人ならぬ者のたくさんの答え〜アラン

亜麻色のシャツを作ってと あの人に伝えて
パセリ セージ ローズマリーにタイム
縫い目もなく 針も使わずに
それが 真実の愛のあかしとなる
<スカボロー・フェア>より

月は、細く頼りない顔を深淵の空に覗かせている。
仄かな天の明かりのみを頼りに夜道を歩くのは、なかなかに骨が折れたが、それでも、闇夜であるよりはずっといい。
すべからく、物事には表と裏とがあって、いい側面もあれば悪い側面もある。悪く取ろうと思えば、どこまでも悪くも見えるものだ。
物事の変わらぬ事実はひとつだけ。結果のみなのならば、それもできるだけ前向きに捉えた方がいい。
アランのこのような思想姿勢は、落馬事故以降に培われたものだったが、彼はそんな新たな自分というものが嫌いではなかった。
騎乗の技量は騎士団一、と言われた己が、国王の御前試合で落馬して、足を引きずる身の上となったという事も、今はそれでよかったのだと思う。
以前の自分はやはり、傍若であった、傲慢であった、とそのように思えるという事、それだけでも、多少の不自由と引き替えるだけの価値はあったのだ。
機械的に動かされる杖は、地を突く音をも吸い取るかのような感触を、その手に与える。この辺りの道筋は、王城周辺のように整備されていない。ただ、赤土が踏み固められただけのものだ。雨が降るとぬかるんで、アランにはとても歩けたものではない状態になってしまうが、幸いにもここ数日、天気は快晴に近い。それでも、穏やかな風はどこからか、湿った匂いを運んでくる。
ここアリティアでは当然のもの。水の匂い。
しかし、それだけではない密やかな手触りは、夜の匂い、というものか。
アランは、この国から出た事が殆どなかった。しかしそれでも、この国はどこよりも美しい国だと思っている。
豊饒な国土。心強く、誇り高い民人。そして、人々の誇りの象徴たる王家。
アランの手は、杖の握りを固く握りしめる。
弑された国王。奪われた神剣。踏みにじられた誇り。奪い去られた希望は、『アンリの子』と呼ばれた運命の子供達。
思い出す度に、今でも、あの当時の感情が甦る。時間すら止まってしまったような気がする、全てを凍り付かせる恐怖と、絶望。
あの時だけは、己の現状を怒り、恨んだ。
王の最後の戦闘の日、何故、付き従えなかったのか。落城の日、何故、王子を護る事ができなかったのか。せめてあの時、あの場にいられれば、現在の悔恨はなかったかもしれないのに。
少なくとも、今これほどの自責の念は。
それとも、反対だろうか。
もっと辛かったのかもしれない。
眼前で展開される全てに対して、何もできない自分を目の当たりにしなくてもすんだのは、幸運な事だったのかもしれない。
なだらかな丘を緩く登る曲がり道を、ただ歩く。聞こえてくるのは、服の擦れ合う音、少し荒くなってきた呼吸、下生えの草を踏む折りの湿った気配、そんな己の歩みを示すものばかり。
東の村の外れから、己の屋敷のある西の村まで、それ程遠い訳ではなかったが、やはり長時間の歩行は膝に響く。しかし、丘の上、大きく枝を広げた木の陰に、馬車は待っているはずだ。
目的の場所まで後、もう少し。
アランは気を新たに、力を込めて、一歩を踏み出す。
ひどく静かな夜だった。
「あいつは、眠ってるだけだよ。怪我もしてない。だからさ」
悪戯っぽいその微笑からは、あくまでも邪気は感じられない。
「取り敢えず、大人しく捕まってもらえねーかな」
そこで少年は、ひょいと肩を竦めてみせた。まるで、いっぱしの大人のような仕草で。
「でもさー。護衛が馬車の中にひとりだけってのは、どーかと思うよ。領主様なんだろ?一応」
少年は、眉根を寄せつつ、とつとつと言う。
説教強盗さながらである。
いや、そのものであるのならば、『さながら』という表現は能わないか。
「馬車にいた彼は御者だ。それ以外の何者でもない。…護衛なんて、必要ないからね、この辺りでは」
アランは相手を刺激しないよう、さり気なさを装いつつ、ゆっくりと周囲を見渡した。
目の前の少年の他、人影は見当たらない。しかし、ここは丘の上、枝を広げた大木が影を作って、周辺への死角となる。誰にも気づかれない場所。
そういう場所を選んで、馬車を止めたのだ。
危機管理がなっていない、と言われればそれまでだが、アランとしても、目立ちたくない、目立てない立場であった。それに、このような相手に襲われるなど、誰が予想するというのだろう。
アランは、改めて目の前の相手を見つめ直す。
派手やかな茜色の髪が印象的だった。
少女のような面立ち、白くすべらかな肌。頬の線は、まだ幼さを残す丸みを帯びている。その急激な成長についていけていないのか、腕や足は棒のように細く長い。
それは、子供、としか表現できないような、子供であった。
「一体、何が目的なんだね」
己の身は己で守れるという、まだ現役の騎士であるかのような気持ちが、多分、どこかに残っていたのだろう。長年、積み重ねてきた矜持というヤツは、なかなかに消えてなくなったりはしないものらしい。
ほんの少しの自嘲は、軽い溜息の中に溶けて滲む。
しかし、そんなアランの心情から、遙か遠いところに存在する少年は、けろりと言った。
端的に。それが、たったひとつしかない答えであるかのように。
「捕まること」
間髪入れずに返ってきた答えに、一瞬、言葉をなくす。
「牢屋に入りたいんだ、俺」
にこやかに言う子供に、一体、どう返せばよかったのだろう。
国内の警備は、守備隊の任務であったが、アリティア王国が瓦解して後、守備隊もまた、解体されていた。現在は、駐留したドルーア軍による管理体制にあるが、大抵の場合、問題を起こすのは当のドルーアの人間達である。そのような現状に対応して、王城に近い場所では、民衆有志による自警団も組織されているという話ではあったが、生憎、このような辺境の村では、それも存在しない。
それに、である。
肝心の、そして、大変な事実に思い当たって、アランは思わず、杖を持たない方の手へと己の頭を落とした。髪をかき乱す事を中断させたのは、少年の不審げな目。
「……私を捕らえても、牢屋には入れないだろうと思うよ」
低い位置からの視線は、ひどく横柄に先を促す。
「この辺りで何か起こった場合、それに対処する権限は、私だけにあるんだよ。裁く事も、容疑者を牢屋に入れる、という事もね」
「…なんだ、それーっ」
一拍置いた後、素っ頓狂な声を上げた少年の気持ちは、アランにもよく判った。
アラン自身、全く忘れ去っていたにおぼしい、それは事実だったので。
あまりにも平和な辺境、諍いといえば、隣村との悶着を指すこの村で、アランはこの手の領主としての任を全うした事がない。他の領主達のように、精力的に領地を経営する気もなかった。生きていくのに必要な分だけの定期収入が確保されれば、それで充分であると考えるアランにとっては、領地の切り盛りなど、代理人に任せておいても全く差し支えなかった。
現状の閑職に、アランはすっかり満足していたのだ。
しかし、それでも。
「そんな人間が、無防備にこんなとこうろうろしてていいと思ってんのかよ、バッカじゃねーの?!」
少年の憤激もまた、当然であると思う。
「だーもー、使えねーなー。計画丸つぶれじゃねーかよ、どーしてくれんだよ!」
「…すまないね」
本当に、申し訳ない気持ちになったくらいだ。
「本当に悪いと思ってるんだったら、何か考えろよ、代わりにいい案でもよ」
腕組みをした少年が、アランを斜目に見上げる。
いい案。
いい案か…。
つい、真っ正直に受け取り、考え込む一歩手前。
賢明にも、アランは踏み止まった。
「…計画、というのは、牢屋に入る事かい?」
「だから、そう言ってんじゃん」
少年の目が、『一度で理解しろよ、そんな事』と言っている。
「……そうかね」
アランは、遠くを見つめた。
やはりこれは、忠告なりしておくべきなのだろうか。
「あー、すまないが君」
「何だよ」
「…君は、10才くらいだろう?アリティアの慣習法では、14才以上にならないと、裁かれる事はないんだよ。余程、大きな罪を犯したのでもなければね」
辺境の村の領主を誘拐する、というのは、果たして『余程、大きな罪』に当たるものなのだろうか。
自分で言っていても、難しい、判りかねる問題であったのだがしかし、幸いにも、少年にとってはそうでもなかったらしい。少々、難しい顔をしただけで、相対する。
「でも、それだと微妙だろ。刑罰もきっちり科せられそうになってくるし。俺、ただ牢屋に入りたいだけなんだもん」
人殺した訳でもないんだから、ただ牢屋にぶち込まれるだけですみそうだと思ったんだけどな、と続ける子供に、溜息をひとつ。
「15、6才くらいの少年がドルーア兵に喧嘩でも仕掛けて、しかも勝つ、なんて状況だったら、条件に見合いそうだけどね」
何しろ、10才の子供では、何をするにも難しかろう。後、5年は待った方がいい。
これから、どんな罪を犯すつもりであるにしても。
「聞いてもいいかな」
少年は軽く、片眉を上げた。それに否定の意はないと見て取って、アランは続ける。
「何で、牢屋に入りたいんだね?」
事の重大さを理解できない子供の好奇心か、と思っていたアランであったが、当の相手の返答はまた、その想像を超えていた。
「一番、安定してるから」
そこで子供は、にっと笑う。
「牢屋ってのはさ、元々、閉じこめるための塀みたいなもんだから。例えば、戦争が起こったりしたら、それが中にいるヤツを護る壁になる」
「…そうとも限らないな。変事が起こった際の暴動を恐れて、さっさと始末される、という事もある」
「トロい奴はな」
この子供は、本当に子供なのだろうか。
細められた目は、月の光の加減か、琥珀色に色味を変えていた。獲物へと狙いを定めた獣の瞳。気まぐれでしなやかな、したたかな夜の獣は、多分、猫の形をしている。
少年は人懐っこく、顔全体で笑った。
「俺は上手くやるよ。そんで、その中で、王子サマの帰りを待つんだ。かっこいい状況設定だろ?」
腕を伸ばして、くるりとその場で回ってみせる。舞踏でもしているかのように。
淡い月明かりの中、踊る猫。
どこかで見たような情景。
それとも、古い民謡の一節にでもあったのだろうか。
長く伸びた影は薄く、夜闇へと熔けていく。
現実が希薄になる。
だからだろうか。
猫は魔物の使いしめという。
そんな、信じてもいない、迷信じみた昔語りをふと、思い出してしまったのは。
言葉を失ったアランを、現実に立ち返らせてくれたのは、少年の、悪戯っぽく笑いながら、小首を傾げてみせる、そんな子供らしい仕草だった。
「あんた、いい事教えてくれたから、俺からも何か、知りたい事を教えてやるよ。何かあるか?何でもいいぜ」
いっこだけだけどな。
ふんぞり返る少年に、苦笑を禁じ得ない。
「何か、参考になる事を言えたかな」
特に覚えはなかったが。
ひとつだけ、どんな望みも叶えてやろう、と言うのは、魔物の定番ではないか、などと思い、そんな己の連想にまた、苦笑う。
少年の口振りからすると、どうやら、己の気づかないところで既に、引き替えの『魂』の代価となるものは、支払っているらしい。ならば、話に乗ってみても、また、面白いかもしれない。
それは、ほんの悪戯心。
「『人は、何故、相争うのか』」
目の前で少年が、大きく見開いた目をくるりと回す。
「私の友人が言っていたのだけれどね」
隣の村に住む友人は、ひどく真面目で、とても繊細な男だった。しかし、こう言っては、本人は「元剣闘士を掴まえて、なんて言いぐさだ」と憤慨する事だろう。目に見えるような気までする。
彼がアランの不自由な足に対して、気を遣っていると気づかれないように気遣う有様もまた、彼の人となりを表していて、微笑ましいのだが、それを言ったら、更に怒り出すだろう事は必定なので、アランもまた、見ぬ振り、気づかぬ振りをする。
彼は、わかっていないのだ。
外見や肩書きでは、人を知ることはできない。宮廷などでも、その身に纏った豪華な衣装に見合う人間は、ずっと少なかった。
人は全て、その本質でしか量れない。
そう考えれば、かの友人よりも己の方がずっと、図太く逞しくできていると思う。
何しろ、己が厚顔である事に関しては、充分な自覚もあったので。
「決して、答えのでない問いの類もあるからね。『何でもいい』なんて事は言わない方がいいね」
友人のように、細やかな心根の持ち主ではなく、優しくもないので、子供に対しての揚げ足取りにも等しい、こんな事もまた、言える。
例え、どんなに子供らしくない子供であろうとも、本当に魔物である訳もないのに。
アランは微笑う。それで、この話はお開きにしよう、との意を含ませて。
しかし、そこから返ってくると思わなかった答えは簡潔だった。
「人間というのは、そのように作られた生き物だから」
少年の目は、映す感情の色を変える。
「食物連鎖って知ってるか?」
如何にも、面白そうな瞬き。
「世界は全部、食う物と食われる者とで成り立ってる。草は草食獣が食う。草食獣は肉食獣が、肉食獣だって死んだら、他の動物に食われるよ。そんな中で、人間だけが、何にも食われない。この世界で一番強い生き物だから」
楽しげな、歌うような響きの語るは、不可思議な呪言。
「天敵システムってのは、この星で生きる生物の個体数をコントロールする手段のひとつでね。ないと、困る訳さ、増えすぎて。実際、一歩手前までいっちまった事あるし」
ひょい、と子供が肩を竦める。この子供を子供らしくみせない、まるで、向き合う己よりもずっと年上ででもあるかのように錯覚させる、仕草。
「一番強い生き物だったら、敵になるものがいないんだったら、結局、共食いさせればいい。だから、人間の天敵はいつだって、人間だ。それが世の理ってヤツなんだ。よくできてるだろ?」
争い合い、殺し合う。それこそが、人という生き物の本質。
人は、共食いをするようにできている。造られている。定められている。
何によって?
「これで、借りは返したからな。後はもう、関係なしだぞ」
子供の姿をした者は、軽い身ごなしで、アランの頭よりも更に高い位置にある枝に飛びつくと、くるりととんぼを切るようにして、枝へとその身を持ち上げた。後は、更に枝を移動するような音が聞こえてきたが、緑濃く茂った枝振りに掻き消され、全く姿は見えなくなった。
「最後にひとつだけ、忠告しといてやる」
俺って親切だなぁ。
ただ頭上から、声は降る。まるで、神託のように。
「あんた、領主に向いてねーよ。今までの仕事に復帰でもした方がいいんじゃねーの?」
今日この夜が闇夜でなかった事を、アランは感謝していた。
子供なんて、始めからいなかったのかもしれない。
闇夜だったら、最初からアレが声だけの存在だったら、そんな逃避混じりの思考まで、受け入れていたような気がするから。
子供は確かに存在した。確かにそこに立っていた。何の痕跡も残さず消えても、それは確かに信じられた。アランは元来、夢など見ない、己の感覚に絶対に自信を持つ類の人間であった。
しかしそれでも、ふと、思うのだ。
あの子供は、本当に人の世のものだったのか、と。
猫は魔物の使いしめという。
妄想だ。
突飛な連想を苦笑で振り払い、アランは顔を上げた。
空には、今宵の不可思議な体験に相応しい、朧な月が浮かんでいる。
魔物の誘惑か、神霊の神託か。はたまた、人騒がせな子供の戯言か。
乗ってみるのもまた、一興というものなのかも知れない。
空には、朧月。行く先を強く照らし出す程の光はなく、進む道を諦めさせる程の闇もない。
賭けた先に待っているのは、光か闇か。どちらともつかない。
面白い。
思いもよらず浮かんだのは、実に楽しげな微笑み。
さて。
これからどうするか。
幸いにも、答えはすぐに出た。
まずは、御者を起こそう。
END・
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