記憶の中に棲む永遠〜カイン


連続する刹那の中 繰り返し顕れる情景



その足取りは、鉛でも引きずっているかの如きであった。
「感情が面に表れすぎる」と、親友であり同僚でもある青年に言わしめたカインが、その面のみならず、体全体から発散させていた感情は、今更、語るまでもない。
何故、あんな事言っちゃったんだろうなぁ…。
今となっては、後悔ばかりである。
しかし、『何故』の理由は、歴然としていた。その事は、カインにだって、判ってはいたのである。それでもやはり、先程から空転気味の思考はぐるりと回って、また元通り、最初へと戻りつく。
何で、あんな事、やっちゃったんだろう…。





王子、行方不明。
その報を初めて聞いた時、カインにはそれが何の事なのか、よく判らなかった。
警護兵の詰め所奥で仮眠中の王子が、何故、行方不明になるというのか?
ただ、その報を持ってきた魔道士の少年は、ひどく取り乱していて、カインは、あんな彼を見るのは初めてだったので、まず、そちらの方に驚いてしまった。
すぐさま、捜索隊を、と主張する少年に対して、「状況がはっきりするまでは、大事にしない方がいい」と、騎士団長がやんわりとたしなめる。その頃だろうか、じわじわと浸透するように、状況への理解がその身に追いついてきたのは。
王子がいない。
その瞬間、カインはその場を飛び出していた。脳裏にあったのは、王子が何かと護衛の任を与えがちな異国の傭兵の人形めいた顔。
ああ、ああ、どうせ俺は、短絡的で猪突猛進な牛だよ。
まるで、今、耳元で言われたかのような気になるほど、親友が確実に口にするだろう言葉は、鮮明だった。
カインは、小さく溜息をつく。
でも、それでも、やはり、あの傭兵の態度にも、少々の問題はあるのではないかと思ったりする。
確かに、今回の非は、カインに全面的にあるのであるが。
カインが…今にして思えば不作法にも…いきなり扉を開いた時、傭兵は部屋にいた。ひとりだった。その事がまた、カインの怒りに火をつけた。
「何故、いる!」
完全に言いがかりであり、八つ当たりである。
今、冷静になって考えれば、彼がいなければいないで、また腹は立っていたのだろうと思う。しかし、あの時は、それが正当な怒りだと思ったのだ。あの傭兵が王子についていれば、こんな事にはならなかったのだ、と。
「…何故も何も、ここは俺の部屋だと思ったがな」
あくまでも冷静な物言いにかっとして、振り上げた拳は空で留められた。今は、取り押さえてくれた親友に、感謝している。ただ、あの時は、全く、頭に血が上っていたのだ。
親友が後を追ってきたという事実にさえ、腹を立てていた。彼の口から出た「冷静になれ」の一言さえも、不忠の証拠のように思えた。この焦燥が理解できないなんて、絶対におかしい、と。
故国へと帰ってきたとはいえ、敵が、もっと言うならば、ドルーアへと荷担していた内通者だって、いない訳ではなかった。
そんな状況下で、王子が行方不明になる、というのは、ただ事ではない。そもそも、王子は自らの立場を誰よりも理解しており、常にそれを忘れた事はなかった。周囲に何も告げぬまま、単独行動をした事など、遠く、王子の幼い日にまで記憶を遡らせなければ見出せない程だった。
だからこそ、連れ去られた形跡はなく、自分から出ていったとしか思えない、という意見すら、その状況証拠こそが間違っているのだ、と、そう頑なに否定してしまったのだ。



何故、あんな事言っちゃったんだろうなぁ…。
カインは、胸の奥底から絞り出すような溜息をつく。
別に、友人に当たり散らさなくても、よかったのである。
それに、結局のところ、常に「冷静」であった友人の方が正しかった。実際、彼の言うように、あくまでも内々に、彼らアリティアの者を含む少数の者達のみで探索した結果、話が大事にならずにすんだのだから。
日もすっかり落ちかかった頃、同盟軍に加入したての少年と二人、連れ立って帰ってきた王子の姿に、膝が抜けるほどの安堵を覚えたのは、つい先程の事だ。
彼を捜索していた者達の前で神妙な顔をした王子に、何故、こんな事になったのか、と魔道士が詰め寄った。そこにあった怒りは、今までの心配と無事見つかった事への安堵の裏返しである事は簡単に見て取れて、だから、誰も何も言えなかった。当の王子さえ。
王子と共にいた少年以外には。
少年がこそりと、それでもその場にいた全ての者の耳に入ったろう程の声で、王子の耳元に囁いた。
「何?あれ、お前の乳母や?」
あの瞬間を、どう表現すればいいのだろう。
魔道士の少年の周囲から、ぴしぴしと空気の鳴る音がしたと思ったら、室内温度が急激に下降した事だとか、茜色の髪をした少年が大真面目な顔をしながらも、魔道士の少年に対して小さく舌を見せた事だとか、それをまた不幸にも、己のみが目撃してしまったらしい事だとか。
皆が確かに聞こえていた事を示す、息を呑む気配と、それでも、どう反応して良いのか判らない、とでもいったような、沈黙。
すっかり固まってしまった室内の中、ただ王子だけが、如何にも感心したといった表情で呟いた。
「…凄いね、チェイニー」
それは、極度の緊張状態から解放された反動だったのか。
張りつめた神経の糸が、ふっつりと切れると、人はどうなるのか、その時、カインは身を以て知った。
「わははははははは…」
静けさに覆われた部屋に響き渡る、この声がどこからのものなのか、初めは判らなかった。耳に入って初めて気付く。
引きつるように喉奥が震える。やばい。まずい。あまりにも、現状とかけ離れている。
「わははははははは…」
それでも、止まらない。そんなにも、面白かったのか?今にして思えば、確かに的を射る発言だった。しかし、その時には、そんな事は思いもしなかった。例えばそれは、目にゴミが入った時、悲しくなくとも涙は出てくる、そんな状況にも似た、いわゆる反射的なものだったと思う。
「わははは…」
もうどうしようもない。
「はははは…」
涙まで出てきた。
くすり。
しばらくの後。
誰ともなく、鼻をくすぐるような吐息の気配が広がり出す。弓兵である同僚と目が合った。肩が震えている。視線はもっと揺れていた。
笑いとは、伝染するものなのだろうか。
次の瞬間、室内は爆笑の渦に巻き込まれた。



ああ、何で、あんな事、やっちゃったんだろう…。
歩む足取りは、ただひたすらに重い。
その後、どうなったのか、カインはよく覚えていない。ただ、王子のきょとんとした顔と茜色の少年の如何にも面白げな表情が、流れる情景の中にあったように思う。魔道士の少年がどんな顔をしていたか、全く残っていないのは、無意識のうちにも、自己防衛本能が働いたのだろうか。決して、見たくない、とでもいう。
既に夜。
そこここに取られた窓からも、景色は闇に沈んで、殆ど見られない。ただ、この場所のみが存在しているような気になる廊下を歩く。そして、その歩みを止めぬ限り、例え、どんなに足取りが重くとも、いつかは目的地へと辿り着く。
ぴんと姿勢を伸ばして、服の襟を正して。
ひとつ、大きく深呼吸。
意を決して、カインは、目の前の扉を叩いた。
「どなた?」
何で、女の声がする?
決してあり得ない…と思っていた…事に直面して、瞬間、カインの思考は止まった。
目の前に聳える扉を前に、カインは考える。
部屋を間違えたか?
しかし、そんなはずはない。部屋の変更も、聞いてはいない。
扉に拳を置いたまま、カインは考える。端から見れば、ただ呆然としているとしか思えない風情ではあったが、彼は、彼としては破格なくらい、本当に考えていたのである。
しかし、そんな時間もそう長くは続かなかった。扉を叩いたっきり、反応のない相手に業を煮やしたのか、扉は内側から開いた。
「カインさん?」
顔を覗かせたのは、竜王国の天空騎士。
常に穏やかな落ち着きを醸す彼女は、妹であるという天空騎士が、未だ少女らしさを残すのとは対照的に、既に全くの大人の女性のように見えた。
彼女の前に出ると、何やらどきまぎしてしまうのは、だからだと思う。
「あ、あの、アベルは…」
夜、友人の部屋に女性がいる、という現状を、どのように受け取ればいいものか。
実際の年齢は、カイン自身よりも、ずっと下のはずなのに、ずっと年上のようにも感じられる彼女は、狼狽しきったカインとは対照的に、落ち着き払っている。
「今、眠っています」
「あ、そ、そうですか。失礼しました。とんだお邪魔を…」
慌てて踵を返そうとするカインに、彼女は微苦笑したようだった。部屋の扉を大きく開けて、自身は扉側へと心持ち移動して、カインを招き入れる。
「どうぞ、お入り下さい」
今まで、カイン自身の場所であった親友の隣へと。
「但し、できるだけ、お静かに」
カインは、借りてきた猫のような気分で、神妙に、彼女に導かれて、足を踏み入れた。



宿舎として徴収されたこの屋敷で、カインに与えられたのと殆ど同じ作りの部屋だった。
すっきりとした色調にまとめられた室内には、簡素な、それでいて使い勝手のいい家具が置かれている。
この屋敷の主人は、随分と趣味のいい人物であったらしい。客間として使用されていたのだろう、くつろぐには充分の空間である。
「彼は、そちらです」
しかし、彼女の示したのは、部屋の中央にあるベッドではなかった。隅に置かれた長椅子で、アベルは斜めに凭れたような姿勢で目を瞑っていた。
「私も今、来たところなんです。至急、目を通していただきたいものがあったのですが」
彼女が、何か書面のようなものを示す。それで、最近、王子とマケドニアの姫将軍との間の連絡係を、友人と彼女とで務めていた事を思い出した。
そもそも、彼女の衣装は、寸分乱れてもいない。
つい先刻までの己の想像に深く恥じ入るカインには気付かぬように、声は続く。
「何だか、とても疲れているようなので…」
彼女の言う通りだった。
アベルは、光源であるランプの炎の揺らぎ加減か、灰の混じったその暗い色の髪が映っているせいか、まるで息をしていないかのように見えた。顔色の悪さも、目の下に薄く浮いた隈も、普段の強い視線がないと、こんなにもはっきりと判る。
アベルは、常に冷静だった。現状を正しく理解し、王子探索の人員も効果的に割り振り、箝口令をしき。それでも、確かに王子を心配していた。それは、理解してしかるべきだった。他の誰が判らなくたって、幼少の頃から共にあったカインだけは、気付かなければならなかったのに。
それなのに、責めてしまった。冷たい、などと。
新たな悔恨に暮れ、友人を見下ろしたカインは、ふと気がついた。
今まで、見えていたはずなのに、全く目に入ってこなかったのは、友人自身の事で頭が一杯だったからだろうか。
「あの、…これは、貴女が?」
指差す先に目線をやって、彼女が小さく頷く。
本来、ベッドに備えられているはずの肌掛けが、彼を包み込むように掛けられている。
「…ありがとうございました」
カインは、深く頭を垂れた。
「別に、お礼いただくような事ではありません」
常に変わらぬ、穏やかな微笑み。落ち着いた物腰。大人としての態度。
どこかで見たような、姿。
どこか引っかかる。不思議な違和感。
「…あのっ」
何を言いたいのか、自分でも判らない。しかし、何か引っかかって仕方がない。何か、伝えなければならないような気がする。
それが何か、判らないけれど。
しかし、そんな心情故なのか、カインの声音は無意識のうちに、声が高くなっていたらしい。
彼女が、立てた人差し指をそっと、己の口元へと近づけた。
「起きてしまいます」
その仕草に、ふと、思い出す。先刻、彼女に感じた違和感とは、全く関係のない事ではあったが、これもまた、違和感のひとつには違いない。考えても判らない物事に直面した時、滑り落ちていく思考、なのかもしれないが。
王子を外へと連れ出した少年を、初めて、目にした時。
牢から助け出された少年は、カインの方に目を向けて、先程の彼女と同じ仕草をして見せた。唇の端を持ち上げたその表情は、少し、よくないものを感じさせもしたのだけれど。
それは、カイン以外の何者かに送った合図だったのではないか、と感じて(なにせ、カインには、見も知らぬ少年からそのようなものをかけられる覚えは全くなかった)何気なく、周囲を見回す。
その時、少し離れた場所にいたマムクートの老人は、カインの目に留まった、と感じたのか、そっと場を離れ掛けたところだった。老人は元々、王子以外とは目も合わせようとしなかったし、相手の視界に入るまいと心がけてでもいるかのようなふしがあったから、別にそれを不思議とも思わなかったのだが、あの少年の嗤いは、老人に対してのものではなかったのだろうか。
…幾らなんでも、遠すぎるか。
少年と老人との間に、距離がありすぎたが故にすぐに捨てられた、ほんの思いつき。
「すみません」
囁きにも近い謝罪と共に、長椅子の様子を窺う。てっきり、起こしてしまったかと思ったが、アベルは、よく眠っていた。
珍しい。
常ならば、人の気配でも目を覚ます程に眠りの浅い奴なのに。
そんなにも、疲れていたのだろうか。
頬に当たる視線を感じて、顔を上げる。すぐに彼女と目が合った。どうやら、カインの様子を見守っていたらしい。
そんなに長い間、黙り込んでいただろうか。ただ、友人を見つめる己は、彼女の目にはどのように映っていただろう。
心細げな、病気で倒れた母親の枕辺に寄る子供のような?
つい、笑いかける。照れ隠しもまた、多分に含まれていた。
彼女は一瞬、視線を合わせ、小さく微笑んだ、と思う。しかし、それで、何気ない風に、カインから視線を外すと、先までのカインのように、アベルを見つめる。
その瞳の色に、またもや疼く。奇妙な既視感。
少年の見せた表情にも、そんなに深い意味などなかったのだろう。それとも、王子からカインの事を聞きでもしていたのかもしれない。幼い頃からのお目付役、とでも?
いや。「乳母や2号」か。
カインは、己が周囲で、王子の幼なじみである魔道士と一緒くたに語られがちだという事を知っていた。それは、今現在、長椅子で寝ている友人との場合とは違って、カイン自身、反論の余地があると思っているのだけれど。
彼が魔法都市へと旅立ち、また再びカインらと出会うまで、何年の時が過ぎていたか。魔道士の少年の外見は随分大人びていたけれど、それでも、カインの目に映る彼は、昔、王子と共に奥庭を走り回っていた頃の少年そのままだった。
それは、彼だからなのか、それとも、魔道士という者の特性なのか。彼はまるで、子供のように正直だ。
司祭姫がいない今、彼にとって、大切なのは、王子だけ。彼は、大切な人へと全てを注ぐために、そうでない人々を全て、切り捨ててしまった。
その純粋さを、その想いの強さを羨む気持ちも少しある。それでも、己は決して、彼のようにはなれないから。
王子が大切なのと同じように、友人もまた、大切なのだから。
「申し訳ないついでに、なんですが」
柔らかな物腰の女性が、軽く小首を傾げる。
浮世離れした風情を醸す竜王国の天空騎士は、時に、どこぞのお姫様のような印象を抱かせる。計算され尽くしたような動きを見せ、巧みに戦闘の流れを読む、優秀な天空騎士としての彼女を、カインは知ってもいたのだが。
「今日は、アベルの事、このまま寝かせておいてやってくれますか。俺でよければ、代わりにお話伺いますから」
しかし、そもそも、本物のお姫様は、こんなに優しくはない。多分。
元来、貴婦人と呼ばれる人種ほど、現実的であるという事もまた、カインは知っていた。
「あいつ、いつも自分の体の事、省みないで、無理ばっかりするから。休める時は、休ませてやりたいんです」
彼女は、そっと首肯した。
「お気遣いは御無用です。明日の朝でも間に合いますので、また改めてお伺いする事にします。ですから」
続く言葉に、つい身構える。しかし、入った力はすぐに、不必要なものとなった。
彼女は、柔らかく微笑みながら、こう言った。
「貴方も、そうしていただけますか?」
カインは、全く気付かなかったのだ。
彼女から見れば、己の存在もまた、アベルの休息を邪魔するものであるのだという事を。
それは、取りも直さず、彼女もまた、アベルの状態を気に掛けているという事で。
「勿論です」
返される微笑みは、確かに感謝の意を含んでいる。
それを目の当たりにして、言葉は、勝手に口をついて出た。
「あの、…貴女は、アベルの事が好きですか?」
沈黙。
それは、カインにとっては、己の発言を省みる為の時間となった。
失礼である。
余計な御世話である。
そして何より、カインの言う『好き』に、恋愛感情は露程も含まれていなかったのだが、相手はそのように受け取らなかったかもしれない。
いや、当の相手が妙齢の女性である事を鑑みれば、そのように受け取らない可能性の方が高いのではないだろうか。
一気に、頭に血が上った。
「いや。そういう意味ではなくて。そういう意味でもいいんですけど、そうではなくて、ですね。もっと純粋に、というか、単純に、ですね」
泡を食ったカインの手は、自分でもよく判らない動きを繰り返す。どのように身振りを付けていいのか、判らない。しかし、それでも、その狼狽ぶりから、カインの言いたい事の骨組みのようなものは伝わったのだろう、彼女はあくまでも大人な態度を示して、さらりと言ってのけた。
「そんなにご心配なさらなくても、彼の事は好きですわ。とても話しやすい方ですし」
そんな意見を聞いたのは、初めてだ。
アベルは、女性どころか誰に対しても、特に親切という訳ではない。
カインの不審を感じ取ったのか、それとも、彼女自身、アベルの人当たりの悪さを知っているからか、困ったように微笑って、そして、小さく付け加えた。
「…私と彼とは、とても似ているんです、多分」
その時、カインは彼女の印象に感じた既視感がどこからのものか、理解した。それは、思い出した、と言った方が近かったかも知れない。
「…そうですね。確かに、そうだ…」
出会った頃の、騎士団長に紹介されて、初めて顔を合わせた、あの時のアベルだ。
丁寧な物腰で、今にして思えば、全く子供らしからぬ程にしっかりとした物言いで、同い年であると教えられていなければ、己よりもずっと年上だと信じてしまったろう、動かぬ瞳をした少年。
甘えもなく、人を頼らず、この世界で助けになるのは己の実力のみだ、と、そう信じていた少年。
あの少年が姿形を変え、今、目の前に、穏やかな微笑みを浮かべて、存在する。
難しい事は理解できなかったけれど、それでも、決して独りではないのだと、そう教えたかった、判ってもらいたかった、信じてもらいたかった、あの少年の日々。
「あのっ。俺、貴女の事、好きですからっ」
沈黙。
何故、俺は懲りもせず、同じ失敗を繰り返すのか。
「いや。そういう意味ではなくて。…なんて言ったらいいのか…」
冷や汗どころか、脂汗が出てきた。
俯いていた彼女の肩が揺れる。洩れる息の端が、堪えきれない震えを帯びる。
「………いいんです。…ひと思いに笑って下さい」
そして、彼女はその通りにした。蹲って体を震わす彼女の声は、あくまでも抑えられていたのだが。



彼女が、滲む涙を指先で拭う。
「本当に、アベルが言っていた通りの方」
どういう意味だろう。
そもそも、アベルは彼女に、カインの事を何と言っていたのか。
それでも、彼女の笑顔は、先程までの当たり障りのない穏やかさとは違っていて、それだけで、カインは何となく満足だった。
それに。
…『アベル』って呼んでるんだなぁ。
もしかして、思ったよりもこの二人は、上手くいっていたりするのだろうか。
そうだといい、と素直に思う。人に理解してもらおうなんて少しも考えない強情者で、己を正しく持っているが故にひとり立つ、強く哀しい、愛すべき友人のためにも。
彼と似ている、彼女のためにも。
それから二人、足音さえも忍ばせるように部屋を出て。
自室まで送る、というカインの申し出を丁重に辞退した彼女が、廊下から見えなくなるまで見送って。
既に暗く沈む背後の部屋を、カインはもう一度、振り返った。
「…さっきはごめんな。また明日、ちゃんと謝りにくるけどさ」
部屋の中は、見えない。先程、ランプの炎を最小限にまで絞っておいたから。
それでも、彼の顔色は先程よりもずっといい。そんな気がする。
実は彼はとっくに目を覚ましていて、それでもずっと寝た振りをしている。そう思えてならなかった。
別に、確固たる自信がある訳でもなかったのだが。
「後でちゃんと、ベッドに移動しとけよ」
そう言い置くと、その後の室内の様子を確認する事もなく、カインは静かに扉を閉めた。





後は、異国の傭兵と魔道士の少年、か。
カインの謝罪の旅は、まだ続いている。
先にアベルに会って、気を軽くしておきたかった。だから、始めに友人の部屋を訪問先に選び、結果、当初の目論見は外れてしまっていたのだが、既に気分は落ち着いていた。
滅多に見る事のない友人の寝顔から、その本心を垣間見る事ができたせいか。それとも、思いも掛けず、パオラと会話する事ができたせいか。
彼女は、扉の外での別れ際に「パオラと呼んで下さい」と言ってくれた。「アベルの友人ならば、私にとっても、友人ですから」と。
魔道士の少年が愚痴るように言った。
「何故、王子はあんなに変わり者好みなんだか」
お気に入りは、異国の傭兵、元盗賊の青年。現在の敵国である竜王国の王女様方と女戦士に、幼なじみの魔道士。そして今回、新たに、素性不明の少年。
『変わり者好み』とは、確かに言い得て妙である。
当の魔道士は、己までその域に入れられているとは、夢にも思ってはいまいが。
あの後、王子は昔のように、騎士団長にお小言を喰らって。彼を探していた騎士達に頭を下げて。幼なじみの魔道士に、両の手を合わせて。
影でこっそり、カインへと囁いた。
ごめんね、と。だけど、とても楽しかったんだ、と。
子供のような顔で、照れくさそうに笑った。


本当の友人とは、真に得難いものなのだ。
だから、そのような存在を王子が得られるのなら、それで全てを許したくなってしまう。
カインを支配するたったひとりの主君であり、カインが護るべきたったひとりの王子。
彼が、幸福であるのならば。


外は夜。
闇に沈んだ景色は殆ど見られなかったけれど、大きく取られた窓の頻繁に出現するアリティア式の廊下は、外の匂いを直接、そこにいる人に届ける。
水気を含んだ風が運ぶ、微かな潮の匂い、仄かな花の匂い。豊かな緑と土の匂い。
外にはきっと、夢にまで見たアリティアの風景が広がっている。
光を弾く海。豊かな水を湛えた大小の湖となだらかな緑の丘。そびえる、絢爛とした王城の偉容。



いつか、夜は明ける。必ず、明日はやってくる。
心よりの望みは現実となる。きっと。



カインは、魔道士の少年に与えられた部屋の扉を叩いた。



END







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