沈黙の声〜カチュア


満月の夜
薔薇の下
出会いと別れ
空白の夜



「アリティアの王子様」
背後から声を掛けると、彼はすぐに振り向いた。
「…ええと、君はカチュア、だったね。ミネルバ王女の側近の、三姉妹の?」
その言に、カチュアは軽い驚きを感じた。王族とは、下々の者の名前など、そうそう覚えるものではない。しかし、マリア姫奪還を依頼した折の己の行動を思い返して、すぐに納得する。
あの時、カチュアは窓に入っていた稀少な硝子を叩き割って、作戦会議中と思しき部屋へと侵入したのだった。これ以上ない程に印象的だったろう事は、想像に難くない。しかし、わざわざ『三姉妹の』との注釈つきとは。
「〈三魔女〉とでも、お聞き及びですか?」
意地悪く微笑んで見せる。しかし、カチュアの意に反して、王子は少しの躊躇もなく、頷いた。
「うん。それも聞いた」
そして、まっすぐに彼女を見つめる。薄く煙る青灰色。夜明け前の空の色だ。オキュペテと駆ける彼女の世界を支配する色。無限に広がる、その一色。
王子が、困ったような顔で軽く微笑んだ。それでカチュアは、王子を凝視したまま、言葉をなくしている自分に気が付いた。このさり気ない促しに、大急ぎで己の表情を取り繕う。決して、見とれていた訳ではない。ただ、驚いただけだ。王子の瞳が、予想外に綺麗だったから。
「私は本来、このような事を申し上げられるような立場ではありませんし、そもそも御前に出られるような身分でもありません。それでも、あえて言わせていただきます」
努めて、事務的に続ける。初めから、怒りに任せて声を荒げたりしないようにと己を律すると決めていた。何と言っても相手はアリティアの王子様だし、己の不作法は主である王女の恥になると心得ていた。だというのに、現状では、彼に対する先程までの怒りを再度燃え立たせるためにそうしている。
こんな自分は自分ではない。赤竜将軍の側近をつとめた〈三魔女〉ともあろうものが。なんて無様な。
怒りは戻ってきた。目の前の存在に対する怒り。それは、己の不甲斐なさを露呈させた事に対する怒りであって、本来、己自身に向かうべきものであったが、構いはしない。戦場では、いつもやっている事だ。敵に対する怒りを駆り立て、殺すことも躊躇わないほどに憎むために。
「私は、王子の計画とやらに納得できません。あなたご自身は、ほんの少しの手も汚さぬまま、ミネルバ様には泥をかぶれとおっしゃるのですか」
王女は何も言わなかった。しかし、長姉が教えてくれた。アリティアの王子からミネルバへの、拒否などできない申し出について。
当事者である王女とその場に同席していた長姉の二人は、もう怒ってなどいなかった。ただ、事実を事実として報告したのみであったのだが、騎士としての誇りと少女らしい潔癖さが入り交じったカチュアの性状は、それを許し難いものとして捉えていた。
彼女の主君を脅しつけ、理不尽な行動を強要する王子は、幾度かゆっくりと頷いた。まるで他人事のように、淡々とした様子だった。
「うん。ひどいよね」
「あなたは!」
かっと頭に血が上り、目の前が真っ赤になった。バカにするにも、程がある!
感情の赴くままに翳した手を、カチュアは思い切り振り下ろしていた。
掌に、鈍い衝撃が走る。痺れたようなそれは、きっと後から腫れてくるだろう。そんな事を考えるカチュアの目には、王子がその白い頬に手を当てて、きょとんとしている様が映っている。王子は、純粋に驚いた様子であったが、この掌の具合からして、痛くなかったはずはない。
そこでようやっと、気がついた。自分が、アリティアの王子に平手打ちを食らわせたのだという事に。
王子のびっくり眼は、やはりまっすぐにカチュアを見つめている。痺れた手。掌に隠れたその頬が、血のような赤に染まり始める。そのただならぬ雰囲気に気づいたのか、廊下の向こうを誰かが走ってくる気配。
「…っ私は、あなたなんて、大嫌いです!」
カチュアは言い捨てて、王子に背を向け、逃げるように駆け出した。
いや、文字通り、逃げ出したのである。



「マルス様、大丈夫ですか?」
すれ違いざま、走り抜けていった少女を目で追ったアベルは、すぐに目の前で呆然としてる主君に注意を戻した。
「うん。びっくりしただけ。…本当に、びっくりした」
殴られるなんて、初めての経験だったのだろう。まだ、驚きが先に立っているらしい。しかし、もうその頬は赤く腫れ上がり始めている。後から、さぞかし痛む事だろう。
短かな息と共に、アベルは吐き出すように言う。
「ミネルバ王女に、伝えておきましょう。それとも、ご自分で処分なさいますか?」
「何を?」
「彼女ですよ。あのままにしておく訳にはいかないでしょう」
「何で?」
「『何で?』って…。もしかして、捨て置くおつもりですか」
「うん」
頷くなり、表情を消したアベルに、マルスは慌てて付け加えた。
「だって、彼女は僕に話をしに来ただけで、本当はあんな事するつもりはなかったんだよ。…いけない?」
その上目遣いは止めてほしい。まるで、子供を叱りつけているような気分になるから。
「いけませんよ、当然でしょう。仮にも、一軍の将に対して部下が手を上げて」
「だからだよ。批判してくれる人の存在は、今の僕には貴重だよ。彼女が怒るのも、当然だったしね」
結局のところ、アベルは、彼女と王子がどのような会話を交えて、あのような状況に発展したのかを知らない。しかし、王子は『自分が悪かった』と言っているのも同然だったし、おそらくそれは、その通りなのだろう。
王子は既に、自分をアリティアの王太子として見なしていないし、そのように見られたくもない事は分かっている。同盟軍としての枠組みの中で、自分は〈アリティア〉でも〈王太子〉でもなく、ただのマルス、同盟軍の指揮官であり、旗印ではあっても、ただのマルスなのだと。
実際、彼が〈アリティアの王太子〉になってみせる機会は、今では稀だ。…つい先程の酒宴で、ミネルバ王女に要求を突きつけたのが、久しぶりの〈アリティアの王太子〉だった。
「それでも」
しかし、それでも、だ。
これは、彼がアリティアの王太子だからではない。彼が同盟軍の指揮官であり、彼女の上官だからの措置である。
軍には、規律というものが必要なのだ。
アベルは、即座に答えを返す。一瞬の躊躇いは決して、顔には出なかった、…はずだ。
「それでも、けじめというものは必要です。何らかの処分を下さない訳にはいきません。それが、統率者の務めです」
マルスはしばらく、不服そうにアベルを見上げていたが、やがて、不承不承に頷いた。
「…しょうがないね。何か考えておくよ。だから、それまでは誰にも何も言わない事」
「カインとマリク殿に?」
「誰にも。カインとマリクには、特に」
アベルにとって、今日の夜はそれ自体、なかったものとしなくてはならないらしい。親友(カイン)もさる事ながら、アベルは大方の同盟軍戦士達と同じように、決して、魔道士(マリク)の不興を買いたくなかった。
「仰せのままに。我が君」
溜息混じりのその言葉に、マルスは満足そうに頷く。
「信用しているよ、アベル」
当然それは、アベルにとって、嬉しくとも何ともなかった。



「カチュア?どうかしたの?」
常の優しい声が、多少、心配げな響きをたたえて問い掛ける。駆け込むようにして帰ってきた妹に、不審の念があっても、それは当然だったろう。それが分かるから、殊更にカチュアは明るく返した。
「ううん。何でもないの」
部屋に設えた水差しを掴んで、同室の姉を避けるようにして、バルコニーへ出た。
外の風は、穏やかに甘い。風だけではない。大地も海も、空も、穏やかで優しい。グラは内海に浮かぶ島国だ。グルニアのような厳しい自然も、マケドニアのような苛烈な環境もない。
神に特別に愛されたかのような、柔らかな世界。
波の音は響いてこない。しかし、ここまで潮の匂いが届くような気がした。
明るくなれば、対岸に、隣国アリティアの陸影が見えるだろう。かの国は、ここグラよりももっと美しい国だという。
カチュアは、痺れた己の右手に水差しの水をぶちまけた。滴る水は、バルコニーの床を濡らす。風は端から、掌の水を乾かしていったが、赤い腫れが少し退いたような気がする。きっと明日には、元通り。その掌は、何事もなかったかのような表情を取り戻すだろう。
明日になれば。夜が明ければ。
夜明け前の空の色。薄く煙る青灰色。無限に広がる、その一色。
カチュアは頭を振って、その連想を払った。しかし、自分が同盟軍の盟主であるアリティアの王太子を殴ったという事実は消えはしない。
私は絶対、悪くない。
そう胸の内で呟いても、心は晴れない。それは、軍に属する者としての自覚が足りない自分に対しての嫌悪感だ。決して、アリティアの王子を殴った事それ自体に対する罪悪感などではあり得ない。純粋に驚きのみを映していた瞳の美しさなど、幻想だ。
カチュアは、小さく溜息をついた。
明日になったら取り敢えず、謝罪にいくしかないだろう。許される事はないだろうが、王女と姉にまで累が及ぶ事だけは避けなければならない。最悪、その血で贖うという事になるだろうが、それも仕方がない。いっそ、潔さだけは失いたくない。


戦闘で死ねない、というのも、情けないけどね。


今日が、最後の夜かもしれない。そんな思いでカチュアは、遠く海が見えるはずの場所、今はただ、闇に沈んだ、何もない場所を見つめていた。背後の姉に、言葉を返す気にもなれなかった。

その夜が明ければ。明日になれば。

アリティアの陸影が見える。



END


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