楽園幻想 +++ ACT.1-2 聖別の日





「…だけどその後、父さんがなかなか連れていってくれなくってさ。やっとまた研究所に行けた時には、もうその子は居なかった。もう十年も前の事なのに、昨日の事みたいによく覚えてる。あの時は父さんに、泣きながら、だだを捏ねたんだ。…どうしてるのかな、今は。あの子」
「…ふーん…」
聞きたい、なんて、言うんじゃなかった…。
人見知りの健太にとっての初めての友人の話、などという、如何にもなその話題に、好奇心をそそられてしまった己が、浅はかだったのだ。
撫然としたまま、渋谷が健太専用のティ・カップに入れたばかりの紅茶を注いだ。今日の銘柄は、健太の好きなF&Mのクイーン・アンだ。昨日は、渋谷好みのハロッズのダージリンだった。共同生活を送る二人は、双方の好みの違うものは、日替わり、もしくは週替わりで公平に楽しむ事にしている。
豪奢な、とはいい難いが、少年二人で住まうには不相応である、といえたろう、その館のサン・ルームに射し込む朝光は、広く採られた庭に茂る木々の梢を透かして、物柔らかな光を幾重にも重ねていた。
朝の清浄な空気。柔らかな陽光。ボーン・チャイナのティ・カップ。丁度よく入れられた紅茶の香り。
こんなにも、お気に入りが集まっているというのに、遠い記憶に思いを馳せ、視線を空にさ迷わせる健太に、渋谷は唇を尖らせる。
「…随分、気に入ってたんだな。そいつの事」
「『気に入ってた』っていうか…、そうだね。『特別』の存在ではあったよ。何でだろう。あれっきり、会えなかった相手なのに。…その子に、約束の『名前』を告げる事ができなかったからかも知れないね…」
いつも傍らにいる自分に対して向けられる事も珍しい、慈愛と優しさに満ちた、とっておきの微笑に、渋谷の頬は、ぷくりと膨れた。
「…狡いっ」
「え?」
「井口、そいつには会いに行ったのに、俺には会いにきてくれなかった」
渋谷のそれは、自分が研究所に居る間に、という意味だ。
健太は、呆れたように渋谷に視線を転じた。
「そんな事言ったって、渋谷君が4年前に我が家に来るまで、僕、渋谷君の事、知らなかったし、大体、研究所に行った事だって、数える程しかないんだし…」
「そんなの関係ない!俺だって、ちびっ子の井口に会いたかったのにっ!」
「…何、子供みたいな事、言ってんのさ…」
「『子供』で結構!俺、造成(うま)れて、まだ4年しか経ってないもんね」
健太が12才の時、父からバースディ・プレゼントとして贈られた、満4才のサイバノイドは、開き直ってそっぽを向いた。なまじっか外見が、十代も後半、といった青年に近い上、かなり整った容貌をしている為、その様は、情けない、と周囲に脱力感を覚えさせてしまう事は必定である。しかし、今現在、この井口家の居間にいるのは彼等二人だけであったので、この場合は健太の宥めるような苦笑があるのみであった。
「本当に、仕方がないんだから…」
いいざま、手にしていたティ・カップをテーブルに置き、ソファから身を起こすと、流れるような動作で、未だティ・ポットを抱えたままの渋谷へと歩み寄る。そして、ふわりと抱き付いた。
「渋谷君がここに来てから、4年間。僕と離れて過ごした日なんか、1日だってなかったじゃない。それなのに、何でそんな我が儘、言うんだろう…」
渋谷に言い聞かせるような、それでいて、独り言を呟いているような趣を醸す声。
驚きに身を竦ませた渋谷の背に回された手に、強く力が込められた。しかし、次の瞬間には健太は、抱き付いた時と同じような何気なさで、するりとその身を外した。
「渋谷君、まだ、先週買ってきた苺ジャム残ってたよね。ロシアン・ティ風にしてみようよ」
再び、ソファに身を沈めて、カップを手に微笑う健太には、全く屈託がない。
「はいはい、苺ジャムね。まだ、冷蔵庫にあったと思うけど…」
渋谷は、小さく息を吐きながら笑顔を作り、キッチンヘと足を運ぶ。
この家に来たばかりの頃、健太とじゃれあって遊んだ記憶など、渋谷には数え切れない程にある。しかし、いや、だからこそ、ここ最近の健太との触れ合いは、その頃のものとは、自ずと違うと知れるのだ。
なかなか慣れる事ができない。こんな柔らかな、健太の抱擁には。
そう。渋谷が、ではない。渋谷よりも少々小柄な少年が、渋谷を包み込むように抱き締めるのだ。
初めて会った時には、渋谷の胸当たりまでしかなかった、多分、標準よりもかなり小さかったであろう、幼い、とさえ見えた少年は、今では、渋谷との身長差を、15cm程にまで詰めてきている。造成れた時から変わらず、十代後半の姿のままの渋谷を追い抜いて育って行く日も、きっと近いだろう。
一抹の寂しさ。置いていかれてしまう事への悲しみ。だけど、今は…。
(…あの抱き締め攻撃と笑顔とで、全ーっ部、誤魔化されてしまう自分が、何だかすっげー悔しいぞ…)
それでも、とっても幸せな渋谷は、複雑な表情を作ったまま、冷蔵庫の扉を開けた。
(…だけど…。〈SA−03Γ〉、ねえ…)
目は苺ジャムの小瓶を探しつつ、思考は全く別のところをさ迷う。
〈SA〉型とは、戦闘型だ。
体内に格納されている記憶装置(メモリー・バンク)からの情報で、渋谷はそれを識っていた。
渋谷自身のような、情報型である〈SR〉ででもあるのならまだしも、遺伝子工学の大家、人工生命体研究の第一人者である井口博士によって、手ずから造り出された戦闘型サイバノイド。あまりの戦闘能力、運動能力の高さに、テスト・タイプの9体しか作成されなかったうちの一体。
(…どう考えても、自我の類をカットされた上で、何処ぞの研究室で飼い殺し…だよなあ…)
それも、まだ生体活動が停止していない、という前提の元での予想だ。10年前に造り出された幻の戦闘型。今でも、あれ以上の能力を持つサイバノイドは、一度たりとも作成されていない、とまでいわれた逸品だ。カルトな研究者、利益が第一の軍需企業。喉から手が出る程に欲しがる者など、幾らでもいるはず。
もしも、手に入ったら?
どうするか、など言わずもがなだ。人間にとって、人工生命体(サイバノイド)など、機械人形(ロボット)と何ら変わりのない存在なのだから。
「ああ、あった、あった」
渋谷は、冷蔵庫の隅から小瓶を取り出した。
「井口、あったぞ。でも、後ちょっとしか残ってないから、また買ってきておかなくっちゃなんないな」
にこやかに健太に向かって小瓶を掲げる渋谷にとって、健太の好きな苺ジャムとその残量の方が、顔も知らぬ『兄弟』の現状などよりも、ずっと大事な事なのだった。



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