これは王国の鍵〜マルス


これはおうこくのかぎ

そのおうこくに としがあり
そのとしに まちがあり
そのまちに とおりがあり
そのとおりに こみちがくねり
そのこみちに にわがあり
そのにわに いえがあり
そのいえに へやがあり
そのへやに ベッドがあり
そのベッドに かごがあり
かごのなかには あふれるはな…

<マザーグース>より



明々と焚かれた松明は、そこここに掲げられて、世界を暖かく照らし出していた。幾度となく続く、杯を重ね合わせる音と、乾杯の声。気心の知れた者同士の軽快な会話。笑い。そして、また乾杯。
洩れ聞こえてくる音の数々は、気安さと信頼とに満ちている。
何に対して?
今現在、この場が戦場になる事などあり得ないという事に。
夜襲はない。この国の人々は、玉座に座すべき本来の主が戻ってきた事を喜んでいる。歓迎されているという意識は、人々の心から、容易に警戒心を失わせる。
ナバールは、手の中の杯に注がれた酒で唇を湿した。酔う程に飲むのは、主義に反する。何よりも仕事を請け負っている間は。いつ何時、何が起こるか判らないのだから。
宴の会場となった王宮の庭園、人影もない隅。松明の恩恵も届かない領域に身を置いたナバールは、手渡された杯を傾けつつ、集う皆を、更には現在の雇い主の様子を窺った。
現在は、竜王国の姫将軍と談笑をしている。いや。姫将軍ではなく、竜王国の真王、だったか。
どちらでも、構いはしなかったが。
行き交う人に笑いかけ、二言三言と言葉を交わし、また、話していない者を見つけるかのように、人々の間を泳ぎ渡る。あくまでも、優雅に。
戦場で、彼に仕える騎士達と傭兵隊を前に、命の保証もない作戦を淡々とした面もちで提示した。ただ、薄く微笑んで。「できるね?」と。
「信用しているから」と、そう言って、彼ら全てを透かし見た、冷徹な視線。
そんな諸々など、微塵も感じさせないようなたおやかさで。
自然に身に付いた所作からこぼれ落ちるそれは、本来、在るべき場所に還ってきた者、とでもいった風で。
王族は、宮廷儀礼と親善外交を任とする、か。
王子様稼業というものも、それはそれで大変ではあるらしい。
しかし、そんな皮肉な思いの中にも、ひとつの確信がある。
この少年は、決してそれだけでは終わらない。
大陸に新たな戦乱の火種を蒔く魔物となるか。あるいは、世界を統べる覇者となるか。
アリティア第二期王朝の礎を拓く建国王。ただ、それだけでは終わらないのは、火を見るよりも明らかだ。
当人の思いが何処にあるにせよ、既に歯車は動き出している。結局のところ、なるようにしかならないのだから、考えても無駄、というものではあったのだが、それでも、見極めたい、見届けたい、という思いもまた、心の内の片隅に存在する。
おかしな事だ。仕事に興味を抱くなど、かつてなかった事だ。
アリティアの王子。破竹の進撃を続ける同盟軍の盟主。ナバールの剣の現在の預け主。
現在の大陸世界を動かす、小さな歯車のひとつ。
自らの物思いに沈みかけていたナバールは、耳に入った下草を踏みしめる音に、ふと、顔を上げる。
「こんな特等席を独り占めだなんて、ずるいな」
そこには、先程までの物思いの元が、にこやかに微笑み、立っていた。



「…特等席?」
松明の明かりも届かぬ木立の中。
宴の主役が何を言うやら。
「前に、ナバールが言ったんじゃないか」
しかし、ナバールの皮肉を効かせた口調にも全く動じぬ少年は、小首を傾げて、微笑んでみせる。先程までの外交向けの顔ではなく、作戦会議中の顔でもない。年相応の少年らしい、悪戯っぽい表情で。
「周囲が一望できて、かつ、周囲からは死角になるのが、最高の場所だって」
何の事か。
「初めて会った時だよ。もう、覚えてないかな?ナバールは」
この少年は、往々にして無表情と見られるナバールの感情の動きを、楽々となぞってみせる。そんなところが、何とも気に食わない。確かに、彼の言うように、記憶は曖昧模糊としていたから、尚更に。
初めて出会った、今はもう名前も忘れてしまった港街。賑わった酒場、殺気立った街の空気を映したような、その不安定なざわめき。階段の上から降ってきた少年。
覚えているのは、その時々の印象のようなものばかり。会話の細かな所など、記憶の端にも残らない。元々、ナバールは、契約以外の事に対して、概して興味を持たないものに関して、非常に淡泊な質だった。
しかし、その時、確かに己は言ったのだろう。相席をした目の前の子供に。
『周囲が一望できて、かつ、周囲からは死角になる、最高の場所』
いかにも、ナバールらしい考え方である。
と同時に、わざわざ言葉として口に出す、というのは、いかにもナバールらしくない。
ナバールは、しげしげと目の前の少年を見つめ直した。己は、初めて出会った頃から、この少年に何かを感じてでもいたのだろうか。
確かに、現在の奇矯さは、あったように思う。言葉を交わす度に、この少年は奇妙だ、変わり者だ、との思いは強くなった。だが、それだけだ。
その頃には、気付かなかった。その後、契約を交わした時も、いつものように、仕事だ、と思っていた。
なのに、何かがあったのか?今現在の、そして、未来の姿を感じさせる何かが?
初めて出会った頃は、まだほんの子供のように見えた。あれから、もう一年、と言えばいいのか。まだ一年、と称するべきか。みるみるうちに少年は、大人びた顔を持つようになった。
今はもう、親を亡くした子供、周囲に見捨てられた子供のようには見えない。もう既に、自らの道を掴み取れる若者だ。
「僕はよく覚えてるよ。同じ事考える人がいるって、ちょっと驚いたから」
それでも、まだ、その笑顔は子供っぽくも見える。
「それで、今日は何から、逃げてるの?」
あくまでも無邪気に問うて、一呼吸。
少年は、肩をひとつ竦めてみせる。
「ごめん。この話は、あまりしない方がいいね」
《お前も同じ穴に堕ちているのだ、と相手に指摘されたくないならば、決して、その話題には触れぬ事》
古人の言は正しい。
話題を切り上げる事を示すように、目線を酒宴の会場へと向けた少年に対して、ナバールは口を開いた。
「宴用とやらの衣装と礼儀作法からだ」
そして、終始和やかな、戦場とはかけ離れたこの場の空気から。
それも言わずとも、この少年には、通じているような気がした。
人の手によって届けられた小綺麗な衣装など、触れもしなかった。腰に下げる剣すら飾りの一部でしかないような服装など、身につけたくもない。愛用の剣だけは、いつ何時であっても、手放すつもりはない。
戦場以外の場所であっても、危険はある。戦勝の宴と称される席で、今までの雇主に始末された者達は、一体、どのくらいの数に上るだろう。
何があろうと、剣を手放す者は、命を捨てたと思われても仕方がない。それが、傭兵を生業とする者共通の認識だ。
忠義やら誓約やらに縛られた騎士や剣士とは違うのだ。
少年は、ナバールの腰にある常の剣を目に留めて、ひとつ、頷いた。それで全て、了解したかのように。
「オグマも帯剣したまま、シーダの傍らから離れないよ。シーダは、その意味に気付いてないみたいだけどね」
小さく、思い出したように微笑う。少年が、何が楽しくて微笑うのか、ナバールには判らなかったが、それでも、部隊長と彼の付き従う天空騎士の姿は、覚えている。やはり、印象として、ではあるが。
血みどろの戦場。特定のひとりの背後を護ろうとする男と、それに全く気付かない、当の少女。
あの天空騎士は、彼にとって、ひどく大切であるらしい、という事。
ひとりの雇い主に縛られる、など、命を危うくする事でしかない。愚の骨頂だ。確かに、腕は確かな男ではあったが、あれでは長生きはできまい。
少年は、小さく小首を傾げて、背後にした木に凭れたナバールに倣うようにして、彼の横に陣取った。勿論、その木が男二人、並んで背にできる程の太さがある訳ではない。ナバールが正面を見ている限り、彼の表情は見えない。彼側から、ナバールの表情も、また。
「剣、と言えばさ」
少年は、気軽げに続ける。
「ナバールの剣って、珍しいよね。大陸の外では、皆、そんな剣なの?」
「…そうでもない」
「ふうん?」
少年は、しげしげとナバールの腰にある剣へと視線をくれる。そんな気配がある。
「…見せてもらっちゃ、駄目?」
沈黙。
単なる好奇心の発露だったのだろう少年は、その一瞬の沈黙で己の発言を顧みて、その言葉の意味に気付いたらしい。すぐに恥じ入ったような声を返してきた。
「ごめん。撤回する」
傭兵に、腰の剣を渡せ、と言ったのだ。
雇い主の催した戦勝の宴でも帯剣したままである、つまりは、雇い主を信用していないと思われる傭兵に対して。
ほんの少しの沈黙。
再度、話題を変えようとしたらしい少年が、口を開くのを封じるかのように、ナバールは、腰の剣を鞘ごと外した。腰帯の金具とぶつかって、剣は、かしゃり、と音を立てた。それは、ナバールの中に残った、最後の理性の呟き、だったのかも知れない。
馬鹿な事をしている。自分でも、そう思う。
剣を手放すのは、生を諦めた時だけ。
そう思っていたのに。実際、今でもそう思っているのに。
血迷った、と、そう判断されても仕方がない。ナバール自身でさえ、そう思うのだから。
そして、勿論、隣の者にとっても、そう受け取れるものであったらしい。
「……いいの?」
まさに、信じ難い、と言いたげな、その響き。
「…………いらないのなら、別に構わない」
「いや、いるいる!見る!見るよ!」
少年は、怖々とした様子で、目の前に差し出された剣を手に取った。急に猛獣に変化するとでも思っているかのように。その様子が、己の手から失われた剣の重みから伝わってくる。
代わって剣は、その適度な重みを少年の手に任せているだろう。ナバールにとっては、己の一部である剣だ。いつでも、手の内にあるかのように、その感触を思い起こす事ができる。
静かに、剣が鞘から抜き放たれる音。ナバールもまた、静かに目を閉じる。
現れるのは、この大陸世界にはない深みを帯びて、ぬめるように照り映える、その刀身。
目に映るような傷は、どこにも存在しない。
少年は、感嘆の息を吐く。
前文明の遺物とされる、純度の高い錬鉄。今の時代技術では決して作れないそれは、1000年の時を経ても、決して錆びないのだと、そう云われている。
少年が充分に検分しただろう時間の後、剣が鞘の奥へと吸い込まれる気配があった。さらりと、少しの抵抗もないそれは、目に映らない傷もないという証明になる。
それから、少しの物音もしなくなり、ナバールはその目を開けた。
元々、この少年の気配は、ひどく読みにくい。音がなくなっては、周辺の気を読む事もできない。
それでも、少年が動いた様子もなかったので、ナバールは顔を傾け、視線を流した。少年は、鞘の上から剣に額をつけて、ただ目を閉じていた。まるで祈るように。剣を拝するかのように。
「…どうした」
「いや。…綺麗だなぁ、と思って」
少年は、先程と同じ息を吐く。
「『綺麗』か…」
返すナバールの声は、対照的である。
「あいにくと、そういう観念は判らん」
ナバールは、皮肉げに口角を持ち上げた。
「これは、武器だ。人の命を刈り取るためだけに作られたものだ。お前が、これを『綺麗』だと言うのならば、そのせいではないのか?」
「…人の命を刈っているから?」
「たったひとつの目的のために作られたものだから、だ。それ以外のものは絞り落としているから、一切の無駄がない」
たったひとつの目的のために作られたものは、それである故に、美しい。何一つ、無駄なものを持っていないから。ただ、あるが故のカタチをしているから。
「……ナバールも?」
呟く言葉は、不思議と聞き流せない響きをもって、耳に残る。
首を傾け、少年を見つめ直す。少年も、ひどく静かな、だからこそ真剣なのだろうとわかる雰囲気を湛えて、ナバールを見つめていた。
洩れ聞こえてくるのは、宴に興じる人々の朗らかさ。
不可思議な静寂の後、少年は、くすり、と小さく微笑った。先程、部隊長について語った時と同じような顔で。
「ナバールの『たったひとつの目的』は、何なのかな、と思ったんだ。可笑しいね…」
不可思議であり、不可解である。
少年の言葉は、判るようで、判らない。何か深い部分で理解できるような気がする反面、現状としては、何故、そんな事を考えついたのか、さっぱり判らない。
この少年は、いつもそうなのだ。
ナバールは、諦めたような溜息を洩らした。
「……剣の話だ」
「……そうだね」
そう言って、少年は天を見上げた。
ナバールもまた、天を見上げた。
周囲を照らし出す炎を廃するかのように、夜の闇は徐々にその翼を広げ始めていた。暗がりにふたり、ただ、相手の静かな息遣いだけを感じて。剣もその手に持たず、それでも、平穏な己の心情もまた、不思議だ。
「…ナバールさぁ」
すぐ隣から聞こえてくる。
「指輪、外さないよね…」
小さな呟き声。
「…僕、ナバールはすぐ、その指輪、外しちゃうと思ってたよ…」
ナバールは、闇の中、己の左の小指を撫でた。伝わる、冷たい石の感触。そこには、蒼石の嵌め込まれた指輪がある。
契約の際、少年が寄越した。これが、契約の証だ、と。
外さないのは、それが理由。契約が無事、終了するまでは、決して外さない。
少年の手に、己の剣。己の手には、少年の指輪。
何やら、可笑しなものだった。
会話は途切れた。もう口にすべき言葉はなかった。
ふたり、ただ、空を見上げて、それでも決して、居心地は悪くはない。ナバールは、相手もそう思っているだろう事を確信していた。
何しろ、隣に在る少年は、とんでもなく変わり者だったから。



「…ありがとう」
少年は、ナバールの前へと進み出て、剣を両の手に捧げ持って、差し出した。
神聖なものを扱うようなその手つきに、軽い苦笑が洩れる。
「お前に預けた剣だ。期間中は、好きに使え。そういう契約だったはずだ」
そう。それが、今回の契約。
それ以上でも、それ以下でもない。
気に入らない雇い主だったら、己の剣を渡す、などという事は、決してしなかったろうけれど。
剣を手放すより前に、彼自身が雇い主を切り捨てていただろうけれど。
しかし、それでも、ひとりの雇い主に縛られる気などない。
あの部隊長と同じ轍を踏む、など、全く願い下げだった。
少年の手から、無造作に剣を受け取ると、手早く、元通りの形に腰元に収める。それを見るともなく見ながら、目の前の少年は、視線を軽く泳がせた。
何やら言い出し難い、それでも言いたい事があるらしい。
珍しい。
「…あのさ、ナバール」
ナバールの観察の視線の先、逡巡したらしい間の後。そこで一度、言葉を切って、改めて、少年がナバールに向き直る。
「その、契約の事なんだけど」
心なしか、居住まいまで正している。
「延長したい時って、どうすればいいの?やっぱり、手付け金みたいなものが必要なのかな。今、アリティアの国庫空っぽだから、すぐには払えないけど、もうしばらくしたら、何とかできると思うんだけど」
傭兵との契約は、した事がない、とそう言っていた。
契約を更新する、としたら、この少年とナバールの、ではなく、新たに、この国とナバールとの間で結び直す、という形になるのだろう。今現在の、口約束に近い状態よりも、明らかにその方が確実であり、安定している。そのように明文化しておけば、少年の生死に関わらず、報酬も得られる。
ほんの一呼吸程の間の後、ナバールは口を開く。
「まだ、目的は達成されていない」
少年は、目を瞬いた。
「契約時、お前は言った。『目的が達成されるまでの期日』と」
目的とは、アリティア奪還である。少年は、確かに明言した。
少年は、それを覚えている。
ナバールも、それを覚えている。
そして、アリティアは奪還された。確かに。
「…うん。そうだったね」
少年は、うっすらと笑う。
「『目的が達成されるまで』は、一緒にいてくれるんだったよね。戦争が終わって、僕達がこのアリティアに、勝って帰ってくるまで」
少年とナバールの間に取り結ばれた契約は、確認された。
この戦いが終わり、再び、アリティアへと戻ってくるまで、ナバールはこの少年と共に在る。
少年の手に、己の剣。己の手には、少年の指輪。
ただ、それだけが、この契約の証。



全く、今日はどうかしている。



「ナバール、アリティアの城下には遊びに行ってみた?アリティアは、美女の産地って呼ばれてるんだ。外はきっと楽しいよ」
少年は、にこやかに言う。
それは、言葉通りの意味なのか。それとも、言外の意味を含んでいるのか。
この少年は、いつだって突拍子もない。
「…どうかした?」
「……いや、何も。では、部隊長にでも、いい店があるかどうか、訊ねてみる事にしよう」
「うん。そうするといいよ。僕は詳しくないけど、きっとオグマならよく知ってるから」
まるっきり、子供のような、無邪気な微笑み。
「…どうしたの、ナバール」
「…………いや、別に」



洩れ聞こえてくる音の数々は、気安さと信頼とに満ちている。
今夜だけ、このひとときだけならば。



たまには、こんな気分も悪くない。



END







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