終末の炎獄〜ガーネフ

暗闇のなか 膝を抱えて 泣いていたのは 誰だろう

わたしの記憶は、暗く冷たい石壁に始まる。古代遺跡に暮らす師の元、修行に励む弟子としてのわたしである。それより過去は覚えていない。しかし、別に構いはしない。実際、師の弟子である以前のわたしなど、存在していないも同然なのだから。
私は、師に教えられた。わたしの存在する意味。そして、存在する意義を。
魔道士であることには何の意味もなかった。事実、師とわたしにとってそれは、単なる肩書に過ぎない。何も教えられなかった、ただ、魔道士として育てられた弟弟子とは違う。
わたしは観照者であり、世界をつぶさに観る者だった。
師は、わたしに様々なことを教え込んだ。魔道の知識。人間の歴史。人間が存在するより前の神の時代。師の知識の全て、何もかもを。
明らかに、正統なる後継者は、わたしである。しかし、真実、愛されたのは、弟弟子の方だったように思う。
何も知らない、幸せな弟弟子。
彼はわたしの絡め取られた深淵を覗かなかったのに、真の知識を何も得なかったのに、決して、道をあやまたなかった。希望に満ちた目をただ、目的地にのみ据えて、真っ直ぐに歩いていった。歩む道が、どれほどに不安定なものなのかも知らず。
己の足下に、どれだけの茫漠たる世界が広がっているものか、底なしの深淵が虚ろな口を開けているのかも知らず。
それとも、知らないが故に、だろうか。
知らなければ、よかったのだろうか。
知りさえしなければ、わたしが在るような、そんな苦しみを味わうこともなかったのだろうか。
…既に何を言っても繰り言になる。それに、今では私の中の記憶というものは、一分一秒ごとに不確かなものへとなっていく。何故なのか、は判らない。判らなくてもいい、と思うことそれ自体が、ある意味、不可思議だ。全く、わたしらしくもない。
しかし、真実もう、何も判らなくてもいい、と思える瞬間がある。何も知らなくともいい。何も観なくてもいい。それは私にとって、神の恩寵、とすら、言ってよい。
わたしをひたひたと染め上げていく暗黒。そこから、わたしの中に存在する、わたし自身を形づくる、細い糸で編み上げたような情報網が、するすると解けていくのが判る。
刻一刻と、古いものから順に消えていく記憶。
存在が溶けていく。
何も残らない。
虚無になる。
法悦すら感じられる、その感覚。
物事を「知りたい」と願うのは元来、わたしの本能のようなものであった。沸きかえるような強烈な知識欲と背中合わせに、ぽっかりと口を開けた虚無。
知りたい。もう知らなくてもいい。知らない。
刻一刻と広がる虚無。
それが知識欲をすっかり呑み込んでしまった後、わたしは一体、どんな存在と化しているのか。
遠い未来、この書き付けを目にする者がいるだろうか。いたのならば、調べてほしい。魔法都市カダインの〈王〉である大賢者ガトーの後継者が、その後、どのような運命を辿ったのか。
それをわたしは、知りたいと願う。決して、知り得ない、と判っていて、心から知りたいと願う。
それは、まだわたしはわたしである、という証拠なのかもしれない。
そのうち、『何も知らなくても構わないと思うわたし』に呑み込まれていくだろう、本当のわたしの…。
軽やかに流れていた羽根ペンがその動きを止めた。ちりちりとしたその触覚に、首筋の産毛が一気に逆立つ。彼はそっと、羽根ペンを墨壺へと刺した。
そこは薄暗い。彼の手元を照らすランプがひとつ、そして、部屋の隅で焚かれた、弱々しい暖炉の炎。ただ、それだけが光源だ。この広い部屋の隅などは、全くの暗闇に包まれていると言っても、決して言い過ぎではない。
感覚を細い糸のように紡ぎ上げて、部屋中に張り巡らせる。一瞬、糸の端に掠めるように何かが触れた。
その瞬間、潜む存在の気配に向けて、気の固まりが撃ち放たれた。
気配は消えた。その痕跡すらも残さず。今はもう、この室内には何も存在しない。しかし、彼は見逃さなかった。気配は、彼の飛ばした気に当たって霧散した訳ではない。当たる寸前に、消えたのだ。
しばらく張ったままにしていた精神の糸も、もう気配が戻ってくる様子もない事を確認して、緩やかに解く。溜息混じりに、再びペンに手を伸ばす。その時、また何者かの気配があった。しかし、今度はすぐに判る。それは、明らかに生きている人間の放つそれだったから。
「…導師…」
「私は『導師』などではないが…。まぁ、いい。何の用だ」
入室はおろか、彼のいる場所に近寄る事すら禁じたはずだった。ペンの先を墨壺に刺し、再び、書面へと下ろす。向き直るまでもなく、判っていた。彼にとっては横方に当たる重厚な扉を割って現れたのは、学院の生徒。…それとも、新米の魔道士だろうか。
彼はそこで、顔を上げた。
波打つ金髪に紫の瞳。おそらく、グルニア人。もしくは、アカネイア人か。実際、グルニアはアカネイアとの混血が進んでいる地域だ。遺伝学的には、兄弟、とまではいかなくとも、従兄弟程度には近いものになっている。
その少年は、ひどくおたついているようだった。困惑。怯え。畏敬。そんな諸々の感情が波動となって、彼の元まで届く。
「はい、あの…申し訳ありません、ガーネフ様…」
『導師』と呼び掛けた事に対する謝罪、と、数瞬遅れて、理解する。本当に、この〈魔法都市〉という場所は、不可思議だ。
この街では、身分の上下はないのだそうだ。あるのは、各個人の魔道士としての才覚のみで、故に現在、この街の権力図で最上位に位置するのは、ある日ふらりと立ち現れた彼自身、という事になるらしい。
魔道士としての才が、権力者としての、支配者としての才に直結する訳もあるまいに。
ガーネフの口角が、皮肉に歪む。
部屋の隅で燃えさかる暖炉の火に、書面へと落ちた己の影が揺らめいていた。まるで、嗤い転げてでもいるかのように。
「…ご依頼のあった書庫開放の件ですが…」
「ああ。それなら、閉めても構わない。もう用はない」
数日間、書庫に引き篭もっていた彼が、何も言わずに出てきた後、今度はこの部屋へと篭もってしまったので、どうしていいのか判らなかった、というところか。
少年の問いによって甦った、結局、書庫からは彼の欲するに足るものは何ら得られなかった事への落胆は全く面には出さず、しかし、ガーネフはペンを卓の端へと置いた。書き物を続ける気は失せていた。
ガーネフが魔法都市に居を移して、もう数ヶ月になろうとしている。ドルーア帝国に恭順の意を示そうとしないこの街には、魔法使い以外の者は足を踏み入れる事も許されないのだそうだ。つまりは、ガーネフは無条件に居住を許される身分である。それは彼にとって、初めて、魔道士という肩書が役に立った実例でもあった。その上、過去、短期間いた頃には閲覧を許されなかった、学院秘蔵の密書、禁書の類も、最高権力者の肩書にものをいわせれば、全て目を通せるのだから、これを利用しない手はない。
実際、彼は数日間、書庫の中にあった書物を端から全て、目を通した。新たに得られた知識もまた、既に彼の内部に消化されている。
ただ、この街で得られるものが、そんな微々たる知識のみであるとは、思えなかった。
ガーネフは、この街に来なければならなかった。何故だろう。それは、理屈ではなかった。本能に突き動かされるかのような衝動だった。
おそらくこの街には何かがあるのだ。彼を惹きよせる何か。彼を呼び寄せた何かが。
あの古代遺跡で、暗黒の外法呪がまさに、彼を欲した時のように。
ガーネフは、立ち上がった。数ヶ月前、この街に入った後、すぐに行った行動をもう一度試してみるために。
「学院内にある全ての部屋を確認したい。鍵を持ってきてくれ」
少年の掲げるランプが、廊下にゆらりとした影を落とした。石造りの黒々とした壁は、天にそそり立つかのようだ。普通ならば、高く遠く響くであろう音はない。魔道士の密やかな挙動は、足音など、こそとも立てないものだ。不思議に湿った空気の中を、滑るように魔道士が往く。
この場所は、不思議と彼の育った古代遺跡と同じ匂いがした。〈王〉が同じなのだから、当然なのかもしれないが。
一番初めにここに来たのは、ひどく昔の事だ。古代神殿以外の場所を殆ど知らなかった彼にとって、この街は、何やらおかしな場所だった。大勢の人間が集い、共に生活をする。それだけで、気など澱んでしまうだろうに、ここに在る者は全て、魔道士だ。特殊に変質した気は、それだけでも重圧となる。魔法適応力のある人間以外には、とても耐えられまい。
周囲の空間への影響も、多大なものとなっているだろうに。師は何故、このような場所を作られたのか。
物思いの間も、周囲へは油断なく気の網を張り巡らせている。彼の感覚網にかかるようなものは、何もない。ガーネフを呼んだものは、彼が近くにいれば、何らかの形で彼に存在を訴えてくるものと思われたのだが。
またしても、無駄骨か。
ふと、溜息が口を突いて出そうになった時、ガーネフはその部屋を発見した。
しかし、それは『発見した』と、言えるだろうか。たまたま彼の目に留まった、と言った方が正しかったかもしれない。ガーネフは、そこに『部屋がある』という感じを受けなかった。実際、今までにこの廊下を歩いた時も、感覚網は念入りに巡らせていたが、視力には一切、頼っていなかったのだ。彼の感覚は、『そこには部屋はない』と告げている。しかし、目の前には扉が存在する。
先を歩いていた少年は、ガーネフが足を止めた事に気づいたらしい。廊下を駆け戻ってきた。
「その部屋は、入れません」
「…私が、入ってはならない場所などあるのか?この街で?」
片眉を上げての皮肉に、少年は慌てたようにその首を何度も横に振った。
「違います。本当に、入れないんです。今まで、誰もその部屋には入れた事がありません。…いえ、昔は入れたんですが、いつの間にか、扉が開かなくなってしまったんです」
「扉が開いた『昔』というのは、具体的にはいつ頃の事だ?」
この質問に、少年は虚をつかれたようだった。瞬かれた切れの長い瞳は、次第に真剣なものへと変貌する。寄せられていた眉根が、ふと解けたのは、それからしばらく経っての事だった。
「戦役前です。あの戦争が終わるまでは、開きました」
アリティア陥落により、ドルーア戦役は終わりを告げた。戦死した国王。失われた神剣。そして、落ち延びた王太子。
ガーネフは、目を眇める。ここに部屋が存在する、と思って、よくよく目を凝らして見れば、目の前の扉には、微細な魔道の痕跡がある。〈魔法都市〉と称されるこの街では珍しくもない、なんという事もない魔道の匂い。この街の者は、全く気づかなくても無理はない。しかし、ガーネフはこの匂いに覚えがあった。この街のものとは微妙に異なる、精緻な織られ方をした魔道。まるで、彼の師の織りなすもののような。
魔道は、どのようなものにも一定の法則がある。方程式、というべきか。どのような方式に則って編まれたものなのかが分かれば、自ずと解呪の方法も見出せるものだ。
指先をそっと、扉の表面に走らせる。流れる方式を捕まえて、読み込み始める。しかし、あまりにも仄かすぎて、微細にすぎて、完全に読み取る事ができない。師の造られた結界なのか。一瞬、過ぎったその考えは、すぐに霧散する。師の手によるものではない。あまりにも、癖がありすぎる。
額を汗が伝い落ちた。時間にして、ほんの数秒くらいのものだったろう。しかしそれは、ガーネフにとっては、永遠にも感じられる時間だった。
そっと手を離す。これ以上読んでも、無駄だろう。結局、判ったのは、結界が敷かれている事。そして、外からの解呪は事実上不可能である、という事だった。
何らかの条件付けがなされていて、その条件を満たす者だけが入室を許される。入らなければ、結界は消えない。そして、入室条件は読み取れなかった。
ガーネフは、深々と溜息をつきながら、何気なく扉の取っ手に手を伸ばした。全く、世界は広い。まだまだ、己の魔道技術に自信を持つには早すぎる、という事か。
ガーネフが軽く入れた力に従って、取っ手は自然に回った。
一瞬、何が起こったのか判らなかった。一体、何故、回る?
半信半疑ながら、そっと押してみる。扉は軽く軋んで、それでも何の抵抗もなく、開いた。
隣では、声もないらしい少年が、ただ呆然と突っ立っている。彼等の視線の先、真っ暗に締め切られたがらんとした部屋の中、ただひとつの存在として、それは在った。
部屋の中央には、先の戦役で失われたとされる神剣が、その刃を台座に預けて、立ち尽くしていた。
彼が外していた間、薪を補充されなかった暖炉では、火はほんの小さな揺らめきだけを残して、消えかかっていた。
ようやっと部屋に戻ってきたガーネフは、腕に抱えた神剣を壁に立て掛けた。ひどい倦怠感が、その身の内を巡っていた。何故、こんなにも疲れているのだろうか。
この疲労は、神剣を手にしたその時から始まったように思う。物理的な意味で、重かった、という訳ではない。重かったどころではない。実際、彼の身長ほどもある大降りの剣だというのに、神剣ファルシオンは、あっけないくらいに軽かった。まるで、張りぼてである。発見当初、初めてその手に取ってみた時には、その見た目を裏切るあまりの軽量さに、一体、素材は何なのか、と探求心が湧いてきたほどだ。
しかし、そんな気持ちもあっという間に萎えてしまった。まるで、ファルシオンに吸い取られてしまったかのような気がした。
もう、何も考えたくなかった。
しかし、今では、この剣こそが彼をこの街に呼んだのだ、という事をガーネフは確信していた。
ファルシオンは持って帰らなくてはならない。彼の本拠地へ。
ドルーア帝国へ。
皇帝は完全に復活した訳ではない。彼は現在、とろとろとした微睡みと、ふと意識の浮上する半覚醒との間を漂っている。あの戦役以後は、全く眠りについたままだ。その後、皇帝の勅命として発せられた数々の命令も、実際、ガーネフが出したものである事を知る者もまた、誰もいない。
事実上の〈暗黒皇帝〉ガーネフには、そんなに長い事、国を留守にする余裕はなかった。眠りの呪法も、そんなに永く効くものではない。監視の目を緩める訳にはいかない。覚醒した皇帝が、破壊衝動に彩られた狂気と、考え深い本来の性質と、どちらを映しているのか、全く判らないのだから。
もう、この街にも用はない。
ガーネフはふらりと、先程まで座を占めていた机の前へと足を運んだ。そこには、彼の書き付けていた書面が乱雑に重ねられている。まだ書面にかけられた、余分な墨を吸い取らせるための砂さえも落ちきっていない。
現実から逃れようとした、彼の足掻きの残滓。
ガーネフは、書き付けを無造作に手に取ると、そのまま、暖炉へと放り込んだ。新たな火種を与えられた炎は、息を吹き返したかのように大きくなった。書面は、まるで悶え苦しんででもいるかのように、その身をくねらせる。
このようなものを残したとて、何の意味があるだろう。過去は取り戻せない。既に起こってしまった事は、取り消せない。
どうせ、己では知りようもないのだから。
何も知らなくても、構わない。
やがては炎の乱舞も収まり、また、静かな揺らめきへと還っていく。ただ、ほんの一握りほどだろうの灰のみを残して。
その一部始終を静かに見つめていたガーネフは、書き付けが完全に灰に還った事を確認して、踵を返しかけた。が、その足がふと止まる。視線は、部屋の奥に蟠る暗闇へと据えられた。
そこは、彼以外の生き物の波動は存在しない世界。
「…いるのか?」
それでも、その時、確かに『彼』を感じた。
「……そこにいるのか?ミロア…」
こんなにも小暗く恨み、こんなにも激しく憎んで。
なのに、何故、今、お前はそこに存在しない。
分かたれた彼の半身。たったひとつの彼の光。
既に、光は存在しない。
闇の中にただひとり、彼は佇み続ける。全てのオワリをもたらす者が現れ、彼をこの世界から救い上げる時まで。
死が、優しく彼をその腕に抱え込むまで。
「まさか、アレがファルシオンの結界を越えるとはねぇ」
感心したような声がした。それは、明らかにまだ年若い少年のものなのに、ひどく年老いたような、そんな響きがあった。
〈人にあらず 竜にあらず
人であり 竜である〉
その条件を満たす存在だけが、あの部屋に入れるように呪を施した。古代遺跡の大魔道師でさえ、満たせない条件。確実に入室できるのは、『彼』のみのはずだった。
「…人間のくせに、『堕天』しちまうくらいだもんなぁ。さすがはガトーの実験動物(モルモット)ってか」
さっきも、覗き見を見破られかけた。つい近づきすぎてしまったせいもあるが。
喉を震わすような嗤い。そこに悪意の色はない。しかし、善意もまた、存在しなかった。
折角、あの小さなアンリの末裔(すえ)のために用意した、面白い舞台だったのだが、仕方がない。
「アリティアの王子サマには、もうちょっと遠回りをしてもらうしかないか」
残念だけど。
そこまで思考を巡らせて、ふと気づく。
「あ、でもそれだと、王子サマに会えるのって、すごく遅くなっちゃうか」
うーん。どうしよう。
少し考えた。結論はすぐに出た。
「いいや。こっちから会いに行こう」
子供のような、満面の笑み。茜色の髪が、ふわりと宙を舞った。
『彼』は、軽やかに立ち上がる。
小さなアンリの末裔との約束を果たすために。
END・
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