魔法使いの恋人〜クインタ・エセンティア 2/3





次の、今日最後の仕事先で、僕は失敗をやらかした。
若奥さんは笑って許してくれたけど、そのごくごく初歩的な失敗に、体の調子でも悪いんじゃないか、と却って心配されてしまって、僕はひどく落ち込んだ。
絶対、大丈夫だ、という主張も、優しく、かつ断固とした調子で退けられ、僕はいつもより随分早い時間に、とぼとぼと家路を辿ることになった。
「明日は来なくていいから、ゆっくりお休みなさい」という一言を添えられて。
ああ、サイテー。





この仕事は、あくまでも雇い主の好みというものが反映する。つまり、相手が僕を気に入らなかったら、あっという間に仕事なんて切られてしまうのだ。
やっぱり、クビなのかな、僕。
若奥さんの優しい笑顔が、脳裏を過ぎる。
確かに、精神的にドツボだったけど、そんなこと、理由になんかならないんだ。それを仕事に持ち込んでいい理由なんか、ひとつもありゃしないんだ。
溜め息をつきつつ、僕は家の扉を開けた。
もう周囲は薄暗い。僕は、いつもと同じ手順でもって、台所の洋燈の芯をひねり出した。と、その時。
急に、目の前の洋燈に明かりが灯った。
何が起こったのか、よく分からなかった。いや、洋燈がついたのは分かってるんだけど、何で?というのが、分からなかったのだ。だって、火の気なんか全然なかった。僕はこれから、火を灯すつもりだったんだから。
周囲の空気が、一瞬にして変質した。いきなり、重くなったそれに、僕は動けなくなった。正確に言うと、動いちゃいけないような、そんな直感が、僕を金縛りにしたのだ。
背後で、ふわりと影が動くのがわかる。それは、影としかいいようがなかった。重さなんか、全くないような感じだった。
それは、ふわりふわりと漂って、部屋の隅の一際暗いところへと…。
「お帰りー」
「うわあっっ」
………び、びっくりした。
まだ、心臓がばくばくいってるよー。あんまりびっくりしたので、金縛りも解けた。僕は、反射的に振り向いた。その声は、ひどく聞き覚えのある声だったんだけど、こんな所で聞くはずの声じゃなかったのだ。
「シモン君、どうしてここに…」
目の前に現れた綺麗な顔は、僕には分からない何かを含んで微笑んでいた。





「ナガセ君の仕事が終わるの、待ってたんだよ。これからだったら、出かけられるでしょう?」
シモン君は、花がほころぶような笑顔を見せた。何だか、ものすごい違和感だ。こんな美人の存在は、この家の台所にそぐわない。
「…もしかして、王都に?だけど僕、王都まで行く時間なんか…」
ああ、明日の仕事は休みになったんだっけ。明日の仕事は一件だけで、だから、明日は休日になってしまったんだった。だけど…。
「行けないよ。明日は、家にいて、また明後日からの仕事に備えなくちゃ…」
遊んでいる場合じゃない。明後日までには、しっかり立ち直って、また仕事に励む。明日は、そんな反省期間なんだから。
僕は、シモンに言いかけながら、何だか頭がくらくらしてきたのを感じていた。おかしいな。何だろう、この痺れるような甘い匂い。段々怠くなってきて、舌が回らなくなってくる。
シモン君が、今まで腰掛けていた台所の椅子から立ち上がった。ものすごく優雅な一動作だったので、普段だったら動くたびにぎしぎしと軋む木椅子が、何の物音も立てなかった。
シモン君が近づいてくる。まるで重さなんかないみたいに。さっき、部屋の隅に消えた影みたいに。
「来てくれなくちゃ、僕が困るんだよ」
彼の囁きに、匂いが篭もる。これは、彼の吐く息だ。その匂いは不快じゃなかった。却って、気持ちよくて、あまりに心地よくて、僕はもう、立っていられなくなっていた。部屋の壁に背を凭れて、それでもずり下がりそうになる体を必死で支える。
「まだ、平気なんだ。耐性も作られてないのに、すごいね、ナガセ君」
いかにも感心といった声。何のことを言っているのか、僕にはもう考えをまとめるだけの気力も残っていない。
「だけど、そんなに時間かけてられないんだ。残念だけど、ここでおしまい」
白い顔が近づいた。近くで見ても、やっぱり綺麗だ。切れのいい瞳。細く筋の通った鼻。そして、赤い唇が僕の口を覆って、更に甘い息を吹き入れた。今までとは、比べ物にならないほどに濃密な匂い。そこで、僕の朦朧とした意識は暗い淵へと呑みこまれていった。





ぽっかりと目が開いた。そんな感じだった。意識は、一瞬遅れてついてくる。
「…いったー」
聞こえてきたしゃがれ声に、ぎくりとした。それが、自分の喉から洩れたと気づいて、更にびっくりする。
頭が痛かった。何だか、体の節々まで痛くて、頭が持ち上がらない。風邪かなぁ。仕事があるのに、どうしよう…。そこまで考えて、僕は気が付いた。今、目に映っているのは、見慣れた自分の家の天井じゃない事に。
…ここって、どこだろう。
真っ白い地に金で細かな模様を描かれた天井。それを認識して、僕の目はゆっくりと見る場所を広げていく。天井と境を接している壁。瀟洒な作りの窓。決して派手ではなかったけれども、だからこそ、とんでもなくお金持ちの家だという事が判る。ここは、ひどく上品で、洗練された感じがする。数々の家具調度を見てきた掃除夫の目は伊達ではないのだ。
窓の外を大きな鳥が過ぎった。あんまり飛ぶのは上手じゃないらしくて、低い位置を滑空したそれはバタバタしている。だけど、その羽は、緑に金に青に赤。見たこともないくらい綺麗だった。
「気が付いた?」
外に見入っていた僕の背後から掛けられた、明るい声。僕は、ゆっくりと寝返りを打った。頭に響かないくらいにゆっくりと。
ひどく満足そうに笑うシモン君の顔が、目に入った。
「紅茶、ぬるめにしておいたよ。まだ、頭痛くて動けないでしょ?」
紅茶を飲むために、身を起こすのも億劫だった。だけど、僕が口を開くより前にシモン君は、優雅なラインを描く白い陶器の器を摘んで、ゆっくり口に含んだ。彼の瞳が、面白そうに瞬く。それを認識すると同時に、目の前が薄暗く陰った。焦点が合わせられないくらいにシモン君の顔が近づいたかと思うと、僕の口に紅茶が注ぎ込まれた。
砂糖は入っていない。だけど、渇ききった喉を潤す紅茶は、それだけでも甘くて美味しくて、一口ずつ与えられるそれに焦れったさを感じながら、僕は貪るように飲み続けた。
「もう一杯、いる?」
ゆるく頭を横に動かしながら、僕はシモン君を見上げた。今の紅茶で、大分、気分はすっきりしていた。
「今日はいい天気だよ。孔雀達もすごく元気いいみたいだから、見てても面白いんじゃないかな。外に出る?」
いい天気。…ああ、確かに窓から差し込む光は、ほかほかと暖かそう。…って、あれ?いつの間に朝になっちゃった訳??
……あれー??若奥さんに早退させられて、家に帰った時には、夕方だったんだよ。うん。それは確か。家に入ったら随分薄暗くなってたから、洋燈をつけた…んだったよね?…変な違和感。だけど、僕はつけたハズ。だって、台所にいたシモン君の顔はちゃんと灯りに照らされていたんだから。…だけど。………あれー??
シモン君が、どうして僕の家の台所にいるんだ?それに、ここは明らかに僕の家じゃない。そして、外の様子から察するに、今は明らかに夕方でもない。
「ここは僕の家。鳥を見においでって言ったでしょ?覚えてない?」
鳥………。
先生の家で誘われた、アレのことかなぁ?だけど、あの時先生、シモン君の家のこと言ってて…、って、ちょっと待ってよ。もしかして。
「ここ王都ぉ?!」
あ、いきなり頭を起こしたら、ちょっと立ちくらみ。だけど、思いっきりひっくり返った僕の声には全く無頓着にシモン君は「うん」と笑って見せた。





だけど、本当に大きな家だ。手入れの行き届いた庭もきれい。さっきまで僕が横になってたベッドもふっかふかだったけど、庭に面したこの居間のソファだって、座った感じ、ものすごく気持ちいい。
目の前のテーブルには、にこにこ笑顔のシモン君が差し出したケーキ。その甘い匂いが醸し出す幸福感に、僕はしばしの間、現状を忘れ去った。さもしいと言ってもいいよ。でも、僕の生活水準じゃ、ケーキなんて滅多に食べられないんだから。
ほこほこのあったかいケーキ。しっとりスポンジ、ふんわりクリーム。
あー、幸せ。涙出そう。
だけど、いくら居心地がいいといったって、このままでいていいってもんでもない。僕にだって、今後の予定はあるのだ。
「ええっと。今日って何日?僕、一日お休みあるけど、その後はいつも通りの仕事があるんだよ。早く帰らなくちゃ、仕事先に間に合わないかも」
僕は、ケーキをじっくりと味わって平らげた後、シモン君の差し出したお茶を受け取りつつ、言った。
食べてる間中、僕の顔を、なんだかものすごく嬉しそうに見ていたシモン君は、それを聞いた途端、ムードぶち壊し、とでも言いたげに、顔をしかめたけど、そんなのかまってはいられない。
一変した真剣な顔…ケーキの前では、ちょっと情けない顔してたかも、という自覚くらいあるのだ…をした僕とは対照的に、彼は、軽く肩を竦めてみせる。
「だったらもう、辞めちゃえば?」
「…へ?」
「だからね。ここにずっと住むといいよ。ナガセ君は、働いたりなんかしなくても大丈夫。僕、結構お金持ちなんだよ、これでも」
それはもう、一目で分かるよ。お金持ちだっていうのは。だけど。
「…そういう問題じゃないでしょ」
ちょっと低音になった僕の口調にも、まるっきり意に介さない。それが、シモン君のシモン君たる所以だって、判ってはいるんだけど。
彼は、あくまでも明るく、軽く続ける。
「だって、ずっと掃除ばっかりしてたって、意味ないじゃない。いいよ、もうそんな汚れ仕事なんかしなくたって」
汚れ仕事??
さすがに、その言葉は聞き逃せなかった。
「シモン君。仕事っていうのは、そういうもんじゃないんだよ。それに僕は、自分の仕事を恥ずかしく思った事も、ましてや『汚れ仕事』だなんて思った事なんて、一度だってないんだ」
婆ちゃんは昔、口癖のように言っていた。
自分の仕事に、責任を持て。そして、誇りを持て。将来、どんな仕事についても、自分がその仕事でお金をもらっている事を忘れちゃいけない。お金をもらって恥ずかしくない仕事ができたら、その時には自分を誇れ。
婆ちゃんも、孫の僕が自分と同じ職業に従事するようになるとは思ってなかったと思うけど、それでも、婆ちゃんの仕事の対する考え方は、僕の中にしっかりと根付いてた。
だから、僕はその仕事ぶりが原因で、仕事先から断られたことは今まで、一度だってない。それが、僕の誇りの一部で、それが僕を支えてたんだって事に、僕は初めて気が付いた。
「僕は、自分の仕事に自信があるよ。だから、どこの誰にも否定なんかさせない」
僕はきっぱり、言い切った。どこの誰にも、婆ちゃんと僕の仕事を侮辱させたりなんかしない。我ながら、伸び悩んでる背まで、少し大きくなったような気がした。
シモン君は、目の前で目を瞬いている。…本当に、長いまつげだなぁ。女の子みたい。こんな時なのに、何となく見とれちゃった僕に、彼の顔がすいっと近づいて…。
「なっ、なにすんのぉ!!」
「『なにすんの』って。…キス」
なんで、そんな事をへろっと言えてしまうんだぁ!!
「止めてよ!僕にだって、初キッスに対する夢も希望もあるんだからぁ!」
目のくりっとした、笑顔の可愛い女の子。それが僕の理想。
どちらからともなく顔が近づいて、そっと唇が触れ合う柔らかな感触があって。名残惜しげに離れた後は、お互いに見合って、照れくさそうに微笑う。それが正しい初キッスってもんだと思う。
だけど、僕の言にシモン君は、目をぱちくりさせた。
「初キッス??そんなん、今更なんじゃない?さっきっから、僕の口移しで紅茶飲んだりしてるしさ」
青天の霹靂っていうのは、雲一つない真っ青な空から、唐突にでっかい雷が落ちてくるっていう意味なんだそうな。急にそんな目にあったりしたら、人間、どうなっちゃうと思う?
僕は、へなへなとその場にへたり込んだ。…なんで、その瞬間に気づかなかったんだろう、と今思っても、もう既に後の祭り。
ああ、僕の初キッス。
呆然とする僕の前で、シモン君は手を合わせると、軽く頭を下げた。「ご馳走様でした」とのお言葉付きで。全く悪びれないその笑顔は、いつものように綺麗で華やかで。
こんな美人が初キッスの相手だったんなら、それはそれでいいか、と僕に思わせる…という事は、全然、なかったけど。
もう、今更言っても仕方ない事だしな、とは思ったかな。うん。





「…えーと。だからね、シモン君」
「うん。ナガセ君が言いたい事はわかったよ。お仕事の大切さもね」
よかった。わかってくれたんだ。
ほっとして、言葉を続けようとした僕を遮るようにして、シモン君は更に言った。
「だけどね。僕は、ナガセ君を帰したくないんだよね」
はいー?
「こういう場合はやっぱりさ、自分の欲求が最優先されるのは、人の常ってモンでしょ?」
…いや、そんな、小首を傾げて微笑まれましても…。
だけど、もう彼との言葉遊びに費やす時間があるのかも判らない。僕はおもむろに立ち上がった。取り敢えず、行動を起こしちゃえば、『帰る』ってのも、本気に取ってくれるだろうと思って。
「僕、もう本当に帰らなくっちゃ。ケーキ、ごちそうさま」
その瞬間、部屋の中の空気がそっくりすり替わる。僕らの座ってるソファセットを中心に、周囲がぱりぱりと音がしそうな程、強張り、固まった、と思った。
扉に手を掛けても、決して開かないだろう。試すよりも前に、それが解った。
「帰さないって、言ってるのに」
婉然と微笑んだシモン君は、まるで見知らぬ人のように見えた。



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