記憶の中に棲む永遠〜カチュア

夢のように咲く花の下
ただひとり 立ち尽くすこども

奥庭の一角に、その木はあった。
火に煽られ、黒々と炭化した幹を晒して、大きく張り出していただろう横枝も、その殆どを焼け落とされて。
それでも、太い幹の下、大地にどっしりとした根を張り、その木はそこにあった。
『光の公主(スター・ロード)』と呼ばれた英雄アンリの血を引く王子が、還ってきた。
光の公主の再来。新たに生まれ出た英雄伝説。
アリティアは、再び、世界を救う。
今までの抑圧もあるのだろう、今、この国は興奮の坩堝だ。他国でも、この国のように、ではないにしろ、多少の興味はかき立てられるものであったろう。
再び、アリティアの名は甦った。100年前の因縁であるドルーアの名を冠した国に、完膚無きまでに叩き伏せられ、もう二度と立ち上がる事もない、とそう思われていたのに。
まるで、子供に聞かせる物語のような展開。
これから、他国はどのような行動に出るだろう。
そして、祖国である竜王国は。
そこでカチュアは、軽く溜息をつく。
『光の公主』だなんて、周りは全く、判っていないのだ。
アノ人のどこに、そんなご大層なものがあるというのか。
再び、漏れ出そうな溜息を押し殺し、再度、辺りを見回す。王宮でも、奥庭とされる部分。奥宮に住まう王族か、またはその身の回りの世話をする、ごく限られた者達しか、目にする事はないだろう一角。
黒々と炭化した立ち生えの木々と、雑草に覆い尽くされた園。薄汚れた灰色を剥き出しにした石壁。
美しい国だと聞いていた。静かに穏やかで、この世に楽園というものがあるのなら、それはあの国のような場所を指すのだ、と。
現在でも、それを感じさせる部分がない訳ではない。
ごく自然に、それでも細心の注意を払って配されたと思しき木々は、大きく枝を広げ、所々に日陰を作る、天然の四阿となっていたのだろう。
季節の花々が途切れることなく群れ咲くのだろう園。奥庭を囲む白い石壁も、決して圧迫感や閉塞感を感じさせないよう、その大部分が緑に隠される計算の上で作られていたのだろう。城を形作る石壁でさえも、元は純白であったとおぼしき色合いを残していて、昔はさぞかし美しく陽に照り映えた事だろう、と推測させた。
そんな往事の風評を証立てる華麗さ優雅さの匂いのようなものは、確かに随所に残っていて、それがまた、物寂しくもある。そんな眺めだった。
カチュアが歩む度に、足下からは柔らかな感触が伝わる。厚く生い茂った雑草は、この庭に荒れた気配を漂わせてはいたが、大地に残っただろう戦乱の後を覆い隠す役目を担っていて、それで随分と無惨な印象は軽減されている。
戦役当時、この国の状況を洩れ聞いていたカチュアには信じ難い程に、それは穏やかに映る。
それでも、当時の情報が嘘であったのだろうとは思わない。
石壁を彩る煤。炭化した木々。そこここに存在する、黒々と焼け焦げた形跡は、落城の日、炎に包まれた折りの名残なのであろうから。
そう。この国は、王都にまでドルーアの軍勢が押し寄せたのだ。
国の都まで、敵に蹂躙されたら、戦はそれでおしまいだ。実際、そこまで行ってしまう前に、降伏するなり何なり、対処のしようもなかったのだろうか。
いや。降伏はできなかったのかもしれない。
ドルーアの話は、聞いた事があった。
アリティアの名に対する、憎悪。一体、何故、あそこまで、と誰しもがそう思ったという、絶対的な破壊衝動。それが本当ならば、アリティアの降伏など、承伏するものではなかったのかも知れない。
しかし、城は残っている。ドルーアの憎悪が、話の半分でも正しかったのであれば、いっそ、破壊され尽くした廃墟と化していても、おかしくはなかったろうに。
カチュアの物思いは、そこで途切れた。
探し人が、そこにいた。
一際、大きな木は、ご多分に漏れず、焼け焦げていたが、その木の根元に腰掛けて、彼はいた。
もう、青年らしさが身に付いてもいいような年齢だったはずなのだが、カチュアの目には、少年、としか映らない若者は、ただ、遠く空を眺めていた。
「…ああ、カチュア」
無言で近づくと、気配を感じたものか、彼が顔を上げた。穏やかな微笑みは、いつものこの人のもの。
「もう、時間かな。誰かが呼んでる?」
「いえ、まだ会議の時間にはなっていません」
カチュアは言うなり、彼の横に、些か乱暴ななりで腰を下ろす。
相手の身分を考えれば、不敬罪に問われてもおかしくない、不作法な所作ではあるが、このような行動を彼は喜ぶのだという事を、既にカチュアは知っている。
予想の通り、彼は面白そうに瞳を瞬いて、膝を抱えた彼よりもずっと粗野な様子で足を組んだカチュアを見やる。
「ですが、側仕えには、どこに行かれるのかくらい、告げておいていただけませんと。火急の用件でも入った時、困ります」
「そうだね。ごめん」
これまた予想通り、あっさりと謝罪する。
だから、カチュアは不安になる。この人の中に、己はどれ程入っているのだろうか、と。
この人は、誰の話でも聞く。誰か尋ねてくれば、余程の事がない限り会うし、どのような立場の人間の話も、皆、等分に聴いている。
この人の中では、何でも、誰でもが等分だ。何よりも大切なものとしては、誰も彼の中に残らない。だからこそ、何でもさらりと流せてしまうのではないのか、と。
この人にとっては、誰も彼もが必要ないものなのではないのか、と。
彼が再び、空を見上げる。それさえも、現在、隣にいるカチュアを閉め出しているように感じられて、思わず、口を開く。
「何か、珍しいものでも見えますか?」
「うん。この木、ね」
彼が柔らかく微笑みながら指差したのは、彼女らが現在、背にしている一本の木。その、焼け焦げた枝、だった。
「昔、僕がとても好きだったものなんだ。よく、この木の下にきて、ずっと空を見てた。それで、よくマリクに怒られたりしたよ。ほら、今のカチュアみたいにさ」
アリティアの空は、柔らかな青。
祖国マケドニアのような、燃える太陽に相応しいものではない。
ただ、柔らかな青。
この空の下で、彼は育った。おそらく、今のような目をして、ただ、夢見るような目をして、豊かな緑の傘の下から空を見上げていた子供。
あの魔道士の青年も、現在のカチュアのような思いをしたのだろうか。この人に、自分が傍らにいるのだという事を認識させたい、空の上から、引きずり下ろしたい、と?
多分、怒られた当人は、そんな事、少しも判ってはいなかっただろうけれども。
今では、すっかり焼け焦げて、見る影もない。黒い骨組みのような木の下から覗き見る空は、それでも、おそらく、昔のままのもの。
彼と並んで座って、漫然と同じように空を見上げて、思う。
今も昔も、変わらないものはある。同じ空の色、同じ風の匂い、そして、この人の人となり。
「けど、…ほら、そこ」
ふと。
彼が指差した。
「芽が出てるだろう?」
示された先にある枝に、確かに小さな芽のようなものが見える。
真っ黒く染まったような枝から、今、まさに生まれ出たかのような、萌葱色。それはあまりにもそぐわなく見えて、にわかには信じ難いような思いをカチュアに抱かせる。
呆然と見上げた。目に入るのは、まるで空の青に溶けてしまいそうな若草の緑。
ただ見つめて、その事の持つ意味に気付いて、それでも、何と言っていいのかわからなくて、だから、見つめ続けて。
じわり、と胸に広がるのは、不可思議な、感動にも近い想い。
本当に、変わらないものはあるのだ。
植物は、強い。死んでしまったように見えて、ずっと生きている。そして、戦場の狂乱を生きる人間に、こんな感情を抱かせてくれる。
本当に、何だってこんな事で涙が出そうになどなってしまうんだろう。
何だって、こんなに小さな萌芽を、愛おしい、と思ってしまうんだろう。
生きているのだ、という事。
ただ、それだけの事なのに、背に凭れたこの木が、こんなにも愛おしい。
「そりゃあ綺麗な花が咲くんだよ、この木には。もう何年かしたら、きっと昔通りの薄紅色の雲になる。…カチュアにも、見せてあげたいな」
カチュアにも、見えるような気がする。
枝々に薄紅色の雲を纏ったこの木の姿が。
カチュアはそっと、目を閉じる。
きっとその姿は、とても美しい。夢のように美しいだろう。
生きている事の美しさ。それは、何よりも尊い。生きているという事の尊さは、きっと何ものにも代え難い。
だけど。
「何故ですか」
訊いてしまってから、後悔する。答えなんか、判っているのに。
もっと夢を見ていればよかったのに。現実を直視するのは、もっと後でもよかったのに。
今、この時のように、彼の隣に座って、いっぱいに花をつけた木の下で。
何も話さなくてもいい、ただ、何も言わずに共に空を見上げるだけの夢。
決して、叶わないと判っている現実。
「何年か経って、世界が平和になったら、私はこの木に咲く花を見る事ができません。…なのに、何故、そんな事をおっしゃるのです?」
祖国マケドニアとこの国との戦いが、この先どのように転ぼうとも、カチュアがこの奥宮を訪ねる事など、もう二度とない。元々、そのような身分でもない。
今、だからだ。今、この戦乱の時だから、許される。
本来ならば、この人の隣にいられるのは、相応のお姫様だけなのだから。
そう、例えば、彼女の主君である鬼姫。鬼姫の妹君である二の姫。タリスの方や聖王女殿下。
「そりゃあ、僕がカチュアの事、好きだからさ」
当然の事のように、彼は言う。
そんな事、言ってほしくなかった。
この人が、嘘をついているとは思わない。だけど、絶対、本当の事も言っていない。
この人にとって、他者は全て、同じものであって、だから、この人がカチュアを好きだ、というのならば、それは決して、特別な意味ではあり得ない。
決して、私と同じ意味で、同じ感情を持って言っているのではない。
「…私は…」
「うん、判ってるよ。カチュアは僕の事、嫌いだろ?別に、好きになってほしいとかってんじゃないから。だから、いいんだよ」
彼は、穏やかに微笑う。常の如く、万人の前に晒す、その広い心を示す微笑。
気に留めなくてもいい、と。心に残す事など何一つない、と。ただ、己の気持ちを口にしたかっただけだから、と。
カチュアの想いなど、少しも気にしてはいないから、と。
カチュアは、彼の目に映らないところで、唇を噛みしめる。
あんまりだ。
この人は、本当に何も判っていない。
あまりにもひどい。
カチュアが、彼を嫌いだから。
だから、カチュアの事が好きなのだ、と本気で言うのだ。
「後ね、側仕えの仕事、もういいから」
「…はい?」
「これからは、君たちの方が忙しくなるだろう?だから、姫将軍の方について、護って差し上げて」
一体、何を言っているのか、本当に判らなかった。
「今まで、ありがとう。本当に助かったよ」
にこやかに微笑んで、手を差し出す。それで、ようやっと理解した。彼は、もうカチュアを必要としていないのだ、という事を。
それとも、心のどこかで気付いていたのだろうか。
彼に対して、言いたい事を言い、やりたいように振る舞う、畏れ知らずで不敬な側仕えが、本当は、彼に惹かれているのだという事を。
だからこそ、彼はカチュアを遠ざけなければならないのではなかったろうか。
身分違いだからでも、彼女が不敬だからでもなく、彼女が本来、敵国の戦士だからでさえない。
ただ、己を愛する存在を必要としてはいないから。
この人は、己を愛する人を求めない。
己が愛せる人をしか、求めない。
この人は、ただの臆病な子供だ。
好かれる事が、愛される事が怖いのだ。
「…判りました」
それでも。
この人の前で、こんな風に笑ってみせる、そんな自分も同様だ。
好きだと告げて、この人に決定的に遠ざけられるのが怖い。疎まれてしまう事が恐ろしい。
とんだ臆病者。
なにが、鬼姫に付き従う戦場の三魔女。
「今まで、ありがとうございました。得難い経験でした。今までの業務は、きっとこれからに生かしていけると思います」
聞いた風な事を言って、微笑んだ。
多分、目の前のこの人と、同じような微笑で。
何年か経てば、この木には、また花が咲くだろう。
二度と目にする事はない木に咲く、美しい花は、この人を慰めてくれるだろうか。
この寂しい、ひとりぼっちの子供を。
END・
next:MAP15・
Mamkute princess・
|