記憶の中に棲む永遠〜バヌトゥ

人は 全てを知るべきではないのです
神ならぬ身は 真実の重さに 耐えられません
それ故にこそ 神は存在し
だからこそ 人は生きていけるのです
アカネイア大司教の言葉

「何か用?」
少年が振り返る。大仰な様子で溜息をつきながら。
ここまでずっと後を追ってきたのも、別段、気付かれないようにしていた訳ではなかったから、少年が振り返った事、それ自体を奇異に思う事はなかった。しかし、その反応は、どうだろう。
まるっきり、初対面の相手に対する時は、こうだろう、といった、お手本のようなその表情は、作った処など少しも感じさせない。
ほっそりとした肢体。はしっこそうな身ごなし。如何にも、悪戯者らしい、人間の子供。
明らかに、人間以外の存在ではあり得ない、そのオーラ。
しかし、その夕映えのように艶やかな茜色の髪と、底のない深淵をひるめかす、あまりにも印象的な瞳は、見間違えようもない。
例え、何十年、何百年が経とうとも、このような人物を、見忘れる事などあろうはずもない。
「…お話しがあるのです。是非、お伺いしたき事も」
少年が、軽く眉根を上げた。何を言っているのか判らない。そんな顔だ。
「何で俺に?」
『彼ら』は、目によって人を判断しない。人の本質は、その気にしか顕れないのだという事を知っているから。その観点から言えば、目の前の少年は明らかに、己の知る者とは別種の存在である。
同族達ならば、きっと少年の事を、別種の存在だと断じただろうけれど。
「お願い致します」
己を支える物も、拠り所も失って、長い間、人間として暮らして。
既に、人間と化しつつあるのかもしれない。
彼を目にして、気に触れて、それでも、その印象的な姿を信じる。
この少年は、かの運命の使者なのだと。
「…あのなぁ」
少年の視線の変化もまた、容易くその気に顕れていた。
全くの無関心から、ほんの少し、興味を惹かれた心の動きの見える視線。
一族の者だったら、即物的かつ動物的な、と称すだろう、鮮やかな感情のオーラ。
本当に、どこから見ても、人間の子供。
己の直感を信じてはいたけれども、つい、その判断力を疑ってしまいそうになる程。
「お叱りは、後ほど、いかようにもお受け致します。しかし、どうしてもお伝えせねばならぬ事があるのです」
不安感は振り切り難かった。しかし、それでも、言葉を口にしてしまえば、それが己を律する指標となる。言霊は、『彼ら』の生んだ魔道技術(アート)の基本である。
彼にとっては永遠にも等しい、ほんの数呼吸。
ただ、彼を斜目に見つめていた少年が、軽く息を吐く。
「…遠い国からやってきて、右も左も判らないところを捕まって、やっと助け出されたと思ったら、こんな胡散臭い奴にいちゃもんつけられるなんて、俺って本当に可哀相」
本人曰くの『可哀相な少年』が、ひょいと肩を竦めてみせる。
「話したいなら、話せば?聞いててやってもいいぜ」
聞くだけだけど。
この不作法な行動が赦されたのかどうかは判らなかったが、それでも、得られた機会を逃すような事はしない。専制君主に拝謁するというのは、そういう事だ。
少年が支配者であり、彼が支配される者であるという事ほど、歴然としたものはなかったのだから。
その光景は、目にした者には、随分と奇異に映った事だろう。
かたや、十代も半ば、子供から大人へと移り変わる時期特有の、急激に伸び始めた身長に体が追いついていかないとでもいったような頼りなさを醸す、その大きな瞳と茜色の髪が印象的な少年。
対するは、白蝋の肌が死人めいて映る、ひどく細い、枯れ果てた木のような姿をした老人。縦に割れた金色の瞳孔と、細く白い指先についた鋭く尖った鉤爪もまた、明らかに普通の人間の持ち物ではあり得ない。
それは、マムクート、二足蜥蜴とも呼ばれる種族の特色。
少年が、ついと顎をしゃくる。
それは、心細さ、人恋しさから、アリティアの王子に過度の親愛を示した異国の少年にしては、些か、太々しい仕草であった。しかし、それを受けて、老人は交差した腕を胸元に引き寄せ、頭を垂れる。王の前で口を開く事を許された、臣下の如く。深い感謝の念を示して。
「…何よりも、まずは謝罪せねばなりませぬ」
「てれてれ近寄ってきやがった事だったら、謝ったって許してやんねーから、無駄だぞ」
「そちらではなく。…それもまた、お詫びせねばならぬ事ではありますが…彼女を失ってしまった事です…」
少年は、不審げな顔をしている。どうやら、何の事を言っているのか、よく判らないらしい。それとも、あえて、そのような表情を見せているだけか。
今、彼女が傍にいないという事の意味を、少年が気付かぬはずはないのだから。
あくまでも、この少年の存在を、己が見誤っていない、という前提に立っての事だが。
またしても、浮上する小さな疑惑の念。間違いはないと断ずる直感と、人間でしかあり得ない少年の気が証明する現実との、せめぎ合い。それを無理に押さえ込んで、再び、言の葉を紡ぐ。己の判断を信じると、そう決めたのだから。
「……血族の少女を失った罪は、あまりにも大きく。本来ならば、どのような罰でも贖えるものではありません。ですが、私は彼女を取り戻したい。そのためならば、どのような事でも致します。だから…」
少年の目は、真っ直ぐに彼へと向かっている。全く意味が分からない、とでも言いたげな顔だけれども、その視線の強さは本物で。
彼は、気圧されるように、つい、目を伏せてしまう。これから、己が口にせねばならない事の、あまりの図々しさに。
しかし、それでも。
「どうか、暫しの猶予を戴きたいのです…」
叶うのならば、後はどうなってもいいと思う、その望みだけは、本当だから。
暫しの沈黙の後。
「…なんか知んねーけど」
少年が、ぽつりと呟いた。そこに、感情の色はない。
頭を垂れており、よって、少年の表情を見る事のなかった彼は、その声音に押されるように、顔を上げた。少年は、声に表れた通りの表情をしている。
「その『彼女』って、お前のなんだろ?何で、俺に言う訳?そんな事。取り返したいなら、勝手に取り返せばいいだろ?」
つい先程の、興味深げな色も、既にない。その様に、少なからず、彼は面食らう。
少年が本当に、彼の知っている存在ならば、彼の同族なのならば、少女の行方に心を動かされない、などという事は、あり得ないはずなのだ。
まさか、本当に人違いなのか?
信念は、また、微かに揺らぎ始めていた。それは表情としては表れていなかったが、気の起伏として表れたのかもしれない。感情を表に出すなど、一族の者らしからぬ失態である。
しかし、そんな彼の心情の全てが、手に取るように判ったのかもしれない。少年は、小さく微笑う。
「もし、俺がお前の知ってるヤツなんだとしたら…」
余裕たっぷりに言葉を切って、少年は、彼を上目遣いに見上げる。
「お前のやってる事に、興味なんてないな。何か、とんでもない騒動になりそうだってんなら別だけど」
面白そうだから。
そうだった。この人は、何にも興味を抱かない。執着もない。ただ、状況を面白がるだけだ。
神域の主へ、彼の行動を報告するなど、それが、余程興味深い状況を生み出すのでもない限り、あり得ない事だったのだ。
ならば、確かにこの方はかの運命の使者。
逆説的な論理の帰結は、ひどく明快だった。
「…失礼致しました。埒もない事を申しました…」
「全くだ」
少年の答えは、にべもない。
続く言葉を失って、彼が口をつぐんだ、ちょうどその時。
その気配は、流れ込んできた。
人間は決して気付かないだろう。しかし、彼らにとって、それはまるで、固有の匂いでも発しているかのように、感じ取れる。
確かに人間であるのに、どこか彼ら一族に似通った、不思議な気配。それは、一度でも接した事のある者にとっては忘れられない、人間から見ても、印象的、と評されるであろう人物を表す。
途端、少年が身を翻した。その足取りは軽やかで、嬉しそうですらある。
少年が、誰の元へと行こうとしているのかは、訊くまでもなく明らかで、だからなのか、その問いは、考えるより先に口をついて出た。
「王子殿下を、どうなさるおつもりなのですか」
少年が、嫌そうな顔で振り返って、それで、自分の言った事に気がつく。その言葉の意味にも。
「…俺が、マルスに何するって?」
今までにも、幾度か夢想した事はあった。
王子と少年が出会ったら、どうなるのだろう。
少年は、王子をひどく嫌うか、ひどく好くかのどちらかだろうと思っていた。興味を引かれない、などという事だけは、ないだろう、と。
「…お前、マルスにべったりの、あの男乳母やみたいじゃねー?」
こんな風に懐いた図、というのは、想像の範疇を超えていたのだが。
「あー、やだやだ、真面目なヤツらって」
怒ったように吐き捨てながら。
「だけど」
少年の瞳が、徐々に面白がるような光を帯び始めているのは、話題の主ゆえ、であろうか。
「………『王子殿下』ねぇ?………ふーん?」
竜帝のみに仕えた従者が、今、人間の子供を『王子殿下』と拝するという事実は、そんなにも少年を楽しませたものか。
少年がうっすらと微笑する。それは、どこかで見た微笑み。御使いのように冷ややかで、妖魔のように艶麗な。己の手に堕ちた小動物を嬲ってみせる肉食獣の如き、嗤い。
しかし、彼を立ち竦ませたのは、その微笑のみではない。続く言葉、それ自体の意味するものもまた、彼らにとってはひどく重く、何よりも重要な事だった。
少年は、彼に息も掛かる程に顔を近づけ、こう囁いた。
「マルスには、喋るなよ。下手な事言いやがったら、お前、『彼女』ごと、殺すよ?」
仄かに微笑うその瞳にあるのは、ただ、事実を告げる冷厳さのみ。それは、恫喝にすらならない、宣告だった。
「マルスぅ」
「あ、チェイニー。さっき、大丈夫だった?マリクに怒られたりしなかった?」
「平気平気。…でも、慰めて♪」
「もー、何だかなぁ」
少年達の軽やかな声。何よりも、気心の知れた者同士の、気負いのない暖かさ。
「…どうかしたか?」
「……うん、さっきそこに、バヌトゥいなかった?」
「んにゃ?何?『バヌトゥ』って」
「いや。いなかったなら、いいんだけどさ…」
何だか、いるような気がして、来てみたんだけど、と続く王子の声に続いた、ちょっと不服そうな少年の言葉。
「何だ。俺を捜してたんじゃねーの?」
「チェイニーの事も、捜してたよ」
「『も』かい」
「…だから、何でそう、拘るかなぁ…」
廊下を歩み去る少年達の声は、徐々に遠くなっていく。少年はともかくとして、王子にだけは決して見つからないだろう、彼らの行く廊下の支流に当たる通路の奥で、バヌトゥは息さえも詰め、その身を潜ませていた。いっそ、闇に溶け込んでしまったかのように。溶け込んでしまいたい、との願いのままに。
先程の少年の言葉が、バヌトゥの脳裏に甦る。幾度となく繰り返される。まるで、壊れてしまった再生装置のように。
少年が、微笑んだ。ただ、それだけで理解した。そこには、隠しようもなく顕れる血の力があった。
少年の存在それ自体から発せられる重圧は、命令する者、支配者としての力量を示す。
この少年に、彼は決して抗えない。彼のみならず、彼らの同族の者は皆、ひとりの例外もなく。
それはまさに、帝王の血族の力。
彼らの竜帝と同質の。彼の少女の中に眠っているはずの。
それでいて、少年は彼を『殺す』と言い切った。それは、一族の者ならば、決して口にできない言葉だった。
彼ら一族には、同族を殺害する事への本能的禁忌がある。それを上回るのは、生物としての生存本能のみで、だからこそ、帝国末期に彼ら一族が相争った戦いは『同族殺し』と称され、現在でも、誰もが口をつぐむ後ろ暗い闇の歴史とされているのだ。
『彼ら』は、同族を殺せない。しかし、人間は人間を殺せる。
それが、彼ら一族と人間との最大の違いであり、決して相容れない要素である、と、そう云われていた、のに。
彼は確かに、帝王の血族。なのに、一族としての禁忌を持たない。
まるで人間のように。
あの少年は、何者なのか。
底なしの淵を覗き込んだような不安感と、己は今まで、何も知らなかったのだ、という事を知った心許なさと。
知ってはならぬ秘事に触れた予感と言いしれぬ恐ろしさに、ただ、バヌトゥは、その身を震わせていた。
END・
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