薄明のレチタティーヴォ〜リンダ

神様なんて いらない

そこはもうすっかり荒れ果てていた。常であったなら、無数の花々の饗宴が催されるはずの園も、今は貪欲に己の版図を広げていく雑草共に覆い尽くされ、見る影もない。それでも、そんな逆境に屈せず、自力で生き延びた少数の株達もあるにはあったのだが、如何にも息も絶え絶えといった風情で、見るからに細い首を伸ばし、標準よりもかなり小さな花を付けている様など、かえって哀れみの深い寂しさのようなものをその場所に与えていた。
最近、めっきり冷たくなってきた風が梢を揺らす。花々が、ふるふると首を振った。
ここが最後に手入れをされたのは、もう何年前の事になるのだろう。平時は四季の区別なく、いつだってたくさんの庭師達が忙しく立ち働いていたのをリンダはよく覚えている。
当然、現在目の前で飽かず庭園を眺めやっている王女にとって、そこは常に天堂の花園であった事だろう。光溢れる楽園の記憶しか持っていなかったろう。
「お寒くありませんか?姫様。何かもっとしっかりとした掛ける物をお持ちしましょうか」
王女はゆっくりと首を横に振る。彼女自身、庭園の花のように。
ひっそりと咲く、小さな寂しい花。
聖アカネイア解放戦が同盟軍の大勝利に終わり、こうして無事に王城…パレスを奪還してから、既に5日あまりが過ぎていた。
王女が幼い頃から慣れ親しんだ公爵家の若君、お気に入りの護衛官、王家の信頼も厚かった大司教、そして、王室付きの騎士団員達、と次々に合流を果たした同国人に王女はとても喜んでいたし、彼等の無事な姿に勇気づけられ、希望を抱き始めていた事を、リンダはよく知っている。なのに、当初の光が射すような表情は、徐々に形を顰め始め、目に見えて打ち萎れていく様は、端から見ているリンダの胸を強く締め付けた。
昔から王女は、何故かリンダをひどく気に入っていて、彼女が貴族ですらない事など全く頓着せず、何かと目を掛けてくれたものだった。時に如何にも姫君らしい無邪気な傲慢さで、リンダを人形のように扱うきらいはあったにせよ、周囲の目も憚らず「私の妹」とまで言ってくれる相手に対して、リンダの側からも強い好意があっても、それは当然の事だったろう。
王女は、ふと顔を上げると流れる視線をリンダへと当てた。どきりとする。今の王女はまるで、リンダの知らない大人の女性のような瞳をしている。微笑むと頬に小さくできるえくぼの形まで、昔と同じなのに。この上なく優雅且つ何気ない、生粋の聖王国な仕草で、彼女を小さく手招く。安楽椅子に横たわる王女から少し下がった位置に立っていたリンダは、心持ち前に出た。
王女は、更に指し手招く。悲しい瞳。リンダは、更に怖ず怖ずと前に出る。
「もっと近くにきて。私の側に…。顔をちゃんと見せてちょうだい」
細い声に導かれて、王女の足下近くにまで近づくと、その場にそっと膝をつく。こんなに近くまで寄って、王女よりも高い目線で物を見る訳にはいかない。不敬に当たる。が、続いて王女が背凭れに預けた身を起こしかけたのを見て、リンダは慌てて膝でにじり寄った。
王女の手がそっとリンダの頬に触れる。外海の向こうにあるという国の陶器のように白い、白過ぎる手。父陛下から賜ったと嬉しそうに誇らしげに微笑んだ王女の手に溶け込むような茶器の白磁。その手は儚いほどに細く小さく、そして、それこそ陶器のように冷たかった。
「姫様、すっかり冷え切っていらっしゃいます。今、何か暖かなものを…」
リンダの声が聞こえた様子はなかった。ひんやりとした手で包み込んだ彼女の顔を見詰めていた王女は、愛おしげにその頬を一撫ですると、しみじみとした口調で呟いた。
「…もう少ししたら、お前も行ってしまうのね」
リンダは、虚を衝かれて黙り込んだ。現在、パレスの尖塔に掲げられた王旗は、全部で4つ。一際高い位置にある聖アカネイア旗に従うようにしてはためく、蒼、緑、水色の3旗。それは、アリティア、オレルアン、そしてタリス…こう言っては失礼ながら、リンダは水色の地に波と船の意匠を縫い取ったそれが、タリス王家のものだと、今回初めて知った…の王旗だった。しかし、国王、またはそれに準ずる者の在城を示すそれらも、早晩降ろされるだろう事は必定である。彼ら同盟軍は、聖アカネイアに引き続き、アリティアを解放する為に程なく旅立つ事になっている。それぞれ王名代であるオレルアン公とタリス王女も、文字通り同盟者であるアリティアの王子と共に行く。王女だけをここに残して。
当然といえば、当然だった。アカネイア聖王国は解放された。これからするべき事は戦いではなく、荒れ果てたこの国を立て直していく事であり、それは同盟軍の仕事ではなかった。聖アカネイア国民と生き残った支配階級の者達、更に言うなら王女の仕事だ。
パレス解放後の会談において、聖アカネイアもこの同盟に参加する旨を明らかにした為、王女に近しい同国人達は皆、同盟軍に加入する事が決まっている。つい先頃、魔道士となったリンダは既に、政治的な事に関われない立場ではあったが、個人の自由意志として、これに同行する。つまり、王女の周囲には、彼女が気を許せるだろう相手が、誰もいなくなってしまうのだ。たった一人生き残った唯一の現人神として、超然とした姿を演じて、演じ続けなくてはならない。周囲に理解者は誰もいないまま。
リンダは、唇を噛み締めて俯いた。自分の思いに手一杯で、そんな事も思い付かなかった自分が恥ずかしくて、王女に申し訳ない。そして何より、だからといって「私は姫様の御傍に残ります」という一言が、どうしても言えない自分が嫌になる。だけど、王女の矜持を傷付けるだろう事が分かっているから、謝る事もできない。胸にしこる罪悪感は、ひどく重くて苦かった。
「なんて顔してるの。ただでさえ可愛らしさが台無しなくらい、痩せてしまっているのに。私には綺麗な顔だけを見せていて。また会える時まで覚えておくんですからね。その顔を」
そう言って、王女は微笑んだ。
「そう。笑って。お前は昔からの望み通り、魔道士になったの。それは喜ばしい事なのよ」
リンダは、その時できる精一杯の努力で微笑もうとした。だけど多分、それは泣き笑いの表情になってしまっていた事だろう。王女に、どのように説明すればいいのか。もうそれは、リンダにとってはどうでもいい事なのだと。今ではもっと大きな望みが、叶えられるのならば、王女を一人残していく事だって辞さない程に強い望みがあるのだと。
そのまま、王女の顔を見ている事ができなくて、リンダは俯いて視線を外し、ゆっくりと立ち上がると、先程までの王女のように顔を奥庭へと向けた。王女の前で表情を取り繕う自信がなくなっていたのだ。
もう何年も前の事だというのに、いや増して鮮明なあの夜の記憶を、リンダは誰にも語った事がない。それは決して誰にも踏み込ませたくない、リンダの胸奥深くしまい込まれた、リンダだけの秘密だった。
暗い夜。篠つく冷たい雨。少しも水に濡れない、暗い色の長衣。神の御業を超えた雷。薄く笑んだ白蝋のような肌の老人。最後の父の綺麗な微笑。
今でも、あの人が不意に空間を裂いて現れる。そんな気がする。何の気配も発せず、何の脈動もなく、そして、明らかにこの世界から異質なあの人が、今にもあの木立を割って。
その時、木々の間から一つの影が現れた。
急に硬直したリンダに、王女はいぶかしむように目を上げた。リンダの視線を追って、庭へと顔を巡らす。そして、すぐにそれを目に留め、一瞬大きく目を見開いた。
「失礼しました。御邪魔をするつもりではなかったのですが。…もしかして私は、入ってはならない場所に立ち入ってしまったのでしょうか」
「いいえ、決してそんな事はありません」
王女は小さく、くすりと笑う。
「よくお似合いですこと。それはマケドニアの姫からですの?それともタリスの方から?」
「マリア姫からです」
その青みがかった髪を飾る、白い花を基調に濃紫の小花を散りばめたような花輪は、何の衒いもなく微笑むアリティアの王子には確かによく似合っていた。
アリティアの王子を間に挟んだ、タリスの王女とマケドニアの二の姫の間に飛び散る火花に気が付かない人間は、滅多にいないに違いなかったが、もしかしたら彼は、その滅多にいない人間に属しているのだろうかとリンダがいぶかしむ程に、当の王子は飄々としている。有り体に言って、かなりのんきに見えた。それがアリティアの王子独特の雰囲気を醸している事もまた、事実ではあるのだが。
しかし、一見頼りなげなこの王子様がどれ程周囲の戦士達の忠誠を勝ち得ているのか、これまでの戦闘で納得済みのリンダは、王子の信頼性についてあれこれと思い煩う事は、取り敢えず止めにしていた。何といっても彼は同盟軍の盟主で、リンダはどうしても同盟軍についていく必要があるのだから。
「今日は、お顔色もよろしいようですね」
王子はそこで一度言葉を切って、小さく微笑んだ。
「オレルアン公も心配されておりましたよ。王女殿下が沈みがちな御様子なので」
「ハーディンが?」
王子によってもたらされたこの情報に、王女の表情が目に見えて明るくなる。頻繁に催される茶会の目当ては、アリティアの王子だと信じていたリンダは、少なからず驚いた。
「だけど、ハーディンは私には何も言ってきたりはしなくてよ」
「それはオレルアン公のお人柄もありますから。併せて、ご寛恕下さいませんか」
最近の王女はリンダ以外の誰も側に寄せ付けようとしていない。結果として、ハーディン公と接する機会というのもまた、なかったのだという事に、王女も気づいたようだった。
「姫様。そろそろお部屋に戻りましょう。それから、オレルアン公閣下をお呼びすればよろしいのではないでしょうか」
「ええ、そうね。ドレスも着替えなくては。…あら、ハーディンの為に着替える訳ではなくてよ、言っておくけど!ただ、少し寒いから」
その言い訳がますます本心を吐露している事に気づいていない。こんなところは、全く昔と変わっていない。
「ええ、判っております。やはり、オレルアン公は友国オレルアンの王弟殿下でもあらせられるのですから、私もきちんとした装いでお迎えするのが当然だと思います」
「そうよね」
満足そうに微笑んで、王女は立ち上がる。
「着替えます。手伝ってちょうだい、リンダ」
後を追って、リンダが簡単に王女の膝掛けを畳んで椅子の背に掛けながら、庭先を振り向くと、軽くこちらに騎士の礼を寄越した王子が、立ち去り掛けるところだった。花輪が木立の向こうに消える。相変わらず、何の気配も立てないままに。
アリティアの王子は、特定の人物をリンダに強く思い起こさせる。外見が似通っている訳では全くない。無意識の内に発する気の力も、印象の強烈さも比べるべくもないだろう。なのに、似ている。多分もっと、根元的なところで。
あの日、聖アカネイアを滅ぼした一筋の雷。それが魔道によるものだという事は、恐らく、魔道士ならずとも、勘のいい人間なら皆分かっただろう。そして、それこそ魔道士ならば、その雷を創り出した者の力量の程までも。事実、同盟軍に参加する魔道士は、「あれ程のものは大賢者か、その二人の弟子にしか創れない」と言い切った。…どうやら魔道士達の間では、父ミロアの評価はかなり高いらしかったが、その意見はリンダには首肯しきれなかった。少なくとも、父にあの雷は創り出せない。確かに父は強大な魔道士であったが、人知を超えるとまで言えるものではなかった。あれは人間業ではなかった。決して。
そして更に、当時、パレスに在住していた公爵家の若君が言ったのだ。「雷に呼応して攻め込むドルーア帝国の動きは、迅速すぎた」と。あの雷とドルーアとの密接な関連性を示唆するその意見を否定しきれる者は誰もいなかった。
ドルーア帝国の背後には、魔道士がいる。それも、とびきり強大な魔道士が。ならば恐らく、同盟軍についていけば、もう一度あの人に会えるのだ。
彼にもう一度、会う事。ただそれだけが、今現在のリンダの望み。リンダは、ドルーアに協力する魔道士の正体について、一片の疑いも抱いてはいなかった。
「リンダ?」
先を歩いていた王女の呼ぶ声が聞こえる。大賢者の弟子によく似た人を見送ったリンダは慌てて、王女の後を追う為に踵を返す。
もう一度会って、どうするのか。どうしたいのか。自分でもよく分からない。泣くだろうか。それとも、怒るだろうか。…いや、もしかしたら彼に言いたいだけなのかもしれない。最期の時、父に言いたくて、結局、言えなかった一言。
『何故』
そのたった一言を。
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