人々に浄福を〜エピローグ

早朝の光が、天井全体を仄かに発光させ、そこに施された彫刻を効果的に浮かび上がらせている。塔のほぼ中央に位置し、したがって陽光など差し込みようのない場所のはずなのだが、一体、どのような仕掛けになっているものなのか。オグマには、皆目見当のつかない事であった。白い石の際立った陰影を仰ぎ見ていた頭を戻し、周囲に目を配る。もうまもなく、決められた集合時間になる。集合場所は、この広間。殆どの者が、昨夜ここで過ごした為、今いない者の方が少ないくらいだった。
マルス王子。昨日、急に『案内人』として現れたチェイニー。そして……。
いきなり、サムトーがオグマの背中にへばりついた。それとほぼ同時にオグマも、たった今広間へと入ってきた『彼』に気が付いていた。
ナバール。
彼は周囲に目を向ける事なく、近くの壁に身を預けると、腕を軽く組んで目を閉じた。外界の一切を遮断したその様子は、いつものナバールそのものだった。…昨夜の事など、初めからなかったかのような態度である。
「…おい、サムトー」
オグマの声が聞こえないのか。サムトーはオグマの背中で固まっている。
(……気持ちも判らんではないが…)
これでは、身動きもままならない。オグマは、小さく息をついたが、心を鬼にして、再び口を開く。と、その時。
背中に、ドン、と軽い衝撃が走った。
驚いて顔を後方に向けるとそこに、仁王立ちのユミナがいた。彼女はオグマの背をきつく睨み付けている。その手には杖がしっかりと握られており、救難呪法の媒体ともなるそれは、ユミナが片時も手放したことのないものだが、その頭部は今、サムトーの背に抉り込んでいた。木彫りの杖の頭部に収まっている薔薇水晶は球体なので、大した怪我はしないだろうが、己にまで衝撃が感じられたくらいだから、サムトーはかなり痛かったのではないだろうか。
そんなオグマの思考を裏付けるように、今まで少しも動かなかったサムトーが、奇声を上げて飛び退いた。
「…ってーっ!!何すんだ、このガキーッ!」
「オグマにベタベタするなって言ったわよ、私は。物覚え悪いわね。頭悪い証拠よ、それって」
激昂するサムトーとは対称的に、ゆっくりと杖を引き己の脇についたユミナはあくまでも落ち着き払って言う。
「なんだってんだよ、お前には、関係ねーだろー!」
言うなりサムトーは、すかさずオグマの背中に避難した。
「すぐ暴力に訴えてんじゃねーや、暴力女ー。王女だか知んねーけど、別に俺はお前の臣下でも何でもねーんだぞー。威張ってんじゃねーよー」
「………サムトー。俺の背中でガアガア言うのはよせ…」
ユミナが杖を再び取り上げて構えると、サムトーは頭を引っ込める。彼女が杖を勢いよく振り上げると同時に、サムトーの救い主は現れた。ユミナの頭上から声が降る。
「王女殿下。己の感情のままに行動するのは、魔道に手を染める者として、最も危険な事です。己を押さえる、という事を学んで戴かなくては。それに、大事な杖にこのような使い方をなさるものではありませんね」
そのままの姿勢で固まったまま、思わず天を仰ぎ見る。神剣王国の魔道士がそこにいた。
魔法都市に身分の上下はない。あるのは、個人の魔道士としての才による格のみである。例え、騎士王国の王位継承権保持者であろうとも、魔法都市ではユミナは単なる駆け出しの白魔法士に過ぎない。そのユミナにとって目の前の魔道士は、いわゆる『雲の上の人』であり、その言葉は何をおいても尊重すべきものであった。
「…私が軽率でした。これからはもっと、心を砕くよう努力いたします、マリク殿」
硬い表情のままに言葉を紡ぎ、ユミナは己の杖をその腕に、今度は大切そうに抱え込む。その様に、マリクは微笑みを浮かべてゆっくり頷いた。そして、ユミナに対するよりも幾分儀礼的な微笑をオグマに移す。
「大変ですね、色々と」
その意味ありげな物言いに、オグマは眉根を寄せた。
「…お前、昨夜…」
聞いていたのか、と、最後まで続けるまでもなく、マリクが口の端を持ち上げた。
「これでも、魔道士の端くれですからね」
どんな時でも、気の流れを読むのが、魔道士の基本ですから、と自称『端くれ』の魔法都市屈指の天才は、軽く受け流すように笑う。…オグマは彼が苦手だった。嫌っている訳ではない。ただ、苦手なのだ。骨の髄まで戦士であるオグマにとって『魔道士』とは、物の考え方もその行動も全く理解の範疇外、という未知の存在であり、特にマルス王子の幼馴染みだというこの青年は、その筆頭のようなものであったから。そして彼はいつもの余裕たっぷりの、しかし感情を含まない微笑を投げる。
「お望みとあらば、すぐに忘れます」
諸事に執着を持たないのも、魔道士の心得のひとつなのだそうな。ちょっとした脱力感を味わったオグマに軽く手を挙げる事を挨拶に代えて、マリクは急に慌ただしく身を翻した。何事か、と透かし見ると、マルス王子とチェイニーが共に広間に現れたところだった。
「マルス様。昨夜は一体どちらにいらっしゃったんですか。寝室にもいらっしゃらなかったし。このような場所でお一人になるのは、危険です」
心配を刻んだマリクの声。この魔道士の、こんな声や表情を向けられる人間など、オグマの知る限りでは片手の指の数にも満たない。その事実を果して知っているものか。マルスは己の幼馴染みに軽く笑い掛ける。
「心配症だね、マリクは。大丈夫だよ。チェイニーと一緒だったから」
マリクは、「『このような場所』ってのは、どーいう意味だ」とブーブー言うチェイニーに目線を当てる。その視線の奥にあるものを感じ取ったのか、チェイニーが人の悪い笑みを浮かべた。
「二人だけの一夜を過ごしちゃったんだなー、これが」
だから、今まで一緒だったの♪
ぴしり。空気が鳴った。…比喩ではなく。
「…マルス様?」
問い掛けを含んだその声に、マルスは戸惑うように二人を交互に見比べた。
「…ごめん、マリク。『秘密』って約束したんだ…」
見間違いなどではなく、確かにマルスの頬は赤らんでいる。
周囲の温度が、急激に下がり出していた。…これも、比喩ではない。
魔道士としての訓練によって押さえ込まれた、彼の内の感情の燻りは、そのまま指向性を与えられない魔力の燻りとなって、周囲の空気を凍て付かせていく。…どうやら、彼の好んで使う凍結呪法が発動しかかっているらしい。あっという間に、彼等の周囲から人々が消え去った。
「………ユミナ姫」
「……何?」
「魔法というのは、呪文を唱えなくても使えるものなんですか?」
「魔道で一番大事なのは、自分の精神の集中力。呪文と印は、つまりは集中力を高めて、魔力の方向を定める為のものなの。高位の魔道士になると、簡単な呪法になら詠唱はいらない、という人もいるって聞いたけど…」
どうやら、彼の優秀さが徒になってしまったらしい。
「………ユミナ姫」
「……何?」
冷気はゆっくりと、しかし確実に室内に広がりを見せている。
「姫は、『己を押さえ』過ぎない方がいいと思いますよ」
「……うん」
マリーシアの朝の祈りが呟きのように聞こえる。それは現状にそぐわぬ、ひどく平和な情景を醸していた。超がつく程の現実主義者である彼女が、『神の栄光』など少しも信じてはいない事をユミナは確信していたが、その音楽的な声の奏でる神聖賛歌は、彼女の神への真摯な愛をつい信じてしまいそうなほどに、流麗で美しかった。
「…いと高きところにまします父なる神よ。天に於いて光あるように、地にある全てのものに平和を。汝が愛し子たる人々に、浄福を与えたまえ…」
END・
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