人の子よりのひとつの答え〜マルス

人間はけだかくあれ
情けぶかくやさしくあれ!
そのことだけが
われらの知っている一切のものと
人間とを区別する。
ゲーテによる詩から

チェイニー。
その少年は、そう名乗った。
年の頃は、15、6。マルスと同年代のように見える。ドルーア兵に逆らったので、牢に入れられていたのだという。
茜色の髪が華やかで、つり上がり気味の目元のせいだろうか、まるで気ままな猫のような印象を受ける。
遠い国からやってきた少年。
「よろしくな、マルス」
差し出された手を、つられるようにして握り返した。こんな風に、気安げに接せられた事は初めてだったが、それが不思議と自然な事のように思えた。
「眠るのなんか、どこででもできるだろ」
その時も、何気なく差し出す少年の手を、つい、取ってしまったのは、そんな出会い方が、刷り込みになってしまったからなのかもしれない。
「外は、ぽっかぽかの昼寝日和だぜ」
少年が微笑う。猫のような目を細めて。
この胸に去来する懐かしさは何だろう。
ジュリアンは困惑していた。
そこにいるべき人の姿はなく、あるはずのない人がそこにいる。
扉と室内との間を幾度も視線が往き来する。部屋を間違えたのかもしれない、との希望的観測に縋るように。
「いつまでも、扉は開けっ放しにしないで、入るなら入る。用がないなら、出ていってくれないか」
「あ、すんません」
ついつい、扉を閉めてしまった。閉めた直後から、後悔する。そのまま、出ていけばよかったのに。
「…あのー、ここってマルス様の執務室だったんじゃ…」
訊くにしたって、部屋の外で、他の人に訊けばよかったのに。今現在、目の前にいる人達に訊くくらいだったら。
怖ず怖ずとしたジュリアンの様子は歯牙にも掛けない。そんな態度も板に付いた、王子の幼なじみである魔道士は、本来ならば王子が座を占めているはずの執務机で書類を繰りながら、言った。
「王子は今、仮眠中だ。その間は、僕が代行を仰せつかっている」
「えっっっ」
「…何か、不服でもあるのかい」
「いえっ。滅相もないです!」
小刻みに首を横に振りつつ、視線は救いを求めて、周囲を走る。しかし、その部屋にいるのは、彼と魔道士の他には、見るからに頑固で気難しそうな聖堂騎士団団長だけだ。
時々、見かけはする組み合わせである。しかし、いつもならば、更に王子がいる。現在、魔道士の座っている椅子に腰掛けて、にらめっこするように書類と向き合って。秘書を務める竜王国の女戦士と好対照をなす、あの人なつこい笑顔で、ジュリアンを迎えてくれるのに。
ここに王子がいないという、ただそれだけで、こんなにも部屋の空気は変わってしまうものなのだろうか。
「この先の村の情報は、集められたのかい。報告したまえ」
ひんやりと冷たい魔道士の声。
こんな風に思ってしまうのは、この魔道士の得意とする呪法が、冷気を伴うものだからだろうか。それとも、これから報告しなければならない事実に対する後ろめたさ…別に自分のせいではない、と判ってはいたのだが…のためだろうか。この魔道士の視線も、己に注がれる時は、いつもなんとなく冷ややかだ、と思ってしまうのは、考えすぎの被害妄想というものなのだろうか。
魔道士が顔を上げる。穏やかで優しげで、冷徹な顔。王子と共にいる時とは全く違う空気をまとった彼は、その形のいい眉をわずかに寄せる。
「聞こえなかったのか。それとも、調査結果がまとまっていないのか」
「聞こえてますっ。調査、終わってますっ」
「ならば、さっさとやってくれ。こっちだって、暇じゃないんだ」
…マルス様ー。何でいてくんないんですかー。
近くにある二つの村の境に位置するのだという丘の上から、海は、陽光を弾いて煌めいて見えた。潮と太陽と花の香りとを孕んだ風は、穏やかに吹き抜ける。
この国を出て、2年間を過ごした辺境の島でもそれは同じだった。海と太陽と花の香り。それでも、空気の熱さと濃密さとが明らかな違いとして、アリティアの民人には、類似点がある分だけ、より一層、異国にいるのだと強く認識させるものでもあったろう。
今、肌にしっくりと馴染むこの感触から、マルスにも新たにそれが感じ取れた。
「ああ、本当に気持ちがいいね」
故郷に還る、というのは、こういう事なのだろうか。未だ、実感は薄かったのだが、どうやら、体の方がその手の認知力は強いらしい。
「こんないい天気の日に、薄暗い部屋に籠もってるなんて、バカみたいだろ?」
少年が、伸びをしながら、笑った。自分の手柄だ、と言わんばかりに。
マルスも、真似るように伸びをして、笑う。同意の意を滲ませるように。
「…本当に、いい天気だねぇ」
見上げた空は、どこまでも青く、どこまでも高く、続く。蒼天を切るようにして飛びすさるのは、海鳥だろうか。逃亡生活中にも、似たものを見る事はできたが、それよりも、少し、小柄な気がする。
それは、王城奥宮にまで迷い込んでくるような類のものではないのだろう。だけど、アリティアの民は皆、今更、その存在に気を留めもしないような、そんなものなのかもしれない。
海と空の間を縫う、小さな鳥。14年を過ごした同じ国で、マルスが一度も目にした事のない鳥。
眼前の海を挟んだ向こう側には、大地にへばり付き、根を張るかのように、城塞が長く長く伸びている。
大陸で一番美しいといわれた国、アリティアの王の住まう場所。
マルスの生まれ育った城。
白い羽が、太陽の輝きが目に痛い。
目を細めたその瞬間、不意に視界が闇に包まれた。宙を浮くような一瞬の間。息を呑む間もあらばこそ、マルスは、草の上に寝転がった自分に気が付いた。
鳥の行動を目で追いすぎて、転んだのだろうか。それにしては衝撃が少ないし、相変わらず、視界も暗い。それに、瞼に触れるひんやりとしたこの感触は?
そんな疑問もまた、一瞬。額を軽く押さえる手と、腰を軽く支える腕の感触。
「寝るんだろ」
後から来た、足を払われた感触もまた、マルスの推理を裏付ける。
「…手際いいなぁ…」
その押し倒しの早業には、苦笑するしかない。
おかしな話だった。
王太子として育った。刺客に襲われた事もある。彼の肩書きや立場を利用しようとする輩だっているのだという事も知っている。
仮眠するようにと入れられた部屋で、いきなり現れた少年がマルスを外へと導いたその手口は、それは見事なものだった。彼らが抜け出した事など、未だ気付いていないだろう。周囲を警護する兵達の担当領域の重なり合いから生じる微妙な死角をついた、その行動に滲む老獪さは、年齢に見合わぬ経験を窺わせる。まるで優秀な間諜か、暗殺者のような。
なのに、この少年に関しては、全く心配はないのだと思える。
マルスは、己の感覚というものを信頼していた。けれども、今回の場合は、負の感情が湧かなすぎて、何やら戸惑ってしまう。
「僕は今、さっきの部屋で寝てる事になってるから。時間になったら、マリクが起こしにくるんだよ、だから」
「判った判った。適当なところで、起こしてやるから。大体、ここに来る時にも、ちゃんと連れ帰ってやるって言っただろー?…何だよ、その不信の目はー」
「だって、信用できないもん」
こんな軽口を叩けるという事。それもまた、マルスを内心戸惑わせていたのだが、それが判っているのか、少年は大仰に顔を顰めて、怒ったような表情を作ってみせる。
「もう、お前は寝ろ!」
先程、取り払われた少年の手がまた、マルスの瞼を閉じさせる。
本当に、おかしな話だった。
傍には護衛もなく、素性も明らかではない少年と、咄嗟の態勢も整えられないような姿勢で二人っきり。こんな状態で、それでも素直に目を瞑ってしまうくらいなのだから。
「隣接する村同士、仲が悪い、ねぇ…」
そりゃ大変だ。
ぽつりと呟くその口調には、全く感情は籠もっていない。
目の前で、斥候役を務める少年が居心地悪げに身動ぎした。
元盗賊である彼は、本当ならば、青年、といった方がいいような年齢なのだろう。マリク自身よりも、年齢自体は上のような気もしないではない。なのに、どこか少年じみた印象を拭い去れない。今でも、マリクの反応を気にして、そわそわとしている事がよく判り、職業的に常に冷静である事が当然であるマリクの目には、未成熟さの現れ、とも捉えられる。
しかし、そんなところも、王子が気に入っている部分のひとつなのだろうか。
己とは、全くの正反対の少年。
何だか、むっとした。
「続き」
気を紛らわせるように、書類を持ち直す。必要もないのにやたらと頁を繰って、がさがさと音を立てると、彼は慌てて、懐から書き付けを取り出す。それを斜目に眺めながら、マリクは浮かんでは消えるとりとめもない思考を玩ぶ。
それにしても、見事な赤毛だ。
それはまた、赤毛の聖堂騎士を連想させる。王子のお気に入りである二人の共通項。
いらつきは、増加した。
「その先にある二つの村は、なんか正式な名前もあるみたいなんですが、普通に、東の村、西の村って呼ばれてるそうです。どちらも、ドルーアの息のかかった様子はありません」
「確かかい」
「確かです。二つの村は、伝統的に仲悪いので、お互いに相手を見張ってるみたいなとこあるらしいので、相手の得になるような事は言いそうにありません」
「共謀して寝返ってでもいない限りね」
「あー、それだけはなさそうです」
目線が空を泳ぐ、その様をひとしきり観察して後、マリクはひとつ、頷いた。
「なるほど。そんな感じか」
「そんな感じっす」
少なくとも、あまり近寄りたくない領域の話であるのは確かなようだ。
それでも、詳細に記録してしまうのは、性というものか。報告書は必要最小限で構わない、と王子に言われているというのに。
心の中では、片頬を肘に預けながら、しかし、表面上は姿勢も正しく、書類に軽やかにペンを走らせる。いつも、王子がしている仕事である。請われて助手をした事もある。勝手も判っている。慣れた作業だったし、王子の代行も完璧にこなせるという自信もある。
なのに、いつもよりも疲れは多い。
ここに王子がいない。その事実が、こんなにも影響するものなのだろうか。
王子の柔らかな声。その軽やかな響き。それがあるだけで、いや、例え一言も発さなくても、場を和ませる、人々を一つ処へと導かせる、全てを円滑に進めさせる、王子にはそんな、魔力にさえ似た何かがあった。
マリクの幼なじみであり、唯一の主君である王子。
王城はすぐ目の前へと迫っている。本当ならば、すぐにも城を取り返し、継承の間にて、新国王即位宣言を出したいところだったが、生憎現在、彼らの元には神剣がない。
アリティア国王にとって、王位を継ぐ者として絶対に必要なもの。王冠のような飾り物ではない、アリティア王である証。
『ガーネフが神剣を持っている』
魔法都市に程近い村で、突如現れた幻がそう言った。神祖、とまで称される、伝説の大魔道士の名を名乗る老人の影。
何がどこまで真実なのかは、判らない。
現在の生死どころか、時には存在さえ危ぶまれる神祖。
謎に包まれる大魔道士の弟子。
先の戦で失われた神剣の行方。
どれひとつ取っても、なかなか信憑性は与えられそうにない。
「だけど、他に情報はないからね」
王子の一言が、周囲に心を決めさせた。マリクには決してできないだろう、王子の力がそうさせた。
多分、それこそが王であるという事。
国を持つ。玉座に座る。そんな物質的なものを何も持たずとも、確かに王子は、『王』だった。
王城を取り戻した後は、神剣を探す旅が始まる。マリクは、王城に神剣があるのではないか、との一縷の望み、もしくは期待を抱いてもいたのだが、それが儚いものに終わるだろう事もまた、心のどこかで知っている。
ドルーアも、このまま黙ってはいないだろう。ドルーアとの同盟を持つグルニア、マケドニアはどう出るつもりか。
世界を二分する大戦にまで発展した今回の戦いも、まだ先は見えない。
そして目の前では、局地的に二分した世界の話が、まだ続いている。
「それと、東の村の方ですが、元剣闘士がいるそうです。昔は随分鳴らしてたらしくって、話半分でも、ウチの部隊長の半分くらいは強いって事になりますかね」
「もう一つの村には、聖騎士がいたはずだろう」
今まで黙って聴いていた聖堂騎士団団長が口を開いた。その事自体に、少年は少し目を見開き、次にその言の内容に顔を顰めて、首を横に振った。
「そっちの方は、なんか人前に姿を現さないってぇ話です。すごい偏屈だとか、寝たきりのじーさんだとか、そんな話ばっかりでしたよ」
「私よりも年寄りな訳ではないよ」
聖堂騎士団団長にして、同盟軍と銘打たれた彼らの軍隊長でもある老人は苦笑する。
「歩けない訳でも、馬に乗れなくなった訳でもない。未だ、十分に現役だ」
疑わしげな目をした少年が、口を開きかける。
それを封じたのは、マリクの無感情な一言。
「両方、呼び出せ」
書類の上を軽やかに走るペンは、結びの一文を書き込んで、役目を終えた。
「それで話は終わりだね」
会談終了の意は、卓上の筆記具を片づけ始めた事でも表される。あくまでも冷静なマリクと反比例して、ようやっと最前のマリクの言葉の意味を理解したらしい少年は、見るからに慌てた様子で、卓に手を突き、身を乗り出した。
「ちょっと待って下さい。あの村で、二人ともってのは無理です、絶対っ。俺、そんなの言いに行きたくないです。ヤです」
結果、マリクと視線が近くなる。普段なら、絶対しないだろう行動だったが、二つの村への召喚状を持った先触れを任として担うのが、そんなにも嫌なのだろうか。
マリクは元々、彼にそこまでさせるつもりは全くなかった。そもそも、そのような人選は、王子の最終決定によってのみ決められる。それをよく理解している騎士団長は落ち着いたもので、ただ、苦笑するのみであったのだが。
マリクは、片づけの手を休めない。
「そんな我が儘は聞いていられないな」
この後、最も重要な仕事が控えている。彼の勘違いを訂正している時間はないのだ。
少年は、未だ周章狼狽している。
「待って下さいよ」
「待たない」
そのまま、扉を指差す。「出ていけ」という意思表示。
それでも、少年は動かない。ただ、マリクを見ていた。その瞳に、彼にとっての最大限であろう力を込めて。マリクもまた、少年を見つめた。己を阻む者へは容赦しない。欲する思いの強さが力となる。ならば、決して負けたりはしない。
「僕には、これからマルス様の枕元で読書をするという野望があるんだ。邪魔する気なら、こっちにも考えがあるよ」
「…凄い野望っすね…」
見ると、騎士団長が不可思議な表情をしていた。笑っていいやら、怒るべきなのか、悩んでいる、とでもいった風情だ。
それを全く無視して、再度、扉を指し示す。
毒気を抜かれたらしい少年は、今度はしおしおとそれに従った。
己の勘違いに気付くのも、そう遠い事ではないだろう。ならば、それまでの間、悩ませていたって、大した事はありゃしない。
『王子のお気に入り』に対するマリクの態度は、皆、平等に冷淡だった。
ぽっかりと目を開く。そこには先より少し黄色みを帯び始めた、それでもまだ十分に青い空が広がっていた。風の匂いも、先程までとはまた、少し違う。湿り気は、微妙に冷気に近いものを匂わせる。夜の気配は既に、風の中に潜み始めている。
マルスは、寝転がったまま、体を伸ばした。
久しぶりに、よく寝た気がする。ここのところ、頭の薄ら重い状態が続いていたのが嘘のように、気分はすっきりとしていた。
これなら、続く仕事の能率も上がりそうだ。半ば強引に仮眠を勧めて、仕事を取り上げた幼なじみには、感謝せねばなるまい。
頭上、視線の先には、まだ、高く遠く鳥が飛んでいる。先程と同じ鳥なのかは判りかねたが、少なくとも、同種類の鳥のように見えた。
「鳥、好きなのか?」
「うん。…鳥は、潔く見えるから」
耳元で聞こえた声を、マルスは当然のように受け止めた。間近で、己を観察する視線は感じたが、そこにはマルスが常に浴びているような色合いはない。
王族として、人に見られる事は日常であった。そこにあるのは常に、珍奇なものを見るような眼差し、または敬意か畏怖か、あるいは敵意や軽侮。
神聖視されるより、ずっとマシではあったが。
彼の視線は、マルス個人の精神にのみ向けられていると感じられる。それは、不可思議にむず痒いような感覚をマルスに与えたが、決して不快ではない。
マルスは真っ直ぐ、空を見つめる。空を飛ぶ鳥を。
風に煽られ、舞い上がる鳥。
彼が今まで何をしてきた人間なのかは、判らない。平穏な生活を営んできた訳では、決してないだろう事だけは確かだ。それでも。
彼は、ずっと傍にいて、それが当たり前のような気がする。
やがて、肘を立ててこちらを覗き込むその姿勢に疲れたのか、それとも飽きたのか、隣でごろりと寝転がる気配がした。
「ふーん?『自由だから』ってな意見なら、よく聞くけどな。鳥とか、魚とか」
空を飛ぶ鳥。水を泳ぐ魚。
どちらも、『自由』の代名詞のような生き物だ。縦横無尽に動く様が、それを印象づけるのだろうか。
マルスは、細く息を吐いた。
なんて都合のいい幻想。
「別に、鳥は自分が自由だなんて考えてない。魚だって、そうだろう?生きるために、かくあるだけだよ。それは、人間だって同じ」
鳥も魚も人も、変わらない。
「鳥も魚も人も、ただ生きているだけなんだよ。きっとね」
今まで、己に対してだけ、なのだと思っていた。他の人々は、きっと『自由』を持っているのだろうと。実際、『自由』が何なのか、知っている訳ではなかったが、それでも、それはどこかに存在していて、己には見つけられないだけなのだ、と。
前にこの国を出たのは夜明け前。上がった火の手に煽られ、深い闇の中に、王城は浮かび上がって見えた。後から聞いた。ドルーアは、玉座の間に火を放ったのだと。
ならば今、アリティアには玉座はないのだろうか。
過去、マルスを縛るものの象徴だった玉座。常に父王が座していた、あの巨大な椅子。
それが今はない。ならば、マルスは自由なのか。国を亡くした時、マルスは自由であったのか。辺境の島で暮らした日々は、反ドルーアとして立つと決めた時は?
確かに故郷であるこの国にも、還ってきたかったのかどうか、自分でもよく判らないのだ。ただ、帰らなければならない、と思っていただけで。
戦わなければならない。帰らなければならない。生きていくために。
これからも、ずっとずっと戦わなければならない。彼らが生きていくために。
「だから、それを、『自由』っていうんじゃねーの?」
あくまでも軽く、お気楽な言は、それ故に、マルスの中にすとんと落ちてきた。
「ただ生きてる事が、自由って事なのかもしれないぜ」
思わず、顔を横に向ける。並んで横になった少年は、寝床となっている原から引っこ抜いたのか、口の端に葉を銜えている。
「…そうなのかな」
「さー。判んねーけど」
長く細い草の葉は、風にひらひらとなびいた。
「言っちゃったモン勝ちだからな、思いつきってもんは。でも、思ってるだけなら、タダだしな」
「そっか。じゃあ、みんな、生まれた時から自由だと、そんな風に思っててもいいのかな。どんな生き物も」
「考えても、誰も怒ったりはしねーだろ」
「そっか」
玉座を亡くした今でも、マルスはアリティアの王子だ。昔、それを『縛られている』と感じた事もあった。しかし、マルスはそれ以外には、なれない。それを厭う訳でもない。
王城の中しか知らなかった。今、初めて目にした、そんな故郷だって、嫌いではない。これからたくさん、知っていけると思うから。
西日は、己の照らし出す領域全てを、不思議に懐かしいような色合いに染め変える。
「その草、美味しい?」
「食ってねーよ。銜えてるだけ。お前もやってみるか?」
言うなり、口元に突きつけられた草の端を、マルスは素直に銜える。思っていたような苦みはない。しかし、鼻の間近に存在する草は、その香りを強く伝えた。野草は、普段、口に入る植物と違って、もっと直接的な土の匂いがする。それともそれは、現在、己の横たわっている草原が、肥沃な土を内包しているからだろうか。
これは、アリティアの大地の味なのだろうか。
「美味いか?」
「結構、美味しい、かも」
「お前の味覚、変」
笑いの形を刻んだ口元で揺すられて、草がたなびく。先程、彼が銜えていた時のように。
世界は穏やかで優しい、と、そのように思っていてもいいだろうか。
せめて今、空の青い間だけ。風が暖かな間だけ。この丘に鳥の飛ぶ間だけ。
自然は、穏やかに彼らを包み込む。故郷は優しく彼らを歓待する。そして世界は、なによりも美しい。
この世界に相応しく、人は皆、気高く、情け深く、優しい。
風は少しずつ、冷たくなってくる。
それでも、信じたいと思う。
人は皆、気高く、情け深く生きていきたいのだと。
太陽は、低くその顔を落としつつある。
空は、燃え上がる炎へと、その色を変えようとしていた。
「…ところでさ、チェイニー」
「なに」
「今、何時頃?」
「…さあ」
END・
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