楽園幻想 +++ ACT.1-3 カインの印





静かに歩む研究者達しか通った事のないリノリウムの廊下を、複数の軍用ブーツが踏みしだいていった。男達の様子は皆、一様に慌ただしく、焦燥と興奮、そして、幾許かの不安とを滲ませている。
〔こちら、A4ブロック。目標個体は見当たりません。このまま、捜索を続けます〕
「気をつけろ!並の生物だと思うなよ!!」
部下からの報告に、隊長を務める男が、警句を発する。
〔了解〕
言葉とは裏腹に、あまり重みのないその返答口調に、彼の目が微妙に眇められた。しかし、何も言わず、そのまま通信を切る。
研究室から脱走した実験体、一体。
確かに、甘く見るな、という方が無理かも知れない。一個中隊にも匹敵する人員、兵器を動員した彼等にすれば。そもそも、これだけの装備を投入する事だって、大袈裟すぎる、とも言えるのだ。殊に、部下である大多数の兵士達は、自分達の追っている『もの』の正体を知らない。しかし彼だけは知っていた。少なくとも、その危険性についてだけは。
一個中隊でも、少ないくらいだ。『あれ』がもし、噂通りの代物ならば。
実際に見た事はない。軍の最高機密に属する『それ』の事は、しかし、いっそ伝説めいた噂を孕んで、軍内部で囁かれている。
(…しかし、実在するとはな。てっきり、ガセネタだと思ってたんだが…)
胸元まで迫り上がってくる、熱い塊を飲み下す。その手の愛銃の、ひんやりとした感触が、ともすれば焦りがちになる心中を宥めてくれる。
どれだけの能力を持っているのか知らないが、所詮、実戦を経験している訳じゃない。
幾多の戦火を潜り抜けてきた自負が、彼を支える。
(『死神』とまで言われたその力、どれ程のものか、見せてもらおう)
彼は、手にした自動拳銃(ピストル)の撃鉄をゆっくりと引き上げた。



通信機のアンテナをきちんとしまい込み、青年は支給されたばかりの自動拳銃を握り締めた。軍学校を卒業したばかりの彼の手には、なかなか拳銃は馴染んでくれない。
「定時連絡、終わったか?」
「うん、『気をつけるように』って、さ」
同期入隊の友人に、軽く答えを返す。その声は明るく、気安い響きを持っている。
A4ブロックは、脱走した実験体が隔離されていた、という地区からは、かなり離れている。まだまだひよっこに過ぎない自分達には、そういった場所を割り当てられたのだ。もっと潜伏率の高い場所には、経験豊富な先輩達が行っているはずだ。
「…なあに。大丈夫さ。もし、出てきたって、相手は丸腰なんだ。こっちには銃だってあるし、第一、二人もいるんだから…」
それでも、拭い切れない緊張を無理にも払おうと、笑顔で友人に振り向いた、その時。
突風が吹いた、…と思った。何か、柔らかな物を貫通するような音。そしてすぐに、硬い物同士のぶつかり合うような音。
何事が起こったのか、すぐに理解できなかった。先程までいたはずの位置に友人の姿が見えない。
笑顔が不審を映した表情(もの)へとなり変わるより先に、友人へと吹いたであろう突風が、青年にも襲いかかった。
自分に降りかかったものが何だったのか全く判らぬままに、その眉間に風穴を開けた青年は、まるでお揃いのアクセサリーを身に付けたかの如き友人と同じように、廊下へとその身を投げ出した。笑いを刻んだままの動かぬ瞳には、通風口と思しき上部のパイプ口から音もなく舞い降りた、全く人の気配を発さぬ、しかし、確かに人としか見えぬ影が、ただ映し出されていた。

人の形を取った風は、たくさんの男達を飲み込む建物内を、ただ、密やかに吹き抜けていく。

通信が途絶えた。
隊長は、その唇を噛み締めた。研究所内に潜入していた部下達からの通信が、全く途絶えてしまったのだ。
(…全滅?)
有り得るべからざる結論が、その脳裏を過ぎる。が、彼の今まで積み上げてきた戦闘経験が、すぐにその考えを否定した。
そんな馬鹿な事があるはずがない。所内に部下達が突入して、まだ、10分足らずにしかならないのだ。幾らなんでも、そんな事が起こり得る訳がない。
「…何故、誰も返信しない!」
舌打ちして、もう一度、通信機を口元に近付け、……そこで、凍り付いたかのように動きを止めた。手にした通信機を投げうち、その身を横っ飛びに投げ出すと、素早く物陰に隠れて体勢を立て直す。半ば以上、本能的な動きであったが、その本能に支えられて今まで生き残ってきたに等しい彼は、己の動物的ともいえる感覚を、何よりも信じていた。
背筋からピリピリと、一本一本、毛の逆立っていくかのような感触。緊張からくる痙攣で、ひくり、と筋肉の引きつるのが判る。
敵がいるのだ。恐らく、すぐ近くに。
しかし、これは何という気配だったろう。
普通、どんな生物であっても、例え、どのような殺人鬼であろうとも、相手を害する時には、なにがしかの感情を抱くものだ。そして、その感情は、押さえ切れない息遣いや、そわそわとした動きとなって、気配、として、ある程度の訓練を積んだ人間には、読み取れるようになってくる。
しかし、今、対峙している敵には、それがない。感情が、そよとも動いていないのか。それとも、敵対する意思が、ない??…いや、そうではない。それならば、彼の本能が相手を『敵』と見なすはずはない。そう、たった一つだけ、嗅ぎ取れる意思が在る。
殺意。
敵意もなく、害意すらない。焦燥、緊張、そして高揚。それら全てを殺ぎ落として、いっそ純粋なまでの殺意。
このような気配を持てる存在があるなど、彼は今まで、想像すらした事がなかった。
(…『死神』…)
彼の胸中に小暗く染み付いていた『それ』の二つ名が、鮮やかに蘇る。
その時、ふわり、と、風が動いた、…と思った。
(来る!)
頭を深く沈めて、第一陣の攻撃をやり過ごす。彼の背後で響いた、何かの弾け飛ぶ昔は、コンクリートで塗り込められた壁に、幾つかの小さな穴を開けた。火薬の類いの匂いはしない。何が撃ち込まれたのかは判らないが、それでも人間の体を貫通させてしまう事くらい、造作もないだろう。
しかし、飛び道具、というものは、その着弾位置から狙撃者の潜んでいるであろう、ある程度の攻撃位置を割り出す事が可能である。
(そこか!!)
返礼の銃弾は、しかし、何の手応えも返さない。読み間違えたか、と舌打ちする間もなく、今度は正反対の方角から、また、何かが撃ち込まれた。
「うおっ!」
辛うじてかわす。流れた髪が幾筋か、風に千切れ飛んだ。敵の予想以上の素早い動きに、半ば翻弄され、彼は狼狽して大きく身を引いた。
過ぎる焦りは、隙を生む。そして、戦場での隙は往々にして、彼等の運命の明暗をくっきりと分けてしまう。彼自身、よく判っていたはずであったのに。
その瞬間、彼に襲いかかった黒い影。その動きに反応して、自動拳銃を構え直す。至近距離からの狙撃は、命中率と反比例して、破壊力が段違いだ。
そして、既に彼の目の前まで迫っていた『それ』に向かって、強くトリガーを引き絞った。
ドゴオッッ!!
猛る轟音が空を裂く。そして、彼は強烈な力に吹き飛ばされ、背後のコンクリートの壁に叩き付けられた。瞬間、息が止まる。
一体、何が起こったのか。
体中が痺れていた。脳震盪でも起こしたのか、朦朧としたままの脳はなかなか働いてくれない。足が萎える。半ば張り付け状態であった壁から体が、自らの重みで、ズルリ、と滑り落ちた。壁に凭れかかるように投げ出された体は動かない。小さな呻き声らしきものが、喉を震わせた。掠れた、聞き覚えのない声。
これが、自分の声なのだろうか?
それでも、まだ耳が聞こえる事に安堵する。この爆音では、鼓膜がやられてしまっても、おかしくはなかったのだ。
(でも、『あいつ』は一体、何処に…)
その時、彼の思考を遮るように、一つの声が響いた。
「まだ死んでないのか。ったく、人間ってのは、丈夫なのか、ヤワなのか、判んねーな。他のは結構、簡単に死んだのに…」
蒸気混じりの白く煙った空気を割るように、声の主と思しき人物が現れる。彼の霞みかけた目に映ったその人物は、まだ20歳そこそこ程にしか見えぬ青年だった。…少なくとも、彼にはそう見えた。
しかし、軍学校出たての少尉とそう大差ない年齢に見える、彼にすれば、青二才、としか見えぬこの男が、彼の部隊を全滅にまで追い込んだ張本人なのだ。
男は、額に垂れた前髪をうっとおしそうに掻き上げて、無造作に歩み寄って来る。その手に武器らしきものの存在はない。
今、この手が動けば。床に転がってしまった自動拳銃を、拾い上げる事さえできれば。そうすれば、一矢報いてやれる。死んでいった部下達への、せめてもの手向けとしてやれるものを。
身体の自由が利かない分、目に力を込めて、男を睨み据える。そんな彼を何と思ったのか、不意に男は、彼の額に掛かった髪を掴み上げ、面を乱暴に仰向かせると、その目を近々と覗き込んだ。
身体が竦む。未だかつて、どんな敵を前にしても一歩も引く事のなかったのを誇りとしていた彼は、己の内に湧き起こる、押さえても押さえ切れない怯えを自覚した。
男の黒い瞳の内に宿るもの。それは、虚無でしかなかった。
ただ、絶対的な無。深淵に投げ込まれ、何処までも墜ちていくかの如き感覚を伴う、恐怖。
それはまるで、『死』そのものの具現。
(…そうか。だから、『死神』か…)
今まで、その戦闘能力故の呼称なのだと思っていた。
初めて、気付く。己の根本的な過ちに。
己のように、生き残る為に戦う、戦士ではない。勝つ為に戦う、軍人でもない。
戦いの為の戦い。破壊の為の破壊。殺戮の為の殺戮。その為だけに造り出された生物。『それ』は、強大な力を持った『人形』などでは、なかったのだ。
しかし、その代償は高くついた。任務の失敗、多数の部下の死、そして…。
「読み誤った俺のミス、だな。…部隊は全滅。後は、俺さえ殺しておけば、お前は、逃亡の為の時間を、かなり稼ぐ事ができる…」
息をするのが苦しい。肋骨が折れているのかもしれない。
かなりの努力を要して言の葉を紡ぐ彼に、しかし、男が感情を動かされた様子はなかった。眉一つ動かさぬまま、彼を見つめている。
「……殺せ…。お前の権利だ…」
その一言に、男は何気ない様子でその手を振り上げた。綺麗に節のういたその長い指は、鋭利な凶器となって、彼の胸板をもたやすく貫くだろう。その瞬間を思い描き、彼はゆっくりと目を閉じた。



しかし、男の手が振り下ろされる事は、なかった。意外なところから、彼への救いの手は差し延べられた。対峙する二人の横方から、嵌められていた窓ガラスをも破砕して、銃弾が乱射されたのだ。そのままだったなら、確実な線で男を襲った弾丸は、彼をも死出の道連れにしてくれた事だろう。突然の事に驚愕の目を見開いた彼の前で、男は交差させた自らの腕でもって、その頭部を隠すような動きを見せた。
己の身を守ろうとする、本能的な動作のように見えたそれは、彼の目に信じ難いものを映し出した。彼等を襲った無数の凶弾は皆、男の前で弾き飛ばされたかのようにその進路を変えたのだ。まるでそこに、不可視の壁でもあるかのように。雨のように浴びせ掛けられたそれが、初めに撃ち込まれた時と同じように、唐突に止む。その事を確認してから、男はゆっくりと、組まれていた腕を下ろした。
男は、掠り傷一つ負ってはいなかった。その周囲の破壊の度合いが、加えられた攻撃の激しさをはっきりと物語っているにも係わらず、男の半径1m地帯は、まるでバリアでも張られていたかのようだ。いや、実際、それと近い物が張られたのかもしれない。
男の防御のスリップ・ストリームに入った形で事無きを得てしまった彼は、半ば呆然と男を見つめた。男は、もう彼の事など、忘れ去ってしまったかのように、今し方作られたばかりの新しい窓に顔を向け、外を透かし見ていた。
[お前が、この程度の攻撃で、殺られるとは思っていない。出てこい]
外では拡声器が、割れた音を響かせている。
[研究所周辺は、完全に包囲した。おとなしく、出てこい。〈SA−03Γ〉]
瞬間、男の瞳が燃え上がった。それはもう、虚無を映してはいない。
「……俺を、その名で呼ぶな!」
色を成した感情の名は、怒り。
声を荒げた男の指先が小さく翻る。そして、外からは新たな犠牲者の生まれた音がする。丁度、その手の翻った数だけ。
焦燥。狼狽。そして、その後に続く憤怒が、外にいるのであろう男達の間で広がっていくのが判る。
彼にも確かに覚えのある、感情。
男が、口角を笑いの形に吊り上げた。まるで、己の挙動によってもたらされた周囲の感情の流れが、楽しくて仕方がない、とでも言うかのように。そして、嘲笑、もしくは、冷笑としか彼の目には映らないそれは、一際大きく、男の面を彩り……。男は、まだ夜闇の濃く残る外へと、身を翻した。その後を追うように、外では銃声が轟く。その様をひどく遠い所に感じながら、彼は我知らず詰められていた息を、細く長く吐き出した。
己の指揮する部隊が、所内に突入してから、約10分。その任務は、脱走した実験体をできうる限り、生きたままで捕らえる事。そして与えられたその任務には、不相応な程の装備。…余りにも速すぎる、援軍の到着。
この状況から導き出される答えは、一つ。
足止め用の捨て石。
初めから、彼の部隊が『あれ』を捕らえる事ができるとは思ってはいなかった、という事か。
胸部の痛みは退かないが、身体は大分、楽になっていた。指先に力を入れてみる。…動く。手首を持ち上げる。…大丈夫。
腕をじっくりとマッサージしてから、手を床につき、ゆっくりと体重を移動させる。床に寄り掛かりながらとはいえ、何とか立ち上がった。隅に転がっていた愛用の自動拳銃を拾い上げる為、壁沿いに歩を進める。
歩く度に、振動が肺を襲う。錐で刺されたかのような鋭い痛み。それでも、もう数歩で手が届く。と、その時。黒い影が彼の目の前に飛び込んできた。
「……お前か。何だ、もう外は、終わっちまったのかよ…」
男の表情は動かない。息一つ弾ませてもいない。冷たく冴え冴えとしたその双眸は、男を如何にも死神然と見せている。あまりにも非現実的なその連想は、眼前の状況をひどく芝居がかったものに見せてしまって、彼は不意に笑い出したくなった。
今まで、戦場でたくさんの命を断ってきた。敵から、『死の使い』の如く囁かれていた自分が、最後には『死神』の手のかかる、なんて、まるででき過ぎたドラマか、三文芝居だ。芝居ならば、幕が下りれば、死んでしまった部下達も、まるで何事もなかったかのように、起き上がってくるだろう。だけど、これは芝居でも、ドラマでもない。
(そうだ。これは、現実だ…)
己を叱咤し、萎えかけた気力を奮い立たせて、ともすれば崩れそうになる膝に力を込める。
先刻までなら、おとなしく殺されてやるつもりだった。勝者の当然の権利であり、敗者の、それが末路だから。しかし、上層部の思惑を知った今となっては、そう簡単にこの命をくれてやる訳にはいかなくなったのだ。
「…どうせなら、もう少し、遅く、戻ってくれば、いいものを…。そうすれば、武器だって、拾えたんだ…」
だけど、もう、ほんの一筋だけでも見えていた命運も、どうやら尽き果ててしまったらしい…。
彼の呟きをどう取ったのか、男は彼の行く先にある自動拳銃に視線を移し、それを拾い上げると、彼に向かって軽く放る。それを至極自然に受け取ってしまい、思わず、彼は男を凝視した。
「…何故だ?お前、俺を殺したいんだろう。それなのに…。それとも、今更、俺に武器なんか与えても、何て事はない、とでも思っているのか?」
その言葉に、男は片目を眇めた。それは、彼が自分に自然に話し掛けてきた事を驚いているようにも、彼の言葉を、心外だ、とでも思っているようにも見えた。
目の前の生物も、こんな顔を見せる事ができるのだ、…と、どこか遠いところでそう思う。
「…お前、それが欲しかったんだろう?」
『だから、拾ってやったんじゃないか』
男の顔は、そう語っていた。何の裏心もなく、真っ直ぐに己を見せる、子供のようなその表情。それは、先程までの冷徹な異形の者には、全くそぐわない。
彼の腰が、そのまま凭れかかっていた床から、ずるり、と滑るように落ちる。
「…参ったな…」
『子供のような』という形容は、多分、当たっている。男は、彼が思っているよりもずっと幼いのだ。
自分の前を塞ぐものを破壊するのも、目の前の人間に落ちている物を拾ってやるのも、男にとっては、どちらも重さは変わらない。
(…まあ、どちらも、造作のない事には違いないわな…)
「…お前、名前は何ていうんだ?」
男は当初、何を訊かれたのか、よく判らなかったらしい。きょとんとしたまま、彼を見つめている。
「名前だよ。さっきの、SAなんたらっていうの以外に、何かあるんだろ?」
「…ああ、…『前田』っていう」
「『前田』か。いい名前じゃねーか」
「……そーか?本当に、そう思うか?」
「ああ」
その一言に、男の表情は一気に明るくなる。もう既に、先程までのような『異形』に映る事はない。男は、心底嬉しそうな顔をして微笑った。得意げな、子供そのままの笑み。
それは、何処をどう見ても、少年を脱し掛けた年代の、しかし、少年の名残を多く止めたままの、精悍な顔立ちの若者。
「………参ったね、本当に」
彼は呆れた息を吐く。途端に、肺に鋭い痛みが走って、思わず前屈みに胸を押さえた。ゆっくりと浅く呼吸する彼の頭上から、気安げに掛けられた声。
「おい、おっさん。あんたは?」
「…あ?」
「名前」
「ああ…」
先程まで殺し合っていた相手に対して、自己紹介もないもんだ、とは思うのだが、目の前の存在が、姿(なり)のでかい子供である、という考察は、彼の中で今までとは違う意味に於いて、男に対する確実な距離を置かせていた。
そもそも、子供は苦手なのだ。…弱い、ともいうかもしれない。何をした訳でもないのに、まるで負い目でも持っているかの如き心情にさせられて、つい素直に質問に答えてしまう。
「…島村ってんだ…」
「島村、か。島村のおっさんだな!」
男は、…前田は、とても嬉しそうだった。にこにこと、何度も彼の名を口にして、その響きを楽しんでいるかのようだった。他者とこうして、対等の位置に立った事など、ないのかも知れない。…相手と名を名乗り合う、などという事も…。
「…で、俺をどうする?」
物思いに耽ってばかりもいられない。今までの軍の動きからいって、再度、援軍の出される可能性も大いに有り得るのだ。
「あ?」
明るい色を掃いた相手の声音を敢えて黙殺し、島村は畳みかけるように続ける。
「殺すか?そのつもりだっただろう」
「…ああ」
前田は、まるで初めて見るもののように、まじまじと島村を見つめた。まっすぐに注がれる、観察と値踏みの入り交じったその視線に、島村は居心地悪げに身動いだ。
「…別に、殺してもいいんだけどな…」
その言葉に島村は、先程投げ渡された拳銃を構え直す。その様子を見やって、前田は笑いを浮かべた。
冷笑ではない、如何にも面白そうな、悪戯っ子めいた笑み。
「どう、したい?」
覚えず、戻ってきてしまった質問に、島村は一瞬、返答に窮する。
「……まだ、死にたくは、ないな…。やるべき事が残っている…」
「なら、それでいい。もうあんたは、俺の邪魔にはならなそうだしな」
前田は、それきり全く興味をなくしてしまったように、島村に背を向けた。そのまま、立ち去り掛ける彼に却って、周章狼狽してしまう。
「待て。お前、これから何処へ行く気だ」
「さー。取り敢えず、このけったくそ悪い所から出られりゃいーさ。後の事は後で考える」
本当に『考える』のか、疑問な限りではあったが、それは前田の偽らざる本音であるのだろう。…そもそも、前田の辞書に、『偽る』という文字があるのか、それさえも判らないが。
このような物騒極まりない存在を、野に放ってしまっていいものか、という思いも、確かに己の胸内を掠めたが、自分の命と引き換えにしても、止める事が可能であるとは思われないものを、強いて止めようなどとは思わない。それにもう、島村の部隊を全滅に追い込んだ前田に対する怒りや僧しみは、あまり感じていなかった。
彼が、全くの『子供』である、という事を悟ってしまったからだろう。しかし、守護すべき部下達をあっさりと犠牲にしてもらった礼は、返さなければならない。それが、上官としての務めであり、誇りでもある。
(…まだまだ甘いな。『前田』)
身を翻して、闇に消えた前田を、その場に蹲ったままに見送りながら、島村は薄く苦笑った。卓抜したその戦闘力を生かすも殺すも、扱う者の精神ひとつだ。彼はまだ、『人間』というものを知らな過ぎる。
(しかし今、返礼すべき相手は別にいる…)
きっとまた、軍は動く。援軍…いや、それはもう追尾隊になるだろう…。まんまと首尾よく逃げおおせた最高機密を取り戻す為に。そして、その最高機密の見せた力の一端も、その存在すらも外部に隠す為、今回の事件はなかった事とされるだろう。多分、事故にでも見せかける為に、まもなく人がやってくる。
島村は、ゆらり、と立ち上がると、先刻までの状態が嘘のような、怪我など全く感じさせぬ身ごなしで、研究所外の未だ闇の播る空間に過ぎない、茂った木々の縁へと、身を躍らせた。
少しずつ、少しずつ、空気の明度が高くなる。白壁ゆえに、周囲から浮かび上がって見えるその建物は、先刻までの死闘など微塵も感じさせぬ程に、しん、と静まり返っている。それは、日常の夜明け前の静けさと、何等、変わらないように見えた。
そして、後には、死と破壊の匂いだけが残った。



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