天上の平和〜サムトー


星の海を越えし神 地に降り来たりて 人にいう
聞くがよい
我 汝らを造りし者

神は人を守り 人に与え 人を治め 人を喰らう

〈口伝〉より



一切、水分というものを含んでいないのではないだろうか、と思えるほどに乾ききった空気が、熱風となって襲い、彼等の滲んでいたはずの汗さえも、一瞬にして蒸発させる。無情にも己の体の中、全ての水分を奪い取るかの如き砂漠の風は、敵にも等しく吹いているのであろうか。
容赦なく照り付ける太陽は砂を焼く。その照り返しは瞳を闇に閉ざし、熱気は陽炎となって立ち上ぼり、足元から肢体全体を包み込んだ。その場で立ち止まっただけで、砂はじわじわと崩れて、その足に縋りつくかのように、彼等を地中へと誘う。ゆっくりと、しかし、確実に。このままでは、それこそ砂地獄にはまった蟻のように、体ごと砂に飲まれてしまう事が判っているから、一時も足を止める事はできない。
立ち止まる事。それはそのまま、『死』を意味していた。


ここはマーモトード。『死の砂漠』と呼ばれるところ。




ナバールが行軍に加わってからというもの、サムトーの様子がおかしいという事は、心配も露わなマルスからの相談を受けるまでもなく、オグマも気付いていた。
誰に対しても物怖じしない人懐っこさと憎めない陽気さ。細かい事は一切気にせず、どんな絶望的な状況に陥ろうとも、『何とかなるさ』が生活信条、という彼が、ナバールの姿を見掛けただけでその身を縮め、遁走しようとする。それは殆ど、条件反射的なものになっているらしく、戦闘中、最前線に走り込み、敵と対峙した際、数回剣を合わせたのみでいきなり敵に背を向けた事は記憶に新しい。共にいたオグマが咄嗟にその敵を切り捨てなければ、地に伏していたのは、サムトーの方だったろう。…その時、サムトーの視界に辛うじて入ったであろう場所では、ナバールが並み居る敵を次々と切り伏せていた。
今後、このような事があっても、再び彼を助けてやれるとは限らない。戦場では、いつも己一人なのだ。一瞬の空きが反応の遅れとなって現れ、勝敗を分ける。一度でも負けてしまえば、そこで全てが終わり。敗者に与えられるのは、ただ、死のみだ。運がよければ速やかな、悪ければ緩慢な苦痛に満ちた、という違いはあるにせよ、結果は同じ。どちらの場合であっても、動かし難い終結。それが厭なのなら、己の命は、自身で守るしかない。絶え間ない戦闘の繰り返しの中、己の生を更新し続ける。いつとも知れぬ先、きっと戦が終わるであろう未来まで勝ち続ける事によって。それが戦いというものだから。
だけど、このような状態のままでは、彼が命を落とす日もそう遠くないだろうとすら思われて、オグマは深く息を吐いた。
確かにサムトーには、『ナバール』を語っての傭兵稼業を続けていたという負い目がある。しかし、それをここまで気にするものだろうか、あのサムトーが。
(有り得んな、そんな事は)
彼のしていた事は純然たる詐欺行為であり、普通は罪悪感なり、…少なくとも、バツの悪さなりを抱くものであるのだろう。しかし、サムトーに限って、それはない。オグマには断言できた。少なくとも、オグマの知る、10年前のサムトーであれば。……そして、再会からこっち、彼との間の空白の10年間など、初めからなかったような気さえするほど、昔のままにサムトーに懐かれまくっているオグマは、彼が全く変わっていない…進歩していない…という事を、身を以て知っていた。
ならば、何故だろう。
顔はもう眼前へと迫ったテーベの塔に向けたまま視線を流して、今まで思考の中心にいた人物の姿を捜す。すると、それはすぐに目に入ってきた。オグマから少し離れたところを、崩れやすい足元の砂のみに神経を集中させ、サムトーはひたすらに歩みを進めているように見えた。…が、ナバールの姿は見当たらなかった。先に塔に入ったマルス王子の部隊と一緒なのかもしれない。
「……どうしたの?オグマ」
横にいたユミナの訝しげな声に、オグマは我に返った。
「…何がです?」
「何だかさっきからずっと、上の空だから。…サムトーの事、気になるの?」
ずっとオグマの様子を窺っていたらしい。彼の先程までの目線の先にいるサムトーを確認するように流し見て、ユミナはすぐに視線を真っ直ぐにオグマに当てた。
「サムトーがまた何かやったんだったら、私に言いなさい。とっちめてあげるから」
よほどサムトーと性格が合わないのか。それとも、サムトーのオグマに対する態度…半ば、甘えの混ざった懐き方…が気に入らないのか。……多分、両方なのだろう。その気性そのままに、きっぱりと言い放つ騎士王国(グルニア)の王女殿下と脳天気なお調子者の傭兵とのオグマを挟んだ言い争い(バトル)は、命の取り合いに終始する戦場に生きている戦士達に恰好の娯楽を提供する形になっていた。…当人達にとっては、非常に不本意な事ではあったが。
前回…それは、ほんの数日前の事だった…の騒動を思い、オグマは怒ったような目したユミナに苦笑を向ける。
「大丈夫ですよ。まだ何もされていません」
それは嘘ではない。だから、言葉もさらりと出て来た。そんなオグマの様子に嘘のない事を読み取ったのだろう、ユミナはゆっくり頷いた。…この真面目で一本気な男は、ユミナに対して嘘やごまかしを言う事はないのだと、彼女はよく知っていた。暫く、無言のまま歩く。ユミナは足元に揺れるオグマの影に、目を凝らしているかのようだった。
それは、常にそこにあった。
彼女が物心付いた頃から大人達は、まるで物のように彼女と弟を動かした。魔法都市(カダイン)に入れられた時も、魔法都市から出された時も、理由は同じ。
『政治的な』
『国家の為』
大人なんて、皆、同じ。同じ事しか、言いやしない。
だけど、ユミナがまだ、オグマに心を開けなかった時、彼に冷たい言葉を投げ付け、どんなに彼を退けようとしても、彼を無視して、どんな歩調で歩こうとも、オグマの大きな影は、いつもすっぽりと彼女を包み込んでいた。
彼女は見つめる。それは、今まで分厚い魔法都市の石壁に守られていた為、日の光に対してあまりにも無防備な白過ぎる彼女の肌を、鋭いナイフのように傷付けるであろう陽光を常に遮っていたのだ、という事を、胸に刻むかのように。
「…ユミナ姫、姫はナバールをどう思いますか?」
頭上から降ってきたオグマの声に、ユミナが顔を上げた。唐突な質問に訝しんでいるかもしれなかったが、それはオグマには読み取れなかった。感情を隠す事についてはオグマよりも、まがりなりにも王族として育てられたユミナの方が上手だ。
「…ナバール。聖地で軍に加わった傭兵ね。……何だか嫌だわ」
善かれ悪しかれ、いつもはっきりとした物言いの彼女らしからぬ口調に、オグマは問うような視線を向ける。それに押されるように、ユミナは再度、口を開いた。
「嫌だわ。何を考えているのか、判らない。馬鹿にするみたいに人を見るし、味方の筈なのに、時々、敵のように思える事もあるわ。…いつも、血の匂いがするのよ…」
この戦争が始まるまで、魔法都市から一歩も外に出る事なく育てられた王女は、ある意味とてつもなく『箱入り』であり、ナバールについての世の噂など知ろうはずもなかったが、魔法都市はまた、彼女に一般人よりも鋭敏な感覚を与えてくれたらしい。
血の匂い?そうであろうとも。それは『死神』に如何にも相応しい。
マルス王子は言う。「慣れていない人に、ナバールの印象は強烈すぎる」と。「その為、始めから彼に悪感情を抱く人間もいるのだ」とも。…ナバールという人間を知って、彼に悪感情を抱く人間は数多かったから、オグマにはそのような事は思いもよらなかったが、ユミナの言葉は、オグマに新しい思考を開かせてくれた。
サムトーが、ナバールを感覚的に恐れているのではないか、という事。
(………サムトーとナバール、か……)
これ以上、奇異な取り合わせもないだろう。マルス王子の言っていた『誤解と蟠りを解く為に二人の対話を』などという事は、もうオグマの想像の範疇を越えていた。
一体、どうすればいいのか。
探るような、心配の底に小さな憤りを潜ませたユミナの目に気付かぬように、オグマは再び溜息を吐いた。



一歩外に出れば、陽炎の揺らぐ死の砂漠なのだとは信じ難いほどに、塔の中はひんやりとした、静寂な空気をたたえていた。そこここに流砂の点在する砂漠の直中に、誰がどのようにして築き上げたものか。表から見た塔は、強烈な太陽と熱砂とに焼かれ続けた永の年月を示して、白茶けて脆くなった石壁を眼前に晒していた。もう、そう時を経る事なく、崩れ、周囲の砂と同化してしまうだろうと思える程に。しかし、その中に踏み入った者は、すぐに己の認識不足を悟るだろう。その内部は、まるで外とは時の流れ方が違うかのように、造られた頃の壮麗さを今尚十分に伝えている。広々としたホールでは、流麗な彫刻をあしらった数本の柱が、上部の丸く形取られた天井を優雅に支えていた。床の隅、壁と天井の境にまで気を遣い、細かく施され、しかし、煩くならない絶妙の配置で成された、数々の装飾。そして、寸分違わぬ大きさ形の石組みの壁。
直線と曲線。重厚と繊細。全てが溶け込み、計ったように整っていた。これだけのものを造り上げる技術力もさることながら、いっそ芸術的とさえ言えるこの感性は、より高度な文化の裏打ちがなければ、存在しえない。
洗練の域に達した世界の中、『反乱軍』とされた反聖王国の戦士達は皆、一様に無口になっていた。確かにここは美しい。しかし、違うのだ。…これは、彼等のものではない。彼等のための場所ではない。「まるで太古の神殿のようだ」と、甚だ、らしくない事を呟いた、魔法都市に於いて『天才』と呼ばれた切れ者の魔道士の言葉を茶化す者は、一人もいなかった。それはそのまま、彼等皆の思いであったから。
大陸に数多ある聖教会のように、信者の為の集会場ではなく、神剣(ファルシオン)を御神体とする神剣王国(アリティア)のナーガ神殿のような半宝物庫でもない。それは、天下った神々が人間と共に暮らしていた時代の、神の住まう館。
まるで自分達が、無法な侵入者であるような気がして、ひどく息苦しい。でき得る事なら、長居などしたくはない、というのが本音だ。しかし、日の高いうちの活動は可能な限り控え、夕刻から明け方にかけて距離を稼ぐ、という慣れない砂漠の旅路をこなして死の砂漠を抜け、襲い来る敵をも撃破して、ようやっと塔に辿り着いた戦士達は、当然のことながらひどく消耗しており、今日は塔内で一夜を過ごし、翌朝、日の出前に再び行動を開始する、という事が既に決定されていた。
塔内に危険はない、と言われてはいたが、小人数用の小部屋ではなく、階中央に位置する広間に大勢でいる事を選んだのは、また、当然の事だったろう。一人ではとても、この圧迫感に耐えられないであろうから。
オグマは、そっと周囲を見渡した。
ごく少数の例外を除いたほぼ全員がそこにいた。言葉もなく、オグマ自身がそうしているのと同じように、広間の隅、壁や柱に凭れて、体に蓄積された疲れをできるだけ払う事に、ただただ専念していた。明日の行程も、きついものになるだろう事は、容易に想像がつく。彼等の今成すべき事は、明日に備えて、できるだけ体力を回復させる事。それだけだ。
そして、彼等は瞳を閉じる。…眠る事ができるかどうかは別として。



ふとオグマはその瞳を開けた。浅い眠りに入っていた筈だったが、彼自身の意識とは全く別に、研ぎ澄まされた戦士としての感覚が、何かを察知したらしい。身を起こさぬままに、そっと周辺の気配を探る。すると、平行の二方に開け放たれた大きな出入り口…扉の存在しないそれは、柱と柱の間、と称した方が正しいかも知れない…から、広間の人々を窺うサムトーの姿に気が付いた。暫くかけて、人々の顔を確認すると、やっと安心したかのように、サムトーはでき得る限りの忍び足で広間に侵入した。値踏むように、周囲に視線を投げる。…どうやら、休むための場所を捜しているらしい。数瞬の後、心を決めたのかサムトーはゆっくりと、やはり忍び足のままで歩き出した。オグマの前で少し躊躇するような様子を見せたが、オグマからそう遠くなく、ある意味見落としやすい位置と言えるだろう場所に、身を落ち着ける事にしたらしい。己の毛布兼旅用マントを体に被せて、少しでも楽な位置を捜すようにモソモソと動いている。
「…そんなに気を回さんでも、ナバールは、皆と共に過ごすような奴じゃない。この広間には、絶対に来んと思うぞ」
サムトーには、オグマが自分に気付いている、とは思いもよらなかったらしい。今日の戦闘での疲れもあり、当然、もうすっかり寝入っている、と信じ込んでいたのだろう。オグマのその言葉は、サムトーに音の出ない爆弾を投げつけたようなものだった。驚声は喉に引っ掛かって出てこないらしく、彼の喉は、鋭く息を飲む、笛のような音のみを立てた。寝る体勢を整えるために不自然な姿勢を支えていた腕は、滑ったのか力が抜けたのか。マントを被ったままのサムトーの体が転がった。よっぽど動転しているのか、なかなか起き上がれないらしい。反して、今までずっとサムトーを観察していたオグマの方はといえば、目の前のサムトーの姿に(……ミノムシみたいだな…)などという感想を抱く程度には、冷静だった。そんなオグマの前、じたばたしていたミノムシが何とか四つん這いになり、その場から脱走を計る段になってやっと、オグマは彼のマントの端を掴まえた。
「逃げる事はなかろう。俺は、ナバールじゃないぞ」
その言葉に、サムトーの動きがピタリと止まった。そのまま、首だけをゆっくり回して、おそるおそるといった体でオグマの様子を窺う。
(……ミノムシじゃなくて、犬だ…)
「…お前、そんなにナバールを怖がらなくてもいいんじゃないか?あいつが何をしたって訳でもないんだろう」
確かにナバールは気紛れだったが、彼の根底には、他者に対する絶対的な無関心が存在している。ちょっとした皮肉くらいは言われたかもしれないが、それ以上の事があったとは思えなかった。なのに、サムトーの目の中にある、切羽詰まったような光と隠し切れない…元より、隠そうとはしていなかったが…怯えの色は何だろう。
「それとも、何か理由があるのか?」
サムトーが小さく身を竦める。
「…あるなら、話してみんか?俺でできる事があるなら、力になるぞ?」
オグマの暖かさの滲む言葉に、緊張の糸が切れたのだろうか。サムトーの顔が歪む。
「………オグマさーん…」
「…泣くなよ。お前、一体、幾つになったんだ」
「今年で26…、って、そんな事、関係ないでしょー」
握り拳で涙を擦る目の前の彼は、奴隷として売られてきたばかりの、16才の新米剣闘士の頃と少しも変わらない。これだから、ほおっておけないのだ。
(…俺もいけないんだろうなぁ、これは…)
もしかすると、自分は庇護欲というものが強いのかもしれない。ふと、オグマはそう思う。…他の誰かに言いでもしたら、「…何を今更…」と返されることは必定だったが。
古くはシーダ、タリスの義勇兵達、最近ではユミナ、ユベロ、そしてサムトーと、庇護欲の塊以外の何者でもない彼は、力づけるように微笑む。それに背を押されるように、サムトーは口を開いた。



一年の半分は国を包むという雪と凍り付いた風、切り立った山々と広い湖という天然の要害に守られた、誇り高き騎士王国の王城オルベルンは、既に形骸をしか残していなかった。聖王国の騎士達が常駐し、我が物顔に振る舞ってはいたが、彼等ではこの空白は埋まりはしない。それは、まるで空き家であるかのような、そんな空虚さを漂わせていた。
そう。確かに、空き家であった。三英雄の血を引く正統なる王、騎士と国民、全ての矜持と誇りとに繋がる、玉座に座すべき主はいない。騎士王国の剣と盾、と謳われた二将軍、カミュもロレンスも今はいない。
手足をもがれ、聖王国という毒に冒されて、ただ朽ちていくだけの国。
そんな印象を抱いたサムトーの胸には、しかし当然、一片の感傷も存在しなかった。
(…まあ、こーいう国っていうのが、一番カモられやすいよな。三貴王国は今まで戦争売ったり売られたりってのがなかったから、国庫も豊かだし、無意味にプライド高い分だけ、周囲の反感も買ってるだろーし)
先年のドルーア戦役前までは壮麗を誇っていたのであろう城も、今では何だか色褪せ、くたびれて見える。多分、小振りな彫像かなにかが飾られていたと思しき、今は台座のみが残された空間に目を向け、サムトーは頭を掻いた。ラング率いる聖王国軍が入城してきて、まず最初にしたのは、玉座を飾っていた大粒の紅玉を抉り取る事だったという。
(……何っちゅーか、盗賊顔負けだよなぁ…)
このような事をするのは、他国者の傭兵部隊くらいであって、『戒律』とか『忠誠』とかいう、サムトーから見れば、うざったい事この上ないものに縛られた騎士達が略奪行為に走ろうとは、思いもよらなかった。おまけに、その行為によって最も懐を膨らませたのは、騎士達を厳しく統制するべき立場に在る将軍ラングその人だったというのだから、恐れ入る。
己もこの国にたかっている人間の一人ではあったが、今現在のこの城の主の遣り口は、サムトーをも閉口させるものがあった。日毎、民衆に加えられる暴行、夜毎に行われる酒宴で、騎士団の規律も何もあったものではない。以前ならばいざ知らず、現在の、酒に溺れた騎士を抱えるこの一団が、軍として機能するかどうかすら疑わしいものだ。今も眼前で繰り広げられている、酒と肉と女との饗宴を、部屋の隅、壁に凭れて見つめるサムトーの目は冷めきったものだった。お気楽極楽、お祭り大好きを自認するサムトーの目から見ても、「これは少々行き過ぎ」の感は拭えない。……神剣王国の光の王子率いる『反乱軍』が迫ってきているというのに、本陣がこのようなザマでは…。
(こりゃあ、適当なところでトンズラした方がいいかな)


「……お前、それは傭兵としての信義にもとるんじゃないか?」
昨日の敵は、今日の友。今日の友は、明日の敵。
それは、主君を持たず、特定の国に属さず、状況に応じて己の剣を貸し出す事を生業とする傭兵達にとっては、ごく普通の現象だ。しかし、だからこそ、剣に賭けて成された契約は神聖なものとして、絶対でなくてはならない。契約期間が切れた翌日に、敵方に雇われる事になったとしても、期間中に己の貸し出した剣を取り下げたりはしない。それが、傭兵の矜持というものだ。
どうもサムトーには、その辺りの感覚が稀薄な気がして、ついオグマは口を挟んだ。話を中断させられたからか、オグマの咎めるような口調故か。サムトーはちょっと唇を尖らせる。
「だってそんなの、命あっての物種ですよ。生きてる事が、一番大事なんですからね」
「…まぁ、そりゃ…」
あまりにも、現実的な意見だった。一つの真理ではある。
「それに、雇われたのは『ナバール』であって、俺(サムトー)じゃない訳だしぃ」
「……お前……」
もしかして、『ナバール』の悪名が高いのは、彼本人だけの所為ではないのかも知れない。そんな思考が脳裏を過ぎる。
「先があるんですよ。聞いて下さいよぉ」
「あ、ああ」
オグマは再び、耳を傾けた。


なるべく目立たぬように、隅の方で食いに走っていたサムトーであったが、不意に掛けられた声に、動きを止めた。鳥の丸焼きを頬張ろうと口を一杯に開けていた、まさにその時である。横目でその人物を確認すると、現在の雇主、ラング将軍だった。この軍に雇われてからこっち、正体がバレるのを懸念して、できるだけ周囲には関わらないようにしており、それは、『ナバール』の性格と相まって、少しの不信も抱かれはしなかった…筈だ。
しかし、流石に雇主本人を無下にする訳にはいかない。例え、最も拘り合いになりたくない型の人間であったとしても。
ともあれ、素早く『ナバール』の仮面を被って、口元を引き締め、ゆっくりとその手に握っていた丸焼きを皿に戻す。
「……何だ?」
噂に洩れ聞く『ナバール』らしく、尊大な口調を作る。
「先程から、全く飲んではおられぬようだな。ナバール殿は、大変な酒豪と聞き及んでおったのだが……」
サムトーはびびりまくっていたが、『ナバール』はあくまでも横柄だった。
「ここらの酒は、口に合わん」
サムトーが、(その内、玉座自体も道具屋に売りそうだ)などと、心密かに思っている男は、その口の端を歪ませた。何か企んでいるのか、と人に思わせる表情であったが、我が意を得たり、という笑いを滲ませているらしい。…いや、もしかすると、やっぱり、何か企んでいたのかもしれない。ラングは、手にしていた瓶を差し上げて見せる。
「おお、そうであろうとも。このような片田舎の土臭い酒などではな。そう思って、特別にこれを運ばせた。我が聖王国最高級の蒸留酒。これならば、ナバール殿の口にも合うだろうて」


「オグマさん、知ってるでしょ?!俺、酒弱いんスよ!蒸留酒なんて、キッツい酒、飲める訳ないじゃないですか!!」
「…で、どうしたんだ?」
「雇主からの酒を断る、なんて、背信のむきあり、とか思われちゃヤバイじゃないですか、この場合。だから…」
「…………飲んだんだな…」


毒を食らわば、皿まで。
サムトーは喉を開け、その手に押し付けられた酒を一気に流し込んだ。喉を通り、じわじわと腹部へと伝わる、焼かれるような感触。少し遅れて、熱波は脳を直撃し、その視界を歪ませる。
「おお、流石にお強いのぅ。もう一杯、如何かな?」
ラングへと首を回したその目は、既に座っている。無言のままにサムトーは、その杯を差し出した。


「…それで確か、3、4杯位空けて…」
少し考えて、サムトーは己の思考に同意するかのように頷いた。
「そのすぐ後だったと思います」


何で、こんなに世界がぐるぐる回っているんだろう。まるで、自身がぐにゃぐにゃに溶けてしまったような気がする。だけど、不思議と脳の一点だけがひどく鮮明に物を見ていたりして、それがまた、奇妙な感じだった。
「……この酒を飲んで、このように酔いを見せない人間は珍しい…」
感嘆の息を吐いた目の前の人物…サムトーの目には既に、その顔も溶けかけたもののように映っている…の言からすると、少なくとも自分は、外見上は平生と変わっていないらしい。……これから、どうしようか。今のところ、大丈夫ではあるが、いつ酔いが外見に表れるか判らない。今の内にとっとと、この場から退散した方が賢明だろう。真っ当な意識を保っていられるうちが花だ。何とでも言い抜けて、遁走するのだ。
「もう一杯、如何?」
……あああ、止めろっていうのに。お前、それ以上飲んだら、どうなるか判らないんだぞ。
しかし、サムトーの意識の手綱を離れてしまった体は勝手に、その手の中の杯をラングへと差し出す。そして、再びなみなみと注がれる、琥珀色の液体。
わーっわーっわーっっっ。
サムトーは、一息に酒を飲み干した。


「………お前、そんなに飲んだりしたら又、例の…」
「……そーなんですよー…、『又、例の』なんですよー…」


サムトーは、手の中で弄んでいた杯を卓へと戻し、ゆったりと立ち上がった。その、どこか物憂げな動作のみが、酔いを示していると言えば言えたろう。首筋へと絡む長い髪を、背に跳ね飛ばすように打ち振るう。軽く汗ばんでいるのか、流したままの髪がひどくうっとおしかった。
「ナバール殿?」
戸惑ったようなその声すらも、己の身に纏わりつくようで、気持ちが悪い。諸々のものが、彼自身を縛り付けているような気がする。
「何に?」と問われても、答えようがない事ではあったが、そんな問いを彼に投げ掛ける者などいやしなかったし、その時はそう思ったのだ。なので、彼の思考はそのまま続く。
外してしまえ。縛り付ける全てのもの。纏わりついた全てのもの。そうしなければならない。でなければ、この不快感はずっと続くのだ。
酔っ払いの思考…思い込み、とも言う…に、疑問の入る余地などない。
「…1番、ナバール。…脱ぎます!」
それでも自分を『ナバール』と名乗っているあたり、我ながら、プロフェッショナルだよなぁ…、と思った事は、何故かよく覚えている。
周囲の視線の集まる感覚。灯りを弾いて、目の痛い程に眩しい、半裸の踊り子達の油を塗り込めた肌。鼻を突く強烈な酒の臭いは、自身から発せられているのか?…サムトーの意識は、そこで途切れている。


「……お前、昔っから、酒飲むと必ずやってたよなぁ…」
「当人、全く覚えてないんですけどね。オグマさん、剣闘の試合で勝つと貰える酒、皆に振る舞ってくれてたからぁ」
「そうだったよなぁ。お前、『明りはピンクにしろ』だの、『音楽が欲しい』だの、無茶な事ばっかり言ってたよなぁ…」
昔話に花を咲かせる二人は、現実から目を背け切っている。その口調は、不自然なほどに明るかった。
「本っ当に、まいっちゃいますよねぇ。オグマさんが取り押さえてくれなかったらどーなってたか、考えたくありませんよねぇ」
そして今回の場合、『取り押さえる人(オグマ)』がいなかった以上、どうなってしまったのかは明々白々である。実際にやったのはサムトーであっても、彼が『ナバール』を名乗っている以上、それはナバールの行動として周囲に認識されてしまう。
剣士ナバールのストリップ。
考えるだに、血の気も失せる情景だった。なるほどサムトーは、ナバールを避けるだけの確固たる理由を持ち合わせていた訳だ。
「だけど、あの頃は一杯でその状態だっただろう?それなりに強くなってるじゃないか。よかったなぁ」
どんな時でも、小さなよい事を捜し出す。それは、オグマの習性である。
「…でねー、オグマさん。続き。…話してもいいですかぁ?」
「なんだ、まだあるのか?今の話で、充分過ぎる位だと思うけどなぁ…」
「それが、あるんですよぉ。翌日の事なんですけどね…」


その朝は、喧嘩でも売っているのか、と勘繰ってしまうほどに、素晴らしく晴れ渡ったよい天気であった。黄色がかった太陽の光が、体中を突き刺す。頭が重くて、かったるい。何だか胃がもたれたようで、気持ちが悪い。
サムトーは城の奥庭に向かって、てれてれと歩いていた。昨日の行動についての己の記憶が、ラングに酒を勧められたあたりから曖昧で、落ち着いて思い出してみる必要があったのだ。聖王国の伝統に則って造成された奥庭は、しかし、聖王国のように暖かい地方特有の優雅な姿態の植物ではなく、騎士王国の厳しい自然の中を生き抜く植物群が植えられており、ひどく異国的な情緒を醸し出している。大きくがっしりとした木々が広い影を作るそこは、聖王国の人間には、さぞかし違和感として映るのだろう、滅多に人もやってこない。現在のサムトーには、願ったり適ったりの場所である。
(…昨日の事、ちゃんと思い出すまでは、誰にも会わない方がいいもんぁ…)
舌先三寸で言い抜けるのは得意技であったが、それは自分の行動を正しく認識している、という大前提の上での話だ。そうでなければ、ボロが出る。…と思っている矢先であるのに、何故、目の前から歩いてくるのだ、このオッサンは。
そういえばラング将軍は、前国王の居室を私室としており、国王の居室は奥庭に程近い場所にしつらえてあったのだ、という事をすっかり忘れていた。どうやら、酒は己の現状把握力を予想以上に奪っているらしい。不覚である。
「ナバール殿。お目覚めは如何かな?」
(…最悪だよ…)という内心はおくびにも出さず、サムトーは『無表情』という表情を作る。
「…顔色が悪いようだが…」
「…朝は苦手なんだ…」
そのまま、横を擦り抜けようとしたサムトーの足を止めさせたもの。それは、ラングのささやくような一言だった。
「……昨夜は、その、…驚いた。ナバール殿が、あのような趣味をお持ちとは…」
『あのような趣味』?
「いや、それでも昨夜の事を後悔している、とか、そういう事ではなく、だな。…なんと言ったらいいのか…」
『昨夜』?『後悔』??
それに、何でそこで、頬を染めてしまったりするのだ?
サムトーの酒気の残った頭が、現在、出来得る限りの早さで回転する。『昨夜』、自分は一体何をしたというのだろうか。ラングが頬を染めるような何を?
目を覚ました時は、きちんと自分のベッドにいた。…どうやってベッドまで辿り着いたのかも、これから思い出すところだったから、まだ判らないが。
「あの後、わしのベッドで眠ってしまえばよかったのに、どうしても自分のベッドに戻る、と言い張るから。…疲れは残ってはおらぬか?」
『わしのベッド』で眠る?『疲れ』が残る??
恋人に対するかのような、その気遣いは何だというのだ??
サムトーの顔色は既に、ラングと好対称を成していた。先程から、恐ろしい想像が形を取り始めており、信じたくない類のそれは、どうあっても振り払えないほどに、大きく膨れ上がっていく一方だった。しかし、そんなサムトーの様子を別の意味に解釈したらしい、ラングは慌てたように言った。
「いや、すまぬ。何処かに行くところだったのだな。それなのに邪魔をして、悪い事をした」
別に不快に思った訳ではないのだが、…いや、やっぱり不快に思ったのか?…一人になりたかった事ではあるので、それはそれでよいのだが、もうちょっと、『昨夜』の自分について、聞きたいような、聞きたくないような…。
サムトーは、すっかり混乱している。
「…それでは、また、な。ナバール殿」
頬を染めたラングに、はにかみを含んだような、変に華やいだ笑みを投げられ、サムトーは塩の柱と化した。



「……オグマさん。これってやっぱり、そーいう事なんでしょーか。…俺って、やっちゃったんだと思います?」
サムトーの様子は、既に先程とは違う。かといって、悲しみに浸したような、という訳ではなく、その声はひどく平坦で、だからこそ、彼の内心の動揺の程が知れた。そんな彼に問い掛けられたオグマは、というと…。
「オグマさん?ちょっと、何処見てるんスか」
「……いや、あの天井、な…」
「はい?」
サムトーは、オグマの視線の先を追う。
「小さな花がたくさん彫り込まれてるんだ。あれって、寒い地方にしか咲かない花だよな。こんな暑い場所にある、大昔の建物なのに、不思議だよなぁ。…幾つぐらい、彫られてるんだろーなぁ…。さっきから、50個までは数えたんだけどな」
オグマの目は遠かった。
「オグマさーん…。お願いですよー、聞いて下さいよお…」
またしても気が高ぶってきたのか、目に涙を溜めたサムトーが、オグマの腕を掴んで揺さぶった。座っていない頭をがくがくと揺する事によりサムトーは、オグマを現実に引き戻す、という事に成功する。
「噂通りの人格だとしたら、『ナバール』って、『冷血、冷徹、冷酷非情、人を切るのが大好きで、血も涙もない』、そーいう奴じゃないですか。そんな奴にこんな事バレたら、俺、どーなるか判らない…」
恐怖に顔を白くするサムトーを安心させてやりたいのは、山々である。ではあるが、サムトーの言うナバールについての噂は概ね正しくて、唯一間違っている項目を訂正するにしても、「いや、ナバールは、『人』以外を切るのも好きそうだぞ」などという言葉では、『サムトーを安心させる』という目的を達する事はできないだろう。
「…俺、殺されちゃうかもしれない…」
考え過ぎだ、……と言ってやりたかったが、悲しいかなサムトーの意見は、ほぼ正しかった。正確には、『しれない』ではなく、確実に殺されるだろう、という事。オグマの肯定を含んだ視線から、その事を読み取ったのか、サムトーは目を拳で乱暴に擦って、その表情を隠す。
「…そんな、本人に会っちゃうなんて思わなかったんですよぉ。特に『ナバール』なんて、連絡先不明、年齢国籍一切不詳で存在自体危ぶまれてる位なんだから。だから、今まで安心してられたのにぃ。それが、同じ隊だなんて、針のムシロですよぉ…」
アカネイア大陸は、サムトーが思っているよりもずっと、小さかったという事だ。
暗黒戦争時、悪魔の山で用心棒をしていたナバールは、当時のアリティア解放軍に加わった。それより前の彼の経歴を知る者はいない。例え戦乱の世でなかったとしても、あれ程の剣の冴えが、人々の口の端に上らぬ訳はないのに。情勢不穏な大陸の内情故に流入した、大陸外の戦場稼ぎの一人だ、といわれたが、彼の容貌がそのまま、その見解の裏付けともなっていた。
長い闇色の髪、闇色の瞳。その顔の作りも、如何にも大陸の人間ではない。
戦後、神剣王国の光の王子の「将官に取り立てたい」との希望を退け、姿を消したという、暗黒戦争の英雄の一人。その後、彼の行方は杳として知れなかった。
それ故か、そもそも『ナバール』という人間は初めから存在しておらず、それは、それ自体物語のようだった『暗黒戦争』の生んだ偶像に過ぎない、という噂話まで流れる始末で、当時、暗黒戦争を共に戦った戦士達は苦笑し、しかし、それについて否定も肯定もしなかった。如何にもナバールらしい話だ、と思った所為かもしれない。
この逸話からも知れるように、ナバールはその知名度の割には、全くと言っていいほどに顔の売れていない人間だったから、名を騙るにはもってこいであったろう。
オグマは、引き締めてさえいればかなり見栄えがするだろう面立ちと、あくまでも大陸の基準内での黒髪…それは、栗色に近い…を持った目の前の男をしみじみと見やった。
似ている訳ではない。しかし、ナバールを知らない人間は、確かに騙せただろう。
細く深い溜息を一つ。
「…判った。俺がマルス王子に、できるだけお前とナバールを別隊にしてもらえるように、進言しておく。それでいいな?」
「…オグマさーん…」
潤んだ瞳を感謝に輝かせるサムトーに、こめかみを押さえたオグマは疲れたように手を打ち振った。
マルス王子は、二人の…というか、サムトーの様子を見て、できるだけナバールとサムトーを同じ隊に配置するように腐心していたのだが、今回、それは全くの考え違いであり、返って逆効果である、という事を、どういう風に説明したらいいのか。…現実をそのまま話すのは、大きく問題だった。
そんな彼の苦悩も知らぬげに、話した事によって心の重荷が降りたのか、もう問題が片付いたも同然、と言わんばかりにすっきりした表情のサムトーが、オグマに向かって身を乗り出した。
「…オグマさん。実は俺、一つ、もの凄く気になって仕方ない事があるんですけど…」
深刻な顔で、声を低める。
「…何だ?」
「どっちが女役だったと思います?」
「……………知らん!」
「投げないで下さいよ。俺、自分が女役ならまだしも、男役だったらどーしようかと思って、もう怖くて、怖くて。相手がアレでもやっちゃえる程に、見境なくはないつもりだったのにぃ」
………天井の小花は、100を数えた。
「オグマさんってば、話を真剣に…」
「なかなか、面白い話をしているな」
瞬間、世界が凍りつく。
それは、滅多に聞けない声だった。しかし、あまりにも印象的な声。その人物に、この上なく似つかわしい、とも、あまりにも似つかわしくない、とも取れる、低い響きを持った声。
「……いつから、そこにいた?」
固まったまま動かないサムトーの背後をオグマは仰ぎ見た。先程までの胡座をかいた姿勢も崩さず、落ち着き払ったその様子からは、内心の動揺は窺えない。
「つい先程」
対する返答も、簡潔で明快。その本心は、全く見えない。そんな二人に挟まれて、サムトーはただ、だらだらと汗を流していた。目の前のオグマは、サムトーの背後を真っ直ぐに見据えていたが、その探るような視線は、彼がサムトーと同じ事を考えているのだ、という事を、はっきりと示している。
一体、今の話のどこまでを聞いていたのか。
「通り掛かっただけだ。邪魔はせん」
うっそりと声は言う。オグマの眼光に動じたような色は、感じられない。そのまま、立ち去りそうな様子に、サムトーは一縷の希望の光を見た。
……どうやら、話の本題に当たる部分は、聞かれずにすんだらしい…。
ゆっくりと肩を落としかけたサムトーは、しかし、途中で再び凝固した。
「…俺は、耳は悪くはないぞ」
意味ありげな、密やかな嗤いを含んだその言葉は、サムトーに一旦、安堵を与えておいて、それを再び奪い取る事を楽しんでいるかのよう。
背後から、気配が消えても、サムトーはぴくりとも動けなかった。
「…サムトー?」
「……オグマさん、天井の花、あそこまでで150…」
「…おーい、サムトー…」
当分、現実復帰はできないであろう程に、サムトーの目は遠い。
(…マルス王子には、『できるだけ』ではなく、『確実に』サムトーとナバールを別隊にしてもらうよう、申し入れるしかあるまいな)
結局、問題の解決には結び付かない結論に、オグマは背後に倒れ込むかのように寝転がった。しかし、彼が本当に二人の会話を全て聞いていたのか。それは怪しいものだ、とオグマは思う。どちらかというと、二人の反応から、あまり聞かれたくない類の話をしていたらしい、と察した程度のものではないか。だとすれば、彼の今の言葉は、大した意味を持たない。基本的に他者に関心がなく、物事に対する執着に欠けた彼が、自分とサムトーとの会話などにいつまでも拘る筈がないのだから。しかしサムトーは、そこまで彼を理解している訳ではない。
『冷酷非情』と称されたあの男は、『意地悪者』で『我が儘者』でもあるのだ、という事を、その身を以て理解するには、まだもう少しの期間を要するだろう。
とにかく、今は寝る事だ。明日も早い。現在、それが唯一前向きな行動でもある。
「朝までに、少しでも寝ておけよ。明日、もたないぞ」
呆然としたような彼の耳に入るかどうかも疑わしかったが、取り敢えずサムトーに言葉を投げて、オグマは眠る事に意識を集中させた。



END







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