心の内なる秘密の音楽 2/3

「マルストロム宙尉は、随分と穏やかな方なんですね」
幾度めかの講義の後、アレクセイがニックにそう言った。何故それを己に言うのか、と訝しみ、ある意味、彼の立場から逸脱したその言動を冷たく戒めようという気も、流した視線の先、アレクセイのはにかんだような表情に、ふと消える。
「そうだな」
事務的な返答の中に、一瞬、本心が滲み出た。アレクセイが、少し驚いたような顔をして目を瞬いた。しかし、それを一番驚いているのは、おそらく、ニック本人だったろう。
信じがたい。彼に対する好意を真っ正直に現してしまうなんて。
内心がどうあれ、上級者である士官を好き嫌いで区分けしていいはずがないのだ。士官候補生としては。
その時、ヴァクスが馬鹿にした風に鼻を鳴らした。おかしな事だが、それで却って冷静になった。
「マルストロム宙尉は、穏やかな方だが、無為な甘やかしはしないし、失敗を大目に見てもらえる訳じゃない。気は抜かないことだ。彼の講義は、しばらく続くのだから」
冷徹なその声に、アレクセイは頬を赤らめた。「そんなつもりではなかった」と、そのまま顔に出てしまっている。あのように、表情に内面を表してはいけないのに。
それは、正式な士官となるまでに、直さなければならない一面だ。
最先任士官候補生としてはそう思う。しかし、ニック個人としては、アレクセイのそんな部分が決して、嫌いではなかった。
彼は、陽気で軽やかで、表情豊かで、何より、誠実だ。彼の周囲には、常に光が満ちている。
あらゆる面で自分とは正反対であり、そして、ニックが「こうありたい」と願う理想像そのものだった。
軽く、首を横に振る。「気にするな」との意思表示として、口元を少し綻ばせて。多少、作ったものになってしまったのは否めなかったが、しかしそれでも、アレクセイは随分とほっとしたようだった。
敬礼して、アレクセイは向きを変えた。すぐにもこの場から走り去りたいだろうに、精一杯の気遣いで一定の歩調を保っている彼の気持ちは、ニックにはよくわかった。そして、ニックも逃げ出した。彼の例に倣って、ゆっくりと。背を追ってくるヴァクスの怒りを込めた視線から。
結局のところ、避難所はひとつしかないのだ。ニックは、自嘲気味に目の前の扉を見据えた。いつもならば、多少の気後れを感じながらもノックしていただろう扉を前に、彼は先程から立ち尽くしている。
判らないのだ。この扉を叩いてもいいものなのか。
昨日までなら、それもよかった。彼が「そうしてほしい」と望んでいたから。しかし、今は…。
ニックの煩悶は、それ以上続かなかった。扉は、ノックするより前に開かれた。
「いい加減、入らないかね?紅茶が冷めてしまいそうなんだが」
ニックは顔を上げた。そこには、いつもと変わらぬ彼の顔があった。
しかし、ニックを見据えて、その表情がふと変わる。
「再び、茶を入れ直すというのは避けたいところでね。入ってくれるかな」
まるで、子供に言い聞かせているかのようだ。自分はそんなに不安そうな顔をしていただろうか?だけど、この台詞にひどくほっとしたのもまた事実。
ニックは、深く俯いた。彼の前では、冷徹な仮面を作り続けられない。今もきっと、相手に見せたくない、自分でも見たくないような、そんな顔をしているに決まっている。
「すみません。ミスタ・マルストロム」
何に対する謝罪なのか。ニック当人にもよく判らないことでも、彼には判っているかのように、マルストロムは微笑んで、部屋へと来客を招き入れた。
目の前に、カップがひとつ据えられた。白い陶器でできた茶器は、マルストロム宙尉のお気に入りであり、その中のひとつのカップは、ニック専用と位置づけられている。何世紀も前と同じ製法で作られた茶器。そして、立ち上る湯気の含んだ豊かな香りは、その紅茶が、合成品ではない本物の茶葉を使用している事を示している。
いつか、訊いた事があった。衝撃を与えると割れてしまう、という非合理的な代物を、何故、わざわざ使うのか、と。その問いにも、マルストロムはいつもの笑顔で言ったものだ。「物はいつか、壊れるものだ。だからこそ、価値があるんだよ」と。
行動には、結果が伴い、物事は常に変化する。だからこそ、それは美しい。しかし、ニックは流動的な物事があまり好きではなかった。落ち着かない。綺麗でなくてもいいから、変わらないでいてほしいと思う。それが、手前勝手な言い分だと判ってはいたのだけれど。
ニックは、いつものようにおずおずとカップに手を伸ばすと、素早く両の手でそれをくるみ込んだ。少々、熱かったけれど、もしも割ってしまったら、という恐怖に似た圧迫感に耐えるよりは、その方がマシだ。
「…そんなにまずいかい。まだ、冷めてはいないと思ったけどね」
ニックは、弾かれたように顔を上げる。
「とんでもありません。とても、美味しいです。サー」
途端に、指先で眉間の辺りをつつかれる。
「だったら、これは晴れないものかね」
どうやら、眉間にしわを寄せて、紅茶を啜っていたものらしい。ニックは、項垂れ気味に呟いた。
「ソリー・サー。気をつけます、ミスタ・マルストロム」
マルストロムは、彼の目の前に椅子を引っ張ってきて、腰掛ける。ベッドに座るニックとテーブルを挟んだその体勢は、チェスの対戦時のものと同じである。しかし、溜息混じりのその気配に、ニックは身を強張らせた。
「何だってまた、今日はそんなに他人行儀なんだね。まるで、2ヶ月あまりも時を遡ってしまったような気がするね」
もう、それほどにもなるのだろうか。〈ハイバーニア〉に乗り込んで。マルストロム宙尉と初めて会って。
「現在の宙尉は、教官でもありますから…」
「それを言ったら、普段は君が私の教官のようなものだね。君との対戦で、私はチェスの腕を磨いているんだから。サーとお呼びするべきですか?ミスタ・シーフォート」
軽く肩を竦めながらも、悪戯っぽい視線を寄越す。そんなマルストロムに、つい思わず笑いが洩れてしまう。それでも、首を横に振りながら、ニックは答えを返した。
「とんでもありません、ミスタ・マルストロム。いつものように呼んで下さい。二人でいる時には」
「だったら、ニッキー」
マルストロムは、神妙な表情を作って、ニックの方へと身を乗り出した。しかし、その様子も笑いを含んだ眼差しが裏切っている。
『ニッキー』と、まるで小さな子供のように呼ばれる事も、気にならない。彼が相手であるのならば。己がこんなにも軽々と微笑み返すことができるなんて、知らなかった。
たった一人の親友の死以来、凍り付いたままだった何かが緩やかに溶けだしているのが判る。それは、恐れにも似たものを抱かせはしたのだけれども、それでもなお、この年上の友人と共に過ごす時間をなくす事など、ニックには既に考えられない。
マルストロムは、続ける。
「君も『ハーヴ』と呼んでほしいね。この部屋にいる時くらいは」
「はい。…ハーヴ」
緩やかに時間は流れる。こんなにも、この世界は優しく、暖かい。
いつまでも、変わらないといい。今のままで、いられるといい。
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