人の子よりのひとつの問い〜サムソン


緋色の軍勢を吹き付ける 戦争のふいご
将官たちは 兵士に命じる
殺すまで 戦えと
自分たちも忘れてしまった理由のために

<スカボロー・フェア>より



仄かに甘い香りのする穏やかな風は、アリティアという国を端的に表している。
元々、この国はそう広大な領土を誇る、という訳ではない。どころか、その国土に大小の湖を抱えるため、国土それ自体の大きさに対して、他国と比しても、国民数はとても少なかった。それでも、その豊富な水の恩恵を受けて、小さな国土全域が肥沃な大地であるといって過言ではなかったし、少ない国民数はそれ故に、他国に聞くような内紛騒ぎを起こす火種ともなりえず、なにより、この国を豊かに美しくさせていた。
湖を渡る風によって、常に水分を補給される空気は、この国の女性の肌を、大陸一、と称されるものに磨き上げる。アリティアは、美女の産地としても、有名である。
男は、大陸の救世主にして建国王である英雄アンリの例に倣い、剣が使えることは半ば必須とされ、尚武の気風が奨励された。
美しい女達と逞しい男達。穏やかな気候は滅多なことでは乱されず、豊かな実りは、少ない国民の口を養うには充分すぎるほどだった。
神に愛された土地。
そう称されるのも、むべなるかな。
しかし、それでもその地は、人間の住まう土地だ。
神の世界などではあり得ない。明らかに、人間に属する場所だった。





サムソンは、己の財力に相応しい家を持ちたいとは、決して思わない性質の男だった。暮らすに不自由のない程度の入れ物があれば充分、と思いつつ、それでもやはり、その隅に涼しげな木陰を作る大きな木の元、季節の花々の乱れ咲く、ある程度の広さの庭と、その庭に張り出したゆったりとくつろげるデッキを求めたのは、長年、空き箱を重ね合わせたかのような剣闘士宿舎で過ごしてきた反動、だったのかもしれない。
緩やかな風に含まれる仄甘い匂いは、何処かで咲く花の香であろうか。茂る木々の緑は滴るばかりで、豊かな水の恩恵を誇示する。遠く聞こえてくるのは、小鳥のさえずり。
本当に、ここは美しい処だ。
こんなに穏やかな時間が持てる日がこようとは、過去、剣闘士として生きてきた頃には、思いもよらなかった。
剣闘士であったのは、それほど、昔、という訳でもない。それでも、実際の年月よりもずっと昔のように思える。
厳しい訓練に明け暮れ、試合ともなれば、憎い訳でもない目の前の相手を斬り殺す日々。
ただ、己が生き残るために。
いつか、この戦場から抜け出すために。
地を揺るがすような歓声と怒号。場を埋め尽くした観客は、振り上げた拳の中、立てた親指で地を差しつける。
『とどめをさせ』と。
半ば、無意識のままに剣を差し込む。そのあっけないほどに軽い感触と、空を舞う、今は紙屑となった剣闘券。
訓練された無意識と生存本能のみで成り立つ世界から立ち戻ると、今日も生き残った、という事実は、歓喜よりも虚脱をより強く味あわせた。
一体、いつまで続くのか。後、どのくらい、生きていられるのか。明日、剣で地に縫い止められた冷たい躯を晒すのは、己かもしれないのに。
それでも、己は生き残った。今でも生きている。
最終勝者となる、というのは、こういう事なのだ。
莫大な報奨金は、小さな家を買った後、無茶な贅沢さえしなければ、その後も暮らしていくのには充分だった。居を構えたのは、闘技場のある街から遠く離れた村であり、その鄙びた田園風景も気に入っている。
あの喧噪も、今は遠い。
サムソンは、デッキに設えたゆったりとした背凭れを備えた椅子に、深々と背を預けた。
いい匂いのする風は、とろとろとしたまどろみを連れてくる。
安穏とした思いに身を任せるというのは、なんと幸せなことか。
見るともなく、ぼんやりと庭に目を向けるサムソンの、そんな平穏な日常を破ったのは、複数の人間が相争う音、または気配のようなもの、だった。
続く、互いを罵り合う、憎々しげな声。
これもまた、日常。
胸を突く溜め息は、重く深かった。



今日も今日とて、争い事の調停役に駆り出され、すっかり疲れ果ててしまった。
それも、最近では、常のこと、となりつつあるのが、自分でも認めたくない事実ではあるのだけれど。
そもそも、その所在から、ただ、東の村、西の村、と称されるこの二つの村は、ひどく仲が悪いのだそうな。そもそものきっかけが何だったのか、知る者は既にいないだろう。ただ、それはほんの些細なことに過ぎなかったのだろう、とは、容易に想像がつく。だがしかし、それはもう、どうでもいいことだ。
恨み言というものは、心の中に澱となって残るのだ。それは次第に蓄積され、時が経つにつれて微妙に変化して、末にはただ、純化された憎しみだけが残る。
これほどに豊かな土地に生きて、それでもなお、争い事の種は絶えない。
遠い昔、物心ついた時にはそこに居た貧民窟では、人は貧しさ故に争うのだと思っていた。貧しさ故に身を売り、奴隷剣闘士となった後は、ただ生き残るために、憎くもない相手と争った。
そして今。
人は、満ち足りた環境にあって、なお、争い合うのだという事を知る。
性格的に、少しも向いていない折衝役などしてきたせいか、頭痛までしてきたような気がする。肩が凝る、などという身体的苦痛も、この村に来てから初めて知った事である。
それでも、自分の家に足を踏み入れると、それだけで頭痛は軽くなったような気がした。
まるで、古巣に戻ってきた野狐のようだな。
己を包み込むような安心感に、つい、微笑ってしまう。
それでは、巣の中の巣、とでも言うべき場所に帰るとしようか。
庭の見える場所に据えられたそれは、背を持たせかけるだけで、張りつめた神経を癒してくれる事だろう。
すぐに気づかなかったのは、暗鬱とした気分に囚われていたからだろうか。それとも、既に西日の差しかけた部屋の中で、影が己の領域を大きく伸ばし出していたからか。
そんな事はあり得ない、と思いこんでいたからか。
「やぁ。お邪魔しているよ」
そこに、男がいた。
サムソンの心の平穏と深く結びついた椅子に深く腰掛けて。



その時、男が完全に気配を絶っていた、という事実に思い至らなかったのは、あまりにも邪気のないその笑顔のせいだったのかもしれない。
実用本位、必要最低限の家具しかないこの部屋の中で、たったひとつ、男の座った椅子だけが、そぐわない、過分に贅沢な物であったのだが、この男が腰掛けていると、この椅子だけが正しく、周囲の家具調度こそが間違っているのだとでも、家自身が主張しているかのようだ。まるで、空間から切り取られたように、男はあくまでも堂々と、まるで己の居間でくつろぐ主、とでもいった落ち着きを醸しており、入り口付近で立ち竦んだサムソンの方が、無法者ででもあるかのようだった。
男は、絶句したサムソンを眺めやって、不思議そうに首を傾げたが、その視線を追うようにして自らを見直し、ようやっと合点がいった、とでもいったふうにひとつ、頷いてみせた。
「すまないね。この家の主の椅子に無断で腰掛けて。少々、足が弱くてね。君の帰りを待つ間、使わせてもらったよ」
なるほど、椅子の脇には杖が立て掛けられていたが、しかし、今はそのような事を言いたい訳ではなく。
「……なんなんだ、あんたは」
「なにか、と問われても」
どう答えていいのか、判らないな、と肩を竦める。その動作一つ取っても、何とも言えぬ品がある。
「西の村の住人だよ」
そう言われて、この男を単なる村人だと思う人間はいないだろう。
如何にも胡散臭そうに見やるサムソンに、男は小さく笑う。
「この辺りは、余生を過ごすには、とてもいい環境だ。そうは思わないかい?」
「……確かにね」
サムソン自身も、人のことは言えない。端から見たら、ごく普通の村人のようには見えない…農民のようにも商人のようにも見えない…だろう事に対する自覚はあったので。
つまりは、十分な蓄えを背景に楽隠居を決め込んだ、といったところか。いささか、年齢は若いようだったが、そう言われれば、目の前の男はまさに、それそのものである。
元は都で暮らしていたのだろう金持ちの紳士。
「西の村の住人ね。それはわかった。だが、何故、俺の留守中、勝手に家に入り込んでいるのか、そこいらあたりを是非とも、詳しく伺いたいね」
この辺りは、観光で成り立つ場所ではない。よそ者を見かけることも、滅多にない。村同士の紛争は多々あれども、それ以外の犯罪、例えば盗難のような事件はまず、起こらない。もし、そのような事があったとしても、このような土地柄では、必然的に村内部の犯行となり、そもそもの世帯数もそう多くない現状では、あっという間に犯人が割れる。
閉鎖的な社会に於いては、法的制裁よりも、地域的社会的な制裁の方が、ずっと恐ろしいものだ。大げさでなく、生きていけなくなってしまう。
それが骨身に染みている故に、この辺りでは、夜、睡眠前でもなければ、扉に鍵はかけない。
しかし、だからといって、勝手に人の家に上がり込んでもいい、という訳では無論ない。
扉の傍らに立ったまま、腕組みをして見下ろすサムソンに、男は椅子に座ったまま、再び肩を竦めて見せた。
「訪ねてきた時、君は留守だった。この家の前で、いつまでも立っている事の危険さは、君も理解してくれるだろうね。私はこれでも、西の村の者だから」
「…まぁな」
不承不承、頷く。本当に、不承不承だったのだが、仕方がない。男の言は、確かに正論だった。二つの村の仲の悪さ加減を考えれば、この手の用心はするに越したことはない。
しかし、それはそれ、これはこれである。現在のサムソンにとって、目の前の男は、己の隠れ家のようなこの家に勝手に上がり込んだ、闖入者以外の何者でもない。
まるで、心地よく静謐だった空気まで引っかき回されたような気がする。
「で?何のために、俺のところに?」
不快感丸出しのサムソンに臆する様子もなく、穏やかに微笑む男は言った。
「東の村の顔役と話がしてみたかったんだよ」
「誰が『顔役』だ」
「君が」
間髪入れぬ返答に、サムソンは一瞬、言葉をなくす。
男の言う事は、決して間違いではなかったので。
元々の村人達のように、祖父母の代から住んでいる、という訳でもないサムソンは、この村にとっては、新参者そのものである。それが、まさに村の顔役、とでもいったような役割を割り振られるようになってしまったのは、おそらく、村に来て間もない頃、未だ状況がよく判っていなかったというのに、安易にこの騒動に首をつっこんでしまった故、なのだろう。
たった一本だけ、手元に残しておいた剣を手に、争う男達の間に割って入った。それだけだった。だがしかし、無造作に剣を手に下げただけのサムソンの姿に、彼らは気を抜かれたようだった。
彼らは、判ったのかもしれない。例え、腕に覚えはあろうとも、実際には一度も人を傷つけた事はないだろう彼らは、サムソンが日常的に、本当の意味で剣を使ってきた者であるということを、肌で感じ取ったのかもしれない。
その後のなし崩し的状況は、サムソンの望んだところでは決してない。
しかし、それも結局の処、己の失態故であったのだ。
言下に、男の発言を認めた事になってしまう程度の沈黙の後、彼は再び口を開いた。
「『伝説を継ぐ男』と呼ばれた剣闘士だったんだってね。西の村でも、噂になっているよ」
伝説を継ぐ男。
ひどく古い二つ名だ。
かつて、『大陸一の剣闘士』と謳われた、伝説の男の再来。
当の『大陸一の剣闘士』が、どれ程の戦士だったのか、知る者も殆どいないのに。
「いや、あれはやっかみ、と言った方が正しいかな。西の村の住人は、自分等が東の村よりも劣ると思えるような事がひとつでもあると、それが許せないらしくてね」
穏やかな笑み、穏やかな口調。しかしながら、その言葉には刺がある。自分に対してのものではない、と知りつつも、何やら居心地が悪いのは、図らずも己が話題の中心となっているからだろうか。
「それを言ったら、西の村にも聖騎士が住んでるんじゃなかったか?聞いたことがあるぞ、俺も」
話題を微妙にずらしてみたら、
「屋敷から一歩も出てこない、生きてるのかどうかもわからないような老人よりも、そりゃ、伝説の剣闘士の方がいいだろうさ、看板として」
男の口は、更に滑りがよくなった。
「…あんた、割と言うな…」
己の村の名士に対して、まさに言いたい放題である。
呆れ半分、感心半分。あからさまに不躾な視線を送るサムソンの前、男は微笑みつつ、更に言う。
「悪いが、何か飲み物を所望してもいいかな。少々、喉が乾いてきた」
それには、長居をする、まだまだ話をしたい、という含みがある。
それを受けて、サムソンは男に背を向けた。この小さな家では、台所も居間のすぐ隣にある。
「できれば、茶なりと出してやりたいんだが、生憎とそんな小洒落たものはなくてな」
振り向かぬままに口にした、これは皮肉ではなかった。サムソンは本当に、目の前の招かれざる客をもてなしてやりたい気分になっていた。西の村の住人を名乗る目の前の男は、村の人間でありながら村の人間ではない、東の村に住みながらほとんど部外者であるサムソンと同類であるという事が如実に感じ取れたし、何よりも、この男の持つ雰囲気は心地よく、もっと話してみたいとそう思わせた。
奇妙なものだ。この村に落ち着いてからは言うに及ばず、それ以前、剣闘士時代の末期にはもう、人間と交わりたいと思うことなど絶えてなかったというのに。
「では、冷たい水を一杯。汲みたてのものだと嬉しいのだがね」
「贅沢を言える立場か、無断侵入者」
綻ぶ己の口元が、不思議だった。



水を手に戻ってくると、男はどこか遠い目を、庭の方へと向けていた。その横顔に差した西日が、何故かひどく、寂しげな色を添えていて、サムソンはふと、気を呑まれたように、足を止めた。
それでも、気配は感じ取れたのだろう、男が顔を上げる。サムソンへと据えられた目には、先程までの印象など毛ほどもなく、それがかえってサムソンを戸惑わせた。
「ああ、ありがとう。すまないね、我が儘を言って」
「全くだ」
あくまでも穏やかな男に対して、あくまでもサムソンの口調はきつい。それでも、水を差し出すと、男は素直に受け取り、にこやかに笑った。サムソンの口が悪いのは、照れ隠しのようなものだと見抜いているかのように。
「いい庭だね」
男の家の方が、ずっと大きく、立派であろうし、庭もずっと綺麗だろうに。
思ったが、それは口にはしなかった。男の言に、偽りがあるようには聞こえなかったし、実際、サムソンにとってそれは、自慢の庭であったのだ。
庭の基盤を形作る大木は、既に黄昏に沈む、黒々とした色彩へと変わりつつある。手入れをされていない草花は奔放に伸び茂り、生命そのものの輝かしさを醸す日中とは対照的に、寂光を帯びたその風情はひどく物悲しく、荒れ果ててさえ見える。
それでも、もうしばらくの後に響き始める虫の音は、湿った風に乗って、夜の息吹を伝えるようになる。
生命そのものの住処のような、小さな世界。
徐々に闇へと沈みかける庭から意識を切り離されたのは、共に見入っていた男が、杖へと手を伸べた、その動き故だった。
「家の主人に、この座は明け渡さねばなるまいね。この特等席は、君の物だろう」
男の言い様よりも、実際の動きの方が正直だった。彼が『弱い』と称した足は、言葉の印象ほどには軽いもののようではなかった。身を起こす、ただそれだけの動きにも、ひどくおっくうそうな様子が仄見えた。
「別に、そのまま座っていてもいい」
男は、こちらに顔を向けた。そこには、先程までの穏やかさと相反するものが浮かんでいた。
「それは、同情か?」
そのようなものはいらない、と、何よりも表情が雄弁に語る。
己の力のみを頼む男に相応しい誇りと矜持。
触れたら切れそうな精神の張りと、一瞬で人を引きつけるその気概。
そこには、優しいばかりではあり得ない、男の本質が乗っていた。
サムソンは、男の言について少し考え、ゆるやかに首を横に振った。
「そんなんじゃない」
同情したつもりなど、毛頭なかった。
「それでは、何だ」
同情ではなかったが、ただ少し、気を遣った、と言われれば、それはそうであったかもしれない。
それは何故か。
「……この家には、他にろくな椅子がない。疲れたから、なんて理由で、あんたに帰られちゃ、困るからさ…」
男は、すいと片眉を上げた。
「もう少し、あんたにここにいてほしい…。おかしいか?」
「…いや」
くすりと笑った男に対して、今度はサムソンの方が鼻白む。
「いや、おかしい訳じゃない。…私もそう思っていた」
そう言って、男は再び、庭へと視線を移す。闇の近くなった庭では、少しずつ、夜を生きるもの達が動き始めようとしている気配がある。
サムソンも、引かれるようにして、庭へと顔を向けた。
その時、サムソンと男とは、ひどく近しい場所にいたように思う。実際にいる距離が、という訳ではない。その精神が向き合っていた、とでも称するべきか。
二人とも、何もしゃべらなかった。それでも、その沈黙を気詰まりだとは思わなかった。
多分、時間にしてほんの数分。あるいは、もっと短かったかもしれない。
男は、より楽な姿勢を探すようにして、椅子の中で身を捩り、再び、背もたれにゆったりとその身を横たえた。それが、その不可思議な時間の終わりを告げる印となった。
「ならば、すまないが、しばらくの間、この椅子は借りていてもいいかな」
先程までと同じ、静かな微笑みを浮かべる男に、
「今更だろうが」
やはり、先程までと同じように、憎まれ口をたたいて、それでも先程までとは少し違う。
それは、互いに口にせず、それでも互いが知る、確かな事実だった。



男との対話は面白かった。
話せば話す程に、目の前の男が教養のある紳士である、との印象は強まっていたし、そんな人種と己とが気が合うなどとは、今まで想像だにした事はなかったのに。
「…もう、夜も更けた。そろそろ、帰るべきだろうな」
名残惜しいが。
しぶしぶ、といった様子で口にされた男の言葉は、心からのものと思われた。
それは、サムソンにとっても同じ事だったので。
「馬車かなんか、迎えにくるのか?」
それならば、到着までもう少し、と淡い期待を抱きつつの言は、苦笑混じりに首を振る男に否定される。
「この村の外、少し離れた安全な場所に、馬車は待たせてある。そこまでは歩きだよ。目立ってしようがないからね」
それでサムソンは、男はこの村の人間ではないのだ、という事を、改めて思い出した。
夜闇は深い。小高い丘を挟む道を足の悪い男が杖を頼りに歩き帰るには、些か不安になる程に。
二つの村に、ほんの少しでも、友好的な交流なりとあれば、家の前まで馬車をまわす事も可能であろうのに。…もっとも、サムソンの家には、馬車を止めるような場所などありはしなかったが。
「…同じ、アリティアという偉大なる国に連なる者として、共に生きてはいけぬものなのだろうか…」
男のそれは、独白に近かった。
彼が言いたかったのは、まさに今、サムソンが思っていたのと同じ事だったろう。
もう少しだけでも、二つの村が歩み寄ってくれれば、という。
ただ、男が愛国者であり、サムソンはそうではない、という、それだけの事だ。
判ってはいたのだけれど、それでも、そのような真意を口にしてしまったのは、やはり、目の前の男への、好意とすら言っていい、そんな感情故だったように思う。
「俺は、国へは繋がれない」
サムソンは、アリティアという国そのものに対して、何ら恩を感じたことなどなかった。どころか、この国の人々の持つ、その優越感は、彼のように、どこの国の者とも言えない元奴隷には、全くの理解の範疇外だったし、はっきり、不快であるとさえ言える代物でもあった。
サムソンの態度にも、男が気分を害した様子は見受けられなかった。それくらいでは、怒り出したりはしないだろう、との計算、もしくは信頼のようなものも、既にあった。
「…剣士の剣は、己の認めた主君にのみ、捧げるもの、か?」
予想に違わず、男は軽く揶揄するように微笑う。
「剣士?…俺はただ、生き残るために目の前の相手を殺すだけの剣闘士、だ。剣士様や騎士様とは違う」
「騎士は、そうではないとでも思っているのか?」
つい、鼻で笑いかけたサムソンに、ひたりと男の目が据えられた。
「騎士だって、同じだ。生き残るため、ではなく、主君のため、名誉のため、と称し、当の主君へと全ての責を押しつけ、己の良心を護る」
前に見た。
椅子に座ったままで構わない、と、サムソンが言った時の、男の表情。
多分、こちらが本当なのだ、とそう思わせる、戦士の顔。
サムソンの戦場であった闘技場で、ほんの時たま、見る事のできた顔であり、サムソンの中の何かを潤す、美酒のように酔わせさえする顔だ。
しかし、それでも。
「…そんな事を言って、いいのか?」
あまりの暴言に半ば呆れたサムソンの前、男は薄く笑った。その表情は、既に穏やかな紳士そのものだったのだけれど。
「さぁ。それでは、もうお暇しよう。待たせてある者達にも、悪いだろうからね」
サムソンが帰宅した時、既に男は部屋で待っていた。それも、随分な時間だったように見受けられたし、それに輪をかけて、結構な時間、サムソンはこの男と共に過ごしていた。
馬車を待機させている者達が本当に、それから今までずっと待っていたのだとしたら、それはもう、悪いを通り越しているような気もまましたが。
男が杖に身を預けるようにして、立ち上がった。それに手を貸しはしなかったが、先回りして家の扉を開けたサムソンは、家を出際の男に対して、何気なさを装って、ほんの一言。
「また来るか?」
男の返答も、一言。
「君さえよければ」
「いいだろう」
軽く頷く。
「じゃあ、今度は、茶でも仕入れておく事にしよう。また、勝手に入っているといいさ」





後から知った。
西の村の聖騎士は、男が暗に匂わせたよりはずっと若いらしい事も、若くして騎士団を退団したのも、落馬事故で、足に大きな怪我を負ったせいであるという事も。
そして、それまでの軍功によって、西の村を領地として与えられて後、ずっとこの地に居しているのだという事も。
以来、己の館から出てきた事がないという件の領主も、おそらく、村人達が噂する程には、偏屈でもないのだろう。
例えば、元奴隷剣闘士の椅子に座って、一杯の水を手に笑う、そんな穏やかな紳士なのだろう。



元奴隷の剣闘士と領主とでも、共に話し、理解し合う事ができるのに。


何故、人は相争うのか。


おそらく、それは、神にしか判らない。
決して、答えの出ることのない問い、であるのだろう。



END







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