止めど流るる〜カチュア


はじまりなんて きっととても 単純なこと



何だか、変な人。
それが、カチュアがアリティアの王子に接して抱いた第二印象。



同盟軍の盟主殿の日常は、とかく忙しかった。朝から晩も遅くまで、予定がびっしりと入っている。周辺の様子については、腹心の者達からの報告を聞き、状況によっては、街の有力者と会談を行い、集めさせた情報を吟味して、軍の今後を決定づける。彼の日々は、会議、会議、会議である。実際、カチュアが王子に来客を告げにきたのも、会議と会議との合間の食事中の事だった。
「会見希望?ジュリアンだったら、そのまま入るように言って」
王子は、パンに具材を挟み込んだだけという簡易かつ庶民的な料理を頬ばりつつ、言った。顔は上げない。手にした書類を見据えたままだ。だから、王子の言を受けて、カチュアが首を横に振ったのも、目に入ってはいなかっただろう。
確かに、次なる目的地である〈魔法都市〉への斥候として出ていた青年は、予定通りにいけば、そろそろ帰ってくる時分ではあった。しかし、今回の訪問者は、その青年ではない。
「マリク殿です」
カチュアの口から出た、同郷の魔道士の名に、今まで心ここにあらずといった風情だった王子の肩がぴくりと跳ねた。まるで喉にものが詰まったかのような顔をして、手の中の書類をそっと机の端に除ける。が、それだけでは不十分だ、という事に気づいたのか、慌てて立ち上がって、カチュアへとその書類を差し出した。
「ごめん。これ、ちょっとの間、どこかに持ってっといてくれないかな」
『隠しておいてくれないかな』という、言葉の裏を正しく読み取って、カチュアは大人しく、その書類を受け取る。
「それでは、マリク殿に入室許可を与えてもよろしいですね?」
カチュアがそう言ったのは、王子がパンの最後の一切れを手に取ったと同時に、その皿を脇に押しやってからだった。王子は、口にパンを頬ばりつつ、忙しなく頷いている。この皿もまた腕に抱えて、カチュアはゆっくりとその場を下がる。王子の口の中の食物もなくなるだろう時間を稼ぎつつ、次の間で待っている相手に、王子の意を伝えるために。



年若い魔道士は、王子の前に進み出ると、うやうやしく一礼した。足音ひとつ立てる事がないのは、職業柄なのだろうか。まるで宮廷舞踏ででもあるかのような優雅さで。
「貴重なるお時間をいただき、ありがとうごさいます」
「ちょうど休憩中だったんだよ」
王子は微笑みながら、彼に目の前の座を指し示す。先程まで、口一杯にパンを頬ばっていた少年と同一人物とは思えないような鷹揚さで。カチュアは、王子の示した卓に、茶を置いた。王子のためと来客のための二客である。
「お構いなく。すぐに下がらせていただきますので」
ただ、王子だけを見つめている魔道士は、カチュアに顔を向けることもない。にこやかに笑んだ王子は、軽く小首を傾げて見せた。
「僕の顔に、何か付いてる?」
「口元にパン屑が…」
王子は、慌てたように己の口元を拳で拭いかけ、そして、そのまま固まってしまう。己の行動が歴然と語る答えに。恐る恐るといった風情で、魔道士を上目遣いに見やると、彼は、空々しいほどに大きな溜息をついた。
「忙しいのは、知っています。仕事はいくらでもありますし、ほんの少しの時間も無駄にはできないというのも、判ります。だけど、『せめて食事くらいはきちんと取って下さい』と、何度も言っているでしょう」
「だから、食べてるってば。ちゃんと」
「挟みパンと飲み物だけの食事は、『きちんとした』ものじゃありません」
間髪入れずに、魔道士は返す。こういうのを、打てば響く、と称するのだろうか。この青年は余程、頭の回転が速いのか、それとも、この王子様の行動様式を把握しきっているのか、どちらだろう。
「……抜き打ち検査が今回の面会の目的だった訳?」
魔道士は「まさか」の一言で、恨めしそうな王子を軽くいなした。この王子様は時々、とんでもなく子供っぽく見える事がある。カチュアがそんな王子に慣れてきたのは、側仕えする事が多くなった最近の事だ。しかし、本物の上流階級の人間というのは、こういったものなのかもしれない、とも思う。カチュア自身や、その周囲の同階級の人々のように、薄ら澱んだ世間、というものに浸かって育っていないというのは、こういう事なのかもしれない。
王子は、深々と溜息をついて、カチュアの方へと片手を伸べた。
「悪いけど、さっきの書類、持ってきてくれる?」
バレてしまったからには、わざわざ隠さなければならない謂われもない。
そんな心情が読み取れる程度には、カチュアも王子の性格に慣れていた。



しかし、結局、書類はカチュアから、魔道士の手へと渡っていた。休憩時間とは、次の会議の為の資料などに目を通す時間にあらず、という、至極尤もな意見によって。
「…自分だって、やってるくせにー」
「僕はいいんです。別に、同盟軍を背負っている訳でもないですから」
完全に自分の事は棚上げである。王子はますます恨めしげな様子になったが、魔道士の青年には全く気にならないらしい。青年の要望によって運ばれてきた『きちんとした』食事を、気のない素振りでちまちまとつつく王子に、しっかり食べるように、と身振りで示す。
何だか『お母さん』みたいなのよね。
それを見てのカチュアの感想も、常どおりだった。
一般的に敬遠され、畏れられてすらいる魔道士が、まるで親鳥ででもあるかのような様を見せる、というのは、カチュアには意外である反面、この王子が相手では仕方がない、という気もまた抱かせる。
次に王子が口を開いたのは、皿の上の料理を申し訳程度に手をつけ終わった後だった。
「で?」
「…『で?』とは?」
そもそも、王子は見知らぬ人間が側近くにいる事を好まないので、小者や侍女はほとんど使っていない。その上、魔道士が来た時点でカチュアが人払いをしたので、諸々の雑事をこなすのもまた、王子の側仕え兼護衛のカチュアの仕事となる。魔道士の口の先を封ずるように、手早く皿を下げ出したカチュアに「ありがとう」と小さく頷いて…それは言葉だけでなく、ひどく心がこもった様子だった…、王子は目の前の青年に向き直った。
「予約なしでマリクが来るのって、珍しいからさ。何か、問題事でも起こったの?」
「…用事がなかったら、来ちゃいけませんか」
無表情な魔道士を、王子はただ見つめ返した。カチュアも、王子と同じ行動を取りそうになったが、何とか耐えた。側仕え(カチュア)にとって彼等の会話は、耳に入っても、ただそれだけでなくてはならない。会話に加わる権利は元からないし、よしんばそれが許されたとしても、まるでずっと盗み聞きしていた、と白状するようで、不作法な事この上ない。
「いけなくなんかないよ、勿論」
口元を綻ばせる王子の笑みは、何だか彼をとても大人びて映させる。一般的に見て非常に大人っぽい魔道士の青年が、まるで彼よりも子供ででもあるかのように見えるのだ。現在のように。
「じゃあ、やっぱり座ってよ、折角だから。カチュアの入れてくれるお茶、美味しいよ」
しかし、魔道士は少々逡巡しているようだった。彼が来る前から、卓に設えられていた菓子の類が気になっているらしい。
砂糖菓子。飴玉。チョコレート。
長時間、このような場所に置きっぱなしにしておく物ではないし、そもそも、男性、それも王子の仕事相手になる年輩者の味覚に合うような代物でもない。
「他に、来客のご予定がおありだったんじゃないですか?」
若い女性が会いに来る、というのであれば、こちらは遠慮する、という意は、カチュアに理解できたように、王子にもまた、正しく伝わった。
「いや。予定っていうのとも違うと思うんだけど。…それとも、予定なのかな」
王子が少し首を傾げた時だった。
「マルス様ぁ」
先触れもなく、入室許可を申請する事もない。そして、当然、会う予定にも入っていない、いつもの客人が現れた。彼女達が顔を覗かせただけで、その場の空気の色が変わる。まるで、そっくり入れ替えでもしたかのように。
「お食事終わった?お喋りしても、大丈夫?」
少々、怖ず怖ずとした様子のタリスの王女とは対照的に、マリア王女はひたすら元気だ。元より、明るい性格の少女なのだが、王子と会うとその様相が格段に引き立つ。その一種独特の陽気さと底無しの元気さで、開口一番、今日あった事などを話し出すのが常なのだが、今日は少し違っていた。
「マルス様、ひどいのよ。私、何も間違った事言ってないのに」
王女は必死に訴えている。王子しか目に入っていないらしく、魔道士の横を擦り抜けると、王子が座を占めている卓の正面に手をつき、身を乗り出す。周囲は、完全無視である。
タリスの王女は、魔道士の青年の姿を認めると、困ったような顔をした。それは、この青年に対する他の者達に共通の反応でもある。どのような態度で接すればいいのか、判らない。そういう事だ。当の魔道士は、そんな周囲など全く気にならないらしいのだが。
「でも、マルス様。今回はマリア王女が悪いんです」
「マリア、悪くないもん!」
結局、王子を相手に会話する事にしたらしい。タリスの王女の進言は、しかし、すぐにマリア王女に否定される。喧々囂々の言い合いは、彼女達を二人だけの世界に突入させた。魔道士の方は、我関せずを決め込んでいるし、王子はただ冷静に、二人の言い合いに耳を傾けている。男性二人はこの部屋の一種高揚した空気の中で、まるで異邦人のようで、傍観者であるカチュアの目には、ひたすら不思議な光景である。
茶をもう二客、用意するべきだろうか。
彼女達の言い合いは、まだまだ終わりそうにない。
しかし、何故、この二人の王女は、いつも一緒に王子に会いに来るのだろう。実は気が合っているのだろうか。浮かんだ考えは一瞬で否定される。それだけはないだろう。
王子が、兄のように思ってくれると嬉しい、というような事を言った時だ。
「まぁ。『兄様』だなんて」
マリア王女は、大仰に目を見開いて、口先を窄めて見せた。
「マリア、そんなに子供じゃありませんわ。マルス様は、マルス様です」
王女は微笑う。その様は、婉然と、とすらいえるもので、カチュアはいたく感心した。この小さな王女も、恋敵と目する相手を前に対して、牽制を張る程には、女なのである。
対する恋敵…タリスの王女…の方が、却って子供っぽい。王子に対する己の態度を揚げ足取るマリア王女の言に、あからさまにむっとした表情を晒してしまっていて、少なくとも、自己装飾の巧みさでは、マリア王女の足下にも及ばない。そんなところが素直で可愛い、と受け取る事もできようが。
この二人の王女方は目線の位置が非常に近い。マリア王女はませていて、タリスの王女はどこか子供っぽいのだ。カチュアの目には、精神的には同年代と映る。
しかし、根本的に相容れない二人であるようにも思えるのだ。互いが恋敵であるという側面を除いても。
相手の抜け駆けを許さぬために、互いを見張り合ってでもいるのだろうか。
これはありかもしれない。
カチュアの思考が、一応の落ち着きどころを見つけた頃、少女達の訴えも一段落したようだった。
ようするにマリア王女が、現在、体調を崩して寝込んでいるというアカネイアの剣士について、何かよくない事を言ったらしい。そして、それを耳にした女騎士が王女を叱責したらしいのだ。王女がこんな風に訴えてきた事を見ると、かなり強く。
「だって、あの剣士の事を悪くなんて、あの人がいつも言ってるのよ。なのに、何で私が言うと怒るの」
話しているうちに気が高ぶってきたのか、涙ぐまんばかりのマリア王女に対して、王子が言葉を返すよりも、タリスの王女の方が早かった。
「あの人の事を悪く言っていいのは、アカネイアの女騎士だけなのよ」
あと、親友だっていう若様ね、とタリスの王女は得意げに続ける。
「私だって、人にオグマの悪口なんか言われたら、その人の事、ひっぱたいちゃうわ」
この言に、マリア王女は目をぱちくりさせた。
「……そうなの?」
「当たり前でしょ」
その状況を想像したのか、ふくれっ面になったタリスの王女の様子は、マリア王女に冷静になる余地を与えたらしい。それは、かなり意味深長な発言だった。
聖アカネイアの剣士について、悪く言う権利があるのは、同じ国の女騎士だけだ。そして、この二人が恋人同士であるのは、端からも一目瞭然で、そして、タリスの王女は、軍の部隊長について、悪く言う者など許さない、と言う。まるで、聖アカネイアの恋人達のように。
「それは、ミディアに謝った方がいいね」
王子は言った。教え諭すその声は、あくまでも穏やかに落ち着いていて、訊く者の胸に深く浸透する。我が儘一杯に育ったマケドニアの第二王女が、ちょっと不服そうながらも頷いたのは、王子の持つそんな力故だろうか。
「マケドニア出身以外の女の人は、同盟軍には少ないから。マリア姫が率先して声をかけたりして、みんなと仲良くしてくれると、嬉しいんだけど」
寄り合い所帯の同盟軍は、同国人同士で固まってしまいがちだった。しかし、それでは軍としての動きにも弊害が出る訳で、王子としては、そんな彼等の緩衝材として、マリア王女に期待しているらしい。成る程、マケドニア王女であるとはいえ、あくまでも子供であるマリア姫であれば、他国の者もそんなに構える事はないだろう。国としてのつき合い等で引っかかりを感じるような事も。
しかし、王女がそこまで考え及ばす事はない。ただ、王子に頼られている、という事だけは理解したようで、少女はその丸い頬を紅潮させた。多分、誇らしさと歓喜とに。
「私、みんなと仲良くします」
「ミディアに、ちゃんと謝るんだよ?」
この言にも、普段より割り増しな笑顔で、元気に頷く。
「シーダとも、仲良くするよね?」
これにもまた、間髪入れずに首肯する。王子が口を開いた時から入れ替わるようにして黙り込んでいたタリスの王女の方が却って、いきなり飛び出した己の名に、驚いたようだった。
「私、今まで、シーダお姉さまの事、誤解してたみたい」
「…『シーダお姉さま』??」
呆然とした様子そのままの声で呟くタリスの王女。
「私達、とっても仲良しになれそうな気がしますわ」



「…やっと静かになりましたね」
台風一過、とでもいった様子で少女達が退散していってから、ようやっと魔道士は、置物から人間へと復帰した。
「あの高周波で捲し立てられると、頭が痛くなります」
本気で参っているらしい心情の窺えるその言に、王子は小さく笑った。
「そう?可愛いと思うけど。女の子っていうのはさ。懐いてくれると、妹ができたみたいで嬉しいしね」
「………どうせ僕は、年上の男ですから」
ぽそり、と魔道士は呟く。ついうっかり、その言葉が耳に止めてしまったカチュアは、固まりかけた。
何なの?それは、どういう意味??
「マリクは、『可愛い』って言われたいわけ?」
王子は言葉の端を捉えてついた。カチュアだったら、聞かなかった事にしてしまう類の話題である。平然と「僕は昔、散々言われたけど、あんまり嬉しくなかったな」と続ける王子は、それはそれで凄いと思うが、もう少し、周囲の空気を読んでほしい、とも思う。
「別に『可愛い』と思われたい訳じゃありませんよ、勿論」
「じゃあ、何」
これは、王子流のささやかな仕返し、なのだろうか。今度は、恨めしげに相手を見遣るのは、魔道士の方だった。
これって、やっぱり、アレかなー。王女様方に、嫉妬してるって事かなー。
深く考えたくないカチュアの視線は、何処か遠くを彷徨っている。
しかし、王子に懐く少女達に妬いているというのが本当なのだとしたら、存外、この魔道士も大人げない。
カチュアの思考を読み取った訳ではなかろうが、彼は肩を落とし、深い溜息をついた。
「何でもないです。馬鹿なことを言いました。忘れて下さい」
王子はおもむろに立ち上がると、魔道士の青年の前へと進み、彼を軽く押しやるようにして、椅子に座らせる。そこで、腕を高く持ち上げなくても伸ばせる位置まで下がった彼の肩を軽く叩く。
「大丈夫。僕、マリクの事、好きだから」
そして、にこやかにとどめを刺した。この優しげな風貌の王子様は、実は凶悪な根性曲がりなのではないか、とカチュアが思った瞬間だった。



これまでの人生17年。王子の側仕えをするようになって初めて、知った事がある。
私って、実はすごく生真面目な性格だったのかもしれない。
すっかり冷めてしまった茶を入れ替えるために、一時下がったカチュアは、何だかぐったりと疲れていた。特に、あの魔道士と王子の会話は、くたびれる。
殆ど、冗談と軽口なんだろう。だけど、どの言葉にもほんの少しだけの本心が混ざり込んでいるような気がして。それとも、やっぱりアレは、彼等流の言葉遊びなのだろうか。
実際、だったら聞かなければいいだけの話なのだが、しかし。そんな言葉の数々を聞き流せない、という辺り、やっぱり己は真面目なんだろう、と思うし、それでは側仕えとして失格だろう、とも思う。
部屋に戻ったら決してつけない溜息を深々と吐いて、大きく深呼吸。それで、気合いを入れ直す。第一次戦闘態勢だ。
よし、と自分に頷いて、カチュアは盆をしっかりと持ち、執務室への一歩を踏み出した。



「リンダが、ね…」
「ええ。精神的に、大分、不安定にもなっています。…まぁ、初めて戦場に身を置いた者は、多かれ少なかれ、そうなるものですが」
話題は、大魔道士の娘の事に及んでいるらしい。少女が現在、何やら不穏当な状態にあるらしいのが、魔道士の言葉の端から読み取れる。伝説の魔道士の娘、という、まるで吟遊詩人の流行歌の中にしか現れないような存在が、現在、同盟軍に在籍しているという事実は、カチュアを何やら不可思議な気持ちにさせたが、実際、当人にとっては、そんな肩書はただ重いばかりなのだろうとは、推察できる。少々、気の毒なような気がしなくもない。伝説の魔道士、国の重鎮の娘として、何不自由ない生活を送ってきた少女なのであろうし、そもそも、彼女達三姉妹のように、戦う事で生きてきた者達とは、人種が違うのだから。
しかし、そんな魔道士の報告にも似た話を受けても、王子の眼差しの静けさは変わらない。新たに魔道士となった少女を信頼しているからか。それとも、その信頼は目の前の青年に対するものなのか。あるいは、達観、だろうか。なるようにしかならない、とでもいうような。
「だけど、何とかなるでしょう。何とかしますよ」
「随分と親切だね」
「…ええ。我ながら、らしくもないと思います」
からかいを含んだ王子の言を受けての、深い、魔道士の吐息。
「重すぎる重圧を背負った彼女の姿が、私の敬愛する方々に重なってしまったんです」
それがどういう事なのか、今回は本当にカチュアには判らなかった。だけどおそらく、この二人にとっては、とても重要な意味があるのだろう、と思った。王子は相変わらず穏やかな様子で、でも、それは明らかに先程までの静謐さとは別種のもので、魔道士はただ、唇を噛み締めて、俯いていた。
「すみません。故もない事を言いました。今度こそ、忘れて下さい」
これを受けての王子の返意は、小さく肩を竦める事だった。多分、それでこの話題については、手打ちという事なのだろう。
そして、その後は大した会話も交わされず、魔道士は席を立った。王子の予定にある、次の会議の時間が迫ってきていた。
入室時と同じように、優雅な一礼で王子に対し、儀礼的な仮面をつけたままの魔道士が身を翻す。彼の肩が揺れたのは、送る王子の言葉をその背に受けた瞬間だけだった。
「また来て。色々なことを話しに」



カチュアは無言で、書類を王子へと差し出す。帰り際、魔道士がカチュアへと返却した物そのままだ。今後の予定はまだまだ詰まっていた。疲れた、なんて言ってはいられない。実際に仕事をこなす王子はもっと大変なのだから。
しかし、書類を受け取りながら王子は、如何にもすまなそうな様子でカチュアを見上げた。
「今日は、色々忙しくて悪いね。今度、埋め合わせにアベルをそっちの用事に寄越すから」
「仕事ですから」
事務的に答えたカチュアだったが、王子の台詞の後半部分が少し、引っかかった。
「何故、アベル殿なんですか?」
最近、王子がミネルバ王女への伝令や彼女達姉妹への用事等で使いに出されるのは、必ず、冷静沈着なアリティアの騎士である。別に、同じ騎士であるなら、マケドニアの血を思わせる赤毛の騎士でもいいだろうに。
「だって、カチュアとパオラはいつも、アベルのことを意味ありげに見てるから」
カチュアは一瞬、固まった。まさか、気づかれているとは思わなかった。
確かに一時期、ひどく気になって、つい目が彼を追ってしまっていたものだが、今では努めてそんな事のないようにしていたから。
「……気に触られたようならば、後で謝罪に参ります」
硬質なカチュアの言に、王子は軽く手を横に振る。
「そんなんじゃないよ。ただ、二人はアベルみたいな男の人が好みなのかな、と思って」
それは、とんでもない誤解だ、と言いたいところではあったが、当たらずともまた遠からじ、といった状況ではあったので、何とも言えない。
あまりにも末妹の好みそのものであったので、却って驚き、それ以後、何かと目が彼にいってしまっていた、というのが真相なのだが、しかし、それを説明するのも、何やら間抜けな感じがする。
「私達がどうかという以前に、アベル殿には好感を持たれていないようです」
なので、取り敢えず、尤も当たり障りのない意見でまとめてみる。それに、これはあながち間違いという訳でもない。
姉はともかく、彼のカチュアを見る目は、どうにも気に入らない、というか、納得がいかない、というか。彼女に理不尽なものを感じているらしいのである。それもまた、無理からぬ事ではあるが。
「あぁ。アベルは、カチュアを側仕えにするって事に、最後まで反対してたから…」
それはそうだろうと思う。今にして思えば、カチュアが王子に平手打ちを喰らわせて逃げ帰った夜、彼女とすれ違い、王子の元へと駆け寄っていったのは、彼だったのだから。
あの夜以後、王子側から何の音沙汰もないのが、却って苦しかった。今日は言われるか、明日こそ呼び出されるかと、生殺しの3日間を過ごし、遂に出頭命令が出たかと思ったら、『王子の側仕え』として取り立てる、との辞令を伝えられ、頭の中は真っ白になった。その時も、彼はむっつりと無表情にカチュアを見つめていたのだった。
「だけど、大丈夫だよ。アベルは、有能な人好きだから。カチュアはよくやってくれてるし、そのうち判ってくれるよ。…多分」
王子には悪いが、カチュアはアベル個人に対しては、何の感慨も抱いていなかった。しかし、周囲の状況等を鑑みても、どうやら、カチュアが王子を殴ったという事実を知っているのは、あの騎士だけらしい事は見て取れて、それだけが引っかかる。
「それは、私にも疑問ですし、アベル殿のご不満も尤もかと思います。何故、今、私は王子の側仕え兼護衛の任を賜っているんです?」
如何に、内実がこんなに精神的にくたびれる代物であろうとも、端からは現在のカチュアは、何か報奨に値する勲を上げた、としか見受けられない。そして、カチュアのした事と言えば、王子を殴った事、だ。それでは、誰でも納得などする訳がない。特に、状況を知る者ならば。
「だけど、アベルが言ったんだよ。カチュアに『罰を与えなくては、軍の規律が保てない』って」
「それならば、何故」
与えるべきなのは、罰だ。報奨ではなく。
しかし、王子は事も無げに言った。まるで、当然の事を口にするかのように。相変わらずの穏やかさで。
「だってカチュア、僕のこと嫌いだろう?」
真っ正面から言われたカチュアは、二の句が継げない。しかし、返答を期待していた訳ではないらしい王子は、更に続ける。
「だったら、始終僕の側にいなくちゃならないっていうのが、カチュアにとっては一番の罰になるかな、と思って」
「…はあ??」
カチュアは呆れ返った。何の冗談だ、と、言ったことだろう。他の者に対してだったなら。
しかし、現在では、目の前の王子の人となりも多少は理解できてきたような気がするカチュアである。賢明にも、そこで口を噤んだ。
恐らく、いや、確実に、王子は大真面目に言っているのだ。
変だわ。やっぱり。この王子様は。


他の人とは全く違う。
それが、カチュアが王子を『特別』に意識し出した、多分、始まり。
その感情の種が、これからどのような芽を出していくのか。
彼女自身にさえ、思いもよらなかった。



END







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