止めど流るる〜アストリア


およそ この世で最も厄介な代物には違いない



すっきりと晴れ渡った青天が広がる朝だった。実際には、そろそろ午後に差し掛かろうか、という時間帯ではあったのだが、聖アカネイアの宮廷時間に照らせば、西日が陰り始めるまでは、朝である。従って、当の聖アカネイアで〈社交界の王子〉と謳われたジョルジュからすれば、現在は、立派な『朝』だった。
その上、既に起床してから、弓の稽古なども行って後、なのである。我ながら、随分と勤勉になったものだと思う。しかし、夕刻に起き出した後は、男も女も、何時間も掛けての化粧に血道を上げ、最大の関心事といったら、今宵の夜会にはどのような趣向を凝らした衣装を纏うべきか、の貴族生活では味わいようのない爽快さはある。
趣味の一環に過ぎなかった弓の腕も、飛躍的に上達した。今までも、貴族芸としては破格の腕前ではあったのだが、元々、素質があった、という事か。夜会で貴婦人達に熱い視線を注がれるよりも、アリティアの弓兵に、素直な尊敬の眼差しを向けられる方がずっと気持ちがいい。結果、せっせと鍛錬に励む。弓の腕は、上がる一方。一運動して、汗を流した体は軽やか。晴れ渡った空まですっきり。
つまり、ここのところのジョルジュは大層、機嫌が良かった。
この後は特に予定もない。日当たりのいい場所でのんびりと体を伸ばしたら、さぞかし気持ちがいいだろう、との心の奥底をつつく甘い誘惑に、さしたる抵抗もせず、ジョルジュはあっさり陥落すると、足取りも軽やかに、現在、駐軍している居留地の外近く、丘へと向かう進路を取る。遠く水平線が、一時も静まる事のない光をちらちらと弾き、揺れていた。
そもそも、アリティア・グラ地方といったら、「水と緑の王国」とも称される程に風光明媚な気風で知られる土地柄である。さらりとした風が渡る丘からの眺めは、また絶品なのだ。
風が暖かなうちは、緑の丘に身を横たえて、うとうととした時間を過ごすのは、最近、すっかり味を占めた、秘密の快楽である。いくら、朝の弓ひきが思ったよりも面白かったとはいえ、骨の髄からアカネイア貴族そのものであるジョルジュにとって、日がな一日、剣を握って汗にまみれるという、全く美的でない、まるで現在、親友が陥っているような生活は、到底、受け入れがたいところであったので。
特に今日は風も弱く、日差しも暖かい。既に約束された心地よい午後を脳裏に描き、より軽やかになっていたジョルジュの足が、ふと止まった。
つけてくる者がいる。
敵ではない。もし敵だったら、ジョルジュだって、自分が気づいた、という事を相手に教えるような挙動はとらない。追ってくるのが、今までずっと己を避け続けていた相手だったから、偶然、同方向に用事があるのだろう、とそう思っていたのだ。
しかし、彼女が急に態度を変えて、ジョルジュに近づく、その訳は何だろう。
基本的に、ジョルジュは己に近づこうとする男女の群れを上手く捌いて、生活してきた。恋愛遊戯、権勢欲、顕示欲。理由は幾らでも挙げられたが、彼女には、彼女にだけは、決して、それは当てはまらない。
ジョルジュは小さな溜息をつくと、後ろに向き直った。
元々、隠れる気もなかったらしい彼女は、そこに立っている。堂々と、胸を張って。本当は、貴方になんか声を掛けたくないのよ、という内心が如実に窺える様で。
「…アストリアが私に近づこうとしません」
ジョルジュが何か言うより前に、彼女は彼を真っ直ぐに見据えたまま、ゆっくりと口を開く。
それはそうだ。彼女が自分に近づく理由なんて、彼の親友の事以外にはないじゃないか。
しかし、彼女の方は、何となく、げんなりした気分に陥ったジョルジュの様子など歯牙に掛ける様子もない。
「貴方、何かしてるんじゃないでしょうね?」
彼女…〈聖騎士団の白百合〉と謳われた王宮の護衛官にして、彼の親友の許婚者であるミディア…は、胡散臭そうな表情を見せたまま、ただ、彼を睨み上げた。



ジョルジュは、いつもの丘に足を投げ出して座り、ぼんやりと空を眺めやった。しかし、いつもとは少々違うところもある。例えば、現在、隣で膝を抱えて俯く男の存在などがそうだ。
アストリアの様子が少々おかしい、というのは、実は指摘されるまでもなく、ジョルジュも気が付いてはいた。しかし、はっきり言って、あまり聞きたくなかった。つまり、当人から話を持ちかけられないのをいい事に、知らぬ振りを決め込んでいたのである。
例え、冷たいと言われようとも、構わない。ジョルジュには、己が相談事を持ちかけられる事に著しく向いていない、という自覚があった。実際、貴族社会を上手く泳いでいく技術に関しては自信があったが、彼のような男の真っ正直な感情論には、何をどう対処していいものやら、まったくもって、判らない。そして、『判らない』という事それ自体を、何よりも彼には知られたくない。…彼の前では、常に余裕たっぷりの様子を見せ続けてきていたので。
しかし、こんなところでいつまでも、男二人、肩を並べて惚けていても仕方がない。ともかく、話を引き出さない事には、と、ジョルジュがようやっと腹を括った時だった。
「そう言えばさ。こないだ、ミロア殿のご息女が、魔道士になられただろ?」
「ああ。父君から門外不出の魔道書を譲り受けた、という話だな」
隣に座ったアストリアの方から、口を開いてくれた。取り敢えずの場繋ぎ、といった様子の世間話の類ではあったが、どうやら、彼の方でも、些か間抜けな現状を打破したかったものらしい。
周囲の話に疎いアストリアでも知っている程の、大きな話題である。
魔道士ミロアは、一時期、聖王国宮廷に於いて、あれほどの重鎮であったにも係わらず、血族によりよい地位を、と狂奔しなかった、希有な、もっと言うなら、非常な変わり者であった。少女は、王女の遊び相手として、ほんの時たま、当の王女の強い要望によって、パレスに召還されるのみで、社交界に顔を見せた事など、一度もなかった。ミロアの娘の存在など、知らない者の方が多かったくらいだ。
ジョルジュ自身は、王女お気に入りだった少女の事を知っていた。何度か、顔を合わせた事もある。しかし、他の者にとっては、かの少女の登場は些か唐突であり、そして何よりもとてつもなく劇的であったろう事は、容易に想像がつく。特に、聖アカネイアの人間にとっては。
些か皮肉なことに、魔道士ミロアは、聖王国を護る為に死んだという、その事実によって、聖アカネイアの守護聖人に祭り上げられてしまっていたのだ。
聖教団が、ミロアの死を殉教と認め、彼を〈守護聖人〉として認定した、とミロア当人が聞いたら、どんな顔をしただろう。大笑したか、怒りに震えたか。
生きている間は、紛う方なき教会の敵として、中央政界を辞した後も監視の目を緩められる事はなかったという事実は、既に綺麗さっぱり忘れ去られたらしい。ジョルジュ個人としては、現金なものだと呆れてしまうが、しかし、政治的にはそれは正しい。厚顔になればなるだけ、聖教団の印象がよくなる、という訳だ。欺瞞的な話ではあったが、しかし、そんなミロアと聖教団との軋轢など全く知らない、聖王国の民衆は湧いた。
一躍、表舞台に躍り出た、守護聖人(ミロア)の娘。父の仇を討つ為に、失われたと思われていた伝説の魔道書を携えて。
更に民衆にとっては、聖王国の名を冠した魔道士の誕生は、王国を護る新たな、そして確かな力である。少女は、今回の戦いに於ける聖王国の旗印となった。
ジョルジュは、隣のアストリアの様子を横目に窺う。少女の陥っている現在の状況が、正義漢な彼には面白くないだろう事は確実だったので。想像通り、アストリアは憮然とした様子で口を引き結んでいる。
「…まだ、あんなに小さいのに…」
「それは、彼女に対して失礼だろう」
このアストリアの小さな呟きを聞き逃すことは、しかし、なかった。
「年齢や体の大きさでは、人物の成熟度は測れない。彼女は、自分で『魔道士になる』と言ったんだし、そうやって自身の道を決めた以上、立派な成人だ。少なくとも、そのように扱うべきじゃないか?」
言ってしまってから、ジョルジュは深く後悔した。我ながら、冷静かつ理性的な答えだった。政治的、といってもいい。つまり、彼の親友のような人間に対しては、不適切な回答だ。
アストリアも初め、むっとしたような顔で口を開き掛け、それでもジョルジュの言葉を反復して、その意味を捉え直したのか、神妙な様子で体をもぞもぞとさせて、膝を抱え直した。
開いたままだった口から洩れるのは、大きな溜息のみだ。
「……そうだよな。俺の考え方が甘いだけだ。すまん。忘れてくれ」
背を丸めて打ち萎れる男の姿というのは、見ていて哀れを催す。特にそれが、彼のように大きな背中を持つ、筋肉質な男である場合。
「…気にするな。そういうところも、お前のお前らしい部分なんだから」
だからだろうか。いつも、何となく慰めてしまうのは。しかし、ジョルジュはこの親友の、こういった無骨さ加減が気に入ってもいたのだ。実際、横にいるアストリアのこういった部分…やたらと感傷的で、相手の労苦を自身の苦しみとしてしまうような馬鹿さ加減…がなかったら、皮一枚のみが華やかで、実など何もない貴族社会で、彼自身の心など、とうの昔に冷え切って、今頃はもう何も感じなくなっていたかもしれないとすら思う。
しかし、そんな事は口には出さない。まるで愛の告白のように響いてしまいそうなその内容は、想像するだに背筋も凍る。
「実際、女っていうのは、いざとなれば男よりもずっと逞しいものさ。お前も、判ってるんじゃないのか?」
努めて声を明るく励まして、意味ありげな視線をくれてやると、アストリアの肩がますます落ちた。これは、彼の許婚者であるミディアの事を揶揄している、と彼も気が付いたはずなのだが。
爽やかな風が丘を渡り、彼等の頬を優しく撫でる。
数瞬の沈黙。
「離れてる間に、他に好きな女ができたか?」
ジョルジュの言に反応して、アストリアはすぐに顔を上げた。愕然としたような顔を見るまでもなく、それはないだろう、と半ば信じてはいたのだが。
彼の親友は、それ程器用な男ではない。有り体に言って、極めて、不器用だ。許婚者以外の女に目を向けるような真似は、絶対にできないのである。
「そんなはずないだろう!」
「ちょっと、言ってみただけだ。…悪い」
返答が少し遅れてきたのは、あまりにも思いも寄らない事を言われて、頭がすぐに働かなかったからだ。何の疑問もなく頷いて、ジョルジュは両の手を後ろ手に突いた。
空は、あまりにも高く、青い。
再び、沈黙。今度は、先程のものよりも、少し長かった。その沈黙を破ったのは、深く重い溜息。
「ミディア、変わったよな…」
自身のついた溜息に背を押されるようにして口を開いた彼の告白は、しかし、ジョルジュには当を得ていないように思う。
「そんな事ないだろ?」
相変わらず、お前一筋だしさ、とは、口には出さないジョルジュの呟き。
「いや。変わったよ。……すごく、女らしくなった」
「…………そうかぁ??」
思い切り懐疑的なジョルジュに対して、アストリアは『一体、どこに目を付けてるんだ』と言わんばかりの視線を返す。
しかし、地を蹴立てて馬を駆り、縦横無尽に槍を繰り出す騎士を見て、『女らしい』などとは、ジョルジュにはとても言えない。実戦経験皆無の〈典礼騎士団〉とも評された聖騎士団をして、あっという間に戦場慣れしてしまったあたり、女は強いな、とは思ったが。
見つめ返すジョルジュに、やがて、アストリアは目を反らし、もじもじと体を動かして、いきなりがしがしと己の頭をかき乱したかと思うと、再び、俯きがちに膝を抱えて、胸の内にある空気を全て吐ききるような息をつきながら、立てた膝に顔を伏せた。
「…俺、最近、変なんだ」
まぁ、それは見ればわかるけど、とは、あえて口にしないでおいてやる。
「ミディアと一緒にいるのは、楽しい。だけど、ふたりっきりになると、胸の辺りが苦しくなる」
今、何だか、とんでもなく変わったことを聞いたような気がする。思わず、彼の顔を見直してしまったジョルジュだったが、とんでもなく真剣な表情にぶつかって、己の耳がおかしかった訳ではないらしい、と思い直す。
もしかして。もしかして、とは思うが。
「…見つめられると、呼吸困難に陥って、側に寄られると、頭が沸騰しそうになるのか?」
「そう!そうだよ。なんだ、お前には判るんだな、ジョルジュ」
アストリアは、勢い込んで顔を上げる。身まで乗り出し気味である。
ジョルジュは、めまいを覚えた。
「改めて訊くが、今まで、そんな事はなかったんだな?」
「全然、なかった」
「…お前、ミディア嬢の事、好きだったんじゃないの?」
「今だって好きだぞ。変なこと言うなよ」
「………そうか」
つまり、今までは子供の言うような『好き』だった訳か。
何やら、頭痛までしてきたような気がする。こめかみを強く押さえて揉みほぐすジョルジュに対し、ひどく真剣かつ難しい顔をした男は、何か重大な、訊くのが怖いような真実を問う人の囁きで、こう言った。
「で。……やっぱりこれって、何かの病気なのか…?」
「……まぁ。ビョーキと言えない事もない」
確かに、古来より〈医者にも直せぬ〉といわれる類の病気である。
しかし、ジョルジュの言を真っ直ぐに受け取ったらしい男は眉根を寄せ、「ミディアに移しでもしたら」と、あくまでも大真面目だ。どこまで本気なんだか、ジョルジュには判らない。
いや。多分、全て本気なんだろう。そういうヤツだ。この朴念仁は。
「…いっそのこと、移った方が幸せなんじゃないか?」
勘弁してくれよ、もう。
こんなところ…幼児のようにあけっぴろげなところ…も、気に入っている、と言いたいが、あんまり言いたくない気分ではある。
彼の親友はそれでも、日々、成長を遂げているらしい。許婚者であるところのミディアには、何やら深く同情してしまうが。
ゆったりと雲が流れていく。見上げた空は、目に染み入るような青。グラの風は、爽やかに軽く、彼等をなぶって通り過ぎていく。
こんな日は、からかわれていると思ったらしい親友の不平不満の口など、ほんの小さな事に過ぎないような気がしてくる。
世界は、ひたすらに平和だった。



END







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