黄昏のオブリガート〜ミディア

丈なす髪は 金の絹糸
けぶる瞳は 青き貴石
細く なよやなその姿
その物腰は あくまで優美
青白き月光にすら 似た御身
まさに パレス至高の宝石

そこはまるで、天堂の花園。
引いた裾が優雅に翻る度、焚きしめた香が仄かに薫る。極上の絹に彩られた取りどりのドレスよりも尚、集った貴婦人自身が何よりも艶やかな華そのもの。そして、華から華へと巧みに泳ぎ渡る、洗練された物腰の貴公子達。
王宮内に存在する、大小様々な幾つもの広間は、晩餐会なり園遊会なり音楽会なり、年間どころか、一日を通しても何かしらの催しが執り行われているのが聖王国の常である。その際、催しの規模や主催、招待客らによって、使用される広間が違うのは当然であるが、王城の中央を貫く回廊に沿って設けられた円形広間で行われる夜会は、そんな王宮のどの催しよりも豪奢で華やかなものだった。
何しろ円形広間は、聖王陛下主催の行事にしか使われない。血筋の正しい王国貴族のみが招かれ、催されるその夜会は、まるで聖王国そのものの縮図のようでもある。
数にしたら、国民の中でもほんの一握りの貴族階級。その中でも王城に伺候できる者は更に少数だ。物憂い倦怠とそれを払う為の優雅な贅沢の中だけに生きる彼等には、大多数の民人の貧困も、城壁外で猛威を振るう流行病も届かない。それらは、最近マケドニア島に台頭してきたという新興勢力ドルーアよりも更に遠い世界の話であった。
彼等が『ドルーア』の名を耳にしたのは、つい最近の事である。といっても、奴隷を祖とする竜王国マケドニアに隣接する密林地帯に、未開人が集落を作っているらしいと聞いたところで、何をどうしようという心積もりもないのだが。
第一に彼等は、『ドルーア』という存在を、国として認知していない。そもそも、国として起つ許しを請う書状も何も、聖王国では受け取ってはいないのだ。この大陸世界の宗主国である聖アカネイアに、未だに貢どころか挨拶の使者一つ立てようともしない、最低限の礼儀さえも知らない未開人の集まり。それが『ドルーア』である。
そんな彼等に対して、誇り高き聖王国側から外交的な繋ぎを作るなど、絶対に有り得ない。
その上『ドルーア』などとは、この大陸世界の百年前の経緯を知るだけの教養と良識を持ち合わせていたら、決して口にはできないだろう名である。彼等自身がそう名乗っているという話であったが、その趣味の悪さだけ取っても、許し難いではないか。
聖王主催の夜会といえども、貴族の集い。最近のどの催しにも異ならず、やはり彼等が数人も集まると、話題は『ドルーア』が中心となる。詳しい会話に耳を側立てずとも、あからさまに侮蔑と嘲笑を交えられている事がよく判る調子の声がそこここで漏れ聞こえる広間を一人の貴婦人が、慎ましく目を伏せ、口元をそっと扇で隠すようにして横切った。
如何にも貴族の姫君らしい仕草であったが、思い切りよく伸ばされた背筋ときびきびとした足裁き、そして踝あたりで勢いよく翻るドレスの裾は、その女のお世辞にも淑やかとは言い難い性質を如実に示している。しかしそれは、男女を問わずほっそりと優雅な姿を持つ聖王国人の直中にあって、すらりと長身で、殆ど男性的な程にかっちりとした骨格の彼女には、却って似合いであるとも言える。
常に頭を擡げ、誇らかに胸を張っている。そんな雰囲気を纏った女は、聖王国の基準からは多少外れるとはいえ、なかなかの美女でもあった。華やかな夜会の席だというのに、深く眉根に刻まれた縦皺が、今日の彼女の鬱屈の度合いを如実に映し出してもいたのだが。
全く、詰まらない。人の輪に加わる気も起きない。
風一つない、暖かな温室をふわふわと漂う蝶達が、気安く口に上らせる話題。その数々が、事実、起こっている事なのだ、それが現実なのだという事を、本当に理解しているのかどうかすら、怪しいものだと彼女は思う。
彼等は夢にも思わないのだろう。彼等が「奴隷の国」と卑下するマケドニアの国力が、軍事力のみならず、経済の発展性、生産性においても、既に聖王国を大きく引き離しているのだという事。実質的な大陸世界の主権は、聖王国の手から離れて久しいのだという事など。
彼女自身、そうだった。王族警護の聖騎士団に入団し、王宮、それも政治権力の中枢に近い部分に触れるようになるまで、王の不興を買って失脚したかつての顧問官、魔道士ミロアの論を聞くまでは、聖王国の優位を無邪気に信じて疑わなかったのだ。
女は、周囲に人のいない、あまり人目にも付き難い一角を発見すると、すかさずそこを陣取った。彼女が、王妃王女両殿下の護衛としての立場ではなく、このような会に出席する事は、極めて珍しい。当然、こんな時に会話を交わす相手もあまりいないのが現状なのだが、何かを勘違いしたような男か、何やら嬉々とした様子で細々とした事を話し掛けてくる婦人の一団…彼女にとっては不可解な事に、その殆どがうら若い乙女達だ…が、常に出没するものなのだ。男は論外として、香の匂いのみならず、その会話にすら甘やかさが漂うような少女達と話をするのは、そんなに嫌いではなかったが、今日は婦人達にも捕まりたくはない。
しかし、アリティア貴族の母を持つ彼女の髪は、聖王国の金髪と言うには、かなり栗色に近く、このような生粋の王国貴族が一同に会すような場に於いては、それだけでもかなり目に付いてしまう。待ち人が現れるまで、邪魔されたくないのに。
「随分と、退屈されておられるようですね?」
いきなり掛けられた言葉に、女は扇の影で顔を顰めた。
「お一人ですか?」
今はね。
「お美しい女性がたった一人、このような場所で隠れているなんて、許される事ではありません。それは、大きな損失ですね」
余計なお世話だ。
心中で呟くが、相変わらず扇にその表情を隠して、口を開かない。その態度は男に対して、「あっちへ行け」とこれ以上ない程はっきりと語っているも同然だったのだが、彼は一向にめげる様子がない。更に続ける。
「女性を一人で待たせるなんて。相手の男も大概、気の利かない」
その時、初めて女は顔を上げて男を見た。
無造作に束ねた髪は、淡い金色。薄い水色の瞳が「神秘的」だと言っていたのは、どこの婦人だっただろう。その細密な美貌といい、白と金で彩られた衣装にしっくりと溶け込んだ様子といい、彼女自身よりも余程貴婦人めいて見える。どんな人物に対しても、全く同等の表情を見せるのだろうと容易く判る、如才のない、しかし、この上なく魅力的な微笑は、如何にも王国貴族の粋たる者の持ち得るものらしかった。
「こういう場でお会いするのは、初めてですね。やはり自己紹介から始めるべきですか?」
「いいえ。御労作頂くまでもありません。貴方を知らない人間が、この社交界に存在するなど、本当に御想像されている訳ではありませんでしょう?」
聖王家の分家に当たる公爵家の貴公子は、社交界に於いては殆ど『王子』として認知されている。多分、王太子自身よりも。今夜の夜会に出席できる人間ならば、そんな彼を知らない事など有り得ない。
当然、彼女も知っていた。聖王家に程近い血筋に於いてのみならず、彼は聖王のお気に入りであったし、王妃の茶会にも頻繁に顔を出している。王女の夫候補にも名が挙げられていたはずだ。
礼を逸しない程度に、にこやかに言葉は返したが、その目は多分、笑えていない。王国貴族にとって、人間関係を円滑に進める為に必須である、いわゆる感情を交えぬ微笑というものを作る事が、彼女はあまり上手ではなかった。
「貴女の御記憶の片隅にでも残っているのなら、このような立場も悪くないですね」
しかし彼は、全く無頓着な様子で、屈託なく笑って見せた。貴婦人に対する礼儀として気が付かぬ振りをしているのか、本当にその表情が読めていないのか、彼女自身には計り知れない。それ程、彼の作る表情は自然であり、如何にも本心を隠し通す事を旨とする王国貴族の技能に長けていた、とも言える。屈託のない微笑。屈託のなさ過ぎるような…。
「だったら、わざわざ名乗るような無粋な真似は止めておきます。ただ、貴女の事は何とお呼びすればいいでしょう」
彼女は、合点がいった事に対して綻びそうになる口元を懸命に引き締めた。道理で、敬語口調で接してくる筈である。気が付いていないのだ。彼女が王女の護衛官だという事を。
確かに、それも不思議ではなかった。常の騎士としての礼服と今夜の服装は、あまりにもかけ離れていたし、実際、社交の場に於いては、護衛官など存在しない者と見なされるのが通例だった。
そもそも、彼女の存在自体を知らない、という事も、充分に有り得る話なのだ。
「…私……」
彼女は如何にも、戸惑いと恥じらい故にどのように答えていいか判らないといった風な呈を装いつつ…これは、彼女の知る少女達の仕草を真似るだけでよかった…、さり気なく周囲に視線を投げた。逃亡先の算段が当初の目的だったのだが、現在、己の置かれている状況を見て取ると、素早く計画の軌道修正を計る。
何やら周囲の注視を一身に浴びているが、その割には誰も話し掛けようとはしてこない。〈王子殿下〉の邪魔をする程の根性など誰も持ち合わせてはいない、といったところか。
「メガイラ。私は、メガイラと申します」
女…メガイラは、今度は心からの微笑を返す。
ならば、待ち人が来る直前まで、彼につき合ってもらう事にしよう。彼女が誰なのか知らないのだとしたら、こちらも気が楽だ。
「メガイラ。…そのようにお呼びしても?」
「勿論」
誠に理想的な虫避けであった。
当たり障りのない会話を交えつつ、さり気なくこちらを覗き込むかのような仕草を見せる男に対して、彼女はより一層、扇の影に顔を沈める。
広げた扇を口元のみならず、殆ど目線の辺りにまで掲げた顔は、相手には殆ど見えない筈である。例え気付かれていないにしても、ひょんな事から不審がられ、思い出されてしまうかも知れず、彼女としても、相手の男の記憶力の限界を問う心積もりは毛頭なかった。
扇の影で、小さく欠伸を噛み殺す。
そろそろ、潮時かも知れない。
もう既にかなりの時間が経過している。そろそろ、相手が姿を見せても可笑しくはない。そして、何よりもそのような本来の目的が半ば口実と化してしまう程に、メガイラは目の前の男との、優雅であるとされる婉曲話法を多用しつつも、その実、内容に乏しい、ある意味、非常に王国貴族らしい会話に飽いてきてしまっていた。
「現在の国際情勢について、どのような御関心をお持ちですか?例えば、『ドルーア』などについては?」
兵を退かせる前に一度、大きく敵を怯ませる。退却戦の定石である。
遊び人の王子様は、急な話題の転換に驚いたように、その色の薄い目を見開いた。
「…それは、我が国にとって、という事でしょうね」
「勿論」
彼女はにこやかな微笑みと共に、出来うる限りの優雅さで小首を傾げて見せた。後は、再度、軽い攻撃を加えながら、退路を見定める。退却の時期を見計らうだけだ。
敵からの反撃に備える彼女に、男は小さく肩を竦めて見せた。
「ドルーアについては、それほど気にする事もないでしょう」
予想通りの返答であったとはいえ、メガイラは大きく眉根を寄せた。彼の返答に対して不快感を示す、と言うのは、当初からの計画の一部ではあったのだが、これは演技するまでもなかった。
明らかにその答えに納得していない視線を受けて、彼は続ける。
「楽観的に過ぎるとお思いですか?しかし、何よりも、マケドニアの新王が動いていない。それが証拠になりませんか?」
思いも寄らないところから繰り出された攻撃は、彼女の剣をはね飛ばしてしまった。つい、素直に驚きをその面に現してしまった女に対して、〈王子殿下〉は微笑み掛ける。先程の彼女を真似たように嫣然と、先程の彼女よりもずっと芳艶に。
確かに、自国に隣接する地に集まる勢力に対して、今までマケドニアは一切動こうとしなかった。しかしそれは、前王の急死、それに伴う王太子の新王即位と、マケドニア側としては、それどころではなかった事態が持ち上がっていたせいだろう。その甲斐あってか、現在マケドニアは、すんなりと新王を受け入れ、今まで通りの路線を踏襲して、むしろこれ以上ない程、平穏かつ平凡な統治体制を敷いているように見える。…平穏すぎる、静かすぎる滑り出しだ。
思いがけぬ国王の急死に際して起った若き新王が、遊興に耽ると諸外国にも名高い王子であったにも関わらず、その即位に際しての混乱も全く洩れ伝わってこないとは。
熱い血を持ち、自立心の強いマケドニア人気質は、概して野心家を育む。七大王国と呼ばれる国の中でも、最も簒奪者を生んだのもまた、かの国であった。そんな国の老練な重臣達が、その器でない者が彼等の上に君臨する事を潔しとするかどうか。果たして、宮廷内での風評は真実なのか。
マケドニア新王は、本当にぼんくらなのか?
有り体に言ってしまえば、そういう事だ。結局のところ、『ドルーア』に関する数々の議論の根の部分を理解するには、そこが本元の焦点であったのだ。
「彼は動かない。むしろ、事態を静観しているように見える。それは、そもそも動くまでもない小者だからか。それとも、一気に潰してしまう為の時期を窺っているのか。どちらにしても、我々が心配するまでもない」
その意見は、とても理路整然としていて分かり易かった。着眼点も悪くない。
メガイラは、慎重に扇を持ち直すと、改めて目の前の相手を見つめ直した。今度は真摯な、探るような瞳で。
しかし、それでも甘やかされた若君だと思っていた相手が思いの外、政治的な事に精通していたのは、結構な驚きだった。ただ、一歩間違えば、他者依存に繋がりかねないその意見は、彼女の趣味からはかけ離れていたが。
「随分と、マケドニア新王を高く評価していらっしゃるようですわね」
「かなり頭のいい男ですよ、彼は。老獪である、といった方がいいかも知れない。それでいて、ここ一番の実行力も兼ね備えている。これ以上ない程、扱い難い人物でしょうね。我が国にとっては。まぁ、尤も」
そこで言葉を切って、彼は優雅に微笑する。
「そんな事は、先刻御承知でしょう。文武両道の才色兼備で名高い護衛官殿は」
思いも寄らないその言に、硬直した彼女の手から、扇がこぼれ落ちる。それを典雅な所作で拾い上げた男は、如何にも彼の持ち物らしく長く形のいい、…ただ、思っていた程には脆弱な感じのしない指先で、開いたままの扇を器用に畳むと、さらりと彼女に差し出した。
まるで何事もなかったかのように。先程までと変わらぬ、身分の高い貴婦人を遇するのと寸分変わらぬ作法で以て。
「どうぞ。ミディア嬢」
完全に晒された顔を隠す事も思いつかない程、混乱の極みにいるミディアの目の前に在る繊細な美貌から、如何にも人の悪い笑みが透けて見える。
そんな気がした。
「まずは、この度の祝賀の儀、誠に慶賀に存じ上げます」
優雅に腰を折った男に、ミディアは思わず目を瞠る。その気配を察したのか、彼は悪戯っぽくにやりと笑った。
「不躾に失礼。本来ならば、陛下への報告を兼ねた謁見の後、あの男に紹介してもらうのが筋なのですが、逸る心を抑える事ができませんでした」
そう。きっと、彼女の恋人が彼に話したのだろう。長い間、許婚者同士としてあった彼女とその恋人の婚約がようやく正式に調ったという事と、今日はその報告と陛下の許しを得る為に、彼女が護衛としてではなく、この夜会に出席するという事も。
何しろ、彼はミディアの婚約者の親友なのだ。
「…とんでもございません。丁寧な御祝辞、ありがとうございます。ジョルジュ卿」
深く静かな一呼吸で、何とか表面上の平静を取り繕う事に成功する。その事実が安堵となり、真実の冷静さを急速に引き寄せさせる。が、それでも、浮かべた笑顔が多少の凄みを帯びているのは、如何ともし難い。多分、目も据わっているのだろう。しかし、ジョルジュは貴族の微笑を崩さぬまま、彼女の前で腰を折った。
「『卿』だなどと、他人行儀な。どうか『ジョルジュ』とお呼び下さい」
〈王子殿下〉が護衛官に『他人行儀な』ときた。全く、馬鹿にしている。
男の言いように更に腹を立てたミディアの声は、これ以上ない程、尖りきったものになる。
「私は、からかわれるのは嫌いです」
不愉快さを隠そうともせず、顔を背けた彼女に、ジョルジュは大仰に眉を潜めた。
「『からかう』なんて」
「もう何も仰らないで!」
被せられた言の激しさに、流石に鼻白んだのか、彼はようよう口を噤んだ。
沈黙。
でもそれも、ほんの数呼吸分の事でしかなかった。
「……私が、何かしましたか。お気に障るような事を?」
「何も喋るなと言ってるでしょう!」
「…それは、いつまで?」
「私が『いい』と言うまで」
再び、沈黙。今度は、彼が言葉を挟んでくるような気配もない。ミディアの頭に昇り切っていた血も、徐々に正常値にまで落ち着いてきていた。
そもそも、何で自分はこんなに高圧的な態度を取っているんだろう。それも相手は、王家の者ではなくとも、確かに王族の血を引いた〈王子殿下〉だというのに。
それは、彼がずっと彼女に、貴婦人に対するように接していたからだ。ミディアは彼を横目で見遣る。正体を見破られてしまった以上、もう顔を隠す事には何の意味もなかったので、邪魔な扇は畳んだまま、拳に無造作に握られている。その分だけ、相手の表情も読み取り易くなっていた。
彼は、護衛官の要求を守って、神妙な風情でそこに立っている。
私も、何をやっているんだろう。
「『自己紹介しましょうか』って仰ったわよね。何処で、お解りになったの?」
ジョルジュは、小首を傾げてミディアに微笑み掛ける。悪戯っぽく、子供のように。
「もう話しても、いいんですか?」
「…ええ、どうぞ」
ミディアは、溜息混じりに呟いた。
「まず、始めの御質問についてですが、貴女とこうして言葉を交わすのは、初めてでしたから。それに…、もし失礼な言質がありましたら、御容赦願いたいのですが…」
「是非、忌憚のない御意見を伺いたいわ。そもそも遠回しな言葉というものが、私、大っ嫌いなんです」
ミディアはにっこりと微笑む。が、その言動に込められた、今までの彼に対する明らかな嫌みに動じた様子もなく、ジョルジュは小さく咳払いをした。
「それはそれは。では」
そして、彼の口から流れ出た言葉は、声音さえもが先程のものとは大きく違っていた。
「何故、貴女を覚えていないなんて思ったんです?貴女は随分な有名人ですよ。魅力的な貴婦人の半分は、貴女の事が好きだと仰る。『若い女性の心を捕らえる双璧』と並び称される相手を知らない筈はないでしょう、幾ら何でも。それに、親友の奥方になるはずの女性に対する興味だってあったし」
滔々と淀みなく続いたそれは、率直ではあったが皮肉っぽく、ある種、ぞんざいですらある。その言葉の意味するところの大半は、ミディアには理解不能であったのだが、少なくとも、彼が初めからミディアの素性を知っていて声を掛けてきたのだ、という事だけは確かなようだ。その口調には、先程までの退屈な典雅さなど欠片もなかったが、肩を竦める仕草に残る物腰の優雅さは健在で、それが彼を不躾になる一歩手前で救っている。
多分、それが本来の彼に近い形なのだろう。例えば、彼女の婚約者の前で見せるような。
先程までに比べれば、ずっと好感の持てる人物であるのは間違いなかったのだが、それでも、コケにされたという感覚は、振り払い難い。
むっつりと黙り込んだミディアを気遣う素振りは、もう見せない。彼は、更に続ける。
「それにね。別の名を名乗って、最後まで騙しきるつもりだったんなら、せめてもう少し上手く立ち回った方がいい。幾ら何でも『メガイラ』はないでしょう。普通の婦人なら、そんな名は絶対、選びませんよ。如何に、その場限りの名とはいえ」
古代の復讐の三女神。メガイラは、その末妹の名である。背に持つ大きな黒い翼で、何処までも敵を追い掛ける姿は〈黄泉の猟犬〉とも称される。
王族女性の護衛官としては、ある意味、相応しかったかも知れなかったが、貴婦人が敢えて選ぶ呼称ではない。
「しかし、何故『メガイラ』なんです?」
『永遠の断罪』(アレクトー)でも、『殺戮の復讐』(ティシポネー)でもなく、よりによって『嫉妬する者』(メガイラ)。
「今の私にぴったりだと思ったからですわ」
ミディアは、鼻で笑った。本来、こんな対応が許される筈のない相手であったが、もう既に散々無礼な態度を取ってきている。ならば、最後まで無礼を貫いたところで状況は全く変わるまい。もうこうなったら、自棄だった。
「私、こう見えて狭量な質なんですの」
「と、言いますと?」
「婚約者を他の誰かと共用する気は、全くありません」
「…随分と大胆なお言葉ですね」
現状を把握した上でミディアが開き直る事は、もしかしたら、彼にとっては予想外だったのかも知れない。少し戸惑っているように見える。
「貴婦人らしからぬ、とでも?」
「いいえ、そんな無粋な事は言いませんよ。しかし、こう言っては何ですが、あの男に限って、浮気の心配は全く無用だと思いますが?」
「他に女なんて、作れる筈がないでしょう、あの人が。そんな甲斐性があるとお思い?」
「いえ」
既に彼は、タジタジだ。いつもは自信満々な〈王子殿下〉が。そう思うと、何だか可笑しい。つい、綻びそうになってしまう口元を引き締めながら、ミディアは更に言い募る。
「あの人は、ああいった性格ですから、もし何かあった時には、多分、私よりも親友を選んでしまう。そこが問題なのですわ」
三度訪れた沈黙は、先程までのものとは違い、深く重く、そして、長いものになった。ミディアは、少なくとも表面上は至極落ち着いていたし、ジョルジュは、真実、深く思案しているようだ。少なくとも、仮面の表情には見えない。ミディアの台詞を脳裏に反復して、懸命にその意味を捉えようとしているのがよく判る。
暫く固まっていた彼はやがて、その心中をそのまま表したかのようにギクシャクとした様子で、ミディアへと頭を巡らせた。
「……ええと、姫君。貴女の御心配は、もしかして…」
「私、貴方には負けません。それだけは、お伝えしておきます」
言いたい事を全て言い切って、すっきりとした面持ちのミディアが、優雅ではないが堂々とした、小気味いい所作でドレスの裾を翻して去っていく。
親友の婚約者ではあっても実際、彼女はかなりのところジョルジュの好みであったし、貴族同士の結婚が家と家との結び付きであり、彼女と親友とが幼い頃からの許婚者である事から鑑みても、ジョルジュの概念には、彼女との恋愛遊戯の支障になるようなものなど何もなかった。
それが為に口説き…そう!口説いていたのだ、ジョルジュは!!…、常ならば確実に相手を落とす美辞麗句の数々をあからさまに退屈そうに聞き流され、それでも、ようやっと彼女の注意を引く事に成功したと思ったら。
…何だったんだろう、あれは。
はっきりと示されたある種の恋敵宣言に、取り残されたジョルジュは、ただ呆然と突っ立っている事しかできなかった。
ここはまるで、天堂の花園。永遠の黄昏の国。
自らを囲い込んだ箱庭で生きる者達は、近付く嵐の激しさを知らない。
END・
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