白き残像黒の永久(とわ)〜エスト

白き風の揺らぎ
仄かな闇の静寂

「うひゃ、寒ー」
一際、強い風が吹きつけ、エストは身を縮こまらせた。
上だったら判る。上空は、どんな国のどんな空でも寒いものだ。空気が薄いし、風を避ける障害物もない。だけど、この国は地上も寒い。
確かに北国だと聞いてはいたが、こんなにも寒いとは思わなかった。故郷の冬とは質が違う。体の奥の奥、血の一滴まで凍り付いてしまいそうだ。
この国よりも北には、もう国はない。氷の海の向こうには、ただ、住む人とてない氷の大地が続いているだけだ。氷の大地から生まれ、氷の海を渡り、今また、この国をも氷の地へと変えようとしている。そんな思いすら抱かせる氷の風。
吹き抜ける風がその勢いを弱めた一瞬、固まった足を叱咤して、エストは目の前の店へと飛び込んだ。瞬間、胸の奥に凍り付いていた息が溶け出して、そしてようやっと、呼吸ができるようになる。
当初よりの目的地であった店は、顔にこびり付いた氷の粒を一瞬にして溶かし出すほどに暖かい。いや、氷を溶かすのは、人々の気持ちそのものなのかもしれない。そう思わせるほどに、そこは雑多な喧噪と熱気に満ちている。
「エスト、お帰り」
「お帰り、エスト」
「ただいまー」
卓のあちらこちらからかかる声を、一杯の笑顔で返して、エストは既に定位置と化した店一番奥の小さな卓へと歩み寄る。椅子につくなり、「おかえり」と女将が、大きなマグを差し出した。
「外は寒かったろう?」
「んーもぅ、寒い寒い。何でこんなに寒いのかなぁ」
渡されたマグを両手で包み込むように抱え込む。まるでしびれるようだった手先に、それでようやっと血が通い始める。
少量の火酒にたくさんの蜂蜜、そして沸き立ったばかりの熱いお湯。この飲み物は、女将の笑顔と共に、体も心も暖める。
エストがこの国に来て、一番最初に気に入ったもののひとつだ。
「ああ、外から来た人はみんなそう言うけどね。そりゃ、この国は氷の上に乗っかってるもんでさ」
まるで子供のような仕草で子供の飲み物を美味そうに飲み、今また、彼女の言葉に子供のように顔を顰めた少女に、微笑いながら女将は続ける。
「まぁ、これも外から来た人が言ってた事さ。わたしらにはいつもの事だから、判らないから」
「おかしいよぅ、そんなの」
エストは、唇を突き出す。
「寒いもんは寒いじゃん。もっと寒くない場所に移ればいいのに」
「だけど、外がこんなだから、その飲み物はそんなに美味しいだろう?」
悪戯っぽく笑われて、エストは憮然とした顔を隠すように、ずるずると手の中のマグを啜った。
確かに飲み物は最高に美味しいけど、だけど、もっと暖かい場所に住んだ方がずっといいのに。そうしたら、もっとずっと楽ができるし、それに暖かい方が何より、楽しい。
エストの心中が判るのだろう、女将が苦笑して、取りなすように言う。
「そりゃあ、ここは大変な場所だけれども、ここがわたしらの故郷だからね。故郷ってのは、そんなに簡単に捨てられないもんさね」
判んない。
そう思ったが、エストはそれ以上は口にしなかった。
この国の気候は、まるで、この国の人々の頑迷さをそのまま映したかのようだ、と言われる。
常日頃、学者などの『偉い人』と分類される人の言う事を信用しないエストだったが、この意見に関しては、なるほど、と思った。だが、それ以上を考えるのは止めにした。
理解できないものは、何度聞いても理解できないものだし、それならば何度聞いても同じだろう、と思ったので。
溶けない氷の上で生きている人々は、肝っ玉が据わっている、と、そんな風に思わせる部分は多々あったし、目の前の女将もまた、嫌いじゃない。だから、理解できない部分なんか、どんなにあったって、平気。
そもそも、エストは人間というもの自体、大好きだったから、よほどの事がなければ、人を嫌ったりはしなかった。
『偉い人』を別にして。
「ケライノは、大丈夫だったかい?」
女将が、この冷たい風の中をエストがつい先程まで出ていた原因に触れて、エストはマグの中身に吹きかける息のふりをした溜息をつく。
「…うん、元気だったよ」
ガミガミ怒る二番目の姉の顔が脳裏を過ぎる。
年の一番近い姉の口癖。
『斥候に出る時は、目立つの厳禁だからね。間違っても、天空騎士だ、なんて言うんじゃないよ』
…しょうがないじゃん。私は、天空騎士じゃないふりってどんなんか、判んないんだからぁ。
内なる姉の小言を振り切るように、エストは手の中のマグを一息に呷った。
天空騎士、とは、有翼馬との感応を果たした者の総称である。有翼馬との感応、とは、有翼馬と人とが意識を繋ぐ、という事だ。そこに、どのような力が働くのかは、判らない。有翼馬と人の子は、互いに二つの意識を読み、心に抱き、理解して、そして、魂の伴侶を得る。互いに互いを、永遠よりも永遠に繋ぎ、繋がれる。その甘美な関係故に、多くの者達が有翼馬を得ようと彼らに近づき、そして、感応を果たせず、彼らに食われていった。精神面においても、物理的な意味においても。
普段の彼らは、気性の荒い雑食性の獣なのだ。それを知ってなお、人は彼らに近づき、そして、ごく少数の者のみが、彼らに受け入れられ、彼らを得る。
共鳴、あるいは共生。それが、有翼馬とつがいとなる人の子との関係を表す言葉。
彼らはふたりでひとつの存在であり、また、ひとりでふたつの存在である。しかし、それ以外では、全く他の人々と変わらない。彼女らの言う『回線を遮断』すれば、ごく普通の戦士に過ぎない。
しかし、エストには、『天空騎士と気づかれない演技』というものが判らない。姉達が自在に使いこなすあらゆる顔を賛嘆の目で、時には驚嘆を込めて見つめながら、エストには決して、同じ事はできないのだと、自分でも判っていた。それは多分、エストの天空騎士としての特異性故に。
嘘をついても、絶対、バレる。だったら、最初から本当の事言っちゃった方がいいじゃん。
それが、エストの言い分だったが、姉がその言い分を呑んでくれるかは判らない。しかし、幸いにも現在、姉はここにはいないので、エストも自分の思い通りを通す事ができる。
まだ熱いマグの中身を無造作に飲んだエストは、当然のごとく、口の中に軽い火傷を負い、また女将の手を煩わせる事になったが、その様を見る女将の目は終始ひどく温かくて、どうも、自分の言…有翼馬を持っているという事…は、信用されていないのではないか、とそんな風に思ったりもするのだけれども。
「もう体は温まったろう。今度はもう少し、冷ましたものを持ってきてあげようね」
まるで子供をあやすような女将の言に、少しむくれながら、口内を冷やすために持ってきてもらった水を啜る。
有翼馬って、この辺にはいないから、みんな見た事ないはずなのに、だーれも「見せて」って言わないもんなー。
子供の言う事だから、と軽く流されているのだとしたら、逆説的に姉の言いつけは守れている訳で、それはそれでいいはずなのに、何となく面白くない。
椅子から伸びた少女の足が、中空でぶらぶらと揺れる。
己は、子供というほど、子供な訳じゃない。そもそも、16才は、そんなに幼いとされる年齢でもない。
別に、足が床につかないのは、私が小さいからじゃなくて、この国の人が大きいからだもん。
そうだよ、この国の人たち、ちょっと大きすぎるよ。私なんか、ちょっと、ほんのちょっとだけ、小さめなだけなのに。
誰も聞いていない事を言い訳がましく考える。その時点で既に、何よりも自身がそう思っているという事を吐露しているのに、気づかない。
からり、と扉に取り付けられている鐘が、新たな客の到来を告げた。
いらっしゃい、と威勢のいい女将の声が飛ぶ。
深く着込んだマントは、ひどく重そうだ。おまけにそのマントが踝あたりまであるので、まるで巨大な黒い固まりのように見える。
その奥に見えるのは、なめした皮を織り込んだ、纏っている人間の体型さえも隠してしまうような長衣。まるで、聖戦へと向かう僧兵が着るような。
入り口付近で、身に付いた雪と氷を払う。それは、この国では暗黙の決まり事なのだ、と前にエストも習っていたが、その様もひどく無造作なのに、人目を惹く。正式な剣技を修めた人の所作は、いつだって、綺麗だ。
これは、当たり、かも知れない。
長い間行方を追っていた探し人を遂に見つけ出した者のように、嬉しげに。細心に張り巡らされた罠の奥へと、不用意に入り込んだ獲物を見る捕食者のように、楽しげに。
ひどく子供っぽい無邪気さと残酷さのないまぜになった顔を見せて、エストは微笑う。
男の姿は、ひどく目立つように見えて、何故か、殆ど人目につかなかったようだった。直前までと全く変わらぬ人々のざわめきの中、軽く入室のための儀式を済ませると、男は顔を上げる。目深く被ったフードの端から見える目鼻立ちは整っている。少なくとも、そのように見える。彼が、席を探すように一渡り、周囲を見回す。それに、エストが軽く手を挙げた。
「ここの席、開いてるよ。こない?」
ここしばらく、エスト専用と化している卓の前には、もうひとつの椅子が据えられている。それを指し示しての言に、男は驚いたようだった。これは、エストの外見にも起因するのだろうか。外国人の、まだ子供にも見える少女である、という。
「今、混んでるから。席、空くまででもいいし、取りあえず座っといたら?」
未だ女将は戻ってこない。エストの飲み物を作るのに、手間取っているのかも知れない。そんな事は、男の意識にあったはずもないだろうが、男は軽く頷き、エストの方へと歩み寄った。
「…まだ寒い?」
マントを羽織ったまま、席につく男に対する言は、純粋な疑問。
外の寒気も届かぬ程に、今、この場は暖かい。事実、エストの席は暖炉にほど近く、時には炎の熱気に煽られ、顔を火照らせる事もある。それでも、足下から昇る冷気が体の芯を凍らせる事も事実ではあったが。
「いや…」
「だったら、脱いだ方がいいんじゃない?蒸れるしさ。そこらに掛けて、乾かした方がいいよ?」
店内では、皆がやっている事であり、それを示唆しての言葉であった。が、この国の人間であろう男にとっては、今更言われるまでもない事でもあった。
初対面の人間にも変わらぬ、エストの明け透けな物言いは、忌避される事も多かったが、目の前の男はそれほど気にしたようでもない。ただ、矢継ぎ早の言に対して、微苦笑を洩らし、「脱がない方がいいだろう」とそう言った。
「何で?返り血でも浴びてるの?」
その時、男は一瞬だけ黙り込んだ。そして、今までろくに顔を向けなかったエストへと、初めてその視線を移したが、彼女の全く悪びれた様子もない事を見取ってか、更に苦笑を深くする。
「…似たようなものだな」
「ふうん?」
エストは、首を傾げた。が、確かに、血を浴びているのだったら、下手に乾かしたりしたら、後々面倒な事になる。今まで幾らも体験してきた、教訓となる事例を一通り思い起こして、男の言葉に納得する。
「じゃ、フードだけでも降ろしてくれない?同席してる人の顔が見えないのって、ちょっと気味悪いし」
フードの奥で、また苦笑の気配がする。このほんの短い間に、男にとって、それは習い性になってしまったかのようでもある。それでも、軽い口調の言を受けて、男は目深く被っていたマントのフードを降ろして、その容貌を露わにした。
彼は、思っていたよりも幾らか若く見えた。そして、思っていたよりもずっと綺麗だった。蜂蜜のような金の髪。深く暗い夜空の瞳。まるで、聖アカネイア人のような容姿。いや、そのものである、と言ってよかった。
「…貴族?」
三貴王国と呼ばれる三つの国は、百年前のドルーア戦役の三勇者により建てられた、または再興された国だ。
聖王女、聖アカネイアのオードウィン将軍、そして、アリティアのアンリ。
再興された聖アカネイアと、聖王家により、戦役の報償として英雄たちに下賜され、彼らを盟主と戴いた二つの国。それが三貴王国の始まりだった。
この国の祖といわれるのは、聖王国の貴族であったオードウィン将軍である。神剣の救世主アンリに対して、民衆人気の点では劣るとしても、それがそのまま戦士としての技量の差とは、決してならなかった。自身、優れた騎士であったという将軍は、人を治める技量にも恵まれていたらしく、彼が世界の中心であった祖国から、この北の国へと居を移した当時、彼を心酔するたくさんの騎士達がまた、付き従った。
そんな騎士達の末裔、それがこの国の貴族達である。つまり、この国の貴族達は皆、聖王国の人間ばかりなのだ。
エストは、ほんの少し戸惑う。老いも若きも、男女も問わず、綺麗な人は大好きなエストだったが、一般的にいう『偉い人』は大嫌いだったので。
「いいや、違う」
男が一言で返す。その様に、エストは大きく眉根を寄せた。
がっしりとした体躯に相応しい顔立ちを持つこの国の人々は、お世辞にも綺麗とは言えない。しかし、聖王国の人間は全くの正反対。それを知る故に、男の言葉はすぐには飲み込めないものがある。
エストは、すぐに感情が表に現れる。そう評した下の姉が正しければ、目の前の男にも、今現在のエストの疑念もまた、見て取れた事だろう。
うっすらと男が微笑んだ。フードの奥に隠されていた時の方が、表情豊かだったようにさえ思える、儀礼的な微笑だった。
「貴族だったら、この店で食事をする機会もなかっただろうから、そうでなくてよかったと思っているけれどね」
男の言葉は、この店の料理に対する賛辞。それは、とりもなおさず、男が何度もこの店に足を運んでいる、という事で。
小さな疑念は振り落とされた。エストは、にっこりと笑う。
この店は、この辺りでは一番、美味しい料理を食べさせてくれる。だからこそ、エストはこの店を根城に選んだのだ。
「そうだね。貴族はこんなに美味しい料理を出すお店にはこないし、剣士にもならないよね」
この国のみならず、貴族が戦士となる例はとても少ない。有力な貴族になればなるほど、それは皆無といってよく、ただ、ごく少数の小貴族の子弟が騎士として、名を連ねる程度のものである。
更に、この国の騎士団は宮廷内での典礼、儀礼を司るものではない。諸国に名を馳せる戦闘集団そのものだ。貴族の若様の手に負えるものでもなかったろうし、実際、この国で最も有名な騎士団の土台を支えるのは、この国の住人達だ。
あくまでも実力主義。
それがまた、この国の騎士団を強力な存在にさせる。元の騎士達の子孫が本当の意味で貴族化してしまい、戦場に出る事を忌避するようになった、とか、元々が数に限度もある貴族達では、実戦力として乏しかった故、とか、色々と理由もあったらしいのだけれど。
剣士、と決めつけた事に対して、男はただ、薄く微笑む。エストは、それが真実だ、という事を確信していたし、当然、それは間違ってはいない。
先程煽った甘い酒に、体の隅々まで暖かい血が通い出して、ひどく陽気な気分になる。まるで、風を掴んで空に浮き上がる瞬間のよう。
「ごめんねー、あんまりお兄さんが美人さんだったからさー」
少しだけ、酒の回った時特有の幸福感に、エストは殆どはしゃいでいるかのように、明るく軽く、言葉を紡ぐ。言われ慣れているのだろう、対する男は、ただ、軽く頷いてみせた。気にしてはいない、という事を示すように、どこかしら優雅に映る所作で。
その様に、エストは更に彼を見やる。目を輝かせて、地に着かない足をぶらつかせて、無邪気で好奇心に満ちた子供そのものの様子で。
「だけどお兄さん、なんか、品がいいよね。王宮に出入りしてる人?王様に会った事とかある?」
「いや」
男の言は、それだけだった。どちらの質問に対する返答だったのかも判らない、ただ、質問それ自体に対する拒否だったのかもしれないが、しかし、その素っ気ない反応を気にした風もない。ふうん、とひとつ鼻先で頷き、エストは、手持ちのマグの中、ほんの少し残っていた酒をちびりと嘗める。
「そっか。なーんか、顔見た事ある人も、あんまりいないみたいなんだよね。やっぱ、滅多な事では会えないもんなのかなぁ」
軽く眉根を寄せて、大きく腕を組んで、少し中空を見上げる。彼女の行動と感情に少しのズレもない事は明白で、そんなあまりにもあっけらかんとした風情故だろうか、男は小さく微笑む。
人に警戒心を抱かせない。それがエストの長所であり、武器のひとつであったが、それは目の前の男に対しても有効であったらしい。先程までの形式的な微笑に、ほんの少しだけ、暖かみが宿る。
「…どこの国であろうと、そうそうお会いできるというものでもないだろう?」
諭すような男の声に、
「そぉ?」
目を大きく見開いて、
「…そうかなぁ」
ひとしきり、人生の分岐点に立ったかのように、苦悩と困惑の表情を見せ、
「………んーまぁ、そうかも知んないけどー…」
渋々といった調子で、頷いてみせる。正面から伝わる笑いの気配は、微笑ましさ半分、苦笑い半分といったところで、エストはそれに、心外そうな声を上げる。
「だけど、その国の王様が国民に顔を見せる人かどうかって、結構、大きいと思うよ。その国を知るためには」
大きく頬を膨らませて、唇を尖らせて、それでも、言葉の端には子供にあらざる視線がある。
「では、今までで知った限りでは、この国はどういう国だと思う?」
「んー、そうだなぁ」
暖かな店内を見渡せば、たくさんの人。美味しい料理とお酒で、一日の疲れを癒す人々の喧噪がこの中には溢れている。外の氷の風もここまでは届かないくらい。エストはうっとりと目を閉じる。
酒の力が、気を大きくしたものか、エストは続けた。姉が傍にいたら、絶対、ここまでは口にしなかったろうけれど、揶揄するような男の言葉に煽られて、自分がもののわからない子供ではない事を証しなくてはならないように感じて。
「この店に集まる人たちは、みんな優しいし親切。暖かい。貴族の事は、みんな嫌ってはいないみたいだけど、あんまり知らないって感じ。ちょっと、余所の人って思ってるみたい。王様の事も、そうなんだよね。貴族と一緒。少なくとも、私の今まで会ったこの国の人は、あんまり王様に親しみは感じてないみたい」
「…そうだな。確かに、この国の王は『貴族』だ」
ひとつ、ゆっくりと息をつく程の時間の後、男は頷く。それでまた、エストは嬉しくなる。この場に姉がいたとしたら、張り手一発ではすまなかっただろう。
「だけど、そういうのって危ないよね。そういう隙間があるとさ、この国の人がちゃんと王様の命令を聞くか、判らないじゃない?例えば、戦争になった時なんか…」
そこでエストは口を噤む。例え、戦いの匂いはまだ遠いとはいえ、この国は今もまた、戦争中なのだ、という事を思い出して。そして、角を生やした姉の顔が脳裏を過ぎって。
もしかすると、まずい事を言ったかも知れない。
エストはそわそわと身を揺する。早く女将さんが来てくれないだろうか。どうしたんだろう。すぐに飲み物を作って、持ってきてくれると思っていたのに。
「君は、何処から来た?」
びくり、と身を震わせる。目の前の男に、何処まで気付かれてしまったか。
「海の向こう。竜王国の出身なんだ」
それでも、何でもない事を取り繕い、殊更に、明るく対すると、
「天空の騎士達の国か…」
男が呟くように言う。
これは、本格的にまずい、かもしれない。
「なるほど、竜王国は、国王自らが竜騎士だった。妹王女も、将軍位につく騎士であったはず。この国の王では、物足りなく見えるのだろうね」
かもしれない、どころではない。
完璧に、まずい。
強張る笑顔に滲む汗は、決して、酒や暖められた室温のせいばかりではない。
そう。男の言うように、竜王国の現国王や妹王女は、この国の『貴族』のような存在ではない。彼らは、常に戦士達の前に立つ、本物の総帥だ。エストのみならず、竜王国の兵士達は皆、それをよく知っている。
しかし、その認識が民衆にまで浸透しているか、と言えば、必ずしもそうではない。王族など、一度も目のすることなく一生を終える者もある民衆と王宮に近い場所にいる兵士達とでは、認識に温度差が生じる事も、また当然である。
しかし、男は、エストを王宮側、つまりは兵士側と見ている。そんな風に感じられて、取りあえずエストは、今できる中で、一番危険度の低いだろう反応を返してみる。
「あはははは」
つまり、肯定も否定もせぬままに、笑って頭を掻いてみる。我ながら、すこぶる白々しい笑いであったし、それは相手も判っているだろうとは思ったが。
幾ら、信じられていないとはいえ、天空騎士だ、と自称する子供の事は、周囲で噂になっていはしないだろうか。この国には有翼馬がいない。故に天空騎士もいない。物珍しさも相まって、一度も見ておこうという者だって、いないとも限らない。というより、実際、その手の輩の方が多いような気がする。
この男が、天空騎士だと称する子供を調べに来た兵士、という事は、あり得ないだろうか。
彼女の思考はものすごい勢いで回転を始めている。いや、既に空転を始めている、といった方が、正確だったかもしれない。
どうすればいいのか、判らない。そもそも、エストはこういった事が苦手だった。相手の思惑を読む事も、その上で自分に有利な風に状況を動かす事も、全くの不得手なのだ。そんな場合じゃないとは思いながら、姉二人だったら、こういう場合もさらりと切り抜けると判っているから、なおいっそうに、姉達の事が恋しく感じられてくる。
ほんの一瞬、脳裏に浮かんだ姉の面影を振り払う。実際、今、姉達はここにいない。ならば、自分で何とかしなくては。
エストは目の前の男に気付かれないよう、腰の辺りをそっと撫でた。衣の上から、懐に忍ばせた短刀の存在を感じ取って、それで少しだけ、安心する。だけどそれは、ほんの気休めのようなもの。多分、今、目の前の男と戦っても勝てない。有力な武器を持たない事を差し引いても、相手の方が戦士としての力量は上だ。それだけの実力差を嗅ぎ分けられるほどには、エストも実戦場を体験している。名誉とやらを護って死ぬ、なんて、馬鹿げた妄想だ。死んだ後に評価されて、一体、何になるというのか。全ては生き残ってこそ、だった。
逃げた方がいいのは判っている。けれど、今は未だ飛べない。氷の風が強すぎて。
ケライノが感じるだろう寒さは我慢するにしても、この氷混じりの強風は空飛ぶ者には致命的だ。
ならば、何とか誤魔化して、この場を乗り切ってしまうしかない。そもそも、未だバレたと決まった訳でもない。私が、天空騎士だと気付いたという証拠もない。
そう。まだ、何とかなる、はず…。
引きつり気味ながら、何とか笑顔を取り繕って、口を開いたちょうどその時。
「遅くなってごめんよ、エスト。他のお客さんの注文が入っちまってね…」
威勢のいい声と共に、女将が卓の前へと滑り込んできた。
それが、エストの前に座る男を見るなり、硬直したように立ちすくむ。手から、エストのために作った飲み物を入れたマグがこぼれ落ちた。大きなマグは、大きな音を立てて床へとぶつかって、中身をエスト達の足下へとぶちまけたが、幸いにも割れたりはしなかった。しかし、それに女将の息を呑むような悲鳴が被さって、一瞬にして、店内は静まりかえる。
そこで、皆はエストと共にいる男にようやっと気付いたらしかった。ざわざわ、と、ただならぬ気配が立ち込め始める。
もしかして、この人、結構、ヤバい、人?
上目遣いに男の様子を窺うが、当の男は平然としている。
これはいよいよ、ヤバいかも。
その時、我に返ったらしい女将が、腰に掛けていた布巾を揉み絞るようにしながら、半泣きの様子で訴えた。感極まった余り、常よりもずっと大きな声で。
「お許し下さい、騎士様!この子は、そりゃいい子なんです。お取り調べを受けるような事なんか、してません!悪気はなかったんですよ、自分が天空騎士だなんて、子供のちょっとした可愛い背伸びなんですよ。どうか、許してやって下さい」
おばちゃん、やっぱり信じてなかったんだね、とか、だけどこれって庇ってくれてるんだよね、とか、いや、ありがたいんだけどさ、とか、思いは脳裏を駆けめぐったが、口をついて出たのはたった一言。
「………………………………駄目じゃん」
どうやら、男は僧兵ではなく、剣士でもなく、騎士だったらしい。それも、民衆達から恐れられている。
一般に認知度が高くて、怖がられる騎士といったら、この国では。
「…もしかして黒騎士?」
肯定も否定もない。男は相変わらず平静だったが、しかし、別に答えを期待してもいない。
エストは、目眩がしてきた。
この国で最も勇猛、かつ最も冷徹。戦場では『漆黒の悪魔』とも称される黒騎士。それが、何でこんなところで酒を飲むのか、と激しく問いつめたかったが、しかし、今更それを言ってもしかたがない。
王宮関係の情報を集めるのに丁度いい相手を捕まえたと思ったのに、とんだしっぺ返しを受けてしまった。
やはり、これで連行されるのだろうか。痛い目に遭わされるのだろうか。拷問なんかされそうになったら、もうそれだけで、己は全て白状してしまう。少し調べただけでも、すぐに鬼姫配下の者だと判ってしまうだろう。彼女の祖国の竜王国は、この国とは同盟国だったけれど、彼女の主君は国を裏切り、同盟軍に参加している。つまりは、この国の敵である。その配下の天空騎士であるエストも、やはり、この国の敵、という事になるんだろうか、もしかして。
そもそも、あまり思考回路の複雑でないエストには、もうどうしていいのか、判らなかった。己の思考も収拾がつかなくなっているのに、事態の収拾など、つけられるはずもない。
ただぼんやりと、痛いのは嫌だなぁ、と考えるともなしに思うエストの前、男はゆっくりと立ち上がる。
「…すっかり、敵役になってしまったな」
小さな呟きだった。男の挙動に全神経を傾けていたエストさえも聞き落としてしまいそうな程だった。苦笑混じりのそれに顔を上げると、そこには毛ひとつも表情を動かさない綺麗な男の顔があった。
「虚言癖があるからといって、こんな子供を捕らえて尋問する程、我が騎士団は暇ではない」
もう、先程までの暖かみは欠片もない。その声は、まるで虚空を吹きまく風のように固く、冷ややかだった。
「遠からず、この国は戦場になる。外国人の子供がいつまでも滞在しているのに、相応しい地であるとも言えない。早々に、この国を出るべきだろうな」
「…風が止んだら」
対するエストのいらえもまた、比例するように無感情なものとなった。彼女は混乱すると、最低限の事実しか口にできなくなってしまう故、であったのだが、明らかな説明不足の感は否めない。確かに風は強かったが、大陸行き、あるいは竜王国行きの船が欠航になるという程ではない。ただの旅行者である少女に、そこまで風を気にしなければならない謂われはない。微妙な風向き、そして何より、現在吹き荒ぶような氷雪それ自体に弱い有翼馬を伴ってでもいない限りは。
しかし、男がエストの様子を気にした風もなかった。大きなマントを翻しながら、背を向ける。
「…気付かれぬうちに…」
すれ違いざま、耳に届いたその囁きに振り返る。静まりかえった店内を悠然と通り過ぎる、決して振り向かぬ背中が、開かれた扉の向こう、白く凍った世界への扉を越えて、そして消えた。
今では、この暖かな世界は本来の秩序を取り戻し始めている。ざわざわと人々がざわめき、女将は手にした布巾で床に零れた酒を拭き、転がったマグを拾う。
もう一度、エストの飲み物を作るために、厨房へと下がる女将と笑い合いながら、再び女将が戻ってくる頃には、このぎこちなさもすっかり消えてなくなっているのだろうと思われた。
男が、どこまで気付いていたのかは判らない。だが、確かに彼は見逃してくれた。
他の者に、気付かれぬうちに…。
何故、あんな事を言ったんだろう。エストは彼の敵なのに。
戦場で会う敵なんて、戦闘前に減らせるだけ減らしておいた方が得なのに。
蜂蜜みたいに甘くて、氷のように冷たい黒騎士。もし、戦場で会ったら、己は迷わず、彼を殺すだろうけれど、それまでの間、何故、あの人がそんな事をしたのか、考えてみようと思った。
END・
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