死せる神の王国〜バヌトゥ

かみは ひとに
ひとは かみに

「僕には、ものを考える頭脳がないとでも思っているのか?」
水の神域の主の造った世界で、魔道技術(アート)の一端に触れた故だろうか、その少年はどこか、水の気配を漂わせていた。
少女は、救い出された。人々に『聖地』と呼ばれる島で。おそらくは、研究施設のひとつででもあったのだろう、一族の科学技術(テクノロジィ)がところどころに生き残る、太古の遺跡に護られて。
彼の少女を取り戻す事。
ただ、それだけが、彼の目的であり、また望みであった。故に、既にこの場に留まる理由もない。論理的帰結。あまりにも、当然の事。
今でも、まざまざと思い起こされる。遠い遺跡を支配していた、彼の少女の姿を。
神殿として改められ、本来ならば、神像が据えられるのだろう場所に、代わるようにして置かれた大きな椅子に腰掛け、『聖域』へと押し入った彼らを睥睨した姿は、埋もれて見える程に小さかった。それでも、半ば眠っていたから、だったのかもしれない、その威厳と、存在自体が発する威圧感は、確かに昔知っていた者、そして、少女の血族でもある存在を感じさせた。
気圧されたように立ち尽くす彼らを見やると、少女はゆったりと微笑み、そして、ふわりと立ち上がった。
「あの時まで、子供は確かに、人間の子供の姿をしていた。それなのに、次の瞬間、どうなった?勿論、覚えているだろうね。ほんの数時間前の事なんだから」
続く言外の言葉も、耳元に聞こえてくるかのようだった。
『あの子供をずっと捜していたというのなら、当然、知ってもいたのだろうね』
確かに知っていた。しかし、少年が思う程に知っている訳でもなかった。彼自身も初めて見たのだ。あの、彼女の本来の姿を。
立ち上がる、という動作に直結するように、ごく自然に少女は姿を変えてみせた。流れるような変化だった。ゆるやかな巻き毛はつややかに白く、ところどころに混ざり込んだ銀色の毛並みが、その姿に微妙な変化を与えていた。
翠の瞳は深淵を抱えて、虹のように渦巻いた。一族の女帝に相応しく、神々しいばかりに美しかった。
神の娘は、また、神であるのだ。
思わず、頭を垂れたくなるような畏敬の念。彼の大切な少女が、という喜びと、また確かに存在した、哀しみ。
勿論、覚えている。
この少女は、決して、彼だけのものであってはくれないのだ、という、寂寞たる思い。
それでも、彼の呼び声に応えて、彼女は再び、姿を変えた。まだ、彼の声は少女に届く。その安堵感。
「白い竜から、子供の姿へと変貌した後、王子が子供に近づいたね」
そう。少女は何が起こったのか、全く理解できないようだった。一瞬にして夢から覚めたように、呆然とした面もちのまま、先程立ち上がった玉座の前にへたり込んで、少女はただ、きょとんとした眼差しを向けた。
大きさの全く違う、それでも白い竜と同じ翠の瞳だけが、先程までの姿の名残を残していた。今見たものが信じられぬ思いなのだろう、誰もがただ、同じように竦む中、王子が少女へと手を差し伸べた。本当は、どう思っていたのかは判らない。しかし、その微笑みからは、少女に対する忌避や畏れは、窺えなかった。
だからだろうか。それとも少女は、王子の抱える、血族と似通った匂いを嗅ぎ取ったのだろうか。
彼女が知る一族の者など、彼自身の他には存在せず、そして、彼には血族程の力もない。
誰にも教えられぬまま、それでも理解できるというのならば、秘められた血の力とは、一体如何ほどのものなのか。
王子の手を握り、安心したように笑った少女を見て、彼はひどく、複雑な思いを抱いたのだ。
神と称された『皇帝』の娘。どこか、その『皇帝』を思わせる、しかし、明らかに人間である王子。
遙かな過去。遠い記憶の中、陛下は何と言っていたか。『我々は、人間にならねばならない』
一体、何のために。『それだけが、一族を破滅から救う道であるから』
そして今、奇跡のように存在する、一族と似通った人間である王子。
これは、何かの符号だろうか。
「王子は子供を抱え上げた」
あくまでも細身の王子である。その筋力はどう見ても、せいぜいがところ、同年代の一般的な若者の平均値でしかあり得ないだろう。それでも、子供の姿は折れてしまいそうに細く、小さく、王子の手でも軽々と、といった印象を受ける程に、すんなりと持ち上がった。
一族の者は、物理的にも精神的にも、相手との距離が近すぎる事を忌避する。彼自身、一度も少女を抱いた事などなかった。だから、少女にとって、それは初めての体験であったろう。
それでも、少女はその行為を嫌う訳ではなかった。むしろ、楽しんでさえいるようで、頬を紅潮させ、王子にしがみついた姿は、まるで人間の子供のように見えた。
「それで、子供の体重は、王子の手で持ち上がる程度のものだという事が判った。おかしいだろう?白い竜の時には、一歩歩んだその重量で、大地を揺るがせさえしたんだから」
質量は保存される。目に映らなくなったとしても、そこにある物質量は変わらない。だからこそ、僕達は魔道という法則でもって、その質量を引き出せる。
魔道士、とは、人間の手に届く範囲内での魔道技術を引き出す人間を指すのだそうだ。彼ら一族にとっては、基本的な知識であり技である魔道技術も、人間にはそもそもの素質の上に大変な鍛錬を必要とするという。
「ものの重さは、決して、変わらない。それは、この地上に生きる全てのものを支配する黄金律だ」
だからだろうか、少年は、着実な論理の積み重ねでもって、真実へと近づこうとする。理性とは無関係のところにある一瞬のひらめきで、総てを理解する王子とは、対照的に。
彼女が竜であった時の質量は、どこへ行った?
重力すらも自在に操る『君たち』は、一体、何だ?
神は全能だなどと、一体、誰が言い出したのか。
儚く弱い生き物たちが、夢見たおとぎ話。
神は、決して人にはなれない。
当たり前の事。あまりにも当たり前で、考えるまでもなく、当たり前で。
なのに、こんなにも簡単な事が、知を以て知られる彼ら一族の者に、何故、判らなかったのか。
真の姿を封じた石を捨てる。ただ、それだけで、人間になれるのだなどと、何故、考えたのか。
信じるしかなかったのだ。他ならぬ『神』が、そう告げたのだから。
人になれぬのなら、滅びるしかない。
その言外の通告を唯々諾々と受け入れた、最も一族らしい一族だった民人は、既にない。
ならば、足掻くしかないのだ。
諦観の念に囚われず、生きていくという事にしがみついて、ただ、足掻き続ける。今はただ、それが彼らの『神』であった皇帝の言葉の意味だったのではないか、と思うから。
竜帝陛下の従者として生き、彼の皇女を託され、その最後を看取りながらも後に従う事もできなかったバヌトゥが、ようやっとそう思えるようになったのだから。
最後の神は眠る。
それが、神殿に座した少女を縛り上げていた呪文。
最後の神は眠る。
その呪の存在は、確かにバヌトゥには読み取れていた。
最後の神は眠る。
ならば、何故、呪は解けた?
最後の神は眠る。
精緻に編み上げられたその呪文。
真実、呪が発動していたなら、バヌトゥの声も、少女には決して、届かなかったろうに。
最後の神は眠る。
しかし、少女は『最後の』神ではなかった。
これから、数百年の時を生きて、そして死んでいくだろう少女の他に、神の名を得た皇帝の眷属がもうひとり、存在しているのだという事を、バヌトゥはまた、知っていた。
『彼』は、アリティアの王子、ひいては同盟軍側につく。はっきりと、梃子入れする気もあるのだろう。
水の神域の主は?
初めは明らかに、勝者を竜王国と見ていたようだったが、今はどうだかわからない。判断を下すには情報が少なすぎる。
ならば、己はどうする。そして、一族の女帝である少女は?
『一族が人間に文明を与えて以来、ちょくちょくやってきた事だよ。人間の歴史を刺激し、鈍化した動きを活性化させる、なんて、尤もらしいお題目つけちゃってさ。ただのボッカ遊びだろう?
生きゴマを使ったチェス。永い時間を持て余した暇つぶし。
もしくは、嫌がらせ、か?
この場合は、ガトーへの、だけどね』
いかにも『彼』の言いそうな事だ。
己の想像に苦笑する。端から見たら、殆ど表情は変わっていなかったろうけれど、目の前の少年には読み取れたかもしれない。その気配に不快感を滲ませて、バヌトゥを睨むように立っている。ただ、彼の返答だけを待って。
少年にとって、彼を訪ねる、というのは、随分と決意がいったのではないだろうか。これまで、まるで彼が目に入っていないかのように振る舞ってきた様子からも、それは確かに見て取れる。
それでも、今はここにいる。彼、バヌトゥを真っ直ぐに見据えて。
バヌトゥもまた、少年を見つめ返す。
この後、何があろうとも、最後まで見届ける。永い永い間、様々な事から逃げ続けてきたバヌトゥの、それが決意であった。
END・
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Black knight CAMUS・
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