終末の炎獄〜リンダ

あのひとしか いらない

背後から掛けられた声に、リンダは飛び上がるほど驚いた。
いや、実際には、そのような挙動を表した訳ではない。一瞬、息を呑んで、それが肩のぶれに繋がってしまったかもしれないが、それも自身の精神の不安定を示す事などなかったはずだ。
リンダは、何という事もなかったかのように、背後の声へと振り向いた。その声の主に対する緊張感など、露ほども感じさせぬ自然さで。
現在のリンダは、一挙手一投足を監視の視線に晒されている、といった状況である。
聖王国を護るために死んだ、大魔道士の一人娘にして、後継者。
周囲の期待がこの身に掛かっているのだという事も、知っている。そんな事は、いっかな構わなかったけれど。
「何か、御用ですか?」
たった一人。その視線を平静に捉えられない人がいる。リンダは、手にしていた魔道書を胸元に抱え直した。ほんの少し、持ち手に余分な力が加わった事を、目の前の魔道士は気づいてしまっただろうか。
「今、時間いいかな。少し、話がしたくてね」
彼は、リンダよりも2才ほど年長なのだそうだ。たったそれだけしか離れていないなんて、信じられない。そもそも、昔からリンダは年齢よりも幼く見られる事が多かったが、ここ数年間の放浪生活がもたらした栄養失調からきた成長不全で、より一層、小さな子供のように見える。そうでなければ、少年に化けて、周囲の目を欺く、などという事もできなかったろうから、それはそれでよし、とすべきなのだが、このような立場に陥った現在、彼のような存在の前に立つと、何だか気後れのようなものを感じてしまう。
リンダが魔道士となるための認証儀式で、導き手としての役を務める、と紹介されたのが初対面。成る程、魔道士というのは、こういうものか、と、その時、リンダは初めて実感したのだ。
父ミロアは、リンダの前では魔道士である前に父親であった。厳格ではあったが、それは目の前の青年とは醸す雰囲気が明らかに違う。彼女の導師となったカダインの老賢者も、また違う。カダインの老賢者は、ひどく暖かく柔らかな空気を纏った人で、リンダにも何くれとなく気を回してくれる。祖父という存在があったなら、こんな風だったかもしれない、と思うほどに。
しかし、彼の周囲は、常に張りつめた空気が漂っているかのようだった。まるで冬の夜気のように、冷たく澄んだ気に身が引き締まる。
「何か、難しいお話なのでしょうか…」
既に一級魔道士の資格を持ち、カダインに於いては『天才』と謳われたというアリティアの魔道士は、ひょいと肩を竦めて見せた。彼の持ち得る雰囲気ひとつで、そんな仕草さえもが形として美しく映るのだから、不思議なものだとリンダは思う。
「なんて事はないよ。すぐに終わる。ただ、他の耳には入れたくないだけでね」
そう言って、付いてくるように身振りで示した彼は、颯爽と廊下を歩み出す。魔道士の長衣の裾まで、誇らかな品位に溢れているかのようだ。
リンダは口の端を引き締めて、彼の後を追った。彼のように堂々と見えるように、精一杯胸を張って、つい突いて出そうになった小さな溜息を呑み込んで。
「君は、父上の個人授業を受けていたって言ってたね。大体、いつ頃から?」
「…まだ、小さな時から、です」
「それからは、ずっと?」
「はい」
それは、ある部分は真実で、殆どが嘘だった。父ミロアは、リンダが魔道士の修行をすることを喜ばなかった。教えてくれたのは、幼い頃の一時期だけ。それもごくごく基本的なことばかりで、それ以外は全て、自己流の独学で身につけたのだ。
冷徹な、魔道士としての観察眼は、一時も乱れることなく、リンダを見据える。
全てをさらけ出されてしまいそうな瞳。
リンダは、居心地悪げに身動ぎした。
しかし、それでも目は反らさない。…反らさない、という事に、全神経を集中しなくてはならなかったが。
それでも、何とかなるものだ。実際、前回の戦闘でも何とかなった。呪法の詠唱が少々まごついたものの、それも周囲には初陣の緊張故と捉えてもらえた。リンダにとって、詠唱は殆ど初めて、といってもいい状態だったのだが、父の遺してくれた魔道書に秘められた力は凄まじいもので、リンダの魔道士としての実力を疑う者などいないに違いない、と思えた。
現在、目の前にする魔道士以外には。
ふと、戦場で視線を感じて振り向くと、彼が見つめていた。今あるような、冷厳の瞳で。
その時、周囲の喧噪が消えた。目の前で倒れていく敵の屍も。既に常音となった、鋼鉄の軋みも。
まるで、彼と自分だけを残して、世界が静止したような気がした。
彼が、静かに息をつく。それでリンダは、我に返った。
ここは、戦場ではない。血の匂いはない。軋む鉄の上げる火花も。魔道の炎に焼き尽くされた者に特有の異臭も。
リンダも静かに、しかし深々と息を吐いた。時折、戦時と平時との状態の落差に、目眩のようなものを感じる事がある。あの戦場が、まるで夢だったかのような。
何も考えない、何も感じない人形になっていくかのような、あの感覚。
敵とはいえ、目の前の人間を傷つける、という事。自分に、相手を傷つけうる力がある、という事の恐ろしさ。
魔道の力は、人を傷つけるためにあるものではない、と、父は言っていた。
そんな事が脳裏を巡って、それでも半ば機械的に目の前の敵を屠る。
多分、何も考えたくなかったのだろう。今現在の自分、という存在を。
周りが彼女をどのように見て、どのように扱おうとしていたって、構わない。自分の目的のために、何だって利用する。どんな手だって、使う。
魔道士になりたかった。ならなくてはいけなかった。目的のためには。
「君は、魔道士になるには、まだ早すぎたみたいだね」
何の感情も挟まない声が、告げた。それでまた、リンダは我に返った。反射的に顔を上げる。
冷徹の瞳。全てを見透かした瞳。
「マルス様には、僕からお伝えするよ。君には、無理だ」
瞬間、何を言われたのか判らなかった。ただ、呆然と見返すリンダに対して、やはり、アリティアの魔道士の表情は、全く動かなかった。
「そもそも、魔道書っていうのは、世襲制じゃない。君には、判っているだろうけど」
元来、それは、魔道士が自分で選べるものですらない。真に力ある魔道書というものは、己が意志で主を選び、主の手に己を委ねる。そうでなければ、その魔道書本来の力は決して、発揮されない。
同盟軍の面々は特に疑問も持たなかったようだが、自身そのような魔道書を持つ彼にとっては、リンダの手にある魔道書が、本来の力の半分も出し切れていない、という事は一目瞭然だったのだろう。
「何だったら、それは僕が預かるよ。それで、父上の敵を滅する。そうすれば、君は戦場に行かなくてすむ」
その台詞はゆっくりと体内を経巡って、今ようやっと、リンダの脳に到達した。リンダは、話題にも現れた父の魔道書…輝耀の呪法を封じたそれ…を固く胸元に抱きしめた。決して渡さない、という心情そのままに。
「何で?何故ですか?!私が子供だから?それとも、女だから?!私だって、魔道士です。ちゃんと戦えるんです!」
「『子供』とか『女』とか、そんな事は関係ない。君が、魔道士としては未熟すぎるからだ。…まるで、初めて魔道書を持った人間みたいだよ、君は」
リンダの喉奥が、凍り付く。発せられるのを待っていた怒りの満ちた言葉の数々が、固く冷たく凝って、その胸奥へと落ち込んでいく。
「これから、ますます戦闘は厳しくなっていく。魔道書を持っているってだけの人間に、生き残る可能性なんかありゃしない。みすみす、死なせるために君を戦場にまで連れ出す気なんか、僕らにはないんだよ」
何と言葉を返せばよかったのだろう。シラを切り通す?何を言っているのか判らない、という顔をする?それとも、もっともっと怒るべき?
だけど、体の奥にどんどん、重い石が溜まっていって、もう何を言う事も、何をする事もできない。ただ、呆然と彼の顔を見返す以外には。
それが、彼の言葉の真実を如実に裏付ける、という事にようやっと気づいた時には、もう手遅れだった。元々、己に目の前の魔道士を欺き通せるはずなどない。一度気づかれたら、それで終わりなのだと、知っていたはずなのに。
「嫌です。…私は、どうしても一緒に行きたいんです。行かなくてはいけないんです」
本当は、こんな事言いたくなかった。自分が弱くなる気がする。だけど、誤魔化しも何も通用しないとなったら、結局、頭を下げて縋るしかないではないか。
何をしても、付いていこうと決めた。そのためなら、どんな事でもしようと思った。目的のためなら。
「お願いします。これから、うんと勉強します。だから…」
「どうやって勉強するって?…今までのように、一人で本でも読んで?」
しかし、返される言葉は、にべもない。呪法が人を選ぶのだ、というのは、確かに真実なのだろう。彼は、彼自身の持つ裂風呪法のように鋭くて、氷結呪法のように、冷ややかに硬い。まるで、氷の壁のようだった。
リンダの頬を大粒の涙が伝って落ちた。泣きたくなんか、なかったのに。こんな時に泣くなんて、卑怯だ。だけど、涙は後から後から湧いて出る。
唇を噛み締めて、それでも止まらない涙と歪んだ顔を見られたくなくて、俯いた。
涙は拭わない。そんな事をしたら、泣いている、と相手に認めるようなものだ。
だけど、何でこの涙は止まってくれないんだろう。しゃくり上げの声を噛み殺すのが、精一杯だった。
「魔道士なんて、そんなに急いでなるもんじゃない。この戦争が終わったら、勉強は幾らでもできるんだよ。君だったら、カダインもすぐに受け入れるだろう。独学でそこまでの技術を身につけたくらいならね」
リンダは、ただ首を横に振った。そんな慰め混じりの意見なんか、絶対に耳に入れたくなかった。
リンダには、ゆっくり魔道士になる余裕などなかった。今、ならなくてはいけなかった。魔道士ならば、魔道士になれば、この同盟軍にも付いていける。そうしなくては、リンダの望みは叶わないのだから。
リンダの望み。
〈あの人〉に会いたい。
ほんの少しの時間でいい。叶うならば、その後はどうなっても構わない。
もう一度、〈あの人〉に会いたい。
まるで、その為だけに生きているような気さえする。たったひとつのリンダの望み。
ただただ、頑強に首を横に降り続けて、ぽろぽろと涙を零し続けて、どれくらい経っただろう。
頭上から、重い溜息が降ってきた。
「…これから毎日、僕の部屋においで。父上の授業内容も、もうあまり覚えていないみたいだから、僕が補習をしよう。…どうやら、基本からやり直す必要がありそうだ」
その瞬間。彼が何を言っているのか、本当にリンダには判らなかった。…何だか、彼の前に出ると、まるで自分がものすごい愚か者にでもなったような気がする。
リンダは、父親から魔道の手ほどきを受けたことなどない。ごくごく初歩的な事以外には。彼は、ちゃんと見抜いているはずなのに。
「…どうして…」
まるで子供の譫言みたい。耳に入ってきた己の呟きに、リンダの意識の一部分が嘲笑して、叱咤する。そんな事じゃ、立派な魔道士だなんていえない。〈守護聖人〉の娘だなんて。父の名誉を汚してしまう。
「君は、ウェンデル教授(せんせい)の手で魔道士になった。という事は、僕にとっては兄弟弟子にあたる。後輩の世話は先輩の義務、というのが、魔法都市の不文律でね」
兄弟弟子。
何処かで聞いた言葉。
その言葉は、リンダの中をぐるりと回って、過去の記憶を断片的に甦らせる。雨。闇の具現。最後の父の微笑。あまりにも見事に美しい雷。実際、足はがくがくと震えたし、そのまま、へたり込んでしまいそうだった。
とりとめもない連想が、浮かんでは消える。
それが、ようやっと去っていった時、リンダの中にひとつの認識が生まれた。
彼は、リンダを認めてくれる、と、そういう事だろうか。
リンダのために、魔道士としての授業も行ってくれると。補習という名目だったけれど、リンダにとって、そして、リンダの魔道士としての実状を知る彼にとって、それは明らかな個人授業だった。
何と言えば、いいのだろう。
リンダの目に新たな、しかし、今度は先程までとは違う涙が溢れ出る。
「…ありがとうございます」
「何の事を言ってるのか、わからないな」
相変わらず、彼は無表情だったのだけれど。
リンダは、深々と頭を下げた。
「……ありがとうございます」
やっぱり、涙は止まらない。だけど、今度はそれでも構わないような気がした。冷徹なアリティアの魔道士は、リンダの涙も見ない振りをしてくれて、ただ業務的に、補習は今日、早々から始める事を告げて、リンダを残して立ち去った。
怖いばかりだった魔道士の青年が、今ではとても優しく親切な人にみえるのだから、現金なものだ、と我ながら思う。
甘やかしはしない、と彼は言った。物になりそうもなかったら、王子に奏上して、軍からは外してもらう、とも。それでこそ、だ。決して、置いていかれはしない。絶対に付いていく。這い蹲ってでも、前に進んでいくだろう。
魔道士になる。
リンダにとって、これからが本当の始まりだった。
昔、まだ父が聖王国の重鎮だった頃の事。夜でも出かけていかねばならない父は、リンダの広くて暗い、たったひとりの寝室に、必ず、小さな明かりを灯してくれた。ふわふわ浮かぶ、魔道の光。暖かな色をしたその光が、リンダの心も灯してくれた。
ずっと昔。ずっとずっと昔の、優しい魔道。
魔道士になりたい。そんな望みを抱いた、遠い日の記憶。
ずっと、魔道士になりたかった。父のように、暖かな光を灯せる人になりたかった。
敵の屍の向こう側に横たわる夢。血塗られた手では掴めるはずもない幻。
だけど、今はどうでもいい。そんな幻想など、感傷など必要ない。
今はただ、歩むだけ。顔を伏せて、息を詰めて、ただ走り抜けるだけ。
たったひとつの望みの成就。
もう一度、〈あの人〉に会うことができたら。
ただ、それだけしかいらない。
END・
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