WATER GARDEN〜水の王国 +++ 深緑のエデン編Ver.2





熱いような痛いような、だけど、とても気持ちいい。
陽光が、ケンタの白すぎる肌をちりちりと焦がす。木漏れ日が肌に当たる感触はひどく奇妙で、だけど、とても心地よかった。葉擦れの音も、水がコポコポと大地の奥から湧き上がり、やがて小さな川を作り上げるに至るその様も、ケンタには本当に珍しいものだった。瞳を輝かせて、周囲を見渡す。そして、更に好奇心を刺激した一際明るい場所に向かって、走り出した。
木々の間を抜けると、開く視界。光を遮るものもない、小さく拓けた広場があった。下草の生えたそこに、そのまま走り込む。
今まで、思い切り走ることさえもした事がなかった。できなかった。
塔の内部を貫く螺旋の階段。暗く湿った空気。要所要所を占める物見台。ごおごおと唸り猛る、また、ある時は啜り泣く風。陽光など届かない最奥の部屋では、決して絶やされる事のない松明の焦げた樹脂の匂いが立ちこめていて、魔道の講義をする導師の低く響く声が、壁に当たって跳ね返る。導師の声のように、ひんやりと冷たい石壁は、全ての温もりを拒絶しているかのようで。
それが、ケンタの知る世界の全てだったから。
風がびゅうびゅうと耳元で唸る。塔に吹き付ける風だって、とても強くて痛かったけど、それとは全然違うのだ。
そんな事さえ、知らなかった。
塔の中の自室で、いつも街を見ていた。眼下に見下ろす人々は、いつも泣いて、笑って、怒って。それでも皆、楽しそうだった。生きるのに、一所懸命だった。自分と同年代の少年達が裏路地を走り抜けていくのを羨望の眼差しで追い、空想を働かせて地図を眺めているうちに、網の目のように入り組んだこの町の小径は、殆ど覚え込んでしまった。だけど、ケンタは自分の足で歩いてみたかった。吹く風を、自分の肌で感じてみたかった。街の人々と同じように、自分の視点で街を見てみたかったのだ。
走る事によって、自分の周りに起こる風が楽しくて、ケンタは歓声を上げる。その時。
「わきゃあっっ」
「………何やってんだ、お前は、さっきから」
現状を理解できないケンタは、頭だけを起こして、自分を見下ろすマエダを呆けたように見返した。
「……何で転んじゃったのかな、僕」
「…はしゃぎ過ぎじゃねーの」
「いや、何か足に引っかかって…」
「どれ」
マエダが寝っ転がったままのケンタの足下に屈み込んだ。少しの間、足下を調べているマエダの気配。その後、ケンタの耳にマエダの深々とした溜息が届いた。
「…マエダ君?」
「………鈍くせー………」
マエダは、ケンタの足を輪状に縛られた草から引き抜いた。
「何だったの?それ」
「ガキの悪戯だろ。こうやって、草と草とを縛りつけとくんだよ。でもお前、今時こんなもんに引っかかる奴なんかいねーぞ」
「『引っかかる』とどうなるの?」
「…今のお前みたいに、すっ転ぶんだよ」
「……あー、そっか」
「………『そっか』じゃねーよ」
あまりにものほほんとしたケンタの様子に、マエダの額に米印が浮かび出す。
「いい加減、起きろよ」
「うん。…でもさ」
「何だ」
「…土って、暖かかったんだね。僕、初めて知ったよ。何だか、すっごく気持ちがいい。地面の下から、色んな音が聞こえてくるみたいだ」
これは一体、何の音だろう。大地に染み込む水の音だろうか。それとも、地の底に住むたくさんの動物達の息吹?木々の根の伸びる音かもしれない。
俯せのまま、ケンタは大地の呟きに耳を澄ませた。地に押し当てていた掌から、地熱と共に何かが体に流れ込む。体の奥から、何かが沸々と湧き上がるような、そして、それを別の何かが塞き止めているような、そんな感覚。今まで、どうしても越えられなかった壁だったが、今回はいつもとは違うような気がする。
体の力を抜いて。心を澄まして。精神を開け放って。
そして、世界と同化する。
〈心を静め、汝、神なるを知れ〉
導師がいつも言っていて、どうしてもできなかった事。今日はできそうな気がする。
溢れるようなその思いの赴くままに、そっとケンタは目を閉じた。が、しかし。
ドカッ
予告なしの衝撃に、ケンタはものすごくびっくりした。びっくりし過ぎて、息が止まるかと思った。ゆっくりと離れ掛けていた霊体が急激に引き戻された衝撃に、硬直したケンタの肉体は一瞬痙攣して、だが、すぐにぐったりと弛緩する。瞑想(メディテーション)をいきなり断ち切られたショックで、まだ心臓がドカドカと波打っている。
「………マエダ君」
「寝るんじゃなー」
「…寝てないよ」
「嘘をつけ」
「寝てないってば」
「声が寝ぼけてんぞ」
「だから、寝てた訳じゃなくって……」
まだ自らの身体の使い方を思い出せないケンタの喉は、掠れた声を洩らす。
そこで、ケンタは思い出した。
マエダは、ケンタが魔道士候補生である、という事を知らないのだ。
こんな状態で〈瞑想〉しようとしているところ、なんて、確かに『眠っている』ように見えるのかも知れない。
「……ちょっと、ぼーっとしちゃっただけだよ」
「そーいうのを『寝てる』っつーんだ」
腕組みをして、勝ち誇ったかのように言うマエダの様子に、溜息をひとつ。
前田と出会ってから、たくさんの『初めて』に出会えた。嬉しくて、楽しくて、ドキドキとワクワクと。でも。
「………こんな仕打ちを受けたのも、『初めて』だよ、僕」
ケンタはふらつく頭を持ち上げると、その場にへたり込んだまま、マントを脱いだ。背の部分にくっきりとついた大きな足形が視界に飛び込んでくる。
溜息をもうひとつ。
「何か言ったか?」
「…何でもない」
半ば、やけくそのように手でマントを叩く。暫く続けると、少し後が薄れてきた。
「…神経質な奴」
「そんなんじゃないよ。ただ、汚して帰ると、シブヤ君が心配するから…」
放浪生活の長い己にとっては、どうという事もない汚れを気にするケンタを、呆れ返ったように見下ろしていたマエダだったが、ケンタの口から洩れた人の名が、その耳に引っかかる。
「………シブヤ?」
彼が自分のことを話した事は、一度もない。マエダも話した事はないのだから、お互い様ともいえるのだが。
……なんか、面白くねーよな。
腹が立つのは、何故だろう。
「うん。僕の家族みたいな人。…マエダ君、ウツノミヤ君の事、『幼馴染み』だって言ってたでしょ?それに近いのかな。あ、でも、僕の場合、兄弟っていうよりは、親子みたいかもしれない。僕、シブヤ君に育てられてるみたいなとこ、あるから」
照れたようなケンタの口から、自分の乳兄弟の名が挙げられる。数瞬、マエダは考えた。
「…俺、お前にウツノミヤの事、話したっけ?」
ケンタの目が、まん丸く見開かれた。
「初めてマエダ君と会った時、一緒にいたじゃない。あの時以来、全然、会ってないけどさ」
そうだ。あの時は、後ろにウツノミヤが付いてきていた。そして、ケンタに「幼馴染みだ」と告げて…。だけど。
「それにしたって、あん時は、すぐにアイツの事振り切っちまったし。お前、一言も喋ってねーんじゃねー?」
「うん。だけど、僕がマエダ君の言った事、忘れるはずがないじゃない。ちゃんと全部、覚えてるよ」
あまりにも当然の事を問うマエダが可笑しくて、微笑みを浮かべたケンタが顔を上げると、マエダが硬直しているのが目に飛び込んできた。
既に、首まで赤い。
「…マエダ君?」
恐る恐る声を掛けると、我に返ったようにマエダはケンタの隣にどっかりと腰を下ろし、猛然と前髪を掻き乱し始めた。何となく、声を掛け難いものを覚えて、ケンタは膝を抱え込み、合わせた膝の間に顎を落とし込む。
…僕、また変な事言っちゃったのかなぁ…。
ケンタの何気ない言動に対して、マエダがこういった反応を示す事がままある。
やっぱり、人慣れしていないから、自分では判らないけれど、何か変なところがあるのかもしれない。
自覚がない、というのは、一種、無敵である。
「そうそう。ウツノミヤ君で思い出した。お菓子持ってきたんだった。ウツノミヤ君の分もあるから、マエダ君、お土産に持っていってね」
この場の空気を修復する方法を思いついたケンタは、短衣の帯にくくりつけていた革袋を慌てて外した。潰れていないか心配だったが、どうやら無事だったようで、ほっと息を吐く。
「僕は初めて食べるお菓子なんだけど、きっと、マエダ君は懐かしいよね」
そう言って、ケンタが差し出したものは…。
「何だ、これ」
「…マガハラのお菓子だって聞いたんだけど。…違うの?」
他国の干渉を一切拒絶した結果、独自の文化を持つに至った東方最果ての国、マガハラ。その国の名は、西方から中部に近い東方の国々では、ある意味、伝説に近いものになっている。
ひどく遠くて、近い国。
マガハラが『遠い』のは、距離的な問題を見ただけでも、至極当然の事である。そして、何故『近い』のかというと…。
「ハタモトって、マガハラ国の貴族の事でしょう?文武両道、質実剛健がモットーなんだってね。カガリヤの貴族とは随分違うみたいだけど、文官が武官を兼ねているって事なのかなぁ」
好奇心に瞳をくりくりと輝かせて、ケンタはマエダの顔を覗き込んだ。
「…マエダ君。どうしたの?黙り込んじゃって」



「………んでね。マエダ君が変な顔したまんま、何も言わなくなっちゃったんだ。その後、お菓子食べて、……でも、やっぱり変だった。何か、自棄みたいにばくばく食べてたし」
ケンタは、シブヤにマエダの話ができる事が素直に嬉しかった。昨日までのように、シブヤに隠し事をしなくてもいいのだ、という事実に、多少、浮かれてもいるようだ。塔の自室での今日の外出報告が終わると、ケンタはシブヤがとても変な顔をしている事に気が付いた。それは、別れ際のマエダの変さとはちょっと違う。それに、情けなさと堪えた笑いとに、押さえた溜息をスパイスしてじっくり煮詰めると、こんな表情になったかもしれない。
「……シブヤ君?」
ケンタは、恐る恐る口を開いた。その声で、取り敢えず現在自分の取るべき表情を決めたらしい。シブヤが、がっくりと肩を落とした。そして、大きな溜息。
「…念のため、もう一度訊いとくけど。そいつ、自分の事、『貧乏ハタモトの三男坊』だって言ったんだな」
「うん。初めて会った時」
シブヤは、その場に蹲って、頭を抱えた。
「…シブヤ君」
心細げなケンタの声に、シブヤは自らの手に埋めていた顔を少しだけ、上げる。目線だけでケンタを見つめ、もう一度大きく溜息をつくと、シブヤは手振りで「ちょっと待ってろ」と指示して、部屋を出ていった。すぐに戻ってはきたが、その手には、数冊の本が抱えられている。その本をケンタの手に押しつけると、シブヤはその肩をぽむぽむと叩いて、再び部屋を出る。今度は、「もう下がる」という手振り付きだった。
「…何だろ、これ」
シブヤの挙動を不審に思いながらも、取り敢えず、ケンタはその手に残された本の表紙をつくづくと眺めやった。
タイトルは、「暴れん坊ショーグン」とあった。



ケンタは、世界各国の歴史、文化、政治形態、国際情勢については学んでいても、その国の『物語』なるものは、読んだ事がない。
必要なかったから。
だけど、マエダって奴もびっくりしただろうなぁ。まさか、マガハラを題材にした、子供でも知ってるような物語を知らない人間がいるなんて、思わなかったろうに。
ちょっとしたジョークを本気で受け取られた少年の顔が…今まで会った事もなかったが…目に浮かんで、肩が震える。ケンタの部屋よりもひとつ低い階にある自室に戻ってきたシブヤは、もう堪える必要もないその衝動に逆らわず、自分を任せる事にした。
シブヤは、息も苦しくなるほどに、笑い転げた。



END
(1994.9.4発表) 



…懐かしすぎる話の割りには、現在の文章力を鑑みて
あまり進歩が見受けられないような気が、なきにしもあらず。
大昔の文章って、結構、苦しいですね。








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