WATER GARDEN〜水の王国 +++ 深緑のエデン編Ver.3


昔。
語り部の語る世界の始まりほどにも古く
吟遊詩人の謡う物語ほどにも遠い、昔。
大気はより濃密であり、水はより稀薄であった。
人間達は、地に生きるものとして
慈愛と豊穣、冥府の主にして暗黒を司る地母神に深い敬愛を
天の恵みを受けるものとして
力と司法、神々の王にして光輝を司る天父神に大きな畏敬の念を
捧げてきた。
大地と空の力も等しく、生きとし生けるもの全てと共にあったのだ。
そして、特殊な力を持った者達が現わる。
彼等の持つ力は、神々の恩寵とされ、人々から貴ばれ、
喜ばれるものだった。
地母神の恩恵を受けたとされる、世界全てからエナジーを取り入れ、
それを外的な力に変換する魔導士。
天父神の使いとして、神の声を聞き、
その教えを内的な力とする僧侶。
当初は彼等も手を取り合って、人々を導いていったのだという。
それが何故、こんなにも道を違えてしまったものか
それはもう誰にも判らない。
昔。
語り部の語る世界の始まりほどにも古く
吟遊詩人の謡う物語ほどにも遠い
昔の話であるがゆえに。

「失われし世界」序文より



種種雑多な人種の坩堝。
貿易都市国家として、世界にその名を馳せるカガリヤ公国をしても、ここまで多種多様な人々が集う事は稀であろう。
透けるような肌、逞しい骨格の北方人種。炭のように黒い顔をした南方人種は、比較的小柄だ。明るい色の髪をした西方の人間。そして、闇夜の瞳を持った、東方の人々。
西方、殊にカガリヤ以外の国に於いて、東方人種を目にする事は、非常に珍しい。険しい山でその国域を封鎖する北方には、難所とはいえ、国家間を結ぶ山路(ルート)が確立していない訳ではない。南方への海路(ルート)もまた然り。
しかし、西方と東方を隔てる大砂漠。日中と夜間の温度差が50℃にも及ぶというこの不毛の地を渡る術を持つ者は、そんなに多くはない。ごく少数の〈流浪の民〉と呼ばれる者達が、数えられるくらいのものだ。
遙かな過去、未だこの砂の海がただの荒れ地に過ぎなかった頃から、遊牧民としてこの地に暮らしていたという部族の末裔が、先祖の知識と知恵を生かし、砂漠を渡る隊商となった、とも伝えられるが、真実は定かではない。そのような事は、さして重要でもない。
重要なのは、西方に辿り着く東方民族など、彼等以外にはいない、という事。
今現在、〈流浪の民〉こそが、西方世界に於ける東方人種の代名詞なのである。



「ねー、タカちゃん」
ザカザカザカザカ
「タカちゃんってば!待ってよ!!」
ザカザカザカザカ
「何処に行くの。最近、いっつもいっつも、この時間になるといなくなっちゃって」
ザカザカザカザカ
「皆、変に思ってるよ。タカちゃん、長に付き添って商品の買い付けに行くって、そう決まってたじゃない。なのに、急に『行けません』なんて、そんなのないよ」
ザカザカザカザカ
丈夫な布で織られた旅用マントが、彼の些か乱暴な足運びに従って、荒い音を立てる。
背後を小走りに追ってくる少年には全く気を向けず、彼は人混みの間を縫って、ひたすら驀進していた。すったかすったか歩いていく隊商風の装束に身を包んだ背の高い少年の後を、やはり隊商と思しき衣装の少年が、少々拗ねたような様子で一所懸命についていく。見る者によっては、微笑ましい、と映るであろう、そんな構図。
そう。
拗ねている。
言葉自体は非難といってもいい内容だというのに、その口調は全く激しさを欠いている。
足を緩めぬ少年は、唇を小さく噛み締めた。しかし、背後の少年には、そんな事は判らない。
「ねー。聞いてるの?」
ザカザカザカザカ…
背後から、小さな溜息が聞こえた。
「…タカちゃん、今までサボった事はあっても、自分のお仕事すっぽかした事なんてなかったのに…」
「……さっきから、黙って聞いてりゃ、ベラベラベラベラ…」
「……?」
「人聞きの悪い事、ぬかすな!誰が『仕事をサボった』っつーんだ!俺は『“今日は”行けない』って言っただけだ!それに、何度も言ってるだろーが!『タカちゃん』と呼ぶな!!」
「…えー。じゃあ、なんて呼べばいいの。小さい頃から、ずうっとこの呼び方だったんだから、直んないよ、今更」
少年は人混みの中、今までかなり大股に動かしていたその足を止め、背後を遅れて付いてきていた幼馴染みに振り向いた。そのまま、息を切らした彼の追いつくのを待つ。
少年ながらも背の高い二人は、この人混みの中でも、頭ひとつ飛び抜けて見える。確かに、西方(ここ)では〈流浪の民〉…東方人種…を見かける事は珍しかったけれども、例え彼が〈流浪の民〉でなかったとしても、こんなに背が高くなかったとしても、この少年を見失うような事は、決してなかったに違いない。ようやく彼に追いついた少年は、感歎を込めて、この希有な幼馴染みを見やる。
頑強かつシャープなその体躯も、浅黒い皮膚の色も、引き締まった顔つきも、確かに彼を目立たせる一因となってはいたが、ただ、それだけであったならば、彼をここまで周囲から際立つ存在にはしなかったであろう。
それは、不思議なオーラ。
そう。これは、人の上に立つ者特有の匂いだ。指導者の、リーダーの、長の、そして、帝王の…。
これをカリスマ性、というのだろうか?
隊商の占い婆が、まだ赤子だった彼に遺したという預言と相まって、時々、不吉な思いに駆られる事がある。
『この子は、帝王の星を持っている。本気で望むのならば、世界だって得る事ができるだろうよ。…ただね。たったひとつ、本当に欲しいものだけは、決して手に入らない。それが、この子にかかる〈祝福〉であり、〈呪詛〉でもあるのさ』
後日、この預言を聞いた彼は、肩を竦めていったものだ。
『何だって手に入るんだから、ひとつくらい我慢しろってか?そんなもん、与えてもらうもんじゃねーだろ。俺は、本当に欲しいものだったら、何が何でも手に入れる。自分の手で、だ。そんな言葉なんかで、俺の人生決められてたまるかよ』
だけど、『でもよー。婆も景気のいい事言ってくれるよな。どうせ大風呂敷広げるんなら、商売繁盛、末は大金持ち、とか言ってくれればいーものをよー』と笑う、この口は悪いけれども根は優しい幼馴染み兼乳兄弟が、少年…ウツノミヤ…は、大好きなのだ。
「…いいんだよ。『タカヒコ』で」
彼…タカヒコ…が、仏頂面でそっぽを向いた。その様に、ウツノミヤの眉は、八の字に下がる。
「…だって、タカちゃん…」
「だから、『タカちゃん』は止めろ」
振り出しに戻ってしまった。
このままでは埒が明かない、とばかりに、タカヒコは憤然とウツノミヤを見返した。タカヒコよりも多少背の高い彼を、心持ち見上げる格好となる。
「もう、お前は帰れ」
「…だって、タカちゃん…」
「帰れ。鬱陶しい」
タカヒコは己の腕を組んで、石造りの建物の壁に寄り掛かった。その後は、ウツノミヤの方を見ようともしない。こうなってしまうと、彼は梃子でも動かない事を経験上よく知っているウツノミヤは悄然とした。
こんなに心配してるのに…。
何だか、悲しくなってくる。
肩を落として背を丸めたウツノミヤは、彼の言う通り、もう戻った方がいいのかもしれない、と思い巡らせた。随分と長い時間、タカヒコと一緒に…というか、タカヒコの後ろをついて…歩いてきてしまっていた。自分だけでも隊商に戻って、できるだけの仕事をした方がいいのではないだろうか、と思えてきたのだ。
だけど、ここが何処なのか、さっぱり判らない。
このカガリヤという街は、似たような様式で作られた細い路地や古い石造りの建物が多いため、えらく簡単に迷子になる事ができるのだ。
こっそりとタカヒコの様子を窺ってみる。
……駄目だ。声を掛けても返事をしてくれないだろうし、そうでなければ、また怒られるかもしれない。今度怒らせたら、かなりの高確率でキックを食らいそうだ。
ウツノミヤは辺りを見回した。目の前に、大きめの小川程の運河。少し離れたところに、荷車が通れる程度の橋。灰色がかった古い石の壁。
…判らない。
ここはどの辺りで、今はどのくらいの時間なんだろう。
その時、ウツノミヤの疑問に答えるかのように、澄んだ鐘の音が、熱気を帯びたざわめきに被さるように空を響き渡った。
一回。二回。三回…。
三点鐘。
音の響いてきた方を見やると、路地の向こうに天高く聳える尖塔が目に飛び込んでくる。ようやっとウツノミヤは、ここが何処なのかに思い当たった。
路地を抜けると、大公宮前の広場なのだ。
(タカちゃんに訊いたりしないで、よかった)
ウツノミヤは、心底ほっとした。
訊いていたら、またバカにされる事請け合いだった。
国の中心地に位置する大公宮からは、大路が放射状に巡らされている。ここからならば、帰り道を見つけだす事も容易だろう。
「……それじゃ、タカちゃん。僕、先に戻ってるから。タカちゃんも早めに帰ってきてね」
返事のないのは、承知の上だ。もとより、期待もしていない。取り敢えず、大公宮へ出よう、とウツノミヤは頭を巡らせた。
その時である。
「マエダくーん」
線の細い、少年の声。
その声の発した名前には、聞き覚えがある。
「…マエダ?」
思わず声の聞こえてきた方を仰ぎ見る。運河の先、小さな路地裏から、小柄な少年が手を振っているのが目に入った。西方の衣装を東方風にアレンジしたような、カガリヤ特有の服装は、平時に用いられる丈短めのもの。純粋に風除けのためであろう、丈の短いマントは、柔らかそうな布地で仕立てられている。落ちたフードから露わになったその顔は、少女のように優しげで。
「今度は橋、渡ってこいよ!また落ちても、知んねーぞ!!」
「判ってるよー」
少年は、むくれたような声で応じると、とてててて、と橋に向かって走り出す。その口調の気安さもさる事ながら、少年を見つめるタカヒコの瞳の優しさに、ウツノミヤは呆然としていた。ただただ、彼と、目の前に飛び込んでくる少年とに見入ってしまう。
「お待たせ!」
そう言って、タカヒコに見せた少年の笑顔は、まるでお日様のようだった。そして、ただ笑顔でもって少年を迎えたタカヒコは、本当に嬉しそうだった。
ウツノミヤも、もう長い事見ていない、タカヒコの心からの笑顔。
何故か、足が動かない。
そしてウツノミヤは、立ち去るタイミングを完全に逸してしまった。
彼の目の前で、お日様の笑顔をすぐに解いた少年は、何か思いだしたかのように、怒った顔を作った。
「マエダ君。僕、怒ってるんだよ」
「…何が?」
「マエダ君の素性!『ハタモトの三男坊』って、本の中の話じゃないか!」
ぷりぷりと訴える少年を前にタカヒコは、腕を広げて頭を振った。
「今頃気づいたのかよ、お前ー」
「…マー、エー、ダー、くーん…」
「大体、俺を見て、〈流浪の民〉以外の者だと思ったのって、お前が初めてだぜ。俺の何処いらへんが、マガハラ人に見えるんだよ」
ぴょんぴょんと飛び跳ねて怒る少年に、タカヒコは呆れたように、右手の親指で己を指し示してみせる。
隊商の衣装。旅用の分厚いマント。闇彩の瞳と髪。よく日焼けた肌。がっしりとした体躯。
確かに、〈流浪の民〉以外の何者にも見えない。 タカヒコの言葉に、ウツノミヤは深く頷いてしまった。少年は、まだ不服そうに、うーうー唸っている。その様子に、彼はついつい微笑みを洩らしてしまう。あんまりにも子供っぽくて。
だけど、今の言葉は、何か気にかかる。
「マガハラ?…って…」
タカヒコが昨日、「土産だ」と言って持ってきたお菓子と、何か関係があるのだろうか。
図らずも口を突いて出てしまったその言葉が耳に入ったのか、少年がウツノミヤに視線を移した。一瞬、不審に潜められた少年の瞳に、すぐに理解の色が浮かぶ。
「あ。ウツノミヤ君だね」
「……え?」
己は、この少年と会った事があっただろうか。
(…ぜ、全然、覚えてない)
困惑に染められた顔を、タカヒコへと向ける。当のタカヒコは、未だウツノミヤがいた事にようやっと気づいたらしい。驚きに見開かれた目は、次の瞬間、潜められた。続いて浮かぶ、怒っているような色。
(う、うわー。どーしよー)
救いの手は、少年から差し延べられた。
「あ、ごめんなさい。ウツノミヤ君は僕の事、知らないよね、きっと。僕はマエダ君から教わってたから」
恥ずかしげに言う少年に、ウツノミヤは恐る恐る、口を開いた。
「…えーと。タカちゃんのお友達、…ですか?」
「はい。建国500年祭の時に知り合って、それから、いつも会ってるんです」
「…はー。だからかー」
「はい?」
「いえ。何でも」
言いながら、タカヒコの様子を窺ってみると、彼は苦虫を噛み潰したような顔で、そっぽを向いていた。赤く染められた頬は、羞恥のためだろうか。
この少年とのつき合いについては、誰にも知られたくなかったのかもしれない。
ふと、ウツノミヤはそう思った。
「僕、ケンタと言います。この街(カガリヤ)で育ちました」
「僕は、ウツノミヤ。…タカちゃんに訊いて、知ってるんですよね」
「でも、自己紹介してもらうのは、初めてだもの。会う事ができて、とっても嬉しいです」
ケンタは、微笑んだ。先程、タカヒコに向けられていた、お日様の如きものではなかったが、充分な好意を含んだ笑顔。未だ戸惑いがちながらも微笑を返して、ウツノミヤは気になっていた事を口に出してみた。
「『ケンタ』っていうのは、名前、ですよね。姓は、なんて言うんですか?」
家族か、余程親しい者でもない限り、普通は名を呼び合ったりはしない。その慣習故の問いだった。しかし、ウツノミヤの問いかけに、ケンタは困ったような表情を見せた。
もしかしたら、訊いてはいけない事だったのかもしれない。
脳裏を過ぎったその発想に、重たいものが胸を塞ぐ。すぐにその思いを口にしようとした時。
「ごめんなさい。姓は判らないんです。僕、自分の両親の事、知らなくて」
ウツノミヤは、驚いて少年を見返した。
名とはそのものの本質を、そして、姓とはそのものの属するものを意味する。「属するものを持たぬ」といわれる〈流浪の民〉とて、氏族くらいは持っているのだ。本当に姓を持たない者など、そう多くいる訳ではない。
世を捨てた者。聖職者。重罪を犯した者とその血族。そして、親の判らない者。
目の前の少年は、そのどれにも当てはまるとは思えない。
まっすぐな気性を表す瞳。礼儀正しい様子。すぐに判る。その服の仕立ての如く、極上に類する人間だ。
ウツノミヤが口を開くより先に、タカヒコが会話に割って入った。
「嘘つけ!お前が親なしなんて、そんな事ある訳ねーだろ!」
非難、憤懣の滲むそれに、ケンタの瞳が困惑に揺れる。
「何でそんな事、言い切れるのさ」
「俺には判んだよ!!」
砂漠のオアシスに捨てられていた赤子であったタカヒコも、そういった人々のうちの一人だったのだから。
『嘘つき』と断じられたケンタは、口を噤んだ。が、その中に反論で一杯なのが、ありありと判る。
「あ、じゃ、じゃあ、ケンタ君って、呼んでもいいのかな」
咄嗟にその場をフォローしようと、ウツノミヤが引きつった笑いを作る。
「はい。そうしてもらえれば」
ケンタが、にっこりと微笑む。しかし、ウツノミヤの困惑混じりの表情故か、少し眉根を潜めた。
「…何か、言い難かったりしますか?」
「ううん。そういうんじゃなくてね。名前は、滅多な事で使ったりしない方がいいから」
ますます要領を得ない顔になるケンタに、ウツノミヤは慌てたように話し出した。

古来より、名前とは神聖な意味を持つ。それは、そのものの本質を意味する、力ある言葉である。神代の昔には、言葉そのものが大きな力を持っており、力ある言葉は、ありとあらゆる物質に働きかける力となった、とも伝えられる。

「…だからね。〈力ある言葉〉は、口にする時は気をつけなくちゃいけないんだって。まぁ、迷信って言っちゃえばそれまでなんだけど、〈流浪の民〉(ぼくら)の間ではそんな迷信だって、まだまだ生活の中で生きてるからね」
そーだ、そんなん迷信だ、と訴えるタカヒコの言は聞こえない振りをする事にして、ウツノミヤは照れたように笑った。
今話した事は、確かに伝えられる事実。
しかし、それは吟遊詩人の昔語りか、伝説の中でのお話に過ぎない。時代を重ねる中で、本来の意味合いが大きく曲げられて伝えられたのだろう、とも、ウツノミヤは思っている。
(遠く離れたものを〈言葉〉のみで動かす、なんて、まるで〈魔道士〉だ)
悪魔の使い。魔物憑き。妖魔のみに持ち得る力、魔力を行使する者。〈魔道士〉は、悪魔と取引をして人外の力を得る、という。
ウツノミヤは、ぶるりと身を震わせた。
(駄目駄目。こんな不吉な事、考えてちゃ)
陰の感情は、悪運を運ぶ。何とか、明るい方向に発想を転換させなければ。
悪魔と取り引きする人間なんて、対象の仲間にも知り合いにもいるはずがない。皆、神と自然に敬意と感謝の念を注ぐ、陽の領域に属する人ばかりなのだから。
(そうさ。〈魔道士〉なんて存在、僕らに縁なんかあるはずないんだから)
物思いから覚めてふと気づくと、ケンタが目を煌めかせてウツノミヤを見上げている。
「…すっごい、物知りなんだねぇ。ウツノミヤ君って」
ケンタは、感心したように息を吐いた。尊敬の念さえ読み取れるそれに、ウツノミヤは慌てて両手をばたばたさせる。
「そっ、そんなんじゃないよ!これは〈流浪の民〉の言い伝えで、別に僕がどうって訳じゃ…」
「…ウツノミヤ。お前、もう帰らなくってもいーのかよ」
背を刺す、タカヒコの声。
「………あああーーーーっっ!」
「……………バーカ」
呆れ返ったような…実際、呆れ返っていたのだろうが…タカヒコの声を、気に掛けている余裕はない。
ヤバ過ぎる。
「ごめんね。僕、もう帰らないといけないんだ。また、いつか会えるといいんだけど…」
それでも、ケンタに対する気遣いは忘れない。この辺り、ウツノミヤの人格がよく現れている。
「おう。けーれけーれ。とっととけーりやがれ」
焦るウツノミヤに、腕組みをして壁に寄り掛かるという横柄な姿勢のまま、悪態を吐く。この辺りに、タカヒコの人格もよーく現れている。
「…マエダ君は、帰らなくても、大丈夫なの?」
ケンタが口を開く。怖ず怖ずとした様子で紡がれたそれは、己の言葉の実現を畏れているのが容易に判ってしまう、あまりにも正直なものだったので、つい、ウツノミヤはタカヒコに訴えかけるような視線を送った。
…本当はタカヒコに、帰るようにと説得しに来たはずだったのだが…。
その視線に含められた訴えに気づいたのだろうタカヒコは、ケンタに余裕の笑みを見せる。
「大丈夫だって。俺はちゃんと『抜ける』って言ってきたからな。…こいつと違って」
ひっ、非道いっ。
「っ、タカちゃんの、バカーッ!!!」
それが、二人の前から走り去るウツノミヤの最後の言葉だった。



(本当に本当に、タカちゃんってばっ。断って出てきたんだったら、そう言ってくれればいいのにっ)
ウツノミヤは道筋を確かめると、隊商のテントのある方向に向かって歩き出した。方向は間違っていないはずだ。せっせと足を動かしながら、しかしウツノミヤはゆっくりと、自らの想念に沈んでいくのを自覚していた。
オアシスで泣いていた彼を見つけたのは、ウツノミヤの母親だ。飢えて、泣き喚くしかできない赤子。それが、彼だった。
当時、ウツノミヤを産み落としたばかりの母は、もう泣く声さえもが弱々しくなっていた彼に、思わず、乳を含ませたのだという。誰もが、彼の死を信じて疑わなかった。このまま、無事に育つ訳がない、と思っていた。その彼が今や、次代の長、といわれるまでに成長しているのだ。
(タカちゃん、あの子に『マエダ』って名乗ってたんだ…)
長を継げば、彼は『ウツノミヤ』を名乗る事ができる。気の弱い、商才なんかこれっぽっちもない、ただ、長の息子である、というだけの自分よりも、タカヒコの方が絶対、次の長に相応しい。
ずっと、そう思っていた。
タカヒコは、ウツノミヤの誇りだった。
本当は〈流浪の民〉ではない、と周囲に言われながらも、誰よりも〈流浪の民〉の矜持を抱えた彼。
タカヒコが本当は何処の国の、何処の部族の者なのか、誰も知らない。赤子である彼の持っていた物は、その時にくるまれていた、東方ではよく出回っている綿織りの産着の他には、直径5cmほどの銀のメダリオンだけだった。そのメダリオンに、装飾文字で刻みつけられていた言葉。
『マエダの名を継ぐ者 天空に座す日と月に賭けて 汝 誇りを失うべからず』
文字というものを必要としない生活を送る〈流浪の民〉は、基本的に文盲である。長らく、単なる装飾だと思われていたそれを、独学で文字を覚えたウツノミヤが解読したのは、つい最近の事だ。
マエダ。
それが、過去、彼が属していたものだったのだろう。
彼が、初めて会った少年に対して、マエダと名乗った気持ちは判らない。姓を持たない、という事が、どんな思いのするものなのか、きっとウツノミヤには、ずっと判らないままだろう。
俯いているうちに、何だかとても悲しくなってきた。俯く、という動作は、何故か、人の気持ちを暗くさせる効能を持っている。ウツノミヤは、先程会ったばかりの少年を思った。
とても気持ちのいい少年だった。多分、乳兄弟にとっては、生まれて初めての親友だろう。だけど、隊商とは、国から国、街から街へと流れていくもの。
(せめて、あの二人が少しでも長く、一緒にいられるように)
 せめて、この街を出発するのが、少しでも遅くなるように。
儚い願いだとは、充分、承知している。それでもウツノミヤは、そう願わずにはいられなかった。



END
(1995.5.3発表) 



リライト中、ふと気づいたんですが。
この話って、序からVER.4までで、物語内時間2日しか経ってなかったみたいです。
実際には、ちまちま1年も書き続けてたのに。
あんびりーばぼー。








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