地にある光〜チェイニー


天とその中に住む者たちよ 大いに喜べ
しかし 地と海よ
おまえたちは災いである
悪魔が 自分の時の短いのを知り
激しい怒りをもって
おまえたちのところに下ってきたからである

〈黙示録〉より



巨大な一枚板かと見紛うほどに隙間なく、様々な形の石で組まれた廊下を彼は、足早に進んで行った。その滑るような足取りは、彼をまるで夜行性の獣のように映させる。しかし、心持ち下方に向けられたその闇色の瞳には、何か物思うような色が浮かんでおり、それは少しも周囲に向けられてはいなかった。にも係わらず、今ある比較的横幅のある廊下を大通りとするのなら、まさに路地裏と言うに相応しい細い廊下に入るその動きには、些かの逡巡もない。
それはまるで、通い慣れた道を無意識の内に歩む人、とでもいうような風情であった。
その時、彼は足を止めた。顔を上げて振り返ると、長い黒髪が流れを作る。彼の後を追うように、反聖王国軍の盟主が駆けてきていた。もう程無く二十歳になり、玉座にもつこうという年頃の筈だが、彼の目には、いつまでも子供めいて映る、神剣王国の王子。
マルスは、足を止めて待つ彼に向かって、手を振った。
「チェイニー!」





「ああ、よかった。見失ったら、どーしようかと思った。チェイニー、足早いね」
「……王子。俺は…」
「広間の近くでチェイニーを見掛けて、つい、追い掛けてきちゃったけど、こんなところで一人になったら、途端に迷子だもんね」
「………王子…」
「だけど、何でナバールの姿になってるんだい?」
表情を浮かべない彼の顔を見つめる、その瞳に惑いはない。そんなマルスとしばしの間見つめ合い、…そして、彼は深く溜息を吐いた。
「…ちぇーっ。何でマルスには、バレちまうのかなぁ」
ナバールの声。ナバールの姿。しかしもう既に彼は、『ナバール』ではなかった。悪戯の見付かった子供のような表情で、彼…チェイニー…は頭を掻いた。
「そりゃあ…」
マルスが、悪戯っぽく微笑む。
「どんな姿をしていたって、チェイニーはチェイニーだからさ…」
マルスにとって、それは偽らざる事実であったろう。ナバールはナバールであり、チェイニーはチェイニーである。彼等の『体』という器に『魂』という中身があって、彼等自身を形作る。外見だけではないのだ。そして今、マルスの目の前にいる男は、『ナバール』を演じるチェイニー以外の何者でもなかった。
しかし、「だけど、ナバールの真似、上手いね」と、笑って続けるマルスに対するチェイニーの反応は、マルスが戸惑うほどに、静かだった。俯いた『ナバール』の顔に闇色の髪が掛かって、その表情を隠すと、全く感情が読み取れなくなってしまう。
「…チェイニー?」
チェイニーの顔を心持ち見上げるように覗き込んだ…『チェイニー』は、マルスとあまり身長差がないが、『ナバール』は頭半分ほど背が高い…マルスの耳に、掠れた呟きが届く。
「……すっげぇ殺し文句…」
「え?」
伏せられていた顔が上がる。チェイニーの瞳は、普段のおちゃらけた彼を窺わせないほどに真摯だった。そんな彼に言葉もなく唯見つめられて、マルスの問いは喉の奥に消えた。
それは、不思議な空間。人の一生など、それの過ごして来た年月に比べれば、ほんの瞬きの間に過ぎないのだろう昔から存在する、時間を止めた遺跡の中で、『ナバール』の姿をしたチェイニーと向き合っている。
先に視線を外したのは、マルスの方だった。これは、珍しい、どころではない。皆無である、と言ってよい。マルスは、決して人から目を逸らさない。相手がマルスの直視に耐えられない事は、多々あるにせよ。しかし今マルスは、彼自身、今まで体験した事のない類いの感覚に、ひたすら狼狽していた。
何故、動悸がするのか、解らない。なんだかとても、息苦しい。一体、どうしたと言うのだろう。
「…だけどチェイニー、どうしたんだい?こんな夜中に。もう皆、寝ているよ。明日も早いし、大変だから」
視線を外したまま早口に喋るマルスに、チェイニーは目を瞬いた。その頬にうっすらと血が上っている事に気付いたのかどうか。先程とは打って変わって、面白そうな光を浮かべた瞳でマルスを見つめる。それは、よく知っているチェイニーのもので、マルスもほっとしたように微笑んだ。それと同時に、先程までの不可解な体調の変化が治まっていた事もまた、マルスを安堵させていた。
「その『明日』の為に、やっとかないといけない事が…」
言い掛けてチェイニーが、口を噤む。今度は、何か値踏むような視線をマルスに流す。
「…まぁ、いいか…。来いよ。お前にだけは、見せてやってもいいや」
自身に向かって呟いた後、チェイニーは身を翻しながら、後方のマルスに悪戯っ子のような笑みを投げる。それは、「宝物を見せてやろう」というガキ大将のようで、マルスもまた、微笑ましさと確かな好奇心とで、足取りも軽く、彼の後をついていく。



闇に沈んでいたその部屋に、チェイニーが迷いなく足を踏み入れた途端、そこは仄かな光に照らし出される。マルスの目の前に広がっていたのは、彼が今まで想像もしたことのない程に、不思議な光景だった。そこには、今まで見てきた、塔内の他の部屋のような装飾は一切なかった。窓一つない、変につるりとした白い壁と床はまるで、つい先程顔料を塗ったばかりであるかのようで、時の流れを受け入れるのを頑強に拒んでいた。確かに、さして大きくない部屋ではあったが、ひどく狭く目に映る。がらんどうで、何もない場所であるにも係わらず。
いや、『何もない』訳ではなかった。マルスは、部屋の中央に目を向けた。『それ』だけが、この白い部屋の中で唯一の物である、と言えた。透明な台の上に置かれているため、ちょっと見には『それ』は、まるで宙に浮いているかのようだ。石でもなく、金属でもない。マルスの知らない、暖かみと丸みを感じさせる材質で作られた箱のように見える。一抱えほどの大きさの『それ』の前でチェイニーは、マルスに背を向けていた。チェイニーの指が、『それ』の鍵盤状の物の上を軽やかに踊ると、その表面を光る文字のようなものが流れていく。
「…何せ、ざっと100年は使われてなかった代物だからねぇ。でもまぁ、動きゃ何とかなるだろ」
はなはだ不安な独り言を洩らしたチェイニーが、これが最後、といった様子で、強めに一つ鍵盤を叩くと、表面の文字が流れを止めて、数回、点滅し、そして消えた。
「よし、OK。これで明日、飛べる」
「…『飛ぶ』?」
「ああ。久々に大所帯の転移だけど…って、判らないよな。悪い。つまり、ガトーがお前達をここに呼び付けたのって、『これ』の所為な訳」
チェイニーが『それ』を軽く叩いた。
「氷竜神殿なんて、人間が歩いて行けるような場所じゃない。雪すさぶ高山だもんな。飛竜にだって越えられない難所だろうよ」
マルスの顔が固く引き締まるのを見て、チェイニーは小さく笑う。
「だから、俺が来たんだ。…お前を助けにね」
マルスが問うような視線を投げると、チェイニーは長い黒髪を打ち振るって、再び『それ』と向かい合った。
「ディスプレイの内容をスクリーンに投射する。それで説明した方が、判り易いだろ」
室内の光量が落とされ、周囲が薄暗くなる。途端に、壁に一枚の絵が浮かび上がった。四方の壁のみならず、床天井にも繋がった球状に描かれた巨大なそれが何なのかは、すぐに判った。
地図だ。幾つかの大陸が存在する地図。大陸にはそれぞれ、小さな光が無数に散らばっている。前方の比較的大きなものは、アカネイア大陸によく似た形をしていた。
「これがアカネイアだ。で、この光は全部、塔のあった場所。…昔は、この塔みたいなのが、たくさんあったんだよ。塔と塔は相互のネットワークで繋がっていて、簡単に移動する事ができた。つまり…」
目の前で、光点と光点とが線で繋がれた。一本しか線のない点。たくさんの線を持っている点もある。そういった点と線が相互に結び付きあって、まるで網の目のように大陸全土を覆っていた。
「こんな具合。線で繋がっている所へなら、何処にだって一瞬で移動できる。…まぁ、場所限定の転移呪法が無制限に使えるって言った方がいいか。それで、今」
光点が消えた。全てではなかったが、先程までの光と比べて、それは如何にも少なかった。線を持たない光点もあった…こちらの方が数が多い…が、十にも満たない光がそれでも、線で結び合っていた。しかしもう既に、大陸全土を、という事はない。一つの光から出た線が他の光との間を結び、…しかし、そこまでだった。その光から再び繋がるべき光点は、存在していなかった。それはもう網の目ではなく、ぷつりぷつりと途切れた線に過ぎなかった。
「これが、テーベの塔だ。ここから、こう…」
チェイニーが、一つの光点を指し示し、線を指先でなぞっていく。
「ここに着く。…今じゃ『フレイムバレル』って呼ばれてる所だ。そこから、ここを越えて」
そのまま、指は真っ直ぐに一つの山脈とその裾野に広がる平原を突っ切り、新しい光点に辿り着いた。
「ここ。ここからまた転移。そこからはもう、氷竜神殿に至る駅、…塔はない。…ネットが使えなくなった分、足で稼がなきゃならなくなった訳だけど、これなら何とか辿り着ける筈だ」
「……それが本当の『アンリの道』なんだね…」
「そうだ。アンリ以後、このネットを使った人間はいない。アンリ以前も、永い間いなかった」
アンリの道。百年前、アリティアの青年が聖アカネイアの王女を、ひいては世界を救う為、歩んだというそれは、そのまま、英雄への道でもあった。死後、己の血を引く者をすら、人々に神聖視させてしまう程の英雄。でもそれはきっと、アンリ自身が望んだものではなかった、とマルスは思う。アンリが救いたかったのは、『世界』でも『聖王家の王女』でもなく、アルテミスという名の小さな少女であったろう。
マルスは、先程チェイニーの示した道程を目で追った。それは遠い。塔から塔への転移を行った分を差し引いても、なお遠い。命の保証すらないその道に、彼はたった一人で旅立った。それの為なら己の命を捨て去る事もできる程に、大切な者を見出していたから。きっとそれだけが、彼の光。彼を『光の公主(スターロード)』たらしめていたもの。
何と幸福な。
『英雄』などにならなくても、それだけで、アンリは人も羨むばかりの幸せを手にしていたのだ。
そして今。再び『聖王家の王女』の為に、闇に憑かれた男がいる。
全ては『聖王家』故に…。
マルスは固く目を瞑って、己の想念を払うように軽く頭を打ち振るった。今は、運命論などに囚われている場合ではない。
「…だけど凄いね。こんな事ができるなんて、今まで聞いた事もないよ。これも魔道の一種?」
部屋に入ってからこっち、見た物聞いた事を全て『魔道』と括ったマルスは、チェイニーを振り返った。その口調は明るく、素直な感嘆に溢れている。チェイニーは、自然に口元が緩んでくるのを感じていた。畏怖や畏敬、そして反発と嫌悪をこそ招きかねない代物を見せたというのに、マルスの反応は嬉しくなるくらいにチェイニーの思った通りのもので、胸の中に暖かいものが溢れてくる。
「うーん。そうとも言えるかな。『科学』っていう名の魔道だな」
チェイニーが手元の鍵盤に手を滑らせると、壁の絵が消え、再び世界は白い空間に戻る。
「大昔に滅んだ種族の遺産だよ。もう壊れて、単なるガラクタになっちまったものも多いけど、まだ生きているシステムもあって、こうして俺達の役に立ってくれる」
遥かな過去、彼等の世界全てを包み込んだ転移網(ネットワーク)は、一族から時間と距離の意味を失わせた。偉大なる帝王と大いなる科学、深淵な精神とに支えられた、優美な一族。貪欲でさえあるその知識欲は、彼等を遥かな高みへと駆け昇らせる。
世界の果ての果ての果て。大陸全土。海を渡れば、他の土地。地上のみならず、地中、海中、空、そして、宇宙へ。全てを知りたいという欲望は、彼等の転移網をひたすら外へと広げていく。それは、彼等の精神的征服地を意味していた。
ついには、星系全域にまでその版図を広げた時が、彼等一族の頂点であった。その時は誰一人として、現在の姿を想像する者すらいなかったに違いない。
今は昔。過ぎたる過去は、ただ、砂に埋もれていくのみ。
「…本当に凄いよ。だけど…。こんなに凄いものを作り出せる位に優れた種族が、何で滅んでしまったんだろう…」
「……優れていたから…かな」
溜息混じりに洩らされた、問い掛けにもならない呟きに対する答えが与えられた時、返ってマルスは驚いた。
「どういう意味?」
チェイニーは、ゆっくりとその場に腰を降ろして、胡座をかいた。膝に肘を立てて、顎を預けた姿は、『ナバール』の長い手足を持て余しているように見える。背を丸めたその姿勢のまま上目遣いにマルスを見上げ、チェイニーは自分の隣の床を軽く叩いた。…座れ、という事らしい。何も言わずマルスが座ると、チェイニーは徐に口を開いた。
「つまり、知識欲が問題だったんだ」
チェイニーは、顔は前方に向けたまま、視線だけを横のマルスに流す。よく理解できないマルスは、体ごとチェイニーに向き直った。
「知識欲。…何でも知りたい、っていう欲望。世界中のもの全部を知る為に、外へ外へと膨らんでいったその種族は、一種の飽和状態になっちまったんだ。もう外への壁が見えてしまった。だけど、『知りたい』っていうのは、その種族の本能みたいなもんでね。捨てる事はできない。…で、どうするか」
どうしたと思う?
チェイニーの瞳の語る問いに、マルスはゆっくり頭を振る。
「外が駄目なら、内側だ。世界全体の大宇宙に対する小宇宙。自分自身。医学に対する挑戦だ。医学っていうのは、ぶっちゃけた話、死なない為の技術さ。死亡率は激変した。だけど、生物っていうのは上手くできててね、死ななくなると、生まれる子供の数も減ってくる。老人はどんどん増える。対して、子供の数は減る一方。これでは社会が成り立たない」
話をどこまで理解しているのか。チェイニーの視線の先で、マルスは無言のまま、彼の言葉に耳を傾けている。
「…このままでは、種族存続の危機だ。だけどその頃、全く新しい技術が開発されてね。当面は、それで乗り切ろうって事になった」
「…『新しい技術』?」
「老化を極端に遅らせる事に成功した。…子供は、ずっと子供のまま。老人は、ずっと老人のままだ。…もうずっと前から、病気も克服されていたし、事故の場合の治癒技術も発達していたしね、これでまず死ぬ事はなくなった。誰もが『死』からの永遠の解放を謳った。…誰も気が付かなかった。それが滅びの原因になるなんてね」
理解していなくても、構わない。チェイニーは額に落ち掛かった不揃いな前髪を掻き揚げて、己の語る皮肉な結末を嘲笑う。
「『当面を乗り切る』どころか、もう子供を生む必要がなくなっちまったのさ。誰も死なないんだから。その種族には、底無しの知識欲を充分満たせる時間が与えられた。だけど不幸な事に、知識の方は底無しって訳じゃなかった。世界中全部、喰らい尽くしてしまって、『知りたい』というその本能は満たされなくなってきた。だけど、時間は腐るほどある。…そうして、やっと気が付いた。自分達は、『死から解放』された訳じゃなくて、『死に見捨てられた』んだって事にね。死ななくなったら、それはもう生物じゃない。…後は、誰も死なない、生まれない世界だ」
生きながらも、屍のような人々の群れ。彼等は緩慢に、しかし、確実に忍び寄る滅びに、争えない。既に、滅ぶ事がたった一つの救いだったのかもしれない。
「…アリティアにね」
長い間、黙ったままだったマルスが、口を開いた。チェイニーは空を見上げていた瞳をマルスに移す。
「こういう言葉があるんだ。『流れ水は腐らない』。…そういう事なんだね」
チェイニーは虚を衝かれたように、目を見開いた。改めて、マルスを見詰め直す。マルスの瞳は、その口調と同じように静かだった。
「…そうだな。流れない溜まり水が、澱んで腐っちまった。そういう事だ」
チェイニーは、その目を眇めた。
全てを理解できている筈はなかった。だけど目の前にいる、アンリの髪を持つ王子は、驚くばかりの聡明さで以て、チェイニーの話を飲み込んでいる。
歴史的視野を持つ理解力。外見に惑わされず、真実を見抜く観察眼。臆することなく、他者に対する精神力。戦場で示される意思力。その圧倒的なまでのカリスマ性。…その魅力は、王子自身、気付いていない。彼に向けられる人々の敬愛と忠誠は、『アンリの血』へのものではなく、マルス自身に対するものだった。
政治家であり、外交官であり、学者であり、戦士であり、…人々の信仰の上に君臨する法王でもある。言葉通りの『絶対君主』。
(………世界征服も夢じゃないな)
それは歴史上、稀に見る人物像だった。しかし、チェイニーの過ごしてきた永い年月の中に、確かにその存在を見た事があった。それは昔。遥かな昔。
「…チェイニー?」
チェイニーの姿が変わる。長い黒髪の色が褪せ、夕焼け空のような茜色に。切れの長いきつい瞳は、猫のような光を放つ。あっという間に、細身ではあったが鍛え上げられた筋肉のついたその長身が、ほっそりとした少年のものへと変化する。
目の前にいるのは、『チェイニー』の姿をしたチェイニー。
元に戻ったばかりの、彼自身の細くて長い腕が、マルスの首に絡められた。
「……チェイニー…」
(……竜帝陛下)
それは、彼等一族の永遠の皇帝。『ナーガ』の名で呼ばれた、彼の兄弟。
(…あいつは、いけ好かない奴だったけど…)
好意と忠誠心は、別物だった。あの男の輝きは、いつも己を引きつけて止まなかった。チェイニーにとって、彼はたった一人の王。
「チェイニー」
耳をくすぐるマルスの声が、気持ちいい。『ナーガ』と同じ輝きを秘めた人間。マルスの首筋にその唇を付けたチェイニーは、くすくすと笑う。そうとも。好意と忠誠心は、別物だ。
「…ちょっと、チェイニー」
彼の笑いが起こした息がくすぐったかったのか。今まで、さしたる抵抗を見せなかったマルスが小さく身を捩った。チェイニーは、ゆっくりその身を起こす。マルスがほっとしたように体の力を抜いたのも束の間の事。今度はチェイニーの手は、マルスの頬を滑って、その髪へと絡められた。不意に引かれる手。マルスの視界一杯にチェイニーが広がって、近付き過ぎた視点がブレる。唇に押し付けられたその感触は、冷たくも柔らかかった。
「……変身しないのかい?チェイニー」
平然とした調子で言ってのけたマルスに、チェイニーはその目を瞬く。数瞬後、その言葉の意味がチェイニーに理解できる形に翻訳された。
今までも度々チェイニーは、『マルス一途』な忠義の人々に内緒でマルスの口付けを盗んできたが、それは全て『変身の為』という大義名分に隠れての事だった。その唾液から遺伝子情報を取り込む。それは嘘ではない。ただ、額に滲むその汗に指を触れさせる事での『取り込み』も可能である、という事実を、マルスには話していないだけで。
「今回は変身の為じゃないの。これは、単なるキス」
キスするのに他人の恰好したまんま、なんて無粋だもんねぇ、と明るく続けるチェイニーは、全く悪びれない。対するマルスは、まるで状況が判っていないようであった。
「………キス?」
「そう。キス」
にっこりと笑ってチェイニーは、マルスの肩に腕を掛け、首の後ろでその手を組ませた。そして、マルスの瞳を覗き込むと、途端に彼の顔は火が付いたように赤くなる。
「…っ、チェイニー。『キス』って…」
「うん?もっかい、やる?」
間髪入れず、唇を押さえたマルスがふるふると首を振る。その顔は赤いままだ。
「あっ、そーいう態度は傷付くぞ。そんな露骨に嫌がんなくてもいいじゃないか。もう何度もやってきた事なのに」
「『何度』もなんてやってないよ。あれは『必要な事』であって、そういうのじゃなかったじゃないか」
「………………」
どうやらマルスにとって、行為が同じであっても、目的が違えばそれは全く別物になってしまうらしい。『変身の為の接触』は『キス』ではない、という訳だ。…ここで、『遺伝子の取り込みは、一度行えば体内に情報が蓄積されるから、二度はしなくてもよいのだ』などという真実を話したら、どうなってしまうのだろうか。
チェイニーは、先程とは打って変わって、狼狽にじたばたするマルスをそのまま引き寄せ、がっしりと抱え込んだ。
どうせ話す気などないのだから、考えても無駄だ。
どこまでも己の利のみを追及するチェイニーには、自己中心の根性が染み付いている。



たったひとつの『光』のためにのみ、『世界』は存在しているのだ。



END







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