心の内なる秘密の音楽 1/3





真綿にくるまれたような、うとうととした微睡み。瞬間、自分が今何処にいるのか判らなくなる。だが、頬に優しい吐息を感じて、途端にニックは思い出した。
この後、額と頬に羽のように密やかな、だけど柔らかく暖かな感触があって、それから少しすると、この身にかかっている仄かな重みは消える。そして…
「ニッキー、起きろ。もう自由時間が終わるぞ」
ぴたぴたと軽く頬を叩かれて、ニックは目を瞬いた。目の前には、いるべき人の顔がある。穏やかな細面の、軍人というよりは学者のような風貌の、年上の友人。
「…ハーヴ」
掠れた己の声の甘えの滲んだような、思いもよらないその響きに少し赤くなって、慌ててニックは身を起こした。
「私は眠ってしまっていたんですね。すみません、ミスタ・マルストロム」
「なに。ほんの少しの間だけだ」
チェス盤を片づけながら微笑むマルストロムに、ますます顔が赤くなってくる。そんなニックに愛おしげな視線をくれると、彼は優しく微笑みながら言った。
「早く士官候補生居住区へ戻った方がいい。先任には、先任の役目があるだろう?」
「…はい」
慌ててタイを直して、髪を簡単に撫でつけると、ニックは硬い表情のまま、敬礼した。マルストロムは、親しげな微笑を浮かべたまま、挙手で返礼する。それは、士官と候補生という上下関係のある間柄ではなく、あくまでも対等な友人への親愛の情が伺えるものである。プライベートな時間は、二人は友人であるのだから。
そんな彼の心情を正しく読み取ったニックも恥ずかしげな微笑を浮かべて敬礼を解き、マルストロムと同じように軽く手を掲げる。そして、彼の部屋を後にした。



物心付いてからこの方、ニックは他者から寄せられる好意というものを、心から信じられた事がない。唯一の肉親である父親すら、自分を愛さなかった。それは彼が不完全な、醜い存在だから。そんな存在が、他人に愛される筈などない。だったら、せめて、父にも、誰にも疎まれないようにしよう。
そう思っていた彼にとって、暖かな思いでそのままくるみ込むようなマルストロムの行為は、奇妙な居心地の悪さと同時にずっとこのままここにいたいという安心感を与えてくれるものだった。
ニックのその後の人生を決定づけたとも言える、早世した親友が彼へと向けた、過ぎる親愛の情のように、それは彼を追い詰めない。ごく自然に寄せられた情愛であり、好意である。思わず、無条件に受け入れてしまいたくなるような。
それでも、差し伸べた手を払い落とされる恐怖は、彼の中に決然として存在しており、それが彼の心にいつだって警鐘を鳴らすのだ。
己は人に愛されない。不完全な、醜い存在だから。
だから彼は、冷徹な仮面を作る。完璧なものに少しでも近づけるように。愛する者に、父に受け入れられる存在に成り得るように。
軽く袖口を直す。常に綺麗にプレスされている士官服はそれだけで、すぐに正しいラインを取り戻す。そして今日もニックは、常日頃と全く変わらぬ足取りで、士官候補生居住区へと歩んでいった。…と言っても、幼少からの訓練の賜である、如何にも軍人、といった彼の歩き方に、その内心が伺える事など滅多にありはしなかったのだが。



「最先任ともあろう者が、いつまでもふらふらと遊び回っているとはな」
あからさまな言いがかりだった。如何に先任とはいえ、休憩時間までその任に就く訳ではない。そもそも候補生にだって、監視の目のない休息の時間は必要であり、それは軍規によっても認められている。
ニックは溜息をかみ殺しながら、己に割り振られたベッドに腰を下ろした。彼の次に順位の高い候補生であるヴァクスは、余程ニックが最先任である事が気に入らないらしく、聞こえよがしの嫌みや当てこすりをぶつけてくる事がままある。己の最先任としての資質と彼の実力とを鑑みれば、彼がニックよりも2年年長である事を差し引いても、確かに誰がどう見たって彼の方が最先任には相応しかっただろう。ニックが士官学校に中途入学するような事さえなければ、確実にヴァクスが最先任だったはずだ。
彼の親友の早すぎる死さえなければ。
ニックの無反応振りに、小馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、ヴァクスはベッドに横たえられていた体を軽々と腹筋だけで起こして、少々乱れた身なりを整えた。
これから、航法演習についての講義があるのだ。
宇宙艦に乗った士官候補生といっても、実状は士官学校時代と大差ない。実技演習が増えた事と、士官の仕事の手伝いが新たな科目として加わったくらいのものだ。遙かな過去、地球(ホーム)の海を行く艦では、士官候補生はひどい超過勤務に就いたものであるらしかったが、艦の航行に自動制御システムが働いている現代では、労働力としての士官候補生の価値など、ないに等しかった。
つまりは、任官して艦に乗り込むだろう近い未来に備えて、黒色腫瘍…いわゆる<宇宙軍病>…に対する免疫をつける、というのが、艦に載った士官候補生の主な業務であり、彼等の毎日は基本的に、日々、勉強という事になる。
それでも、ここはもうルナ・ポリスからは遠い。将来の上級士官としての資質、個人の適性といったものを、全て露呈させられる。それはいっそ、残酷なまでにあからさまで、正直だ。その結果を眼前に突きつけられる度に、自分の至らなさを見せられる度に、彼等は士官への近くて遠い道のりを思い知るのだ。
最先任士官候補生は、候補生の第一人として、士官候補生居住区を治むること。
できないようなら、それもまた、未来の士官として不適格と断じられても、仕方がない。
ニックもまた、溜息を押し隠して、次の講義に向かっての準備を調え始めた。



彼らの教室兼資材室の扉を開けたところで、ヴァクスが立ち止まっていた。最先任である自分を待っていたためでは無論ない。不審に顔をしかめて、早く入室するようにと声を掛けようとしたが、それは思い直し、ニックは周囲に気づかれない程度に爪先立って、ヴァクスの肩上から室内の様子を垣間見た。
そこには、今ここにいるはずのない人がいた。
「…マルストロム宙尉?」
マルストロムは、熱心に見入っていたホロ…多分、それはブック・チップだろう…から顔を上げた。
「入りたまえ」
そこで、彼らを安心させるように、にっこりと微笑う。
「別に、君たちが遅れてきた訳じゃない。私が早く来すぎたんだ」
笑顔の優しさに戸惑いながら、候補生達はおずおずと入室する。身振りで着席を促されて、それに従った後、ニックが皆の疑問を代弁するために、口を開いた。
「講義はカズンズ宙尉の担当だったと思いますが、ミスタ・マルストロム?」
「ミスタ・カズンズは、艦長からの勅命で、別任務に就いている。今回は、私が代わりを仰せつかったという訳だ。…私が講師では、ご不満かな?ミスタ・シーフォート」
その、上任宙尉から最先任士官候補生への形式ばった返答とは裏腹に、マルストロムの目には、少年じみた悪戯っぽさが滲んでいる。
「ノー・サー。ソーリー・サー」
ニックは、とんでもない、とばかりに首を振って、更に、耐えきれず、といった風情で小さく付け加えた。
「嬉しいです、ミスタ・マルストロム」
顔を赤らめて俯いたニックは、気づかなかった。一瞬、マルストロムの頬を緩めさせた慈愛の微笑も、そんな彼等を睨み据えるヴァクスの冷たい視線にも。



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