沈黙の声〜マルス


誰も笑わない
誰も歌わない
終末の日に
罪人のためには



「ご足労掛けて、すみません。女性をお招きするには、失礼に当たる時間であるのは分かっていたのですが」
そう言って、アリティアの王子様は、はにかむようにして笑った。彼のそんな表情は、驚くほどにたおやかで柔らかい。まるで、全く無害で優しい、無力な草食動物。そんな印象による評価が、彼には全く不適切である事は、ミネルバにはよく分かっていたのだが。
その招待を受け、まるで決闘の場に赴くかのごとき思いで扉を開いたミネルバは、目の前に広がったその光景に驚き呆れたものだった。
既に深夜といってもいい時刻である。同盟軍の盟主である者が、現在、自軍の将となっているとはいえ、敵国マケドニアの一の姫であり、将軍位にあった者を呼び出す。その秘密めいた言づてが、遂に来た、というおののき混じりながらも確かな興奮をミネルバに与えたのは、つい先程の話だ。
それこそ間を置かず、指定の場所である部屋へと足を運んだミネルバの前に並べられたのは、淡く色づいた果実酒。少量の、それでも一通りの食材は揃えられた、軽い料理の盛られた皿。
「生憎と、マケドニアの蒸留酒は手に入りませんでした。それでも、こちらの果実酒もなかなかのものですよ。アカネイア産のものは、風味もふくよかですし」
王子は、申し訳なさそうに言う。どうやら、ミネルバの無言を全く別の意味に捉えたらしい。
「…マルス王子。今宵の呼び出しの理由は、もしやこれか?!」
「ええ。お約束から、随分と経ってしまいましたが、ようやく時間が取れるようになったもので」
約束、というのは、もしかして、マリアと共に出席した聖王女主催の茶会での話だろうか。今度は共に酒を、と言った?
そう言われてみれば、時間が取れるようになったら誘ってほしい、というような事を、言ったような気がする。そして、王子が「是非にも」と答えていたような気もする。
ミネルバは王子を、無言のまま見下ろす。…女性にしては背の高いミネルバは、同盟軍の盟主よりも少しばかり、目線の位置が高かった。大抵の男は、ミネルバに至近で見下ろされる事を嫌う。気圧されるからだ、という事が判ってからは殊更に、彼女はそれを武器として、意識的に利用してきたのであるが、しかし、目の前の王子には、あまり効果がないらしい。常と変わらぬ優雅な所作と微笑みとで、ミネルバを宴席へと差し招く。
諦めたように息を吐いて、ミネルバは勧められた席についた。



王子との酒席は、予想外に楽しかった。茶会の時のように優雅ではあったが、茶会の時ほど、堅苦しくはなく、なにより彼は、口で言うほど、ミネルバを女性として扱いはしなかった。ただ、ミネルバという存在を尊重している。
王子は、あまり雄弁な質ではなかったが、聞くべき時は静かに、そして興味深そうに聞いていたし、その返答として述べられた言葉は、彼女との視点の角度の違いや知識の深さ、はたまた性格さえも窺わせて、大層面白かった。
普段ならば、惰弱だとして嫌うだろう滑らかな声質さえも、耳に心地よいと思うのだから、どうやら随分と、この綺麗な王子様を気に入ってしまったらしい。
話題は多岐に渡った。自分でも驚くくらい、様々なことを話した。
王子は平和な時代のアリティアのこと、姉姫のことを話し、ミネルバもマケドニアのこと、兄妹のことを話した。配下にいる三姉妹のことを、己の背後に控える三姉妹の長女を意識しつつ語ると、王子は宮廷騎士団のことと幼友達の魔道士について、話した。王子は彼の背後、ミネルバに向かって立つ暗灰色の髪の騎士については、全く意識していないようだったが、ミネルバは彼にちらりと視線を送った。
王子の護衛であろう彼は、先程から、給仕の役も兼任していたが、今回のアリティア王子とマケドニア王女の酒盛りをどのように捉えているものか、その表情からは全く窺えない。ミネルバの視線に気づいたのか、騎士は静かに卓に近づくと、彼女の杯に果実酒をつぎ足した。
全く、判らない。それとも、考えている事が判らない、というのは、アリティア人の特質なのか?
ミネルバは一息に、杯を乾す。王子との会話は楽しかったが、そこはそれだ。手段に夢中になって、当初の目的を忘れ去る程、愚かなことはない。
「もういい」
何の脈絡もなく放たれた無感情な言葉に、王子は顔を上げた。素直に疑問を現した目で、ミネルバを見上げる。芯から、意味が分からないらしい。
「前置きはもう十分だろう、王子。王子は、私に何か話があったのではないのか?まさか、本当に共に酒を飲むためにのみ呼んだ訳では、ないだろう」
虚をつかれたように、王子は目を瞬いた。
「マケドニアの内情について知りたいのならば、直接そう言えばいい。私は既に、同盟軍の軍門に下った身だ。今更、隠し立てなどしない。会話の端から、盗もうとなどする必要はない」
そこで王子は、本当に困った風な顔をした。まるで、尾を垂れた子犬のようだ。
「ミネルバ殿の事を信用していない訳ではありません。私も、知りたい事があるなら、ちゃんと訊くつもりです。今回は、本当に交遊を深めたいと思っただけなんです」
「何のために」
驚いたように目を見開いて、王子はミネルバを見上げる。
子供のようなその表情に騙されたりはしない。アリティアの王子は、そんなに無邪気なばかりの人間ではない。彼の本質は、もっと深いところに巧妙に隠されているという事をミネルバは確信していた。
彼女の凝視に、王子は諦めの息をつきながら、首を振った。
「……ミネルバ殿に、お願いがあったんです」
「ならば、言えばよろしかろう」
「ミネルバ殿にとっては、あまり歓迎できない事でしょうけれども、それはとても大切な事だし、是非、理解していただきたいと」
「前置きはいいと言っただろう」
うんざりとした怒りが滲んだミネルバの言に、王子は神妙な表情で居住まいを正した。同盟軍の宗主相手に、随分な言いぐさではあったが、この王子、普段はあまりにもおっとりしているので、つい口のきき方が乱暴になってしまう。しかし、そこで王子はゆったりとした仕草でミネルバを仰ぎ見た。
それは、全く先程までの子供のようではなかった。冷徹さに威厳さえも漂うそれは、まるで王者のものだった。
「マケドニア王女にして、第一王位継承権者、そして赤竜将軍であるミネルバ殿にお願いする」
王子の声は、朗々と響く。次の瞬間、ミネルバを驚愕と怒りに立ち上がらせる言葉を紡いで。
「マケドニア女王として、即位していただきたい」



ゴブレットが、床に転がって派手な音を立てた。
硝子で作られたものではなかったために、割れはしなかったが、高い金属音も耳障りなそれで、ミネルバは我に返った。ミネルバには、随分と時間が流れたように思われたが、実際には、ほんの数秒、せいぜい十数秒ほどの事だったろう。一瞬にして沸騰した頭の血は、あくまでも平静な王子の顔を見ているうちに、激情家の彼女としては信じ難い程の早さで引いていった。
杯に何も入っていなかったため、幸いにも床に染みはできていない。騎士は、素早くゴブレットを拾い上げると、どこからか持ち出した新しいものと取り替え、再びそれをミネルバの前に置いた。そして、新たに果実酒を満たす。
静かに椅子に腰掛けた。自分でも驚くほど、平静に動くことができた。そっと息を吐いて、目の前に視線を流すと、相変わらず王子はミネルバを見つめている。
待っている。ミネルバの返事を。
「マルス王子。私は、己がそれほど愚かな訳ではないと自負している。私の行動が対外的にどのように呼ばれるものであるのか、理解しているつもりだ」
祖国に他国の軍勢を引き入れる。そのような行為を行った者は古今東西、『売国奴』としかいわない。
「しかし、私にも自尊心というものがある。例え『国を売った者』となったとしても、『簒奪者』となるつもりなど、全くない。…あれは、兄の国だ。王太子が正しく国を継いだものに対して、私が王位請求などできるはずがないだろう」
そこでミネルバは、王子を見下すように傲然と、足を組んで見せた。しかし、対する王子の応対も、常と変わらず至極穏やかなものだった。
「ミネルバ殿はそれでもいいでしょう。しかし、マリア姫はどうなるのです。兄君により僧侶とさせられ、今また、姉君より、売国の徒としての肩書を与えられたマリア姫は」
それは、ミネルバにとっての唯一の泣き所といってよかった。ミネルバは、王子を睨み据える。王子がひるむ事などないと判っていたが、彼に妹姫の事を言われると、まるで彼女が人質にでも囚われているような気さえするのだ。
しかしそれは、確かにその通りであったかもしれない。マリアが王子を好いている事は一目瞭然で、彼女は却って、王子に囚われたいとすら思っているだろう。そして、このまま後2、3年もすれば、王子を捕らえたいと願うようになるのだろう。王子の心を。
恋をするのに、早すぎる年などありはしない。過去、ミネルバにそう進言したのは、三姉妹の末妹だったか。
今が平和な時代で、ミネルバが、ではなく、マリアがアリティアの王妃候補であったなら、何の問題もなかったのだ。
本当につくづくそう思うが、それはもう考えても詮無きことだ。ミネルバは目を閉じ、ぐったりと椅子に凭れかかった。その間も、王子の声は続いている。
「姫のために。何よりも、マケドニアという国は、現在、若い王に依存しすぎている。このままでは、あの国は王と運命を共にするしかない」
『若い王に依存しすぎている』
ミネルバは、嘲弄の形にその唇を歪めた。確かに、その通りだった。が、しかし、より若い王子を盟主と仰ぐ同盟軍は一体、なんだというのだ。果たして、マケドニアを云々言える権利があるものか。その問いに、王子は顔色一つ変えなかった。
「同盟軍は、僕に依存している訳ではありません。僕は旗印、皆が集まるための口実です」
「謙遜も過ぎれば、嫌味だな」
「本心ですよ。聖王女殿下のもと、たくさんの人が集まっている。例えば、今僕が命を落としたとしても、ハーディン公が盟主の座を引き継げば、何の問題もない。同盟軍が瓦解する事は、ないでしょう。だけど、マケドニアは違う」
王の崩御が、国の死に直結する。
マケドニアは、滅びるだろう。または、細々と命を繋いで、いずれかの国に依託統治される事になるか。後者の方がより、誇り高き国民にとっては、耐え難いものとなるだろう事は、想像するまでもなかった。
ただ、『同盟軍は瓦解しない』というのは、甚だ怪しいものであると思う。少なくとも、王子を失ったら、アリティアの騎士達がそれ以上戦う事はないだろうし、後を追って殉死でもしかねない輩は、かなりの数に上るとミネルバは踏んでいた。
ミネルバの皮肉な心情に気づく様子もなく、王子は、更に続ける。
「しかし、新たな女王がいれば。そして、女王が『正義は我にあり』と国民に説くのならば、話は別です。兄王の暴虐によって、運命を左右させられた悲劇の王女として、マリア姫の立場は守られる」
確かに、その通りである。しかし。
ミネルバは、王子を透かし見る。彼は、全く別世界の事でも語るかのように、理路整然と言の葉を紡ぐ。対外的に流れるだろう感情論を説きながら、彼が最も、その感情に流されない。
この王子の中には、マリアに対する同情の念などない。彼の行動は、もっと大きなもののためにのみ、費やされる。
「そして、同盟軍は難敵であるマケドニアに、大打撃を与える事ができる訳だ。国内の結束に、楔を打ち込む事によって」
「その通りです」
それでこそ、だった。
「マルス王子。貴公の言う事は、正しい。少なくとも、同盟軍が取るべき行動としては。だがな、それで私の敬意を得られると思うか?」
敵意と反感とはよく見えるように、そして、ほんの少しの賛嘆の念は決して出さないように、たっぷりとした微笑にくるんで、ミネルバは王子の返答を待つ。それは、ほんの少しの間でよかった。王子は、何のてらいも持たないようだった。
「思いません。己がどれ程恥知らずなお願いをしているか、よく判っているつもりです」
「なるほど」
そこで、彼女のような妙齢の、それも美女の行動としては、いささか不似合いな様子で、ミネルバは大きく鼻を鳴らした。
「なるほどな」
「更に言うなら、アリティアには、マケドニアに対する野心はありません。そんなゆとりもありませんからね、今のところは。だから、この手の王位継承は速やかに行うべきだと思います。諸外国に付け入る隙を与える無政府期間は、相手が手を出しようもない時期に終わらせてしまうのが賢明です」
王子は、さらりと脅しをかける。いや、この王子の事だから、もしかしたら彼の意識としてはただ、当然の事実として挙げただけのつもりなのかも知れないが、それは、ミネルバにとっては、明らかな恫喝である。
ミネルバは、軽く両手を挙げる。
完敗だった。
「よく判った。マルス王子。同盟軍の盟主としての貴公の命に従おう」
「ご協力を感謝します。ミネルバ女王」
そこで、ミネルバは再び鼻を鳴らした。それは前のものより、更に大きかった。



「なるほど。確かにこれでは、カインもマリク殿も不都合だった訳ですね」
アベルが、汚れ物を卓から片づけながら訊ねるともなしに言うと、マルスはむっすりとした表情を作って、彼を睨み上げた。
「…それって、嫌味?」
「とんでもありません、我が君。私アベルは、いつでもアリティア王家の忠実なる騎士でありますゆえ」
その口調にからかいの響きはなかった。アベルがマルスを「からかう」などという事はあるはずがなかったし、小さく指先で宣誓の印を切りながらのそれが、嘘であるという事もあり得なかったが、それでもマルスには、アベルなりの軽口とその中に含まれた気遣いとが正確に読み取れたらしい。小さく肩を落として、呟いた。
「………ごめんね」
「何の事をおっしゃっているのか分かりませんが、王子」
勿論、判っていた。王子にとって、カインとマリクがある種特別な存在である事は。従って、彼らには決して、見せたくない部分が王子にはあり、それはアベルが補助するという図式が成り立ってしまっている事も。
アベルは、空になっていたマルスの杯に、果実酒をなみなみと注ぎ足した。
「極上のアカネイア産ですよ。まだ残ってます。一本、開けてしまいましたから」
「こないだ、聖王女殿下から下賜されたものだったんだよね。貴腐葡萄の味が女性好みかな、と思ったんだけど、ミネルバ殿には気に入られなかったみたいだね」
溜息混じりに、ちびちびと杯の果実酒を舐めている。その面にも全く内心は現れてはいなかったが、アベルはマルスの性格を少し、飲み込み掛けていた。まさか。まさかとは思うが。
「今回の酒宴は、本当に、ミネルバ王女と杯を交わしたかっただけだったんですか?もしかして」
マルスが、上目遣いにアベルを見上げる。ただ、それだけで充分だった。アベルは、溜息をかみ殺す。
マルスは時々、とんでもなく子供のような行動を取る。彼の一面しか知らない人間にとっては、まるで別人格のように映るであろう程に。政治家、指揮官、統治者としての王子の顔を鮮明に記憶しているミネルバ王女には、及びもつかない事だっただろう。
その煙る青灰色の眼には、世界中に起こる事柄全てが映っているのではないか、とすら思わせる、状況判断の的確さと行動の果断さで、マルスは一国の王子を遙かに超えて、既に君主としての器を如実に示している。
アベルとて、主君の実年齢を思い出すのは、こんな時だけだ。
その沈黙をどう受け取ったのか、マルスはクッションにもたれ掛かりながら、大きく杯を傾けた。
「…おかしい?」
「少し」
王子は常々、質問には正直に答えてほしいと、アベルに言っている。だから、この返答はその範疇でのことで、決して非礼には当たらない、はずだ。
しかし、アベルの煩悶は一瞬だった。マルスは、あっさりと頷いて見せた。
「僕も、そう思う」
しばらくの沈黙があった。その間マルスは、らしくもなく、ちびちびと果実酒を飲み続けている。その薫りからして、彼の口には、少々甘すぎるのだろうとの見当はついたが、見るともなく手の内のゴブレットに視線を注ぐ様は、いかにも心ここにあらずといった風情で、アベルは、慎重に言葉を選んで、マルスに話しかけた。
「王子は、ミネルバ王女をお好みですか?」
「うん」
しかし、その言下の意識を読み取ったのか、マルスは微苦笑して、軽く頭を振った。
「別に、アリティアの王妃になってほしいなんて、思ってないよ」
戦役前だったらいざ知らず、今の状況でそんな事は望めない。現在、マケドニアは紛う方なき敵国だったし、更にマルス王子には、タリス王との間の密約がある。タリスの姫君を娶るという。
「まだ、何か勘違いしてるね」
マルスは、アベルをまっすぐ見据えて、断言する。こんな時、アベルは「アリティアの王子には、人の心が読める」という冗談半分の語り口を信じてしまいそうになる。
それでなくて、あんなにも人心を掴む事ができようか?という要旨の賛辞ではあったのだが、直接的には王子を知らないはずの民衆の言葉は、不思議と本質を突いている。
「ちょっと感傷的になっただけだよ。ミネルバ殿は、どこか姉上に似ているから」
王子の姉姫は、「世に比類なき」とまでいわれる美姫として名高いが、実際、彼女の姿を間近で見た者はそう多くない。彼女の人となりを知る者はと言えば、もっと少ないことだろう。
ナーガ神殿の祭司長でもある彼女は、常日頃から、俗人の立ち入りを許さぬ聖域である神殿の奥宮で暮らし、めったに人前には姿を現さない。年に1度の祭祀儀礼の折り、垣間見る事ができるだけだ。運良く、姫の側近くに寄る事ができた者に言わせると、薄布越しにでも、その綺羅々しさ神々しさは見て取れたというが、怪しいものだとアベルは思う。そもそも、「世に比類なき」美貌とは一体、なんなのだか、彼には全く、想像がつかない。
なるほど、確かに美女なのだろう。優美さを誇ったアリティア王妃の娘であり、この…と、そこでアベルは、こっそりマルスを窺い見た…マルス王子の姉なのだから。しかし、それが世の人々の言うように、人ならぬものの持ち物であるとまでは、アベルは決して思わない。
おそらくそれは、現世の生き女神に対する期待と空想とが作り上げた虚像なのだ。
神の姿を見、神の声を聞くという<ナーガの巫女姫>を彩る伝説の一端。
しかし今、アベルの目の前で、急にその虚像が現実味を帯びて現れた。
「…祭司姫は、あのような人となりをなさっているのですか?」
『似ている』というのが、外見であるとは思えない。どう考えても、姫は王妃似であり、ならば当然、マルス王子にも似ているはずだ。マルス王子とミネルバ王女では、共通点など全くないではないか。
しかし、マケドニアの鬼姫とナーガの巫女姫の類似点については、あまり考えたくない辺り、自覚はなかったが、やはり自分もアリティア国民が共通で持っているところの、祭司姫の伝説に対する幻想から逃れていた訳でもないらしい。
さすがの王子も、そんなアベルの悲しい男心にまでは気が回らないらしかった。己の思考を検証するように目を眇めて、杯を口元へと運ぶ。
「性格が、というのとも、ちょっと違うと思う。似てるな、と思ったのは、初めて会った時のことだし」
王子がミネルバ王女に『初めて会った』というと、ディールでのことでは決してないだろう。おそらく、レフカンディでの一瞬の邂逅を指している。
アベルは軽い目眩を覚えた。あの時のミネルバ王女は、騎竜の背を踏みしめて立つ、赤い鎧の騎士だった。遙か上空から彼らを睥睨したその威圧感は、忘れようとしたって忘れられるものではない。
あの姿から連想される祭司姫とは、一体どんな姫なのか。
既に、アベルの想像力の限界だった。
だけど確かに、祭司姫が神殿に入る前、王子がまだまだ幼かった頃は、勝ち気で才気煥発というのが、アリティア王女の形容詞であったはずだ。ならば、風にも耐えなん風情の姫君になっていない可能性の方が、それは高いはずなのだ。
「姉上は、とても綺麗で気高くて、そして、すごく強い人だよ」
そこでマルスは、ようやっとアベルの表情に現れない表情に気づいたらしい。少々、人の悪い笑みを作ってみせる。
「残念だった?夢壊れちゃって」
「とんでもありません。それに、別に夢を持っていたなどという訳でも」
アベルの反論は最後まで聞かず、マルスはにこにこと続ける。
「アベルは、儚げな女性が好きなの?それなら、さっきミネルバ殿と一緒に来てた女性なんて、どう?ふんわりした感じの優しそうな人だったじゃない。あの人、アベルが気になるみたいだったよ。ずっとアベルの事見てた。気づいてた?」
「………酔ってるんですか?王子」
「まさか」
マルスは、高々と杯を掲げた。
「遅れてきたアベルの春に、乾杯!」
「……………王子」
「というのは、冗談なんだけどさ」
がっくり力が抜けそうになったアベルを立ち直らせたのは、続くマルスの台詞だった。
「好きな人ができたら、教えてよ。そして、それがどんな感じなのか、教えて。僕は、恋愛感情とか判らないから」
「…誰でもいつかは、恋をするんですよ、王子。今は判らなくても、その内に」
「僕は、しない。…多分、向いてないんだよ、そういう事にはね。だけど、それでいいと思う。僕には、シーダを大切にするという義務があるし、大切にしたいと望んでもいるんだから。だけど、他者の感情で理解できない面があるっていうのは、あまりね、いい事じゃないから。統治者としては」
そんな事を事も無げに言うから、アベルはいつも、何と返すべきなのか判らなくなってしまう。だけど、何と返してほしいのかは、判っているのだ。決して、同情してほしい訳ではない。そんな素振りをちらとでも見せたら、それだけで王子はアベルに心を閉ざしてしまう。多分、他の者達に対するのと同じように、穏やかに心広く、そして、決して本心を見せぬ微笑しか向けなくなるだろう。
「私は、王子の分析欲を満たす存在になる気はないのですが」
「…意地悪ーい」
マルスは恨めしげにアベルを見上げるが、そういう問題じゃないだろうと思う。
「王子お気に入りのジュリアンに訊いてみるのが、いいのではないですか?彼はどう見ても、マケドニアの尼僧様に懸想しているでしょう」
「…あ、そうか」
まるで、初めて気がついたとでもいったようなマルスの顔に、残念そうな色が浮かんでいたと見えたのは、多分、思い過ごしだろう。常に平静なアベルにその手の話題を振るのを楽しみにしていた、などという事は決してないに違いない。
「もう少し、お飲みになりますか?それとも、この辺りで止めましょうか」
存外、酒に強いマルスだったが、どうも今夜は酔いの影のようなものが見え隠れしている。
「…うーん」
アベルの問いを受けて、マルスは手の中の果実酒をまた少し、口に含んだ。
「結構、美味しいと思うんだけどな。甘いけど。…ミネルバ殿に気に入られなかったのは、悲しいよねぇ」
「多分、王女はもっと辛口の方がお好みなんでしょう。今度は、アリティアの白を御用意しては如何でしょう」
「そうだね」
今度の酒宴。それは、グラの陥落を祝って?
裏切り者のグラ国王は死んだ。既に、永い時間が経ったようにも思われるし、明日に起こるはずの出来事のような気もするが、実際、それは昨日の事だ。時間の概念がおかしくなっているのは、それがあまりにも長い間待ち望んできた瞬間だからか。それとも、早く忘却の縁に沈めてしまいたい、呪われた記憶そのものだからか。
それは、いくら擦っても落ちぬ、服についた染みのようなものだ。見ぬようにしようとする分だけ気になって、それは常に彼等の内にある。意識下から去る事など、決してない。
謁見の間には、既に同盟軍の戦士達が詰めかけていた。追いつめられ、それでも傲然とした態度を崩さぬまま、玉座に深く腰を下ろしたかの王は、眼前に進み出たマルス王子をすぐにそれと見分けたのだろう、歯を剥き出して嗤ったのだ。それは嘲笑だった。マルス王子に対する?確かに、それもあったろう。しかし、その嘲りはアベルには、周囲に在る者全て…グラ王自身も含めて…に向けられたものだったような気がしてならない。
ファルシオンの在処を尋ねられても、ただ「魔物に渡した」と答えた。「だから、世界は救われる」とも。
その嗤いは、胸を突かれて、血の泡を吐いて事切れた後までも、消えることはなかった。
世界全てに対する嘲弄と哀れみ。
彼は、既に狂っていたのだろう。良心の呵責に耐えかねて。
同情の念はない。怒りも、恨みすらも。ただ、虚しかった。マルス王子にとっては、どうだったろう。少なくとも、憎しみや憤りはなかったように思う。…ただ、アベルには、そう感じられたというだけだが。
アベルは、思考を切り替えた。
次の酒宴は、おそらく、マケドニア新女王の誓詞を祝す宴となるだろう。彼らの次の敵は、おそらくグルニアになるだろうが、その後、マケドニアと当たる事になるのは必定である。マケドニア本国に争乱の種を蒔くには、程良い時期と言えるだろう。彼らが乗り込み、噂の新女王が戻ってきた時、竜王国の混乱は最高潮に達するだろう。
現国王か、新女王か。命令系統は、分断される。確実に。
マルス王子がそのように考えている事は間違いない。その面に閃いた、白く硬質的な、まるで陶器でできた人形のような、酷薄さと慈愛とがないまぜになったような、不可思議な微笑。
マルス王子には、カインとマリクには決して見せようとしない顔がある。
しかし、それは王子がアベルを彼らより下に見ているという訳ではない。少なくとも、アベルはそう認識している。彼らには見せない顔を、アベルには見せるという事は、これも特別な存在という事になりはしないか?
ある意味、既にアベルは王子の共犯者だった。
「もう、今日は飲もう!アベルもつき合って。はい、これ」
といって差し出されたのは、マグがひとつ。受け取ると、間髪入れずに酒瓶は奪い取られて、マグへと傾けられた。
「…カインとマリク殿には、内密に、という事ですか?」
「ううん。一人で飲んでても、つまらないからさ。ほら、座って」
そして、指し示したのは、先程までミネルバ王女の座っていた椅子。
「別にいいよ。話したかったら、話しても」
カインとマリク殿に?ミネルバ王女とマルス王子の酒宴の給仕をした後、聖王女から下賜された果実酒を、客人用の椅子に座って、王子手づからの酌で飲んだ、と告白しろと?
相変わらず、王子は策士である。
王子に口止めされるまでもなく、アベルには今夜の事を誰に対しても…特に、カインとマリクには、決して!…口にする訳にはいかない羽目に陥ったようだ。
確かに、アベルはマルスの共犯者だった。


共犯者達の酒盛りは、それからしばらくの間続く。今度は、至極和やかに。



過去は見ない。未来だけしか、いらない。真実もいらない。事実だけあればいい。
そんなものは、誰も欲していないから。


そして、死者の嘲笑は闇に沈む。



END







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