白き残像黒の永久(とわ)〜終わり


永遠の夢をみる



それは、ひとつの物語。ただ、それだけのことだった。



わたしは、騎士王国と呼ばれる国に生まれた。雪、氷、鋼鉄。そして、踊る暖炉の炎と人々のおおらかな暖かさ。それらは全て、この北の国を端的に示している。
冷たくて暖かい。固くて柔らかく、冷徹で、また、何よりも優しい国であり、人々だった。
わたしが、月足らずで生まれた子供、生き残る算段もつかない小さな子供だったからだろうか、父と母は、ひどくわたしを可愛がった。
母は、よく言っていた。
『あなたは、御祖父様にそっくり』
母の父にあたる人は、遠く大陸の国からやってきた騎士だったという。黄金の髪を持つ彼は、決して、尊い血筋という訳ではなかったが、何よりも優秀で忠実な騎士であった。
父は言う。
『おまえの瞳の色は、祖母さんと同じだよ』
酒場を営んでいた祖母は、大きな優しい手を持つ人だった。もう顔も覚えてはいなかったが、わたしを随分と可愛がってくれたらしい。今でも、酒場の空気に和むものを感じるのは、おそらく、この祖母のおかげなのであろうから。
大きくがっしりとした岩のようだった父。少女のように細く、儚かった母。
いかにもそぐわない、しかし、だからこそ、だったろうか、二人は、とても仲のよい夫婦だった。父が、母を慈しむ心、母が、父を信頼する様は、幼い子供の目にも明らかだった。
わたしは、父と母の息子であり、この国の子供であった。
城詰めの仕事に就いて後、耳に入った噂話は、全く異なる話の存在をわたしに教えはしたのだが、それが一体、何になるだろう。
よくできた物語。登場人物達が、誰一人、認めた訳でもない。
わたしがどちらをより信じたか。それは、言うまでもない事だった。
けれど、大半の人々は、わたしの父と母の話を信じなかった。当事者とされた者達が、誰一人、肯定しなかった、もうひとつの話を信じた。
結局のところ、人々にとっては、どちらも物語に過ぎなかった。ただ、どちらをより好むか、というだけの話であり、そして、好まれたのは、わたしの両親を否定するものだった。
面と向かって、わたしにそれを告げた者はおらず、故に、わたしが人々に反論してまわることもなく、だからだろうか、人々はわたしにやんわりと、借り物のようなその立場を押しつけた。
国王に目を掛けられ、人々の好奇と崇拝の視線を浴び、実際の身分と年齢とにそぐわぬ地位を与えられ、それでも、何も気づかぬ素振りで。
まるで道化のようだ、と幾度嗤ったことだろう。
何故、こんな事をしているのか、何故、こんな事になってしまったのか、自分でもわからなかった。
あの少女に出会ったのは、そんな頃の事だ。
国王よりの親書を携え、諸国を巡る折りだった。その爛熟に相応しく、ぬるい空気に満たされたその国は、豪奢で華麗で、そして、魔物のように深く小暗い国だった。
大広間に集まる人達を見下ろす、高い位置に据えられた椅子にゆったりと腰を下ろし、少女は、小さく、欠伸を洩らした。ただただ、退屈そうだった。目の前の大人の追従を歯牙にも掛けず、差し出される宝飾品に心動かされる様子もなかった。
きっと、この少女にとっては、己の前には、たったひとつの世界、たったひとつの物語しか、存在しないのだろう。
王女として生まれ、父王や兄王子に溺愛され、叶わぬものなど何もなく、己の周囲の闇など目に入らない。
その愚かしさ故に、少女は幸福でもある。
それを祝福する気になど、決してなれるものではなかったが。
その時、順番に基づいて前へと進み出て、彼女の前に片膝をついたわたしへと、少女は確かに、意識の伴った視線を向けた。
人々に愛される存在は、それ故に、そうでない感情を持つ者に対して敏感なのかもしれない。
その時、少女は確かに、わたしに対して不快の念を抱いた。小さく動かされる口元が、声にならない声の存在を示していた。それは、発されるまでもなく、わたしに対する非難、不快を表す言葉だったろう。
しかし、実際には、少女は何も言わなかった。ただ、怒りにも似た表情でわたしを睨み据え、そして、ふいと顔を背けた。
あまりにも幼いその反応に、心中でのみ、苦笑を洩らす。
絹糸のような金の髪と、日に当たる事もないのだろう白い肌。硝子を嵌め込んだように見える青い瞳。
国王と同じ色彩は、国王自身が、この国の人間であるが故だろうか。
祖国の主は、この国の貴族の子孫であり、また、今でもこの国の貴族だった。
機械的に腰を屈めて、その場から下がる。他の人々と同じように。
それで、わたしの仕事は終わった。
後はただ、時間が流れるのを待つのみの、その祝宴の場で、不思議と記憶に残ったのは、愛玩人形のような少女の姿。そして、少女の姿に喚起された、己の主である国王の事、だった。



二度目に出会ったのは、戦場だった。戦闘の合図となった雷と共に攻め入った城内で、既に浮き足立っていた敵兵は物の数ではなく、その城は速やかに占拠された。
奥まった場所にあったその部屋に、少女はいた。部屋の瀟洒さにそぐわない男達の姿を、怒りに燃えた瞳で睨め付けて。
それでも、不思議なものだった。初めて見た時と同様、人形のような印象は拭えなかった。
その人形の視線が、わたしの姿を捉える。と同時に、彼女は愕然としたように、目を見開いた。わたしを覚えていたのだろうか。それとも、わたしの鎧姿から、わたしの立場を見取ったのだろうか。
彼らの分家筋に当たるグルニアが、主家でもある彼女の国を攻めるという事実を、彼女がどのように受け取ったかは知らない。
既に聖王家の断絶は、決まっていた。そして、彼女だけが生き残る、という事もまた、決められていた。
彼女が、女であったから。
ドルーア連合が必要としたのは、聖王家の女。神聖な血筋に近ければ近いほどよく、自身、何の力もない存在であれば、なおいい。彼女は、その全ての条件を満たしていた。
旧王家の血を引く、新支配者の子供が存在すれば、それを全面に押し立てて、旧体制派よりの譲歩も引き出せる。
この国を支配統治するにあたって、有効である存在を得るためだけに、今、彼女は生きている。
しかし、必要なのは、彼女が将来産むだろう子供だけであり、それが得られた後は、彼女自身の存在はまた、有害となる。
辺境の城に幽閉され、人々の口の端にものらなくなった頃、毒が用意される事になるのだろう。特に珍しくもない、歴史の中に幾らでも存在する、それは末路だった。
しかし、それが事実であろうとも、その境遇を気の毒に思ってはならない、という事には、ならない。
過去の幸福を知るが故に、彼女が哀れだった。
ごく自然に、彼女の前に片膝をつき、手を差し伸べた。その手を振り払い、彼女は怒りと憎悪のこもった目でわたしを睨み据えた。
それもまた、当然だったろう。
彼女にとっては、世界を破壊した者としてしか、わたしの存在は認知されない。そして、それは真実だ。この手で彼女の幸福を砕いておきながら、同じ手で彼女を慰撫するなんて、ただの偽善でしかない。
手を引き、立ち上がったわたしは、彼女を見下ろす。勝者として、事務的に接する事。ただ、それだけが、わたしが彼女のためにできる事だった。



「…ああ、どうしたらよいのだろう…」
王は呻きつつ、頭を抱える。まるで、その場から消え去ってしまいたいかのように。
ほんの少し前までは、反乱軍、と呼ばれていた同盟軍が、国境近くまで迫ってきていた。王を護るはずのもうひとりの将軍は、今、この都を離れている。当の王の命によって。
せめて彼を呼び戻しては、との進言も、反芻の間もなく、棄却された。
「あの者は嫌いだ」
王は、そう言った。将軍が、王自身の父でもある先王の代から仕える忠臣であったが故に。
「あの者は、いつも父と私とを比べる」
優秀な施政者として、有能な軍人として、名高かった先王と比べられる事、それを王は最も厭うていた。しかし、それは、彼自身が先王を厭う事には繋がらなかった。むしろ、王は父王を深く敬愛しており、父王のようになりえない己を深く嫌悪していた。
「都には、そなたがいればよい。勇猛なる黒騎士団がおれば、都の防備は万全だ」
自身よりも先王に似ていると言われる男、自身の異母弟だと信じる男に、全てを託してしまう程に。
「陛下…」
この人は、ただ、弱いのだ。
平時であれば、それでもまだ、許されたのであろうに。今、この時代に、国の施政を担ってしまった事は、彼にとっての最大の不幸であった。
「…陛下は、ひどくお疲れのようです。一度、都を離れられてはいかがでしょう」
我ながら、作られたものとは思えぬ優しげな声音に、王は顔を上げた。不審の念など、欠片も浮かんではいなかった。
「国王が、都を離れる訳にはいかぬ。黄金錫が都に存在しないなど、あってはならぬ事だ」
そこに、少し非難するような色が混じる様は、周知の事を今更語らせる部下への怒りではなく、大人からの注意を受けた子供の不満のようにさえ、映る。
わたしは、なお一層、暖かな微笑を作る。決して、本心が洩れる事のないように。少年の我が儘を許す大人のような顔で。
「私がお預かり致しましょう」
その瞬間、王の顔から表情が消えた。
国王に、王権を委譲しろ、と告げながら、それでも、わたしは何も感じなかった。それは、一つの賭だったのだ。
王が、簒奪を目論む者としてわたしを更迭する事。そして、わたしに代わってこの都を護るために、遠ざけられた軍司令を呼び戻す事。
国王がわたしを重用し続ける事を避けられれば、軍司令の言葉を重視するようになれば、この国は護られるかもしれない。少なくとも、その矜持だけは。
「ほんの少しの間だけです。勿論、敵軍を退けた後、陛下がお戻りになれば、すぐにお返し致します」
そんな欺瞞に満ちたわたしの言葉に、王は錫を差し出した。王家の者のみが持つ事を許される神聖なる錫を。
彼は、涙を流しさえしたのだ。今まで王族としての地位を認められなかった事を、今まで救い出せなかった己を許してほしい、とそう言って。
心根の優しさも、善良さも、ただ、愚鈍さへと転化される。この戦乱の世の中では。
さしたる証拠もないのに、新たな王族の存在を認めるという事の危うさを理解していないのか、それとも、彼にとって、それを圧しても認めたかったのか。
それ程に、国王という地位が重荷であったのか。
金の髪と白い肌。硝子のような青い瞳の、たったひとつの物語に生きる人。
あの時、少女を救った、と言えるのかどうか。
ただ、彼女の逃亡に手を貸した時、わたしの進むべき道は決してしまったのだと思う。
自身、信じてもいない『国王の異母弟』になりすまし、黄金の錫を握る。
「いつかきっと、貴方を殺す」とそう言った少女の姿を、憎しみに燃える瞳の色を、夢見るように想いながら。


たったひとつの物語を信じていられる人。
わたしは彼らを羨望していたのだろうか。
それとも、愛していたのかもしれない。


わたしは、ただ、この国の子供だった。それだけで構わなかった。



END







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