を下ろし、徐々に彼女を支配する事になる、それは思いだったのだが、それはまた、先の話となる。
促されるままに、一歩、薄暗い室内へと足を踏み入れる。澱んだ空気は、姫君のまとう香の匂いを湛えて、沈んでいた。
窓には全て、厚く緞帳がかけられていて、仄かに洩れる外の光がまるで、この隔絶された空間に割り込むように、足の長い絨毯の上に伸びていた。
そんな光の帯も届かぬ部屋の奥に、彼女はいた。まるで目に映らないしゃぼん玉に包まれているかのように、全く別世界にいる人のように。
常のようにあまり飾り気のない、それでもとても優雅に映る白いドレス。
シーダが知るより、ずっとずっと小さく、細く、そして、美しくて。
「…ようこそ、私の部屋へ」
哀しみの妖精は、世界の果てから、シーダへと、小さく微笑んでみせた。
「少し、部屋の空気を入れ換えましょうか」
そう言って、魔道士の少女が重い緞帳を引いて、小さく窓を開けた。
すると、白く輝く外の世界が射し込んで、それでシーダは我に返った。北の国の風は、暖かな日和の今日は、常程には冷たくない。しかし、肌を刺す程の寒気はなくても、充分、身を引き締めさせる冷気でもって、部屋の空気を一変させてくれた。
今はもう、姫君も、人ならぬ者になど見えない。
緞帳の代わりに降ろされた薄いレース越しの光は柔らかく、姫君を包んでいる。
本当に、こんな風だったらいいのに。
綺麗な風と暖かい光と、いつも、そんなものだけがこの人を包んでいればいいのに。
「シーダ様が、お菓子をお持ち下さったそうですよ。私、お茶を入れますね」
そう言って、姫君に笑いかけた少女は、スカートの裾を軽くつまんで腰を屈めると、部屋を出た。続きの間となっている部屋から、お茶の準備をしているのだろう小さな音がする。
そんな日常の気配は、姫君の心を解きほぐす効能があったのだろうか。
「お菓子を持ってきて下さったの?」
姫君は小さく小首を傾げた。仄かな微笑みをその貴族的な口元に漂わせて。
「ええ、そうなんです」
殊更に明るく、シーダは笑った。
「実は、私が作ったんです。あ、でも大丈夫」
姫君が、何か言いかけたように見えて、シーダは慌てて、首を横に振る。
「マルス様は、おいしいって言って下さったから、姫様のお口にも合うと思うわ」
これが、この部屋に入っての第一声だったと、挨拶もろくにしていなかったと、後になって気づいた。
『御加減はいかがですか?』『お会い下さってありがとうございます』
そんな言葉で会話を始めなければいけなかったのに。何よりも、今回の軍合流以来、部屋に籠もったまま、誰の面会も受けなかった姫君なのだから。
私って、本当に考えの足りない子供だ。
どうしたらいいか、迷ってしまって口ごもりかけたシーダの、心中の焦燥も知らぬげに、姫君はゆったりと微笑ってみせる。シーダの不作法には、まるっきり、気づかなかったかのように。
「シーダはお菓子が作れるの。素敵ね」
それは、確かに賞賛の声。
姫君の微笑みに、シーダは照れ笑う。彼女に褒められるのは、いつだって、シーダにとっては嬉しくて、少し恥ずかしくて、そして、誇らしい事だった。
「簡単なんです。だけど、いつもはオグマに手伝ってもらうんだけど、今日は私一人で作ったの。初めて一人で作ったものだから、ちょっと心配だったけど、だけど、マルス様は『おいしい』って言って下さったから」
こんな風に、いつも、舞い上がってしまって、そして、先までの自分の不作法を忘れてしまうのだ。そして、姫君の前から退出してから、猛省する事になる。よく判っているというのに、この時もまた、シーダは忘れた。
こちらにどうぞ、との手招きに答えて、姫君の側近くに歩を進め、卓の脇で膝をついた。本当は、これも不作法なのだろうけれど、またすぐに立つのだから、立て膝での作業の方が効率がいい。
幸せな気分のままに微笑んで、手にした包みを卓の上に置く。選り分けるための皿は、魔道士の少女が持ってきてくれるだろうか。
「シーダは、マルスの事が好きなのね」
隣の部屋を気にしていたシーダは、びっくりして振り向いた。
顔が赤くなるのが、自分でも判った。
「違うの?」
姫君が、優雅に小首を傾げる。
「いえ、あの、…違いません、けど…」
シーダにとって、マルスは、優しい兄であり、夢の王子様であり、理想の異性像であり、憧れそのものだった。
だけど、面と向かってそれを指摘されるのは、気恥ずかしい。
真っ赤になって俯いたシーダのそんな微妙な心の機微は、姫君には判らないらしかった。不思議そうに見つめている。そんな、どこか浮世離れした部分も少し、アリティアの王子に似ている気がする。それが、王子、王女らしさというものなのかもしれない、と、自身の身分を忘れ去った事を、思うともなく思うシーダの前で、姫君は小さく息をついた。
「そうね。マルスならば。きっとシーダは幸せになれるわね」
そして、うっとりと微笑う。どこか哀しげで、だからこそ美しい、そんな微笑みで。
「大丈夫よ。シーダが幸せになれるように、私が取り計らってあげる」
姫君のそんな言葉は、珍しい事ではなかった。そして、姫君にとって、大変な事でもないのだ。なんと言っても、彼女はこの大陸世界の宗主国の、現在となってはただ一人の後継者なのだ。そんな彼女にとって、その言葉は、相手に対する…この場合はシーダに対する、最大級の好意なのだと、そう思う。
ただ、シーダにとっての喜びは、そんな姫君の好意そのものであって、その権力の行使による利益にはない。
だから、笑って首を振った。姫君の、
「シーダだけは、幸せになれるように…」
そんな呟きの後に。
「一番、幸せにならなきゃいけないのは、姫様なんですから」
「私はもう、いいのよ」
当然のように返された言葉には、感情の色はなかった。
シーダは、姫君の顔を見返した。姫君もただ、シーダを見つめた。表情を動かさぬ姫君は、硝子と白磁とでできた人形のようにも見えた。
ただ事ではない。不可思議な焦燥感。
「何で?」
ぽつりとシーダが呟いた。その後は、立て続けに言葉はまろび出た。
「姫君は、オレルアン公がお好きなんじゃないの?それとも、誰かに反対されているの?そりゃ、姫様よりずっと年上だけど、とっても立派な方だし。私でお力になれるんだったら、何だって…」
「反対なんて、誰にもされないわ」
姫君が、苦笑混じりに首を振った。ゆったりと、どこまでも優雅に。
「私のする事に、本当に異を唱えられる者など、ほんの数える程にしか存在しないものよ。それに、今となってはハーディンは、私の夫として、最有力候補となっているのでしょうし」
他人事のように語った。その事が、シーダには信じられない。
だから、再度、問うた。
「姫様は、オレルアン公の事が、お好きなんじゃないの?」
それは、決して、否、と返されないと知っている問いだった。
ただ、まっすぐにシーダは見つめる。見つめ返す人形の瞳は、しかし、すぐに揺らいだ。彼女が人形でいられたのは、ほんの数呼吸分の事だった。
姫君が顔を歪めた。微笑を作ろうとして失敗した、今にも泣き出してしまいそうな子供の顔。
「ええ、好きよ」
啜り泣くような声だった。
「とても、とても好きよ」
夢見るように、そう言った。
シーダは覚えている。
豪放かつ尊大で、シーダがそうそう近くに寄れないような威圧感に満ちていて、それでも、姫君を見つめる瞳がひどく優しかった草原の国の騎士を。そして、彼の事を、融通が利かない、優雅さの欠片もない、とこき下ろしながら、彼が側にいない日はいつも寂しそうに見えた姫君を。
そして、共にいる時、二人は殆ど何も語らず、だけれど、そうしているのが自然なのだ、当然なのだとでもいうように、彼は常に姫君の傍らにいるのだ。
それが、とても素敵だと思った。
姫君の前でまれに見せる、あの無骨な騎士の、顔いっぱい、くしゃりとしかめた、子供のような笑い方。姫君が、まるで甘えるように微笑んだ、その瞳に映った、全幅の信頼感。
どんな絵姿よりも綺麗な、それは情景だった。
「けれど、私はもう、囚われてしまったの」
それが今、姫君は微笑む。全ての望みを失ったかのように。常の白いドレスさえ、まるで死者の国の衣のように映る程。
「何で?」
シーダは、大きく息を吸った。怒りにも似た思いが、腹の底から湧き上がって、唇が震えた。
「姫様は、あの人の方がお好きなの?だって、そんなのひどいわ。オレルアン公はどうなるの?だって、そんな…」
自分が、何を言っているのか、判らなかった。
いや、本当は判っていたのかもしれない。
姫君の遠い恋の噂。安全な地から、この戦場まで、ただ、少数の兵を伴ってやってきた姫君。
マルス王子の前に膝を突いて、敵の将軍の命乞いをした。ただ、そのためだけに、彼女はやってきた。
もう一度、会いたいのだ、とそう言って。
「あの人はもう、死んでしまったのに!」
口をついて出る言葉は、火のように熱く、喉を焼いた。裏切られたという思いは、どこまでも深く胸を刺した。
姫君はシーダを裏切ったりしていない。ただ、シーダが勝手な夢を見て、それを姫君に押しつけていただけだ。姫君と草原の国の騎士との、幸せな恋の夢を。
鼻の奥がつうんと痛くなり、息を止めて、熱を持った目を殊更に見開いた。瞬きをしたら、涙が零れてしまいそうだった。
「だからよ」
恨みがましく、姫君を睨み据えているように見えたかもしれない、そんな状態のシーダを前に、姫君は平静だった。口の端だけで、小さく微笑う。自嘲的なそれは、およそ姫君らしからぬ、少なくとも、シーダはこれまで、姫君の面にあるのを見た覚えのない類のものだった。
「シーダは、知っているかしら。あの人は、私の初恋の人だと、そういう噂があった事」
そんな話が、宮廷でまことしやかに囁かれていた事くらい、私だって知っていたのよ、と姫君が自嘲う。そんな顔なんか見たくなくて、何だか息まで苦しくなってきて、だけどそれは、己が息を止めているからだと気づいたので、静かに息を吐いて吸った。啜り泣きのように喉が震えたりしないように、静かに。そして、ひとつ、首を縦に動かした。
そんな噂、聞いたのはごく最近の事だったけれど。
「それは、多分、嘘ではなかったの。ただ、あの人に憧れていて、あの人が好きだと思っていて。だけど、あの人が生きていてくれれば、そのうち、すっかり忘れて、そんな想いがあった事さえ忘れてしまっていたでしょうね」
だから、ただ、生きていてほしかったのだ。己があの人を忘れるために。
「私は、シーダが思うよりずっと自分勝手だし、ずっと利己的なのよ」
姫君の微笑みが哀しくて、胸が痛い。
「あの人ね。私を逃がしてくれた時、『逃げたいか?』って、そう訊いたのよ」
既に、シーダからの返答は必要としていないのかもしれない。シーダを見つめながら、どこか遠い目をした姫君は続ける。
「結局、あの人は自分がそうしたいと思って動いた事なんか、一度もなかったんだと、そう思うわ。私を助けたのも、私がそれを望んだため。戦場で死んでいったのも、国のため、国王のため、部下達のため。自分の気持ちなんて、どこにも、誰にも残さなかった」
白いレースは、あるかなしかの風を受けて、揺れた。それだけが、今、この部屋で、命あるもののようだった。
初めは憧れ、そして、次には憎んだ。国の滅びと肉親の死と、彼女の愛すべき世界を破壊した責を全て、彼ひとりに押しつけて。
そして今。あの人を憎んではいない。決して、憎んではいない。ただ、疑問があるだけだ。
結局、あの人は何を思い、何を欲していたのか。
だけど、答えを出す前に、あの人はいなくなってしまった。もう二度と、己の前に姿を見せる事もない。
「ひどいわよね。なのに、私はもう、あの人を忘れる事ができないのよ。馬鹿みたいじゃない?」
答えのない問いは、そうであるが故に、心の奥底に残り続ける。まるで、逆光の中に翻った人影が、残像となっていつまでも、瞳の中に残るように、あの人はいるのだ。おそらく、この先もずっと。
オレルアン公は、救いにはならないの?
そんな問いも、発せられる事なく、喉奥に凝って消える。
誇り高いこの人にとって、オレルアン公の想いはいわんや、自身の公への想いすら、今や重荷であり、苦しみにしかならないのだ。
シーダは、零れる涙を拭おうともしなかった。何を言ったらいいのか判らなくて、ただ、姫君の前に立ち尽くした。
どうして、思い通りにならないんだろう。何で、みんな、幸せにならないんだろう。
もう、何も判らなかった。
ただ、何かが間違ってしまったのだと、それだけはシーダにも理解できた。ボタンを掛け違えたのは、どこからだったのだろう。
あの人が生きていたら、彼ら同盟軍の前に投降していたら、姫君は幸せになれたの?
オレルアン公を好きにならなかったら、幸せになれたの?
あの人が、姫君を助け出さなかったら?
この戦争が起こらなかったら?
それでも、あの人と姫君とは出会っていたのだ。
華麗で豪奢な宮廷で、世界で最も高貴な王女様と氷の国の騎士は出会った。
会わなければよかったのに。こんなに哀しい結末になると判っているのなら、初めから出会わない方がよかったのに。
しゃくり上げるシーダを愛おしげに見つめて、姫君は微笑んだ。自嘲的でもなく、哀しげでもない。慈愛の天使は、そっと手を伸ばすと、シーダの頬に指を滑らし、伝う滴を拭い取った。
哀しいのは姫君の方なのに。
そう思ったら、ますます涙は溢れ出た。
後から後から溢れるそれは、もう姫君の手で拭いきれるものではなかった。それでも、姫君はシーダの涙を拭いてくれる。だけど、涙は止まらない。
悲しいやら、申し訳ないやらで困ってしまって、顔を上げたら、姫君とそのまま、目が合った。
姫君は、泣いていない。ただ、静かに微笑んで、シーダを見つめているだけだ。
「…姫様は、何故、泣かないの?」
「シーダが、代わりに泣いてくれるから」
そして、涙の代わりででもあるかのように、微笑むのだ。
「貴女はもう、私の事が嫌いかもしれないけれど」
びっくりして、首を横に振るシーダに微笑みかけて、姫君は続ける。
「私、貴女の事がとても好きよ」
人のために泣く事ができる貴女は、誰よりも綺麗な人だから。
「だから、貴女は間違えないでね」
覚えていてね。貴女だけは、決して、大切なものを見誤らないように。
「貴女だけは、幸せになってね」
シーダは、彼女の事が好きだった。とてもとても、憧れていた。物語の中に現れる、綺麗な、ただ、綺麗な人。
傷一つ、染み一つない、完璧な人。
きっと、彼女には、めでたしめでたしで終わる、そんな物語の結末が用意されているのだと、シーダは信じた。
だって、人々は優しく、世界は愛に満ちている。
約束された最後の幸せは、きっと、彼女の上に舞い降りる。
姫君は、花園に佇んでいる。
風が吹き、幾らかの花びらを舞い散らせ、姫君の解いた髪をかき乱した。
長い金の髪と白いドレスと、咲き誇る千の花、万の花。
花の檻に囚われて、姫君はただ、救い主を待っている。
誰もいない花園で、幾千夜、幾万夜。
姫君が待っていたのは誰だったのか、答えられる者はいない。
END・
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