白き残像黒の永久(とわ)〜始まり


悪魔のように黒く
地獄のように熱く
天使のように潔く
恋のように甘い…

ターレンの言葉



わたしがあの人に初めて出会ったのは、未だ戦乱など影すらも見えぬ頃の事だった。
わたしは幼く、神聖なる、といわれる王家の中でも、最も若輩であり、何の力も持ってはいなかった。それでも、王家の中でも最も位の高い父、その次に位の高い、皇太子であった兄のみならず、親族全ての者に愛され、慈しまれてわたしは育った。
今にして思えば、父、兄はともかく、親族、とりわけ外戚にあたる公爵達がわたしを可愛がったのは、彼らの上に立つわたしの父と兄をも動かせる存在であり、その上、わたし自身が彼らの勢力を害する敵には育ち得ない存在だから、であったのだろう。
王家の中でさえ、勢力闘争はあり、そして、わたしはそれに全く気づきもしなかった。
ただ、利用価値のある存在として、または愛玩されるだけの存在としてありながら、全くそれに、気づいてはいなかった。
それに、初めて気づかせたのは、あの人。
生きる事を楽しむのに長けた人々の作る世界は、豪奢かつ軽やかで、絢爛。だけど物心ついた時から見慣れたそれらは、既に己の心に何を与える事もない。綺麗なものを綺麗とも思わない、そんな幸せなわたしは、常と変わらぬ宮廷の園遊会で、あの人と初めて出会ったのだった。
季節に併せた色彩、贅と趣向とを凝らした衣装。男も女も老いも若きも、それは変わらぬこの国で、あの人の姿はひどくあっさりとし過ぎているように見えて、それでも見劣りするとは思わなかった。
周囲の華やかな色合い全てを否定するかのようにそこにあった黒い騎士。
その姿は、ひどく象徴的だった。
ふわふわと漂うような周囲の笑いのさんざめきも、遠い氷の国から来たその人のもとへは届かない。自身、氷の彫像のように佇むその人の姿は、そんな周囲を責めてでもいるかのようにすら、わたしには映った。
そうは言っても、実際、当時そこまで理解していた訳ではなかった。ただ、ひどく近寄りがたい、人を寄せ付けない、そんな空気を感じ取っていて、それはあの人が外国人だからかもしれない、とも思っていたのだ。
外見だけなら、同国人のようだった。蜂蜜のような金の髪と綺麗に整った顔をして、ただ、夜のように深く暗い藍の瞳とすらりと長身なせいで目立ちはしないが、がっしりとした体つきで、それが彼をこの国の人でなく見せていた。
見慣れた流れるような所作ではなく、動きのひとつひとつが型になったきびきびとした動作で、彼はわたしの前に片膝をついた。微笑みひとつ浮かべなかった。
その時、彼が何といったのかは覚えていない。おそらく、便宜的な挨拶に過ぎなかったのだろう。ひどく素っ気なく頭を下げ、そして素っ気なく背を向けた。
そうしなければならなかったから、そうした。何よりも雄弁に語る、その挙動。
怒ってもよかったのだろう。わたしはその頃、わたしに敬愛を捧げない人間、というものに、慣れていなかった。だけれど、そんな事に腹を立てて、父や兄に訴えるのも、また恥ずかしい事のような気がして、だけれど、その人の事がひどく気になって。
社交好きな従兄へとそれとなく、聞いたのだ。一体、あの人は誰なのか、と。
外戚にあたる公爵家の末息子は、勿論、あの人の事を知っていた。宮廷に現れる人の中で、従兄が知らない者など存在しないと言われていたし、実際、それは正しかった。
綺麗な水色の瞳を好奇心に輝かせて、従兄は言ったものだ。
「王女殿下に於かれましては、騎士王国の将軍をお好みですか?それでは、私の元へと降嫁して下さる幸運は、淡い雪と消えてしまうのでしょうか。かの国ほど、我が国の冬は辛く、長くはございませんからね」
わたしを己の目の届かぬところへとやる事を忌避する父が、他国の王族へ、ではなく、この従兄の元へとわたしを嫁がせようと考えている事は知っていた。わたしも彼の事は嫌いではなかったが、わたしを己の結婚相手とからかって面白がる、どこか大人びた彼が少し苦手でもあった。わたしの結婚相手など、父の決める事であったし、他にも夫候補といわれている者は幾らもいたのだ。何よりもわたしはまだ、ほんの子供に過ぎなくて、結婚、など、紙に書かれた絵のようなものだった。
それでも、あの人の事はそれで、知った。少なくとも、肩書きだけは。
騎士王国に二人いる将軍のひとり。
世界最強とも云われる黒騎士団を指揮する団長。
仄かな夢を見たわたしを愚かというだろうか。
他国の騎士であるあの人と、世界で最も権威ある国の王女であるわたしと。
おとぎ話のような恋物語を夢想した。
あの人が、わたしに敬愛を捧げなかったから。
だからこそ、わたしは、あの人がわたしに愛を捧げる姿を夢想したのだ。
今まで手に入らなかったものなどなかったが故に、それを心の底から欲する。そんな子供の執着心だったのか。それとも、わたしは本当の愛など持っていない、という事を、心の奥底で気づいていたからだろうか。
父にねだれば、手に入れられるものだったのだろう。けれど、それはわたしが欲するものであってはならなかった。
あの人から希われるものでなければ!
そして、わたしは恋する少女となった。父にも兄にもその心を隠し、遊び相手であった妹のような少女にだけ、そっと明かす。そんな、恋する少女の気持ちを楽しんだ。
いつか、あの人が、わたしを迎えにやってくる。「愛しています」「結婚して下さい」と告げて、そっとわたしの手に口付ける。
それは、綺麗な花やリボンで飾り立てた夢に過ぎなかった。当時のわたしは、決して認めなかったろうけれど、本当にそんな事が起こるとも、もっというなら、起こってほしいとも思ってはいなかった。
父と兄とに溺愛されて暮らす宮廷、暖かで柔らかで甘やかな、絶対の平和が約束された世界から出る事など、決して望まなかった。甘やかされきった子供が、小女王として生きていける場所を離れて、一体いかほどの時間、耐えていける事だろう。
ただ、あり得ない事をほんの少し、空想してみた。それだけの事。
本気でそうなってほしいと思った事など、一度だってなかったのに。
あの人は、再び、わたしの前に現れた。
ずっと夢見ていたままに。決して望まなかった形で。



皆、何処へ行ってしまったのだろう。
わたしの世界を構成していた色彩は、かき消されたように消え、重厚な闇色へと取って代わった。今、目の前に存在する黒い鎧をまとった者達によって。
この者たちは何?何故、わたしの部屋にいるの?
来訪者を告げる侍従の姿は見えない。声もしない。先ほどまで、わたしについていた女官も、外の様子がおかしいので確かめに行く、と言って出て行ったきりだった。
男達は無言のまま、入室を続け、続々とその数を増やしていった。わたしの白い部屋が、わたしの世界そのものが侵食されていく。こんなに間近で、鎧を着た男など、見た事はなく、男達の動きに合わせて鎧の立てる音はひどく耳障りだった。
王女の私室へと許可なく立ち入るその不作法さと、湿った鉄の匂いとで、息が詰まる。胸が詰まる。
わたしの傍らに残っていた、たったひとりの侍女は、ただ、怯えきって泣いていた。大声を上げて、それが彼らの気を惹いてしまっては、と無意識にでも思ったのだろうか、息を殺して、声を詰まらせて、時々しゃくり上げるように啼く。
何かが焦げたような匂いが遠く、届いた。
室内には、鎧の音と侍女の泣き声、そして、息を詰まらせる空気でいっぱい。
恐れではなく、怯えでもなく、ただ怒りで体が震えて、それを抑えるのが精一杯だった。
この現状は一体、何?
わたしは、こんな状態など望んではいない。綺麗でないものなど見たくはなかったし、だから、全て消してしまいたかった。さっさと世界から、この部屋から追い出したかった。目の前の鎧の男達も、鬱陶しく泣き続ける侍女も。
そして、不意に目の前の黒い壁が動いた。鉄の兜が顔の半分を隠す男達の表情は見えない。それでも、彼らが慌てている事はわかった。何者か、貴人の登場に道を開けているのだ。
すっかり晴れた周囲の視界の先から、その人は悠然と歩み寄った。周囲の男達のように、黒い鉄鎧を身につけていて、それでも周囲の男達とは全く違う何かがあった。胸に刻印された紋章のせいばかりではなく、この男が周囲の黒い鉄鎧達の長なのだと理解する。
男はひときわ重厚な兜を脱ぎ、面覆いを外す。現れたのは、蜂蜜のような金の髪と綺麗に整った顔。そして、夜空のような深い藍の瞳。
幾度も、幾度も思い浮かべた。夢の中で幾度となくまみえたその顔が、わたしの目の前に在った。
これも、夢だろうか。
すべてがぼんやりとしていた。目の前の人は、記憶の中にある通りのきびきびとした動作で、わたしの前に片膝をつく。優しくわたしの手を取って、わたしを見上げて。記憶の通りの冷たい表情で。
これは、夢なのだ。
「…王女殿下」
夢の中の彼の目が映していたのは、わたしだけ。満ちあふれていたのは、愛だけ。だけど今、この悪夢の黒い騎士の目には。
哀れみだけが、あった。



父と兄は死んだ。母も叔父も従兄弟達も。
わたしの許婚者候補のひとりだった従兄弟の姿は、見ていない。誰も教えてはくれなかった。わたしも聞かなかった。
だけど、きっと死んでしまったのだろう。物知りで、父と兄のお気に入りで、皆にもとても好かれていたのに。
ただ、わたしだけが生きていた。
わたしが、何の役にも立たない存在だったから。
だから、わたしは生きていた。
わたしが、何の役にも立たない存在だったから。
わたしの世界は、消えた。今まで、それがたったひとつの真実だと信じていた世界は、今や何処にも存在しない。なのに、わたしはここに存在するのだ。一緒に消えてはしまわなかった。
それは、わたしが、何の役にも立たない存在だったから。
目の前を過ぎるのは、意味のないものばかり。
からっぽのわたしの中に、ただひとつ。
残ったのは、最後に見たあの人の姿ばかり。
あの、哀れみの目。
何の役にも立たないわたしを哀れんだ、黒い騎士。
あの悪夢以来、抜け殻となったわたしの中に、燃え尽きなかった何か、燃え残り、くすぶり続けた何かが、小さな火を灯した。
ずっと、あの人を「運命の人」なのだと思っていた。そう、確かに彼は、「運命」だった。
わたしは生きる。
役に立たないわたしは生き続けて、そして、いつかあの人を殺すだろう。
わたしを哀れんだ、黒い騎士。
あなたを殺すためだけに、これからわたしは生きるだろう。
その時、あなたはまた、わたしを哀れむだろうか。
そして、わたしは、あなたを哀れむだろうか。
可哀想なあなた。可哀想な可哀想なわたし。
ぐるりとまわって、最初に戻る。まるで不思議な輪のような想い。



それは、いつかきっと見る夢。
この悪夢の終わり。



END







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