心の内なる秘密の音楽〜序





ヴァクスは、彼の笑顔を見たことがついぞなかった。どころか、怒りを露わにしたところも、悲しんだところも、全く見た覚えがない。
真面目が取り柄の鉄面皮。
ヴァクスにとっては、それが最先任士官候補生である彼を語るたったひとつの言葉だった。



彼と初めて会ったのは、ハイバーニアに配属されて、すぐの事だった。癇癪を起こしたヴァクスが投げた書類の束が、候補生居住区のすぐ前の廊下にまで散らばった。慌てて拾いにいったアレクセイに手を貸すように、いつの間にか彼が膝を突いていたのだ。
いつの間にか。
これほど、彼を表現するのに適切な言葉はないかもしれない。
すらりと背が高く、目鼻立ちの華やかなアレクセイの横で、彼はいかにも従順そうで大人しい、羊そのものだった。
使い走りにちょうどいい。
その時、ヴァクスの考えを読みとったかのように、彼は顔を上げた。ヴァクスは、初めて正面から彼を見た。
そして、まるで人形のようだと思ったのだ。
確かに、端正といえる面立ちをしていた。しかし、何よりヴァクスとまっすぐに目を合わせて、なお、冷着な仮面を外さない彼は、ひどく作り物めいて見えた。
それが、気に入らなかった。
軍隊生活の中で、常にある種の鬱屈を感じていたヴァクスは、ある意味、非常に生きる力に満ちた人間であった。そんな彼にとって、目の前に現れた最先任士官候補生のあまりにも凪いだ瞳は、神経を逆なでするに充分であったのだ。



白状しよう。
彼の笑顔を見た事がない、というのは、実は正確ではない。ヴァクスは、彼がマルストロム宙尉と二人でいるところを目にした事がある。
多分、何か仕事の助手を命じられでもしたのだろう。宙尉の横で、生真面目な様子でコンソールに向かっていた。小声で何か指示でも出しているらしい宙尉の声がした。内容までは聞き取れなかったが、彼は神妙な様子で頷いている。
それは彼ら士官候補生にとっては重要な業務のひとつであり、よくある風景でもある。しかし、彼ら二人を包む空気は、とても一般的とは言い難かった。それはひどく穏やかで、この上なく優しかった。
宙尉の愛情深い微笑もさることながら、彼のあんなにもリラックスした表情を見るのは、初めてだった。
通りすがりに完全に足を止めてしまったヴァクスに気づいた様子もなく、宙尉が少し身を乗り出すようにして、彼に何か耳打ちした。その時、彼は思わずといった風情で、笑ったのだ。それは本当に楽しそうで、幸福そうですらあった。ヴァクスがついぞ見た事のない、彼の微笑。
そこでヴァクスはきびすを返した。胸奥から湧き出て、口腔一杯に広がったそれは、耐え難いほどに苦かった。



結局、そういう事なんだと思った。
彼は、保身のために後ろ盾を作った。それは、永久に使えるものではないにせよ、この長い航天中は充分に機能するだろう。
唾棄すべき思想だ。おまけに、どのようにしてそれを得たのか、など、考えるまでもない。
宙尉が愛おしげに彼を呼んだ。
「ニッキー」
女性名詞ときた。
だから、これは嫌悪感だ。身を売ってまで、己の立場を維持しようとする彼に対する侮蔑であり、嘲弄だ。
胸奥から炎で炙られ、爛れるようなこの感覚が、それ以外の、一体なんだというのだ?



ニックにとって、彼の視線を意識しない日は存在しなかった。
ひどく冷たく、それでいて底にどろりと凝った灼熱のマグマを秘めている。からみつくようなそれを感じて、それとなく周囲を窺うと、必ずそこには彼の姿があった。ニックが彼の存在を認めた、と気づくと、いつだって、小馬鹿にしたように唇の片方だけをつり上げてみせる。侮蔑の情を隠そうともせずに。
人に好かれるという経験のあまりないニックであったが、あそこまで嫌われるというのもまた、全くの未経験であった。がしかし、それは『故もなく』という訳では、決してない。あいにく、彼に嫌われる要因に対する心当たりは、ありすぎる程にある。
そもそも、出会いからして最悪だった。ニックが辞令を受け取って、士官候補生居住区へと足を踏み入れるまで、彼が、自分こそが最先任だと信じていた事は明白で、これだけでもニックに対する悪印象を与えるには充分だったが、その上、彼の事実上の上官になってしまったこの最先任士官候補生には、何一つ彼より秀でた点がない。
彼がニックの存在にうんざりしたって、それは当然なのかもしれない。
相手の存在さえも否定したい、そんなマイナス感情も、人は持ち得るものだ。それは、厳然たる事実だ。だが、自分がそんな対象になってしまうと、心の奥底が凍り付いたような気がする。
まだ地上にいた頃の幼い自分。暗いカーディフの山の中を、ニックを引いて歩く幼なじみの堅く握りしめた手だけが、唯一の居場所を示しているような気さえした。ここにいても、いいんだよ、と。
何だか最近、あの頃に戻ったような気がしてくるのは、彼に対するニックの感情が、父親に対するそれと似通っているせいかもしれない。
認められたい。そして、彼を満足させたい。
そう思っているのに、実際、ニックは彼らの期待を裏切ってばかりだ。複雑な数式を前に、何故こんな問題が解けないのか、との苛立ちも露にニックを見下ろした父親。そして、自分よりも不出来な上官に対して、うんざりしているのだろう彼。
すると、落ち込んでいたニックを元気づけ、いつも遊びに連れ出してくれた幼なじみは、さしずめ、マルストロム宙尉といったところか。
そこで、ニックは己の思考を放棄した。その認識は宙尉に対して、非礼に当たるだろう。如何に、プライベートでは友人であるとはいえ、マルストロム宙尉はれっきとした上官だった。
ついでに、彼の事を考えるのも、ひとまず棚上げとしておこう。彼に受け入れてもらうには、とにかく、ニックが努力するより他になく、それには思考による答えは存在しない事は、分かり切っていた。
ニックは、知らなかった。
「受け入れられたい」という願望の指し示す、己の感情が、一般的に何と表現されるべきものなのか。



あまりにも不器用な二人の子供の、そのいびつな感情の奥深くに隠されたものが何なのか。
誰も語らず、彼等自身さえ知らず。


物語は始まる。



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