死せる神の王国〜チキ


死せる者は 生き返り
千年の繁栄を 謳歌する
遠き昔に滅せし神と共に



それは、精巧に作られた人形が、その精巧さ故に命を得た瞬間だった。
彼ら一族の象徴でもある、白蝋の肌を映した薄い瞼がゆっくりと持ち上げられる。未だ焦点の定まらぬ瞳は、緑柱石のような、それでいて金属的な色合いをも併せ持つ虹彩がひどく大きく、まるで全てを不思議な翠一色に塗りつぶされているかのように見えた。
ただ、目の前のものを見つめる、それのみの視線が、少しずつ光を取り戻し出す。そこに宿っていたのは、明らかな知性の色。
古き死者が今、甦る。
艶やかな髪を高く結い上げたのは、人間のものとは全く違う、先の尖った大きな耳を誇示するためか。
ゆったりと頭を巡らせ、こちらを見つめた。ひたりと当てられた視線は、ひどく冷ややかに映る。
なんと不思議な生き物。
彼はその場に、凍り付いたように立ち尽くしていた。初めて見る生き物に対する知的好奇心と、触れてはならぬものに触れようとするおののき。
それが、つい荒げそうになる息を無理に詰める行為に繋がる。
多分、それは呼吸3つ程後の事だったろうか。
半ばぎくしゃくとした不自然な動きで、それの腕が伸ばされた。彼の方へと。
それに対して、反射的に半歩、退く。
本能的な、人間ではない、しかし、確かに人間と同じ、いや、より以上の知性を持つ生き物に対する、畏れ。
それでも、そんな彼の心の動きを映した挙動など意にも介さぬように、その者は彼の逃げる長衣の端を握り込んだ。
彼を映す、翠一色の瞳。決して、人間の持ち物ではない、不可思議なその色。
「…だあれ?」
だのに、発せられた声は高く細く、確かに舌の足りない子供特有のもので、彼は、無意識のうちに詰めていた息を静かに吐き出す。
他愛もない。まだ、ほんの子供なのだ。長じて何にかなるやもしれなかったが、今現在は、ただの子供。何の危険性もない。
「…『誰』、か。…そう、何者であるのだろうな」
大賢者の弟子にして、裏切り者。闇に染まった魔道士。〈暗黒皇帝〉と呼ばれる狂王を御する者。
それでいながら、未だ、世界を観る観相者のままだ。
ひとしきり、彼を観察して、それで納得したのか…飽きたのかもしれない…、子供は何やら、もそもそと動き出す。横たえられていた寝台から身を起こしたいらしい。が、思ったように体が動かない事が、不思議であり、また、不満であるらしい。その感情は、表情にそのまま、表れている。
「…まだ、起きずともよい、竜の姫」
すぐさま、体など自由に動く訳もない。
何十年、もしくは何百年と眠り続けていたはずなのだから。
「『リュウノヒメ』ってなぁに?」
翠一色の瞳は、それでも、正直な疑問のみを映している。その無邪気さは、どこか小動物を思わせる。
「そなたの名だ。…いや、称号と言うべきか」
彼の答えの何が可笑しかったのだろうか、子供がくすくすと笑った。満足そうにすら見える微笑は、今度は短くてすむだろう微睡みの気配を漂わせて、子供をひどく大人びて映す。
「『リュウノヒメ』ね…。素敵ね…」
そして、そっと目を閉じる。吸い込まれそうな翠が消えて、子供は再び、人形へと還る。
それが、初めての彼らの出会いであり、その会見の終わりであった。



「未だ、見つからぬというのか…」
低く響く声は、その主の落胆を深く伝える。
悲嘆。苦渋。それでも、捨て切れない希望。
しかし、対するいらえは、無情にもそっけないものであった。
「そも、本当に存在するのか、そのような者が」
古今東西、終末観に救世主伝説はつきものである。それは、人間であっても、彼ら一族であっても、変わらないのではないか。
「何百年との長きに渡り、ついぞ生まれて来なかったそなたら一族の子供が、よりによって、死を間近にした皇帝の子として生まれる、など、でき過ぎていると思わんか」
そのような希望でも持たなければ、生きていけなかった者達の生み出した幻想。
「そなたに何が判るのだ!」
被せるような激昂は、それでもしたたる悲哀を拭い去れてはいない。
何という正直な、愚直なまでに真っ直ぐな男。
彼は、この男と言葉を交わす機会を持つたびに、不思議に思う。
彼ら一族とは、もっと考え深く、深淵の淵に生きる、人とは全く相容れない生き物なのだと思っていた。なのに、この男は、彼自身よりもずっと、人間らしい。
自身の言葉に煽られて、更に激昂を強めていくなど、彼には全く理解の他であるのに。
彼の皮肉な心情には全く気付かぬ男の言葉は、なおも激しさを増している。
「皇帝の子は、確かにいるのだ。我はその兆しを観た。あの戦の前であったが、確かに観たのだ。子が生まれるのだという兆しを!」
しかし、それでこそ、であったろう。
だからこその人望であり、王であったのだろう。
この男は、己の懐に入った者達を裏切らない。無私の心で、ただ、一族の未来を憂えている。それが理解できるからこそ、彼に付き従った一族と、あくまでも皇帝の意に沿う者達とに分かたれる、という現象が起こり、彼ら一族の汚点とも云われた『同族殺し』が起こったのだろう。
人間ならば当然である「同種の生き物を殺す」という事実は、彼ら一族の生き物としての意識革命であり、その『事件』を契機に、彼らの世界は終わりに向かって、急速に走り出した。
神とも云われる皇帝に反旗を翻した王の存在は、呪いであり、希望でもあり、最後の可能性でもある。
もう幾度となく聞かされた話題になりかけている事に、そっと溜息を洩らしながら、彼は相手を宥めるように言い紡ぐ。
「…貴殿の言葉に疑いを挟むような事はせぬ。それは神域の主殿も、重々に承知している。勿論、私もだ。我らに探索は任せ、貴殿はあまり気に病まれぬがいい」
「水の神域の主など、当てになるものか!所詮、外戚。あれは偉大なる血を引きながら、皇帝としての力を全く待たぬ出来損ないよ。ただ、皇帝の命を守る事よりは何もできぬ、木偶人形にすぎん」
その時、彼の手が小さく握り込まれた事にも、目の前の男は気付かない。
「そも、我が、このような道化た真似をしているは、何のためか。神聖なる皇帝の血族が全て絶えてしまったからに他ならぬ」
彼ら一族最後の光でありながら、当の王は、皇帝という存在の呪縛から解き放たれることはないのだ。
真の希望となるのは、この男であったはずなのに。
「それでも、子は生きている。皇子か皇女か、いつの日か帰還されるお方のため、玉座は維持されねばならぬ!我らの帝国ドルーアは、そのお方のためにのみ、存在するのだから!!」
男の意識の中からは、年代に対する認識が消えている。遺伝子操作を受けていない子供は、千年の時を生きはしないのだという事実を認めたくない故なのか。
王を縛る呪い。皇帝の子を縛る呪い。一族を縛る呪い。
底無しの淵に沈んでいく、彼らを縛り上げる希望の糸。
滅びを前にした彼らに似合いの、全く先の見えない帝国。
遠話装置を切ると、目の前にあった、狂おしい程に物苦しく、哀しい者の影は消えた。男の正気の時は短い。破綻した言葉の端々は、容易に狂気の呼び水になる。その後、男はまた、自責の念に駆られ、物狂いに暴れ、遠い昔に犯した己の罪に哭くのだろう。
もう、千年も前に消え去った彼らの帝国のために。彼に付き従って死んだ民人のために。彼らの皇帝のために。
彼の心に巣くう亡霊共のために。
「…さっさと滅びてしまえばよいのだ…」
呟く声に、感情の色はない。



目の前には、寝台に横たえられた人形がある。
千年の時を眠り続け、現世に甦った子供の時間は、しかし、既に動き出している。後、300年か、それとも、500年は生きるのか。
人間にとっては充分に長い時間も、ただ、流れるのみの無為なものとなるとすれば、長い分だけ、いっそ哀れだ。
皮肉な事に、新たな生命を育む雌として生まれて、それでも、新たな子を産ませられる若い雄も既にない。
先に進む道などない、一族最後のひとりとなるだろう子供。
この最後の雌が死んだ時、彼ら一族は真に滅びを迎えるのだろう。
希望は容易く絶望へと取って変わる。それを、呪いというのではないか?
王である男の希望であり、彼ら一族の呪いそのものである子供。
一体、これは何者の作為か。
「…竜の姫」
可哀相な、可哀相な運命の子。
彼が、子供へと手を伸ばしたその時、子供の目が見開かれた。子供は身を起こしたりはしなかったのだけれど、その事にふと、違和感さえ覚える。
眠り人形が目を開けるのは、身を起こされた時だけなのに。
子供の視線は、不思議そうな光を湛えて、己の首へと添えられた手を見つめて、その手を遡り、彼の顔、そして、目へと辿り着く。
一瞬の見つめ合い。魂の邂逅。そして、子供は、まるで花開くように、微笑った。



「お人形さんは、喋ってくれないから、つまんないわ」
ようやっと現れた、人形ではない者の存在が嬉しいと、如実にその瞳が語る。
何故、この子供が人形のように見えたりしたのだろう。素直な感情を映す瞳は、何よりも生きる者の力に満ちている。
これが、あの生き疲れたような一族のひとりだなどとは、思えぬ程に。
「…今現在、この神殿にいるのは、私ひとりであるという事になっている。そのように、設定した。そのせいだろう。そなたの世話は命じておいたが…」
どうやら、自動人形達は、子供を無機物、つまりは人形であるとでも、認識しているらしい。
一族の遺跡に残された科学技術(テクノロジー)は、遙かな過去に生きていた彼らにとっては、ほんの些末な物であったろうけれど、この現代に生きる人間達には、どれも信じがたい程に高度なものであり、非常に役に立つものだ。
ただ、どうしようもなく、融通の利かないものも、なかにはあるのだ。この神殿で未だ生きて動いている、鍵となる言葉を知る者達の言うがままに従うだけの自動人形達のように。
それでも、融通の利かなさゆえの利点もある。必要最低条件さえ満たせば…つまりは、鍵となる言葉を知ってさえいれば…、一族の者でもない彼の意を受けて動きもするのだから。
子供は、幾度か目を瞬く。彼の言葉の意をどこまで捕らえたものかは判らないが、ひとつ、小さく息を吐き、こう呟いた。
「お人形さん達、言われたようにしか動けないのね。可哀相ね」
「『可哀相』か」
変わった事を言う。
あんなものは、ただのからくり仕掛けに過ぎないものを。
しかし、それで子供の興味は他へと移ったらしい。翠の瞳をきょろきょろと左右させ、少し考えるような沈黙を見せ、最後に真っ直ぐに彼を捉えて、手を伸ばす。
体を起こしたいのだ。
本当に変わった、それでも判りやすい子供の行動。
今度は、体は逃げなかった。コレが、彼にとって危険な生き物などではなく、子供という名の生き物であるという認識が生まれたからだろうか。どちらも、正体不明である事に変わりはないというのに。
姫君の望みのままに、その手を取る。暖かである事が、また不思議だ。こんなにも、白すぎる程に白い手をしているのに。
「…あったかいね」
どきりとする。
心を読まれたような気がして。
「変ね。私ね、起きた時ね、あなたが目の前にいて、あなたもお人形さんみたいだと思ったの。ちゃんとあったかいのにね」
いや、読んでいるのかもしれない。この子供には、判るのかもしれない。
今現在の己の状況。彼が彼であるという事。
結局、己も人形だ。
命じられるままに踊ってみせる、自動人形。
いつまで経っても、引いてくれない手に業を煮やしたのか、子供の手が彼を引く。そこにあるのは、あくまでも子供の顔。人間のそれとなんら変わるところもない、無邪気な表情。
「…竜の姫」
「チキよ」
子供は、天衣無縫の大胆さでもって、力ある言葉で綴られた己の名を明かした。
「私の名前、チキというの」
その瞬間に、子供は己の運命を選び取ってしまったのだ。
そうとも。それが、彼らの運命だ。
彼は、皮肉な思いに口角を歪ませる。
「…チキよ。この世界に残された最後の神の眷属よ」
力ある言葉で紡がれた呪言は、確かな呪縛力をもって、彼らを縛る。
「そなたはこの神殿で眠る。時を止めて、現在(いま)のままの姿で。この世界の終わりまで」
最後の神は永遠に眠る。
それが、彼の紡いだ呪言。
子供は眠り続けるだろう。時を進める事もなく、何ものに巻き込まれる事もなく。
ただ、永遠に幸福な午睡を漂うだろう。この世界が終わるまで。



狂った何ものかに呪われ、膿んだような舞台で、決められたとおりに踊る人形達。



千年の妄執が生んだ亡霊共も。
亡霊に取り憑かれた男も。
男の望んだ幻想の帝国も。
帝国に縛られた皇帝の影も。
皇帝の影に付き従う神域の主も。
神域の主の望むままにしか動けない、己さえ。



滅びてしまえばいい。





最後の記憶は、白い顔に浮かんだ、不思議に哀しげな微笑。
深く暗い闇の中に、ただひとり。
立ち尽くしていた子供の影。
それが一体、誰だったのか。
もう、判らなくなってしまった。
今はもう、深く暗い闇の中に、沈んでいってしまったから。



ひとりぽっちの寂しいこども。
誰かが、傍にいてあげればいいのに…。



徐々に意識は沈んでいく。
深く暗い闇の底へ。
それでも、落ちていく彼女の手を包んだ暖かな温もりは、それから随分と長い間、去ってはいかなかったから、最後までその手の温もりにしがみつくように、胸の奥まで暖まるようなその感覚だけを抱いて、チキは深い眠りについた。



END







 ◆→ FORWARD〜PASCAL15-2
 ◆◆ INDEX〜PASCAL