沈黙の声〜パオラ

『魔法都市の扉は開かれない 魔法使いならぬ者の前には』
いかにも 魔法都市の扉は開いた 彼が魔法使いであったが故に
〈英雄王のバラッド〉悪の司祭ガーネフ・カダイン入城の場より

乾ききったそれらは、あっけなくも風に舞う。白茶けた泥煉瓦の壁に、それ以上の前進を阻まれた彼らは、意趣返しとばかりに壁の下積み部分を埋めていく。街のそこここで見受けられる天然の土嚢は全て、そのようにして作られたものだ。
さらさらと、さらさらと。
まるで粉のように軽く、淡い砂粒は、滑らかに丹念に世界を埋めていく。
それは、穏やかで静謐で、更には無慈悲に残酷である。
黄砂の色と匂いを周囲の空気に溶かし込んだその街は、ゆっくりと、しかし、確実に歩み寄る滅びの足音を聞き、それを端然と待ち望むかのようにすら見えた。
それは、この街では決して珍しい姿ではなかった。
目深く引き下ろしたマントで、たっぷり足首近くまで身を包み込む。遮るものとてない日差しは容赦なく、どんなものからでも水分を奪っていくので、肌の露出は必要最小限に留めるのが鉄則だ。
しかし、体に熱を溜めないためのゆったりとした長衣は、室内などでの装いである。
ぴっちりと留められた袖周り。髪一筋として零れないようにという意図すら感じさせる程に固く頭に巻き付けた布。それが彼らの外出時の姿であり、今道を行く者は、それそのままの様子をしていた。
マントの裾から覗いているのは、騎乗靴だ。それが、この違和感の原因なのだろうか。
それとも、分厚い男物のマントに身を包んだ彼女の立ち居振る舞いが、明らかに女性であったせいだろうか。どこにいてもおかしくないのに、何処にも属していない者。そんな印象すら受けさせる。
それでも、彼女はこの街に住まう者だ。それは、この街では特別な意味を持つ。少なくとも、現在、彼女を視線で追っている男は、それをよく知っていた。
彼女は、この街の住人である。それだけは、確かな事実だった。
「今日はひとりかい?パオラ」
突然掛けられた声に足を止めて、パオラは周囲を振り仰いだ。露店沿いに流した視線が、彼のところまで来て止まる。その時、彼女の目端に一瞬浮かんだ、ほっとしたような微笑を彼は見逃さなかった。
「カチュアはちょっと、出かけてるの」
「留守にして、長いのかい?」
「いいえ、もうそろそろ、帰ってくるんじゃないかしら」
「そうか。美人姉妹が揃ってないと、何だか寂しくていけないね」
この言葉に、パオラはうっすらと微笑んだ。
妹と違って、姉はひどく穏やかで大人しやかだ。人見知りをする質らしく、彼に対して、屈託なく話してくれるようになるまでにも、随分と時間が掛かった。それでも、彼女独特のもの柔らかな物腰と微笑はとても魅力的で、根気よく話しかけ続けた甲斐はあった、と彼は思う。
彼女たちがこの街の住人となって、つまりは彼がパオラに、何とか口実を作っては話しかけるようになって、もう2ヶ月が過ぎていた。新たな住人志願者は、この街ではさして珍しくはない。しかし、本当にこの街で暮らしていける者となると、希有である、といっても過言ではない。
この街の環境は過酷である。1日の殆どを強い風が吹き付け、細かな砂が襲い掛かる。その暴虐な風は、あっという間に、人々の目を潰す。この街で生まれた者かどうかは、盲かどうかと同義語で語られる程に。
しかし、本当の意味での過酷さは、それではない。この街の南西にそびえ立つ灰色の石壁。それ故に人々はこの街に集い、それ故にこの街は人々を蝕む。
魔法都市カダインは、常にそこに在った。舞い散る砂塵を透かして、黄色い世界からは全く無縁のものとして。
カダインは、治外法権地区である。それだけで、カダインの魔法使い達は、戦乱からは守られる。住む家も焼かれ、自国が戦場となった難民は、大挙して魔法都市を目指した。がしかし、魔法都市の扉が開かれる事は一切、なかった。
彼らは怒り、抗議し、哀願し、やがて、全てを諦めた。分厚い石壁に守られた魔法都市の中には、一粒の砂すら入り込むことはできない。今ではそんな言葉も、何の疑問もなく信じられる。
〈魔法都市の扉は、開かれない。魔法使い以外の者の前には〉
それは、決して曲げられる事のない法である。魔法都市という聖域が本当に己の前に開かれたら、おそらく、誰もが皆、却って恐れ戦いた事だろう。
結局、彼らはこの街に居残る事を望んだ。魔法都市のお膝元であるこの街にいれば、ただそれだけで、護られているかのような気がしたのかもしれない。
新たな住人達を、この街の者は皆、暖かく迎える。それが通例である。
しかし、カダインのお膝元であるが故か、それとも、それでこそ、この場にカダインが造られたものなのか、この砂漠はひどく魔法の匂いが強い。一般人は、あっという間に体を壊す。これ程、人が住むには適さない場所はない、とすら言われる場所である。
住人志願者を、この街の者は一切、拒否しない。この街自身が、拒むのだ。
後は、この街ではよくある事の繰り返しだ。この街に拒まれていると感じた者は、出ていく。その事実を受け入れる事のできない者は、この街で死ぬ。ただ、それだけの事。
資格を持たない者は、生きていくことすら許されない。ここはそんな街だった。
しかし、彼女達には、資格があった。彼女達は、護り手を持っていた。
聖なる獣、有翼馬は、主とつがい、それを永遠の伴侶とする。世にも幸運な彼等は、魔法生物である有翼馬の力を己のものとする。そのため、有翼馬の騎士達は、魔法使いの類型とも見なされ、場合によっては、魔法都市に立ち入る権利さえ、認められる事もあるのである。
男も、夢見ていた時期があった。有翼馬を手に入れる事を。
有翼馬が伴侶となってくれたなら、きっと人生は一変していた事だろう。少なくとも、今のような生き方はしていなかったはずである。
有翼馬の騎士は、圧倒的に女性が多かったが、男性騎士が皆無という訳では決してないのだ。ただ、この街に住む事を許される程度にしか、魔法に対する耐性はない、というのは、随分早い時期に自覚していたのだけれども。
今でも時々、夢想する。有翼馬さえ側にいてくれたら。
「あ、そうだ。ちょっと待っておくれよ」
言うなり、男は露台の下へとその身を突っ込んだ。パオラは驚いたように、半歩退く。男が目当ての物を見つけて、再び顔を上げた時には、硬い表情をした彼女がこちらを見据えている事に気づいて、照れたように笑って見せた。
「これ、アエロに。この間、ちょっと多めに手に入ったものでね、取っておいたんだよ」
差し出された小さな包みに、彼女は戸惑っているようだった。しかし、ほんの少しの逡巡の後、滑るような足取りで彼の側まで近づいてきた。
包みを手渡す瞬間、パオラの白い手が触れた。柔らかくはない。固く引き締まって、少しざらついている。常に手綱を握るその手は、それでも彼自身のものより細くて小さく、ちょっと彼はどぎまぎする。
しかし、パオラにはそんな彼の心理は伝わらなかったらしい。彼女は怖々とした様子で、その小さな布袋の口を巻く紐を解くと、それをそっと覗き込んだ。
「まぁ」
途端に、彼女の顔が綻んだ。ひどく、晴れやかな微笑だった。袋の中には、砂糖菓子が詰まっている。女の子の好きそうな、色とりどりに華やかな菓子。
「有翼馬は、こういうものが好きなんだろう?そんな事、聞いた事があってね。ちょっと思い出したものだから」
「ええ。あの子はこれが大好きなの。本当に、どうもありがとう。…あ、だけど」
ふと。彼女の表情が曇る。気恥ずかしさに、早口に言い訳を並べ立てていた男も、虚を突かれたように言葉を飲み込んだ。
「もらってしまっても、いいのかしら。これは、売り物なのではないの?」
おずおずとしたその調子に、彼は勢いよく首を横に振った。
「いいんだよ。こう言っては何だが、最近、学院から生徒達が下りてこないもんでね。余ってしまってるのさ」
だから、もらってくれると嬉しい、と続けた男に、パオラは眉根を寄せた。しかし、今度は理由が違う。
「学院の生徒達?」
「ああ、カダインのね」
「カダインの魔法使い?じゃあ、今までは結構、行き来があったの?」
魔法使いは、カダインから出てこない。そんな世間一般的な常識に根ざした彼女の疑問を見て取って、男はにっこりと微笑んだ。
「魔法使い達だって、生きる上には必要なものはあるものさ。この街には、カダインと取引のある商人も、何人かいる。だけど、それは大商人の話で、俺達とは、あまり係わりのないことだ」
そして、小さく肩を竦めた。
「魔法使いは外に出ない。建前はね。だけど、生徒達はまだ、『魔法使い』とは言えないし、子供に対して、学校配給の食事だけで生活しろってのは、なかなかできない相談だからね」
甘い菓子や嗜好品。学院では手に入らない諸々のものを手に入れるために、少年達がこっそりと下りてくる。当然、学院の教授達も知ってはいるが、何も見えないふりをする。
それが、カダインの不文律である。
この街の小さな露店の亭主にとっては、カダインの魔法学校の生徒達こそ、お得意さまであった訳なのである。
男の説明に、ようやっと得心がいったようにパオラは小さく頷いた。しかし、またすぐに小首を傾げる。
「だけど私、今まで一度も見たことないわ」
「ああ、じゃあ、パオラがこの街に来た頃には、もう下りてこなくなっていたんだね」
パオラは、困惑げに背後の空を仰ぎ見た。灰色の石壁は、辛うじてその継ぎ目が視認できる程度の距離をおいて、そこに在る。
確かに存在するのに、決して踏み込む事は許されない。近くて遠い別世界。
「そんなに長い間、魔法使いが下りてこない事なんて、今まであったの?」
「いや、ないね。…俺の知る限りでは」
魔法都市で、何かが起こっているのか。
「だけど、大した事じゃないんじゃないか、それは。誰かしら、生徒が外に出る前に捕まって、外出禁止令が強化されたってだけの話かもしれないしね。…まぁ、俺達にすれば、大した事だが。お得意さんだったからね、彼らは」
苦笑混じりでも、充分楽天的な男の言に頷きながら、パオラはそれを少しも信じてはいない自分を知っていた。
「……あの、ね、パオラ。実は、ひとつお願いがあるんだよ」
それでも、おずおずと口にされた言葉に、パオラは思案に暮れた表情を解いて、男に注意を戻した。彼女の注視に、男は口ごもりながらも何とか続ける。
「アエロに、…乗せてもらえないかな」
声は、喉の奥に絡んで震えた。それをどう取ったのか、パオラは少し眉根を寄せた。
「できたら、でいいんだ。何だったら、触らせてもらうだけでも構わない。だけど、叶えてもらえたら、俺はすごく嬉しいし、すごく感謝する。一生、感謝するよ。ずっと前からの夢だったんだ。生きてるうちに一度でいいから、有翼馬にっていうのが…」
己が何を言っているのかに対する自覚はあるつもりだった。有翼馬の騎士に対して、伴侶を貸してくれ、と頼んでいるのだ。無謀を通り越して、既に無礼だ。しかし、彼の真剣な懇願故か、パオラは何か考えるように、少し小首を傾げて見せた。
「生きてるうちに、一度でいいから?」
「勿論だよ!」
即答した彼だったが、その後のパオラの反応は予想外のものだった。なんと、パオラはあっさり頷いたのだ。
「いいわ」
咄嗟に言葉が出てこない。こんなに簡単に叶ってもいいものなのか。これこそ、夢なのではないか?呆然と立ちつくす彼の前、パオラは背を向けて数歩進み、それから、ふと何かに思いついたように彼を顧みた。そして、まだ現状認識が追いついていない彼の様子に、何か勘違いしたらしい。眉を八の時に落として、言ったのだ。
「これからじゃいけなかったのかしら?都合が悪い?カチュアが帰ってきたら私、忙しくなってしまうの。だから、それまでの間じゃないと、お願いを叶える事ができないかもしれないのよ」
カチュアは今、出かけているが、もうすぐ帰ってくる。
そうパオラは言っていた。カチュアが具体的にいつ、帰ってくるのかは不明だが、そう時間は残されていない事は明白である。それこそ、今にもひょいと現れてもおかしくない。
彼は一瞬にして、正気返った。
カチュアが帰ってくるまで、というのが、彼に許された時間の全てであるらしい。こんな場所で、客の入らない店の番をしている暇などあるものか。
「ちょっ、ちょっとだけ待っておくれ。すぐだから。本当に、すぐだから!」
彼は大慌てで露台の下から、荒布を引きずり出した。それは分厚くごわついていて、彼の手に一抱えもあったが、彼が手慣れた様子の一動作でそれを広げると、ちょうど露台をくるみ込む程の大きさでしかなかった。
彼はそれを手早く露台にくくりつけて、本日の売り上げ…それは、ほんの少しだった…を腰の小袋にしまい込むと、店の内側から、露台を挟んだ反対側、パオラの立つ道の側へと転げ出た。
「さあ、これでいい。パオラ、ありがとう。本当に、ありがとう!」
感激に彼女の手を取らんばかりの彼に、パオラは困ったように微笑んだ。そして、首を横にひとつ、ゆるく振ると、再び彼に背を向け、歩き出した。彼も、逸る心を押さえつけるようにして、ゆったりめのパオラの歩調に合わせて、ついていった。今度は、彼女が振り返ることはなかった。
パオラが、その両開きの扉に手を掛けると、それはガタガタと軋み声を上げて、開いた。外部からの出入りの容易なそこは、通常、納戸として使用される部位だ。彼女達の借りているその家は、この街では、一般的な作りのものだった。
彼の目が、ごく自然に居住区の方へと彷徨う。見える限りでは、家具は殆どない。変にすっきりと整いすぎており、女二人の住居としては、あまりにも殺風景だった。カチュアのみならず、パオラまで留守にしていたら、この家はまるで空き家のようになるだろう。まるで、生活臭を残さないように心掛けてでもいるような…。
彼の観察を遮るように、パオラが短く鋭い指笛を鳴らした。納戸に直接繋がる部屋の扉は外されており、がらんとした四角い空間が広がっているばかりだったが、そこからひょいと、指笛に答えるように白いものが顔を覗かせた。
それは、大きかった。彼が想像していたよりも、ずっと。
白というよりも淡い桃色に近い毛並みは所々長めの巻き毛になっていて、滑らかに調えられたそれは、いかにも柔らかそうだった。
足は細い。その巨体に比べて、驚くほどに細かった。それでは、躯を支え切れまいと思うほどに。しかし、それに反して、肩の部分から背中を沿って、後足の蹄辺りにまで垂れ下がった翼は、窮屈に折り畳まれた現状からも明らかなほど、力強く筋肉が張っている。
「お客様よ、アエロ」
彼女の肩辺りにその大きな鼻面を一心に擦りつけていたそれは、この呼びかけに、ようやっとパオラの脇に立つ彼の方へと頭を巡らせた。
有翼馬の冷たい敵意を孕んだ瞳が、彼にひたりと据えられる。その底知れぬ深淵。
有翼馬は、読んで字の如く、翼ある馬である、と言われる。確かに、顔立ちは馬というのが一番近い。しかし、躯全体の筋肉の付き方は、細い足、引き締まった胸、そして翼と、明らかに鳥に似ている。そして何より、その瞳。高度な知性の色も明らかなその瞳と、固く閉じられたままの口の奥には、思いの外発達した犬歯が隠されている事を思い出して、彼の体は、無意識のうちに数歩、退いた。
馬と違い、有翼馬は、雑食なのだった。野生の有翼馬は、誇り高い彼等を無理に捕らえようとした人間を、怒りのままに食い散らす事すらあるという。
彼の怯えを感じ取ってか、アエロはすいと目線を外して、再び伴侶であるパオラの肩口に鼻を押し当てた。
お前如きに、興味などない。
そう言われたような気がした。
パオラは、アエロの顎下を撫でさすりながら、宥めるように囁き続けている。内容は、取り留めもないことばかりだ。だけど、彼女等を包む空気はとても優しく、彼には二人が恋人同士ででもあるかのように見えた。伴侶である、というのは、文字通りの意味なのだと理屈ではなく理解する。
半ば見とれる彼の前で、パオラが振り向いた。
「アエロを撫でてあげて。この子があなたを受け入れれば、乗せてもらえるわ。駄目だったら、乗せてあげられない。悪いけど。決めるのは、この子だから」
喉を何かで締め上げられているような気がする。彼は、怖々とその手を有翼馬へと差し出した。反応はない。拒絶の意思は見受けられなかったが、歓迎の様子もまたない。彼は近づく。一歩。有翼馬は退かない。また一歩。これは、許容の意だろうか?勇気づけられるように、更に一歩。及び腰で差し出した手は、うんと伸ばせば届くだろう。もう一歩。
そして、とうとう目の前の巨大な顔に指先が触れた。つるりとした毛並みの感触に、思わず手を引く。それでも、有翼馬からの反応はない。至極、大人しくしている。彼は、振り絞った勇気でもって、その顔を両手で挟み込んだ。
柔らかな長毛と腰のある短毛。がっしりとした顎の形。暖かな生き物の感触。
魔法の力を秘めた奇跡の獣は、じっと彼を見ている。彼もまた、見返した。その瞳の奥に、何らかの感情を引き出そうと、一心に。
それは、有翼馬との戦いである。彼の中で、永遠にも似た時間が過ぎていく。不意にその集中を断ち切ったのは、小さな溜息だった。首裏の窪みにひんやりと冷たいものが突きつけられた。人体の急所のひとつに押し当てられたそれが、抜き身の短刀である事は疑いがない。彼は、目だけをできるだけ背後へと動かした。視界の端に、申し訳なさそうな顔をしたパオラが映った。
「ごめんなさい。やっぱり、駄目みたい」
もう少し。後、もう少しの時間がほしい。そうすれば、この有翼馬を捕まえられるかもしれない。
そんな彼の心の叫びは、一瞬にして圧殺された。パオラの続く言葉故に。
「できれぱ、助けてあげたかったんだけど、やっぱりあなたを殺さなくては駄目みたい」
彼の凍り付いた表情を溶かすためか、彼女はゆるやかに微笑んだ。彼の大好きなパオラのその微笑。
「だって、あなたったら、彼らの好物ばかりか、普段、何を食べるのか、その上、彼らと絆を結ぶ方法まで知っているんですもの。有翼馬の生態は、門外秘になっているのよ。彼等の騎士以外にはね」
その通りだった。彼等と目を合わせ、彼等を屈服させること。それこそが、有翼馬と絆を結ぶ唯一の術であることを、彼は知っていた。
「あなたは、今まで色々なことを教えてくれたわね。この街のこと。カダインのこと。魔法のこと。有翼馬のことや砂漠の向こうの国のこと、他にもたくさん。ごく普通の露店の商人には、知り得ないような事も、たくさん」
彼女の瞳は、あらゆる感情を沈めていっそ、何も見えなくなってしまった暗い沼のようだった。その底知れぬ深淵。何処かで見た瞳の色。いつか見た、つい先程見た、アエロの瞳。小暗く冷たい未来を予感させる深淵。
「あなたはね。色々と、…そう、何というのかしら。色々なことに、詳しすぎたわ。まるで、間諜みたいに」
かちかちと歯の根が鳴った。膝は、棒のように固まっていた。自分でも何の為なのか判らない。ただ、首を小さく振りながらも、目の前の彼女から目を離すことができなかった。目を反らすことが、恐ろしかった。
「何処の国の?なんて、訊かない。訊かれても困るだけでしょうから。だけど、私達がこの街にいた事、あなたが覚えてたら、私、とっても困るの。だから、ごめんなさいね」
うっすらと浮かべられた彼女の微笑。慈愛に満ち溢れた聖母の微笑み。
「だけど、あなたはとても親切だったから、お礼に、苦しまないようにしてあげるわ…」
今一歩で届かない夢。有翼馬さえ側にいてくれたら、きっと、今のような生き方はしていない。
自由に。もっともっと自由に。
耳朶をくすぐる囁きは、優しげですらあった。
黄砂の嵐を突っ切って、ほんの数刻前に帰ってきたカチュアは、頭のてっぺんから足のつま先まで砂の出ない場所はない、という程に砂埃にまみれていたのだが、先程、貴重な水の大盤振る舞いで体を清めた上、砂の感触がなくなるまで髪を洗って、ようやっと人心地ついていた。
彼女の相方であるオキュペテも、先だってカチュア自らが念入りにその毛並みをくしけずったおかげで、元の真っ白い毛並みを取り戻して、大分すっきりしたらしい。本当は、後1日くらいはゆっくりと休ませて上げたいのだが、そうも言ってはいられない状況である。明日には、グラへと飛ばなければ、肝心の戦闘に参加できなくなってしまう。グルニアへと向かった末妹とは、結局合流できなかったが、それは予想の範疇内の事である。
同盟軍に参加する、とは言ってあるのだから、後から追い付いてくるはずだ。
そんな事を漫然と思いながら、髪を拭いていたカチュアが、卓の上に置かれていた袋に目を留めたのは、すっかり荷物の片づけられたこの室内で、その卓が唯一の家具といってよく、更には卓の上に置かれていたのは、その袋のみだったからだろう。
「姉さん、どうしたの?これ」
彼女が指先で摘み上げ、目線の高さにまで差し上げた袋にちらりと目をやって、姉は再び、火に掛けられた鍋へと視線を戻す。スープをゆっくり掻き回しながら、パオラは背後の妹へと答えを返した。
「アエロに、と戴いたの。それは、オキュペテへのお裾分けよ」
カチュアは、袋の口を無造作に解いた。途端に甘い匂いが鼻に届く。
「…アエロに、ねぇ。男でしょ?これくれたの」
「ええ、そうよ。とっても親切な人」
「……親切、ねぇ。だけど、アエロは食べなかったんじゃないの?」
「ええ、そう。ひとつも食べなかったわ。…だけど、何で判るの?」
「………『何で』って言われてもねぇ」
十中十、男は、アエロ経由で姉にそれを贈ったつもりだろう。しかし、この姉には、そんな言葉の裏は読めない。言われた通り、姉経由アエロ行き、として捉えたであろう事は相違ない。しかし、アエロには当然、それに込められた姉への好意を感じ取れる訳で、そんな物を彼が口にする訳がない、というのを、どのようにこの姉に説明するべきだろう。
彼には、姉の周囲にある男性の匂いが我慢ならないらしいのだ。
アエロは、決して姉以外の人間を背に乗せない。何があろうとも、である。
オキュペテもケライノも、そこまで徹底してはいない。彼女達は、乗り手である自分達が願えば、しぶしぶでも同乗者の存在を受け入れてくれるものなのだ。
アエロは雄であり、オキュペテは雌である、というのは、ここまで大きな違いになるものか。伴侶である乗り手が異性であるかどうか、という事は。
勿論、性格差もあるのだろうが。
カチュアは、袋の中から砂糖菓子を取り出して、一粒、口へと放り込んだ。
優しく、感性が細やかなオキュペテに対して、アエロはかなり攻撃的であり、独占欲が強い。嫉妬深いとすら言っていい。カチュアでさえ、アエロには噛み付かれた事があるのだ。なめし革を張り込んだ肩当てのおかげで事なきを得たが、…おそらく、それも計算済みのことだろう。妹達にひどい傷を負わせたら、例え相棒であろうとも、パオラも黙ってはいないという事を当然、理解しているはずだ。
カチュアは、決してアエロを好いてはいない。どちらかというと、嫌いな部類である。あれが人間だったら、絶対、喧嘩が絶えない相手だろうし、向こうもそう思っているだろう。
しかし、現在のような姉の姿を見ていると、アエロも結構、可哀想だと思えてくる。
砂糖菓子は、しばらく口の中でその形状を保っていたが、やがて、ほろほろと溶け出した。このまろやかな舌触りは、紛う方なき極上品である。
「あ、カチュア。それは、オキュペテにだって言ったのに」
軽く唇を尖らせながら、パオラが部屋へと戻ってきた。その手には、今日の夕食がある。料理上手な姉の手による石焼きパンと野菜の蒸し焼き。そして、暖かいスープ。
水袋に入る幾らかを除いて、今日で溜め水をすっかり使い切ってしまってもいいのである。といっても、瓶に溜められた生活用水はもう殆ど底を突いていた。出かける前にはたっぷりあったのに、姉は家の中を掃除する折り、土間の水洗いまで行ったらしい。残っていたのは飲料水だけで、先程、カチュアが自身を洗うのに使った分で、それもほぼ終わりだった。
飲める水で髪を洗う、という贅沢の余韻に浸かりながら、カチュアは菓子をもうひとつ、口へと運んだ。
「オキュペテが、私にも『分けてくれる』って。姉さんもほら、一口」
姉の口元へも一粒、差し出す。怒ったような顔を作りながらも、パオラは抵抗せずに口に含んだ。
「…美味しい」
「残りは、食事の後にしよっと。明日は、結構な距離を飛ばなきゃいけないしね」
「残りは、オキュペテの分、でしょ?」
「はーい。その通りでーす」
カチュアは、宣誓するように片手を上げると、小袋の口を固く結びつけた。オキュペテのほっとしたような思念が届く。彼女も、好物の砂糖菓子を全てカチュアに食べられてしまうのではないか、と心配していたらしい。温厚な彼女は、そうしたカチュアの行動を怒ったりはしないが、そのがっかりとした様は、相方であるカチュア自身、あまり見たいものではない。
大丈夫。夕飯の後、届けてあげるからね。
苦笑混じりのカチュアの〈言葉〉に、伝わる喜び。カチュアは、続く〈言葉〉を音声としても発しながら、姉を振り仰いだ。
「だけど、すごく美味しかった。姉さん、くれた人にお礼を言って、…もう無理か」
明日の早朝、ここを発つ身では。
しかし、このカチュアの言に、パオラは誇らしげに胸を張った。
「ええ。だけど、大丈夫。ちゃーんと、お礼はしたもの」
胡散臭そうに横目で見やる妹には委細構わず、パオラは舌先で溶ける砂糖菓子の上品な甘さに、幸せそうに微笑んだ。
「本当に、親切な人だったわね…」
砂漠の日は、つるべ落としに暮れていく。街の大通りにぽつぽつと点在する露店達も、店終いの支度に余念がない。露店の主人である老人は、大儀そうに腰を伸ばしながら、ふと、店の端にある小さな露店に視線を流した。
その店は、昔、ひとりの住人志願者が持ち込んだ物だ。しかし、彼は住人にはなれなかった。逃げ出すこともせず、今では町外れの砂の下に眠っている。最近、また見知らぬ男が使っているようだったが。
ここ2、3日、引き剥がされた形跡のない、休業を意味する布が、ばたばたと風に鳴った。
住人達にとって、よそ者はしょせん、砂漠の風のような存在だ。熱く激しく、一瞬で通り過ぎていくだけの風。
老人は、また元通りに腰を折れ曲がらせて、己の店の店終いに取りかかる。
また、よそ者が去っていった。それだけの事だ。
遙かな過去、この街に移り住んだ老人の胸には、一片の感傷も存在しない。この街は、そういう場所なのだ。
夕闇が世界を支配する。また、風が募ってきていた。黄色く煙った石壁も、すべては砂と闇とに沈んで、今はもう何も見えない。
END・
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