これは王国の鍵〜チェイニー

…はなは かごに
かごは ベッドに
ベッドは へやに
へやは いえに
いえは にわに
にわは こみちに
こみちは とおりに
とおりは まちに
まちは としに
としは おうこくに
これはそのおうこくのかぎ
<マザーグース>より

「…浮気者ぉ」
背後から響いた恨みがましい声に、マルスは弾かれたように振り向いた。
「……なんだ、チェイニーか…」
「『なんだ』じゃねーよ。お前、あっちこっち歩き回ってばっかで、ちっとも落ち着かないし。つまんねー」
不満そうにぶすったれて、だけど、そんな彼の顔を見ていると、安心する。
チェイニーは、何の肩書きもつかない、ただのチェイニー。少なくとも、マルスの前では、その顔しか見せない。だから、彼の前では、自分もただのマルスでいていい。
多分、そう思えるから。
しかし。しかし、だ。
「『浮気者』って、何なの」
チェイニー、言葉の選び方、変だよ。
マルスのどこまでも冷静な指摘は、しかし、チェイニーには届かない。
「…しっかし、派手だよなぁ…」
きょろきょろと、面白そうに目を瞬かせて、周囲を見やる。聞こえていない訳ではない。聞いていない、もしくは聞く気がない、というところだろうか。
チェイニーは、己の興味在る物事にしか、関心を示さない。この場合、己の単語選択については、どうでもいいと思っている。そういう事だ。
マルスは、軽い溜息を吐く。
確かに、語彙が通じない訳ではないので、それはそれで構わないと言えば、構わないのだが。
マルス自身は、その立場上、言葉の選び方には気を遣わなければならなかったが、彼当人としては、そう細かな事に拘る質という訳でもなかったので。
マルスは、もう一度、軽い溜息を吐く。
マルスの溜息の元は、チェイニーの続く言動にある。
確かにチェイニーの言う通りの「派手な」ものであったのだ。今回の宴は。
マルスは、一渡り、周囲を見渡すように、頭を巡らせた。華やかな、晴れやかな祝宴。そこここに焚かれた明かりが、周囲の闇を廃するかのように揺れていた。
国に残っていたアリティア貴族、官僚達。そして、周辺の小国から戦勝の祝いにやってきた使者達。
いかにも、とる物もとりあえず、といった風情で集まってきた使者達の携えた書状には、本命としてドルーアの札を押さえながらも、一応はアリティアの札も買っておこう、とでもいった本音が見え隠れしていたが、アリティアという国が未だ生存している事を、周辺諸国が認知する、ただそれだけでも充分だと思っていたマルスにとって、それは大勝利である、と言ってよかった。
少なくとも世間的に、ドルーアに反旗を翻す彼らが、残党兵ではなくなった訳だから。
色とりどりのドレスの波間を、装飾的な細身の剣を差した男達が泳ぎ渡る。テーブルを飾る銀器と硝子の煌めき。笑いさんざめく人々と甘い香り。積まれた酒と食事、たくさんの果物。
ふと、そんな人々の中に、心中の不機嫌を穏やかな無表情に覆い隠した少年の姿を見つけた。幼なじみである魔道士の少年も、マルスを見た、と思ったが、横切った人の影に、すぐに見えなくなった。それでも、一瞬、彼がマルスから目を逸らしたのを、確かに見てしまって、それはマルスの心に、小さな影を落とす。
彼は最近、マルスを避けていた。
チェイニーと一緒にいたのも、判っただろうに。いつもだったら、すぐに彼らのところに割り込んできて、チェイニーに『乳母や』と称されるままに、何くれとマルスの世話を焼こうとしただろうに。
「よくそんな金あったよな。帰ってきたばっかで」
「ないよ」
即答で返すと、少し興味を引かれたような、面白そうな顔。
彼もまた、この祝宴には、諸手を上げて賛成、とは言わなかった。それでも、その意義は理解してくれた。それでも、納得はできなかったのかもしれない。マルス自身と同じように。
「だけど、やらなきゃいけないんだ?周りへの手前ってやつも大変だな」
「まぁね」
いつだって、チェイニーは勘がいい。そんなところが困る事もあるけれど、大抵の場合は助かる。今回のように。
本当に、今回の祝宴は、周囲への手前以外の何ものでもない代物であったのだ。
チェイニーの言う通り、国へは帰ってきたばかりであり、国土はやはり、荒れていた。思っていた程には、民人への締め付けは酷くなかったらしかったが、それでも、国からの援助は全く必要でない、とは言えない。
物資は幾らでも必要だった。民衆にとっても、軍隊にとっても。それでいて、ドルーア軍が駐留していたアリティアの城には、殆ど蓄えはなく、国庫は空に近い。
国の復興を目指して、やらなければならない、やりたい事はありながら、それでも、行わなければならない、世界へと示さなければならないものもある。
「景気づけ、みたいなものだけどね」
数年の間、踏みにじられていた英雄の国に、本来の主が戻ってきた儀式。そして、彼らを放っておく訳もないドルーアに対して、こちらから打って出る事への承認と、今後も戦い続けなければならない事実に求める理解。
国の内外に、示さなければならなかった。例え、それがどんなに、マルス自身の希望から遠く離れたものであろうとも。
これからまた暫く、アリティアの民衆には負担を強いる事になってしまうのだろうけれど。
「これから、向かう場所も向かう場所でね。声明は、どうしても必要だったんだよ」
少し、言い訳口調になってしまっている事を自覚しながらも言い募ったマルスだったが、疑問符を浮かべたチェイニーの顔に、思い返す。
「チェイニーは、この辺りの人間じゃないんだよね…。じゃあ、知らないんだ…」
己に言い聞かせるように呟き、軽く肩を竦める。
「これから、僕達が向かう先がね、ちょっと問題がある所なんだ」
あっさりと続けるマルスに対して。
「同盟結んでるところとか?」
返すチェイニーもまた、あっさりとしている。
世間話の域を出ない、そんな気軽な口調で、マルスも返した。
「いいや。聖地」
答えは、あくまでも簡潔だった。
南にマケドニア。西にはグルニア。突きだした東側の半島にはアカネイア。オレルアン、アカネイアを抱える大陸の程近くに存在するアリティアは、海に浮かぶ島である。
周囲を大きな島で囲まれた内海は、大時化に荒れる、という事もなく、大陸の山脈は、吹きすさぶ暴風などからも、この内海を護ってくれる。約束されたような、穏やかな世界。
その同じ内海、カシミア海峡を隔てた反対側に、ひとつの小さな島がある。『薔薇の花咲く場所』と呼ばれるその島には、しかし、人は殆ど住んでおらず、ただ、野生の薔薇に囲まれて、古い遺跡と神殿とがあるだけだ。
ほんの小さな島だった。その面積と、抱える人の心の重さは、決して比例しないのだと、そう証明するかのような場所だった。
聖地ラーマン。
様々な神話の舞台となったその島は、光神ナーガの降臨した場所であるとも、ナーガの意を受けた戦士、<ナーガの戦士>の生誕地であるとも云われ、英雄アンリがナーガ神と最初にまみえた場所でもあった。
ナーガ信仰、ひいてはアンリの伝説には、切っても切れない場所である。
「そもそも、人が入ってはならない禁足地である、とも云われてる場所でね。普通、何人かの神官が管理しているんだけど、そこには『御神宝』って云われるものが、いくつか納められているんだ」
『大地』と呼ばれる宝玉は、地の安寧をもたらすとされる神宝だ。『光』と『星』は、光神ナーガの化身。『光』は遍く力の源を、『星』は意志と方向を、それぞれ顕す。
英雄アンリに授けられて、アリティアの王室に伝えられた『大地』は、しかし、『光』と『星』と共に、聖地ラーマンの神殿へと納められた。戦役前の、しかし、有名な話だ。
「これからの目的は、その『御神宝』を手に入れる事」
チェイニーが、呆れたような顔をした。それは、そうだと思う。自分だって、神殿を荒らすような真似などしたくはない。その行動が、どれ程人々からの不信を買うか、よく判っているから、特に。
しかし、チェイニーの呆れ顔の真意は、別のところにあったようだった。
「んな、宝物なんてもんが、まだ残ってる訳ないじゃんか。人もいないようなところで、盗んで下さいって言ってるようなもんだ」
「いや、あるよ。多分」
マルスは苦笑する。対するチェイニーの胡乱げな表情を見ても、やはりマルスは動じなかった。
マルスが今までに一度だけ、目にする事を許された『大地』は、どう見ても『御神宝』と呼ばれる程の物には見えなかった。云われを教えられていなかったら、ちょっと濁った水晶玉と信じてしまったかもしれない。
アリティア王室が『大地』を手放し、聖地へと預けたのも、理由はそこにあったのだった。
『御神宝』は、決して人の目には触れない場所にあった方がいい。人々の心の中の宝物よりも美しい物など、この世には存在しないのだから。
しかし今、どんな盗賊も見向きもしないだろう小さな水晶玉には、彼らを救うかも知れない力がある。
『光』と『星』とを所望した謎の老人。彼が、本当に伝説の大魔道士なのかどうか、それはもう大した問題ではなかった。
彼は、何かを知っている。神剣にまつわる何か。大魔道士の弟子にまつわる何か。この戦いにまつわる何か。英雄アンリとマルス自身にまつわる何か。
それを聞き出すためだったら、『御神宝』など幾らでも差し出して構わない。
我ながら、あまりにも手前勝手な言い分で、そう正直に周囲の人々に言えるものではなかったけれど。
会釈をして通り過ぎる人々に軽く頷きかける。幾度か杯を掲げる仕草を見せ、幾度か乾杯の合図を送り、祝賀の言葉をにこやかに受け、そういった仕事を一段落させてから、マルスはチェイニーとの会話を再開した。
「ナーガ教は、この大陸では随分と古い宗教でね。アリティアとグラでは、国教になってるけど、最近では、救世主信仰の父なる神の方が、信者は多いかな」
そんなマルスの様をずっと、面白そうに眺めていたチェイニーは、皿に盛られた肉料理を指で摘み上げ、一口に放り込んだ。それを興味深そうに見つめるのは、今度はマルスの番だったのだが、彼は全く意に介さず、肉汁と油で汚れた指先を舐めながら、言った。
「マルスは、どっちを信じてる?」
「僕?…どちらも」
「どっちも信じてる?どっちも信じてない?」
本当に、チェイニーは勘がいい。それで助かる事もあるけれど、少し、困る事もある。今回のように。
王という存在は、あまり色々なものを信じてはいけない。
だけど、マルス自身は、どうだろう?
おそらく、チェイニーが聞きたかったのは、そういう事。
少し考えて、結論づける。
信じるのは、自分自身だけでいい、とまでは、思わない。それが答え。
「…全く信じてない訳じゃないよ。姉上は『ナーガの花嫁』と呼ばれた巫女だったし、実際、ナーガの声を聴く人だったからね」
マルスの姉、世に比類なき『ナーガの巫女姫』は、神懸かりに光神ナーガの声を聴き、託宣を下した。それが全て、嘘であるとは思わない。実際、彼女はマルスに、ナーガの声について語った事がある。「ナーガが私の横に立って」、まるで、すぐ傍にいる人のように気安げに話すのだと。
「姉上に言わせると、ナーガは『居る』んだって。色々な事を聴いた、と言っていたよ。彼らの国の事や血族の事。子供とか、兄弟の事とか」
神様にも、家族ってあるんだね、と、マルスは小さく笑う。平和な時代の柔らかな光に彩られた姉との思い出。それ故に、だろうか。マルスは気付かなかった。
チェイニーの表情が、ほんの少し、変わった。
「チェイニーのところには、神の伝説はないの?」
己自身の興味と、チェイニーの言葉を聞きたいという欲求と、意識を遠くに飛ばしてしまった気恥ずかしさと。
振り向き、話題を返したマルスの前、チェイニーはいつものままのチェイニーだった。
それでなくても、注意して見ていなければ気付かなかっただろう変化は、もう既に跡形もなく。
マルスが、その時の己の発言について、どれ程、知りたかった真実と近いところにあったのか、手を伸ばせば届くであろう距離にあったのかを知るのは、またずっと後の話となる。
「『神』ねぇ…」
何が可笑しいのか、にやにやと笑って、そして、肩を竦めてみせる。
「興味ね」
それはそれで、チェイニーらしい返答ではあった。確かに。
何ものも恐れぬ少年に、神への畏敬があったら、かえって驚愕する事だろう。
そこで、マルスは思い出す。先程まで共にいた傭兵もまた、神をも畏れぬ者なのだった。その共通点は、彼らが共に、『遠くからやって来た人』だから、なのだろうか。
そういえば、彼らには他にも共通点がある。
マルスを「英雄の子」として扱わない事。
マルスが共にいて、ひどくくつろげる存在である事。
そして、マルスが決して変えられない、変えられたくないと思う人であり、ずっとこの関係が続くといい、と願っているという事。
「チェイニーは、『遠い国から』来たって言ってたよね。それって、どの辺?」
「遠く」
「…ナバールは多分、大陸の外から来たんだよ。チェイニーも、そうなのかな。ナバールが来た所とは、近いのかなぁ…」
「知らね」
「……チェイニー」
確かに、訊かれても困る類の質問だったろうとは思うが。
ちょっぴり非難がましい気分になっていたマルスは、チェイニーからもまた、非難がましい視線を向けられ、つい及び腰となる。
「お前、さっきまで、ずっとあの傭兵と一緒だっただろ」
その言い切り調は、一遍の疑問符も含んでいない。ただ、事実を指摘しているだけだ。
「何で判ったの?」
「判んねー訳ねーだろ」
当然のように返されて、しかし、マルスは驚いてしまう。ナバールがいた場所は、そこにいる、と思って探さなければ、つい見落としてしまうような、そんな場所だったし、マルス自身、宴席の主役が姿を隠していても、周囲が気を回さないだろう時間…ぎりぎり一杯…だけしか、そこにはいなかったのだから。
「そうなの?皆、気付いてた?絶対、気付かれないと思ってたのになぁ…」
「『皆』なんて知るかよ。ただ、俺は判んだよ」
ただただ、己の認識が甘かった事を気にかけ、溜息を吐くマルスの前、チェイニーは見る見るうちに不機嫌になっていく。それが何故なのか、マルスにはまた、判らない。
「へー、凄いねー。チェイニーって、本当に勘がいいね。それとも、目がいいのかな」
「…なんか、ムカつく」
遂に、チェイニーはぼそりと呟いた。
「そのうち、あの指輪、パチってやる」
あの指輪、とは、やはり、今ナバールの手にある、あの指輪の事だろうか。他に、関係のありそうな指輪の所在は、思い当たらない。しかし、チェイニーが、あの指輪とマルスとの関連について、知っていると思うのも、おかしな話だ。チェイニーとて、全知である訳ではない。
如何に、不思議な雰囲気を持った少年であろうとも。
しかし、現在の状況で、最も不可解なのは、その点ではなく。
「…『パチる』って、何?僕、俗語とか、よく判らないんだけど」
「知らなくていんだよ」
「…何だか、嫌だな。そういう言われよう」
「何でもかんでも知ろうとすると、それで身を滅ぼすんだぞ。実例だって、あるんだから」
「何の事?」
「だから、知らなくていんだよ」
不機嫌になるのは、今度はマルスの方だった。
「…だから、何で怒ってるの?言ってくれなきゃ判らないじゃないか」
『ムカつく』だの『パチる』だの、意味不明の単語を並べられて、「知らなくていい」と言われたって、それで通ると思っているのか。己が知らない範囲の話は、是が非でも聞き出し、理解しなくては。
王族として、周囲に興味を持つという義務的な範疇を超えて、マルスははっきり、知識欲と好奇心の権化だった。
それに、ちらりと視線をくれたチェイニーは、ふと、何か悪戯事でも思いついたような顔をした。それは、相当に質のよくなさそうなものだった。つい思わず、マルスが半歩、退いてしまいそうになる、そんな笑みだった。身に付いた礼儀作法は、マルスにそれを許さなかったし、実際、心持ち顎を引いた程度にしか、外見上には現れなかったのだが。
彼は無言のまま、己の手の中にあった杯をマルスに突きつけた。半ば、押しつけられるようにして、マルスがそれを受け取ったのとほぼ同時に、つい、とチェイニーの顔が近くなる。
己の分とチェイニーの分、二つの杯に両手を塞がれたマルスにできるのは、ただ、チェイニーを見つめる事だけで。
「そこぉ!何やってるーっ!」
割り込む声と同時に、何かが飛んできた、ような気がした。
一瞬、周囲の全ての音が止んだ。
「…ちっ。復活しやがった」
もっとイジメといてやるべきだった、との呟きは、勿論、マルスの耳にも入ったが、それが何の事なのか、何が起こっているのかは、やはりさっぱり、判らない。
ただ、のしのしとこちらに歩んでくるマリクと、真っ直ぐ行き先にいるチェイニーとマルスが、周囲の注目を一身に集めてしまっている事だけは、確かであったが。
しかし、マリクの目には、それは入っていないようだった。珍しい、とマルスは思う。
いつだって、理性を失ったりしない。それがマリクのマリクたる所以であり、マリクを形作る規範のようなものだったから。
チェイニーが肩口あたりまで持ち上げた己の拳を軽く緩めると、細かな氷の粒がさらさらとこぼれ落ちた。マルスには、理解できない事ばかりだった。その様を殊更に見せつけようとするようなチェイニーの素振りも。それを受けて、無表情の上に無表情の仮面を被ったようになってしまったマリクも。
「…マリク?」
マリクは、答えない。
「……チェイニー?」
チェイニーは、ただ、にやにやと笑うばかりだ。
二人とも、マルスの存在など目に入っていないかのようだった。
マルスは、周囲に身振りで示す。「何でもない」と。「そのまま続けるように」と。それを受けて、再び流れ始めた音楽に気を取り直したように、周囲はまたすぐに先程までのざわめきで満たされる。こちらを窺う好奇の視線は、まだ幾分か残ってはいたが。
「どうでもいいけどね」
幾分か不機嫌な声音になってしまったのは、仕方のない事だと思う。
「宴席を騒がせたりしないように。外部のお客様だっているんだからね」
その不機嫌は、言葉通りの事象のみに対するものでなかったし、それが公正な物ではないという自覚もあったのだけれど。
「やーい。怒られたー」
「…お前もだ」
周囲に洩れない程度に低めた声で、吐き捨てるように囁いて、それでもマリクは、平静を取り戻したようだった。
常のように穏やかに、弁えた態度で。この場で騒ぎを起こす事の不利益を重々承知した様子で。
なのに、釈然としない思いが残る。
チェイニーはいつもながら、現状を面白がっているように見えたし、マリクは。
マリクは一度も、こちらを真っ直ぐに見てくれない。
何とはなしに物寂しい気持ちを抱えて、マルスは手の中の杯を傾ける。
これは、マリクの感情を引き出す事ができるチェイニーに対する羨望、だろうか。疎外感など、今までに幾らでも感じてきて、それでも、寂しい、なんて、思った事は一度もなかったのに。
その時、マルスは気付かなかった。
表向きは軽快な、その実、巧妙に棘を潜ませた二人の会話に含まれた意味合いに。
「ずっとうだうだしてりゃーいいのに。青春の悩みはどーしたよ」
「…何だって?」
にっこりと、チェイニーは全く、いつものチェイニーらしからぬ顔で微笑う。
「『…マリクが、姉上の事、そんな風に思ってたなんて、知らなかったから…』」
明瞭な発音に微妙な甘さを含んだその声もまた、明らかにチェイニー自身のものではない。
ただ、どこかで聴いた事のある声だ、と。
マルスは、そう思った。
「『いいよ。僕には近づかなくていい。もう、傍になんて、いなくてもいいんだ』」
不思議な微笑を湛えたチェイニーの顔が、ゆっくりとマリクに近づいて。
伸ばした指先で、たっぷりとした溜めをおいて、マリクの唇の端をなぞり上げた。
瞬間、真っ赤に染まっていたマリクの顔が、反転、真っ白になる。
如何にも面白そうに声を上げて、今度はチェイニーそのままに、チェイニーが哄笑った。笑い転げたと言っていい、それは様子だった。
「いやー。ホント、面白いわ、こいつ」
マリクがまるで逃げるように去ってしまった後、チェイニーは終始にこにこと上機嫌で、それと相反して、理解の範疇外である出来事が増えたマルスは、ひたすら不機嫌だった。
後の世、歴史家にその存在を作り事だったとされる事もある、アリティア中興の祖、英雄王にうり二つである『影』を、当の王が知るのは、まだまだ先の事となる。
「世の中、楽しんだもん勝ちなんだぜ」
マルスの手から取り戻した杯を掲げて、チェイニーが朗らかに笑う。
尽きる事のない祝杯と絶える事のない音楽と。
闇を遠ざける明かりと親密な暖かさ。
全ての思いを闇に沈めて、巡る巡る巡る輪舞。
先の事など、どうでもいい。
何を知る必要もありはしない。
今はただ、歌い、踊れ。
END・
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