魔法使いの恋人〜クインタ・エセンティア 1/3





「そんなところでだらだらしてないで下さいよ、先生。片づかないじゃないですか」
僕は、愛用のハタキを握りしめた仁王立ちで、床に直に座り込んで、堅焼き菓子を頬張りながら埃の固まりのような本を広げている雇い主を見下ろした。
「床で物を食べるな、と何度言えば解るんですか。いい加減にして下さい、もう大人なんだから」
そんな僕の言葉にそっぽを向いて、更に堅焼き菓子を囓る。既に彼の周囲の床には、ぽろぽろとカス屑がこぼれ落ちていたのだけれど、そこに新たな屑が追加された。
本当に、大人げないんだから。そんなに人の仕事を邪魔して、楽しいか?!
この家の後にはもう一件、仕事が残っている。予定が詰まっているのだ。それなのに、この先生ときたら、もう。
僕は、努めて静かな深呼吸をしながら、手の中のハタキの黒光りする竹の柄を撫でさすった。
それが、平常心を保つおまじない。手によく馴染んだ触感が、僕の心をすっとなめらかにしてくれる。
僕の仕事道具は全部、婆ちゃんから受け継いだ年代物。婆ちゃんもずっとこのハタキで仕事をしていたと思うと、何だか婆ちゃんに叱咤されているような気がするんだ。
その柄をもう一撫でしてから、僕はハタキを彼の眼前に突きつけた。
「穏便に言っているうちに、いう事を聞いた方がいいですよ、先生」
にっこり。
「しばらく、外に出ていて下さい。邪魔なんです」





僕の名前はナガセ。仕事は、掃除夫である。娘夫婦を事故で亡くした後、まだチビだった孫ひとりを引き取って、育ててくれた婆ちゃんは、腕のいい掃除婦だった。先日、帰らぬ人となってしまった婆ちゃんだけど、今まで通っていた仕事先は、孫の僕がそのまま引き継いだのだ。
といっても、僕がまだ若いから、男だから、という理由でいくつかの家からの断りは来たけれど、最近では、いくつかの新規のお客さんもついて、現在では、婆ちゃんが元気だった頃と同じくらいの仕事先数に落ち着きつつある。
そして先生も、そんな新規のお客さんのひとりだった。
先生といっても、ここの家主はとても若い。少なくとも、すごく若く見える。僕よりも、10歳以上年上には見えないから、せいぜい、25、6才くらいかなぁ。
なのに、何故「先生」なのかというと、彼の職業がそう呼ばれる類のものなのだ。といって、学校の先生、とかいう訳ではない。お医者さん?弁護士?いやいや。
錬金術士、なのだそうな。…嘘か本当かは判らないけど。あの先生の話は話半分で聞かなくちゃいけないんだけど、一応、本当だと仮定して(…我ながら、疑り深くなったなぁ)、僕は初めて錬金術士という人を見た。だけど、あんまりにも思ってたのと違うので、びっくりした。
もっとこう、重々しい感じが漂ってくるような、そんな立派な人を想像していたんだけど、この先生はともすれば僕よりも年下の子供みたいな駄々をこねたりする。人の仕事を邪魔して喜ぶし、結構、扱いも大変だ。外見はかっこいいお兄さんなのにね。もったいない。
ここの家は、あんまり広くないところにぎっしりという感じで本だの実験器具だの、僕には何に使うのかよく判らない、怪しげな器物だのが並べ立てられている。その掃除は結構骨なのだが、その難しさ加減が、掃除人としての僕の矜持をひたすら刺激してくれたりもする訳で、実はここは、他の仕事場と比べても、一、二を争うお気に入りだったりするのだ。
先生には内緒だけどね。つけ上がるから。
いつものように、細心の注意を払ってハタキをかける。それでいて、微細な埃も見落とさないように、入念に。
ここの行程が、掃除の第一重要点。この結果で、掃除人の質が判る、と昔、婆ちゃんが言ってたっけ。と追憶に浸っていたのがいけなかったのか、僕はその時、ちょっと信じられないような初歩的な失敗をやらかしてしまったのだ。
本の山の上に乗っていた木箱が床に落ちた。ちょっと斜めに傾いでいたとか、それは言い訳。本の方は無事だったんだけど、木箱は中身が周囲に散らばってしまった。
ああ、なんて事。
だけど、入っていた物はいくつかの色石だけだったみたい。よかった、壊れるような物じゃなくて。
僕は、あちらこちらに転がった色石を拾い集めた。そして、そおっと木箱に返す。ええと、これで全部かな、と周囲を見渡してみたら、部屋の隅で光を弾く物があった。床に這い蹲って、本の山の隙間に腕を差し入れて、苦労して、これを拾い上げる。きれいな切り子型のその石は、鶏の卵くらいの大きさで無色透明、派手やかに光を弾く。まるでそれ自体が光を発しているかのように。
切り出した水晶にしては、ちょっと豪華すぎる輝きで、その存在を誇示していた。
僕は、この水晶を木箱に放り込むと、大急ぎで蓋をして、元あった寸分違わぬ位置に戻した。見てはいけない物を見てしまったような気がした。
アレが金剛石だなんて、そんなはずがないじゃないか。あんなに大きな金剛石、この辺で一番のお金持ちの家でだって、見た事がない。あの先生が、そんな物を持っているはずなんかない。持ってていいはずがないのだ、断じて。だから、あれは水晶なのだ。それ以外の何物でも、あり得ない。
だけど、僕の心の奥底では、全く反対の事を呟いている僕がいる。
何で先生が、あんな金剛石を持っているのか。あれが、王侯貴族の中でも、特にお金持ちでないと持てないような代物だという事は、僕にでも容易に想像できるものだった。そして、先生が王侯貴族でもお金持ちでもない事を、彼の雇われ人である僕はよく知っている。
この木箱の中の現実を、僕はどうやって受け止めたらいいんだろう。





「…なんだか変だな、様子が」
「えっっ?!なっ何のことですか?!」
我ながら、下手だなぁ、嘘が。声がひっくり返っちゃってるよ、もう。
だけど結局、僕は木箱を落としてしまったのを先生に告白する事ができなかった。婆ちゃんの訓辞を固く守って、正直を身上に今日まで仕事をしてきた僕なのに。だけど、木箱の話をしたら、その中に入っている色石へと話題を振らなければ不自然なような気がするし、僕はあの木箱の中の『水晶』については、何も見なかった事にしておいた方がいいんじゃないかって気がしたんだ。だから。
「先生、お茶のお代わりは?」
ごめんなさい、先生。だけど、木箱もその中身も、壊れたりしてなかったんで、許してやって下さい。
「いる」
いかにもな作り笑いで振り向いた僕に、先生はカップを差し出した。
仕事が終わった後の一杯のお茶を先生と一緒に飲むのは、もうお約束の行事のひとつになっている。どこの家でもこんな事をする訳じゃない。業務外の事だしね。ただ、この家に通い初めの頃、先生が「茶を入れるから、ついでに飲んでいけ」って誘ってくれて、…その割りには、初めから僕がお茶入れてたような気もするけど…それが今日まで続いてきている。
だけど、僕は週に一度のこの時間がとても好きだった。
次の仕事先でも、頑張ろうっていう元気が湧いてくる。
「もうそろそろ来る頃だな、お邪魔虫が」
カップに口を付けての先生の弁。そうですね。彼が『虫』かどうかはともかく。
僕はちょっと苦笑する。先生は彼の事、邪魔にしてるし、ボロクソに言うけど、決して嫌ってはいないって事を僕はよく知っている。本当にもう、子供なんだからぁ。
そして、噂をすれば影。
「ナガセ君、久しぶりー。元気だったー?」
ノックもなく、いきなり開かれた扉から、大層綺麗な顔が現れた。彼の満面の笑みは、花がぱあっと咲いたように華やかだ。周りの空気をいっぺんに変えてしまうくらい。
「…なーにが、『久しぶり』だ。毎週必ずきやがるくせに」
先生がぼそりと呟いた。
シモン君、毎日来てる訳じゃなかったのか。毎回、顔を合わすから、てっきり日参しているのかと思ってた。
もう、1ヶ月近くも前になるだろうか。初めて彼と会ったのも、この家での仕事中の事だったんだけど、その時からこの家で彼の顔を見ない日は一日だってなかった。
あんまり、いい出会い方じゃあなかったんで、初めはやだなぁとか思ってたんだけど、色々話してみるとそうでもなくて、今ではそれなりに打ち解けてきたかな、と少なくとも僕は思っている。
結局のところ、彼も先生と同系の人間なんだよね。時々すっごく子供なの。僕は、こういうのに弱いのかもしれない。なんか憎めないんだ。
「相変わらず、ナガセ君が来た後だと綺麗だよねぇ、この家も」
シモン君が、ぐるりと周囲を見回した。いつもだったら、誇らしいような恥ずかしいようなくすぐったい気持ちになるシモン君の賛辞の言葉だけど、今日の僕にはちょっとつらい。
なんせ、スネに傷持つ身だから。
「どうかした?ナガセ君」
シモン君が僕の顔を心配そうに覗き込む。
「え?なんで?」
「元気がないよ、何だか」
彼は、とても勘がいい。気をつけなくちゃ。心配かけちゃう。
「大丈夫。ただ、ちょっと疲れちゃったかな。頑張って仕事したから」
精一杯に笑ってみせると、彼はまだ不審げながらも納得したようだった。
「ナガセ君、これから僕の家に遊びに来ない?珍しいお菓子が手に入ったんだ」
言うなりシモン君、僕の腕を捕まえて、そのまま戸口に向かって歩き出した。
「僕の家、庭に噴水があってね。その周りには異国の鳥を放し飼いにしてるんだ。きっとナガセ君は気に入ると思うな」
本当に嬉しそうに話し続けてくれるから、僕も口を挟めなくて、困ってしまう。ああ、だけどこのままずるずるとなしくずしにシモン君の家に行ってしまう訳には。
「無理を言うな、シモン。ナガセはまだ、これから仕事があるんだ」
「…先生」
シモン君を窘めてくれるのは嬉しいんですけど、さっきまで仕事の邪魔をしまくってくれてた人間の台詞ではないような気がします。
「大体、お前んち王都だろう。ナガセがこれから出かけたら、今日中に帰ってこれなくなるわ」
「王都ー?!」
唇を尖らせたシモン君の反論を、僕は思いきり遮ってしまった。だって、王都だよ、王都!
王都と言ったら、国王のお膝元。お金持ちや偉い人達がひしめく、国一番の大都会だ。婆ちゃんに引き取られてからこっち、遠出といえば、山一つ向こうの町に行くのがせいぜいの僕にとっては、それはもう、村からまる一日っていう実際の距離以上に遠くて、全然現実味がない。まだ学校に通っていた頃、王都に観光に行ってきたんだって大威張りだった金持ちの子の話も、まるで外国の事でも聞いているみたいだった。
「そんなに変かな」
そう言われて見れば、変じゃないかも。シモン君って、この辺の人には持ちようもない華があるもんね。王都出身と言われれば、それはそれで納得。だけど、彼は毎週、まる一日かけてここまで通っているのだろうか?
「…シモン君、今どこに住んでるの?」
「自宅だけど?」
彼は、当然の事のように言う。何でそんなこと訊くんだろうって顔で。
すごいなぁ。そんなにまでして、先生に会いに来るなんて。お互い口は悪いけど、本当に仲がいいんだ、この二人。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。針でつついた小さな穴から、すきま風がすうすう通っている感じ。何だろう、これ。先生とシモン君の仲がいいのは、とってもいい事なのに。
「平気だよ。遅くなったら、泊まっていけばいいんだし。帰りもちゃんと送ってあげるから」
僕の困惑具合について、シモン君は別の捉え方をしたらしい。確かにそれも切実な一面ではあるけど、そういう問題でもないんだけどなー。
そして、そんな僕を助けてくれたのも、やっぱり先生だった。先生は、シモン君の襟首を捕まえて、まるで猫の子みたいに引っ張り上げながら、彼の体を後ろから羽交い締めた。さすがに僕の腕は自由になったけど。
「何すんのー!」
「お前は、もう少し人の迷惑というものも考えろ。ナガセは忙しいんだと言ってるだろう」
「何さ、自分の事は棚に上げて、人の事ばっかり!」
至近距離でのシモン君のわめき声に、顔をしかめながらも、先生は彼の事を離さない。そして、僕に向かって目線を流すと、戸口の方を顎でしゃくった。
僕は大急ぎで仕事道具をまとめた。僕が出ていかないと、シモン君も先生もずっとあのまんまなんだ。
「シモン君、ごめんね。また今度ね」
『先生、ありがとう』の言葉の方は、シモン君がいない時にでも言いにこよう、と心に決めて、僕は村へと続く道を一目散に駆け下りていった。





なのに。
ああ、バカだなぁ、僕って。
今現在の僕は、とぼとぼと先生の家に向かって、山道を登っているところ。小さいホウキをうっかり忘れて、飛び出してきちゃったのだ。やっぱり使い慣れた道具がないと、すごく不便。幸い、次の仕事までにはもう少し時間の余裕もある事だし、別に先生の家に戻るのは苦にならないんだけど。
問題は、シモン君なんだよね。
困ったなぁ。まだいるかな。
僕は、こっそり窓辺から先生の家を覗いてみた。
あ、やっぱりいる。シモン君の声だ。
「ずっと、今の状態が続くと思う程、脳天気じゃあなかったはずだけど」
僕は、窓の縁に手をかけた状態のまま、固まってしまった。シモン君の毒舌に対して、じゃない。彼の口が悪いのはいつもの事だったけど、こんなに冷たい調子の声音を聞くのは初めてだったから。まるで毒が滴るような、嘲りの響き。どうして?いつも、あんなに仲のいい二人なのに。
「取りあえず、お前の口を塞いでおくってのも、ひとつの手か」
「冗談きついね。そんな事して何になるのさ。もう手は回ってるっていうのに」
「少なくとも、目障りなヤツを一匹、潰すことはできるな」
一呼吸くらいの間があったろうか。
「へーえ。面白ーい」
対するシモン君の声は、本当に面白そうだった。多分、彼の目はきらきらと輝いている。興味ある対象物を見つけた時の、嬉しそうな顔さえ目に浮かぶようだった。
二人が何の話をしているのかは、判らない。だけど、怖かった。怖くて怖くて、たまらなかった。今立っている地面がずるずると崩れていくような気がする。
窓枠に捕まったままだった手を…その手がぶるぶる震えている事に、僕は初めて気がついた…無理矢理引き剥がして、僕はそっとその場から後ずさる。
喪失感。…きっと、こういうのを、喪失感っていうんだ。
二人に気づかれないように、息さえ殺して山道を下りつつ、また一つ。何も聞かなかったふり、何も見なかったふりの出来事が増えた。



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