沈黙の声〜ジオル

遠い遠い遠い未来
終末の日 神は天より降り来たりて 世を救う
約束された時の果て
神が現れ 世界は滅ぶ

生まれてこの方、まるでジオルは、アリティア王家に仕える臣下そのものだった。
その理不尽な立場は、彼がまだほんの幼子であった昔から、厳然として存在した。グラ王の嫡子として生まれたその瞬間から、国内に於いて、彼が頭を垂れねばならない者は、彼の両親に当たる王と王妃、更に立太子式が済んでからは父王のみとなったが、それもアリティアの使者が来城する期間を除いての事である。常日頃、彼の前に英雄然として存在する父王が控えめに目を伏せ、従順に頭を垂れる。まだものの道理も分からぬ頃、父の背後で平伏しながら、彼はアリティアの使者を神の使いだと信じてさえいたものだった。
何という無邪気な、いっそ、愛らしいまでに愚かな子供時代。
使者の持つアリティア王名代の玉印の前に、跪かねばならないグラ王の姿が示した、神から与えられた一振りの剣を奉ずる英雄の国と自国との関係など、ジオルは全く気がつきもしなかったのだから。
しかし、子供の視野は、その成長と比例して広くなる。少年時代を過ぎ、青年になり、壮年期の男として、己の力を自負するようになると、その力が大きなものであればあるほど、理不尽な現実の姿は露になる。
何故、自国が、隣国アリティアへと朝貢を出さなければならぬのか。王位継承にすら、アリティア王の承認を必要として、本当にグラが国として存在していると言えるのか?
それでも、グラは名目上、アカネイア大陸7大王国のひとつだった。ジオルは、何度、唇を噛み締める思いをしたか判らない。ジオルは、グラ人には珍しく独立独歩の精神を持っていた。自国がアリティアの影であり、属国にすら等しい事に対して、屈辱と感じ、怒りを覚える程度の気概を持っていた。それが全ての元凶であった事を否定するつもりはない。だが、ジオルの名誉のために言わせてもらうならば、彼の目的は決して、アリティアを滅ぼす事ではなかった。それは、二次的な結果に過ぎず、アリティアの精神的支配から、自国グラが脱する事。ただ、それだけを望んでいた。
従って、事を急ぐつもりもなかった。己の次世代の王には、独立国グラを渡したい、という野望はもっていたにせよ、それまでは、少しずつ、歩を進められればよかった。殊、人々が『精神的支配』の檻から脱するには、長大な時間が必要であろう事も、よく判っていたのだ。
なのに、何故、このような暴挙に出てしまったのか。
ジオルには、判らない。…いや、この表現は正しくないかもしれない。
なに故に、誰故に、行動を起こしてしまったのかは、判りすぎるほどに判っている。問題は、どうして〈彼〉の示唆する方向に進む事に対して、一片の疑問も抱かなかったのか、だった。
〈彼〉の言葉は、まるで運命そのもののような響きでもって、ジオルの思考能力をすっかり剥奪してしまったかのようだった。
「例のものは、どこにある?」
深夜だった。彼の訪ねてくるのは常に深夜ではあったが、今夜ばかりは、いつもとは訳が違う。先刻、アリティア陥落の報が戦場から届けられた事による衝撃は未だ褪めやらず、城内中が恐慌にも似た落ちつかなさを持て余したような興奮状態に陥っていた。いつもならば四角く切り取られた闇しかない窓の外では、そこここに松明の炎が踊っている。多分、今晩は皆、夜通し起きている事だろう。こんな時に、眠れる者などあろうはずがない。
そんな慌ただしい空気の中、彼は常のようにそこに在った。このような状況下でさえ、王の居室に忍び込める事に対して、深い疑問を持たなかったのは、彼が常の人ではない、というのがよく判っていたからだ。
「ここに。私が確認した。間違いなく、本物だ」
報と共に運び込まれたもの。今までにそれを見たのは、たったの一度だけ。生まれて間もないアリティア王子の立太子式で目にしただけだ。しかし、そんな10年以上も前の記憶であっても、ジオルの心に決して消えぬ刻印を焼き付けたものを見誤る事など、決してあり得なかった。
ジオルは長櫃の蓋を開けて、固く布にくるみ込まれたそれを、大切そうに持ち出した。
かなり重い。立たせると、ジオルの胸元近くにまで背の丈があった。ジオルは知っている。柄飾りに埋め込まれた紅玉の濡れたような輝きも、光を内包したかのような真珠色の刀身の、神々しいばかりの美しさも。
支える手すらもが汚れになるような気さえして、できるだけ己の身を離すようにしていたジオルとは対称的に、彼は全く無造作に布の端を掴んで、それを己の方へと引き寄せた。彼の手の内へと吸い込まれるように、それは落ちる。
「ああ、確かにファルシオンだ」
布越しに触れた。ただそれだけで、彼は軽く頷いた。
ファルシオン。それは、アリティアの英雄王がこの世の闇を払うため、光神から賜ったといわれる剣である。実際、手にとって眺めてみると、そんな伝説を生んだのも当然と思える程の美しさで、それ自体、芸術品であるといってもいい。かの国の神聖の象徴でさえなければ、ジオルも決して手放したくなどなかった代物だったのであるが、何分にも、この剣の肩書きは大きすぎ、重すぎた。
誰もが、その出自の伝説を知っている、光の剣。
それをこのまま我が手にするには、問題がありすぎる。何よりも、グラはアリティアに成り代わりたかった訳ではなかったし、ましてや、盗人などではない。
今回のグラの行動の正当性を証立てるための、それは絶対の論理だった。
ひとまず、これを彼に預けるのは、そう悪い事ではない。今現在、ジオルの、グラの手元に置くには不都合すぎるのだから。
「面白い」
思わず、ジオルは目を見張った。彼の手の中のファルシオンが、厚く巻かれた布をも透かして、一瞬、眩いばかりの光を放ったように思えたのだ。
「大した光の蓄積量だ。周辺の闇に、正確に反応してやがる」
そして、忌々しげに舌打ちする彼と反比例するかのように、その手にすっかり身を委ねたファルシオンは、嬉しげに囀っているかのようだった。まるで、ようやっと主人の手に戻ってきた事への歓喜をいっぱいに表しているかのように。
何故、こんな風に感じられるのか、自分でも不思議だった。が、彼は、その面に浮かんでいるであろう恐怖の表情から、ジオルの思っている事が推察できたらしい。皮肉混じりの微苦笑をジオルに返す。
「ファルシオンの光が見えるか。…そういえば、お前もアンリの近親者だったな。他の人間よりは、ファルシオンとの相性もいいって訳だ」
グラ王家の始祖は、英雄アンリの実弟だった。つまりはグラ王家は、アリティア王家の分家筋に当たり、それもまた、グラはアリティアの下にあるもの、という暗黙の慣習を生んでしまう要因でもあったのだが、ともあれ、彼の言うようにジオルもまた、『アンリの近親者』と言えなくもない。…正確には、その子孫と言うべきだが。
「ならば、分かるな?この剣は、まるで純化された光そのものだ。闇に染まった存在に対して、致命的な凶器となるほどの」
そう。この剣は危険だ。このまま、野放しになどしてはならない。
「これは、封じられなければならない。闇の届かない場所へ」
ファルシオンの光は、世界の闇をより濃厚なものへと変貌させるだろう。反対に、この剣の力を無効化するには、闇の力を絶つのが一番手っ取り早い。
〈闇濃くして 光強く 光なくして 闇はなし〉
それが、万物普遍の真理というものだ。
そこまで思考が進んだところで、ジオルはふと我に返った。
『剣の力を無効化する』?
一体、何の事だろう。何かが変だった。そもそも、『剣の力』とは、何だ。あれは、アリティア王家の始祖アンリの宝剣だ。神から賜ったというお伽話が付属してはいたが、実際、あれを振るえる者などいるはずがない。将軍職を兼任する程の技量自慢のジオルの渾身の力で、ようやっと持ち上がる程の重量がある上に、何より、刃が潰されている。
何も切る事のできない剣。神聖の権威を表すだけの飾りもの。
それが『光の剣』とも称されたファルシオンの正体だった。
ジオルは、改めて目の前の存在へと目を向ける。いつもジオルに正しい助言を与えてくれる存在へ。彼が初めてジオルの前に姿を現したのは、いつだったか?深夜、ジオルの居室に突如現れた彼。まがりなりにも一国の王の居室に突如現れた者に対して、あまりにもすんなりと信頼を寄せすぎはしなかったか。常に用心深く行動しているジオルらしからぬ行為だ。
そもそも、彼は一体、誰なのだ?
ジオルの心の中がすっかり読みとれるかのように目をすがめ、彼は唇の端を皮肉げに持持ち上げて見せた。
「コントロールが切れたか。思ったよりも、早かったな」
まるで、初めて目にする者であるような気がした。
「一生、掛かったままの方が幸せだったろうに。アンリの遺伝子を持つってのも、善し悪しだな」
彼の口調は、確かに哀れみ。しかし、その目の光が示しているのは、明らかに嘲りだ。
そのどちらの感情も、グラ国王であるジオルには耐え難いほど屈辱的な代物で、だからこそ、無限に続きかねない虚脱の状態から這いずるようにして立ち直る。己の自尊心を守る事。それはジオルにとって、絶対に譲れない一線だった。
「………お前は……何だ?私を、操って、一体、何を」
「おいおい、人聞きの悪い事を言うなよ。選んだのは、お前だろう?俺はお前に相談持ちかけられて、色々提案していただけだ。ああしろこうしろ指図した事なんか、一度もない。そうだろ?」
ジオルは、言葉をなくして立ち竦む。
「ドルーアに荷担したければ、するといい。アリティア国王の首あたりを手土産にすれば、それですむ」
「王の首?!そんな事、できるはずがないだろう!そんな無体な」
古来、身分の高い者の遺体は丁重に扱うのが、当然の事である。戦の常として、例え我が手に掛けはしても、敵将の遺体は棺に納めて相手の陣へと帰す。それが、戦のならいというものだ。
「何言ってるんだ。グラはアリティアを裏切った。それが万国共通の認識ってもんだし、それが正しいのも分かり切ってるじゃないか。今更、礼節も何もあったもんじゃないだろう。それに、お前はいい事をしたんだぜ?これさえ封じてしまえば、戦はすぐに終わる。闇がこれ以上、拡散する事もないから、当分の間は『闇の種』も大人しくしてる。結果、人間は滅亡の危機を回避した。今回の被害なんか、必要最小限の尊い犠牲ってもんだ。…まぁ、誰もお前に感謝なんかしないだろうがね」
彼の言っている事は、ジオルには殆ど理解できなかった。その脳裏に深く静かに染みわたってきたのは、ただ一点。
グラはアリティアを裏切った。
ただ、その一点だけだった。
何故、グラはアリティアを裏切ったのだったか。…そう。今回の行動は、裏切りだった。それは、誰の目にも明らかだ。
アリティア軍の後方に位置した兵を、本陣へと突入させる。ほんの少し前までの友軍に襲いかかられ、アリティア軍は落ちた。それは、呆気ないほどだったという。
『今の内にドルーアについた方が、絶対、得だ。今なら、ドルーアの味方は少ない。自分を高く売りつける事ができる』
裏切り者の言い分など、誰が聞いてくれるだろう。少なくとも、自分がドルーア帝国の皇帝だったら、グラなど決して信用しない。
『アリティアと共倒れになるなんて、馬鹿馬鹿しいだろう?』
何故、アリティアが破れると決めつけたのか。確かに聖アカネイアは滅びて、既にない。しかし、だからこそ、誰もがアリティアを次代の盟主国として認めていたし、北の軍事大国グルニアとの共闘も、当然の流れとしてあり得た。事実、グルニアからの使者が頻繁に、アリティアへと通っていたとの情報を、ジオルは得ていた。
アリティアとグルニアが手を結べば、ドルーア帝国からの軍勢を押し返す事は、決して夢物語ではなかったはずだ。そして、そこへ支援軍を派遣して、アリティアに対する貸しを作り、グラの立場を強化する事も。
しかし、それらの希望も脆くも崩れた。全ては、今回の愚行故に。グラは、その退路を自らの手で断ち切ってしまったも同然であり、ジオルに選べる道はただひとつしか残されていなかった。
決して重用などされぬ事を承知の上で、ドルーア帝国に恭順の意を示し、国としての命運を繋ぐ事。
膝が砕けた。ジオルは、その場にぺったりと尻餅をついた。先程までの虚脱状態がどこかに残っていたため、却ってその衝撃に対して無感覚でいられたのだが、ここで一息に、現実の重さがジオルを押し潰そうとしていた。
頭上を見上げる。彼は、嗤っている。ジオルの現状を、グラの未来を嘲笑っている。ジオルを見下ろすこれは一体、何だろう。顔が見えない。笑っている。笑っているのが分かるだけだ。多分、顔は元々ない。だから、これはなにでもないもの。存在しないもの。
混乱は恐怖を運び、恐怖は狂気の呼び水となる。精神の均衡が崩れかけているのが、自分でも分かった。
「お前はドルーアの人間なのだろう?!」
だから、このひきつった叫びは、崖から滑り落ちかけた者が手に当たった何かに遮二無二縋り付くようなものだったのだが、ジオルにとっては…恐らく…幸運な事に、この言は、彼にはかなり意外であったらしい。
虚を突かれて、といった風情で目を丸くした彼を目にして、すとんと足が地に着いた。
目の前の存在はまるで、外見に伴った年齢に見えた。そういえば、彼はどう見ても10代半ばであるのだという事に、改めて気づかされたジオルの方が、却って驚いてしまったほど、まるっきりの子供だった。
「俺が?〈ドルーア帝国〉の?〈人間〉??」
そして、しかつめらしい顔をして、きっぱりと首を横に振る。
「残念ながら、どちらも違う」
これは、ジオルには全く理解ができない言いようではあったのだが。
「俺は別にどちらの味方でもない。強いていうなら」
そこで彼は、くすりと笑った。何か、出来のいい冗談を思いついて、自分でも堪えきれずに洩れた、といったような笑みだった。
「神様の敵さ」
卓の上に据えられた燈火は揺らめき、薄暗い部屋の壁に不気味な化け物の影を映し出す。もう部屋の中には、何者も存在しなかった。背を丸めて、蒸留酒をなみなみと注いだ杯を縋るように握りしめたジオル以外には。
彼は消えた。ファルシオンも既にない。初めから、何もなかったのかもしれない。夜が明けたら、常と変わらぬ日々が待っているのかもしれない。アリティアの傲慢な態度に腹を立て、頼りない臣下に怒鳴り散らし、精力的に国政を取り仕切る。
そういえば、先日の雨で落ちた橋の修繕に、兵士をやらねばならなかった。あれは、都と町を繋ぐ主要路の一つだ。都の商取引にも差し障りが出るし、通行税の減収も、現在の国庫財政の状態では、小さな事と言って捨てられない。
そっと溜息をついて頭を巡らせる。窓の向こうでは、無数の篝火が踊っていた。今日は、夜通し焚かれるのだ。アリティアが陥落した事を祝って。または、嘆いて。
夢などであるはずがなかった。
ジオルは手にした杯を一息に呷った。化け物どもの影絵は、くるくると舞い踊った。その光景と共に、ジオルは一生涯、忘れる事はないだろうと思った。
燈火の光を弾く派手やかな茜色の髪が残した残像を。
アリティアとグラ。ふたつの国に滅びを運ぶために現れた炎の妖魔を。
END・
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