楽園幻想 +++ ACT.1-1 知恵の実


女は蛇に言った。
「わたしたちは、園の木の実を食べることは許されていますが、
 ただ、園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、
 これに触れるな、死んではいけないから、と、神は言われました」
 蛇は女に言った。
「あなた方は、決して死ぬことはないでしょう。
 それを食べると、あなた方の目は開け、
 神のように善悪を知る者となることを、
 神は知っておられるのです」

創世記第3章2〜5節



覚えている。それは、始源の記憶。
そこには、何も存在しなかった。または、全てが存在していた。世界は無限の広がりを見せ、尚かつ、小さく切り取られた空間に過ぎなかった。己は、世界全体を覆っており、世界は己を暖かく包み込んでいた。
とろとろとした微睡みを誘う波に揺られて、ただ、たゆたう。そこには〈己〉という個の意識は、存在しない。何もない。喜びも悲しみも、何も。
「…言うなれば、母の胎内に宿っていた時の記憶こそが、《エデン》という楽園幻想を生み出したのだと思いますね」
「そして、全ての人間は、生まれ出る事によって、楽園から追放される、というのかね?なかなか面白い考え方だね。しかし、…」
〈彼〉の中を、意味を成さない音の波が、通り過ぎて行く。
「…こんなに近くに、聖書論者がいたとは、ついぞ気がつかなかったよ。まあ、人類史上、始まって以来のロング・セラーである事は、認めるがね…」
「…茶化さないで下さいよ、所長。ただ、僕は…」
「聖書には、『神は、土くれから人間を造り出した』とある。…我々は、土くれから、とは、いかなかったが…」
そこで一度、音が途切れた。その沈黙が、一瞬だったのか、永遠だったのか。よく判らない。そして、その次に発せられた音は、多少、その調子を変えていた。
「先刻の君の説によると、胎児にとっての蛇は、一体、何に当たるのだろうね。なんせ、人間に楽園を捨てさせた誘惑者、人に原罪を背負わせた根源、だ」
「さあ、それは…」
その時だった。〈彼〉の世界が、いきなり切り裂かれたのだ。何が起こったのか、全く判らなかった。既に〈彼〉は、世界ではない。たった一つの意識、物体に過ぎなかった。周囲は、透明な筒状のもので覆われていて、そこに満たされた液体の中に、彼は浮かんでいる。
時々、湧き起こっては消える気泡の中、大小様々な管に繋がれた存在。それが、自分、だ。
見開かれた〈彼〉の視線の先、一つの存在があった。それは、とても小さなもの。しかし〈彼〉は、本能的に理解した。『それ』が、〈彼〉の世界を破壊してしまったものだ。〈彼〉を呼び起こしたのは、『それ』だ、と。
「健太。あんまり近付いてはいかん。こちらに来ていなさい」
「お父さん!この子、目、開けた!こっち、僕の事、見てるよ!!」
高く響く声。
『それ』は、興奮に頬を紅潮させていた。喜びに輝く瞳は、瞬きの間も惜しい、とばかりに、〈彼〉を食い入るように見つめている。〈彼〉の周囲に巡らされた鎖の際に立ち、懸命にこちらへと伸ばされた手は、ひどく小さかった。
「反射的なものだ。それは、まだ、自分の目に映っている物を認知できない。ただ、見えている、というだけの話だ」
『それ』の発する声とは対称的に、そっけなく返された音は、えらく冷たかった。しかし、『それ』の耳には、その声は届いてはいないようだった。〈彼〉を、一心に見つめ続けていた瞳の強い光が、不意に和む。
〈彼〉には、初め、自分に向けられたと思しきそれが何なのか、よく判らなかった。しかし、それは〈彼〉の中に、小さな、しかし、確かに温かなものを生み出していた。
優しさと親しみと、そして、確かに愛情とが込められた、微笑。
「初めまして。僕、健太。井口健太っていうんだ。もうすぐ六つになるから、お兄ちゃんなんだよ」
『それ』…健太、という名称を有するらしい存在…は、笑い掛ける。濃い霧のかかったような意識の中、単なるバイブレーションの重なり合いに過ぎなかった音は、不思議と意味ある言葉として、〈彼〉の内に響いていた。
イグチケンタ
心地好い音の繋がり。
「お父さん、この子、お名前、何ていうの?」
「それは、まだ何も知覚できないし、名前などない、…と言っても、判らんだろうな、お前には」
〈彼〉にとっては、意識を上滑りするのみのその音は、苦笑を孕んだ井口博士の言葉だった。その知能指数に比例しない、年相応の精神しか持たない、博士の息子。彼と話す時、博士はいつも、困惑をその内に抱えてしまう。
「そうだな…。強いていうなら、〈SA−03Γ(ガンマ)〉とでも…」
「…それが、お名前なの?」
「まあ、名前の一種だな。コード・ナンバー、というんだ。〈SA〉型の3体目の作品だから」
唇を噛み締めて、健太は〈彼〉に向き直った。何だか怒っているような、今にも泣き出しそうな、微妙な表情をしていたが、健太の父親である博士の目には触れなかったようだ。
「さあ、もういいだろう」
己に向かって伸ばされた手を避けて、健太は強化ガラスで作られたそのポッドから離れようとせず、訴え掛けるように父親を見上げた。
「僕、もうちょっとだけ、ここにいたいな。いけない?お父さん」
博士は、渋い顔で眉を跳ね上げた。
「…所長。別にこの部屋は、危険がある訳ではありませんし。もうしばらく、彼にここにいてもらえれば、かえって、この後の仕事も支障なく進むのでは…」
「……そうだな。ここにあるものに絶対に触らない、というのなら…」
「約束する!絶対!!」
とりなしめいた言葉をかけてくれた青年に嬉しげな笑みを投げると、青年も小さく微笑って、軽くウィンクを返した。が、博士の取って付けたような咳払いに、慌てて居住まいを正す。
「それじゃ、私達は隣の部屋にいるからな。仕事が終わったら、迎えに来るから」
それには答えず、一心不乱に〈彼〉を見つめ続ける健太の背後で、呆れたような笑いと、人の離れていく気配。そして部屋には、〈彼〉と健太のみが残された。
完全に大人達の去ったのを確かめて、健太は己を通せんぼしている鎖の囲いを潜り抜け、目の前に聳えるポッドを仰ぎ見た。もう、手を伸ばせば、届きそうな程、間近に居るのだ。
「えへへ」
照れくさそうに頬を染めて、そおっと手を伸ばす。
…が、ポッドに触れそうになった時、弾かれたように彼は身を引いた。
「……約束したんだった…」
固く握り締めたその手と目の前のポッドとの間を、幾度か忙しなく、視線が行き来する。そして。
「…触ってもいい?」
どうやら、『約束』よりも、己の欲求の方が勝ったらしい。おずおずと口を開くと、健太は〈彼〉を見上げた。少し首を傾げて微笑むと、先程よりもしっかりとした仕種で手を伸ばす。そして、彼等の間を隔てる分厚いガラスの壁に手をついた。そのまま、頬を寄せる。
「…もっと、ちゃんとしたお名前があると、いいのにね…」
ガラスに向かった呟きは、少しくぐもっている。
「あのね、僕、前の学校に、友達になりたかった子がいたんだけど、僕、どうしてもそう言えなくって、友達になれなかったの。だから、今度の時は、ちゃんと友達になりたいって言うって決めたんだ…」
巨大な水槽めいたポッドに向かいながら、己に言い聞かせるような独白を続ける健太の目は、どこか遠い。しかし、次に上げられた瞳は、真っ直ぐに〈彼〉を映していた。
「…僕と、友達になってくれる?」
希望と期待に、ほんの少しの不安の掃かれた声。だけど、〈彼〉を見つめるその瞳は、みるみるうちに曇っていった。今にも泣き出してしまいそうな顔をしている。〈彼〉の無反応ぶりを、誤解してしまったのだろうか。
だが、〈彼〉には何も判らなかっただけなのだ。目の前の小さな存在は、…健太と名乗った彼は…一体、何なのか。彼のいう『友達』とは、何なのか。真っ直ぐに見つめる彼に、何らかの反応を返さなければならないのか。そもそも、どうやって自分の思考を相手に伝えたらいいのか。
己をすっぽりと包む培養液ごしに、ただ健太を見つめつつ、〈彼〉は、ひどく不思議な思いに囚われ始めていた。今まで、己の上を素通りしていくのみであった事象の中で、こんな事は初めてだった。
健太が、うち萎れたような様子をしている。それはきっと〈彼〉が原因。どうしたらいいんだろう。どうしたら健太は、先程までのような顔を見せてくれるんだろう。…そうだ。先程、健太の見せてくれた顔。〈彼〉が、もう一度見たいと思った顔。〈彼〉のそんな顔を、健太も、見たい、と思ってくれるだろうか。
健太が、弾かれたようにその面を上げた。
「…今、笑った?微笑ってくれた…よね?」
沸き上がった気泡に遮られて、一瞬、〈彼〉の表情が見えなくなる。次にそれを目にした時には、もう元の無表情に戻ってしまっていたけれど、健太には、その一瞬で充分だった。
「……僕の友達…」
ポッドにへばりついて、うっとりと目を閉じる。
「前田君みたいに、優しいね。前田君、苛めっ子だったけど、すごく優しかったんだ…。…えっと、あのね。……『前田君』って呼んでもいい?」
健太にとっては特別な名前なのか、恥ずかしげに頬を染めて言う。
「…〈SA−03Γ〉なんて、呼びにくいし、第一、それはお名前じゃないもの。ね」
〈彼〉の目を、健太の視線が捕らえる。〈彼〉の視線も、吸い寄せられるかのように、健太へと当てられた。その時。
「健太。もうそろそろ、ここから出るぞ」
背後から…〈彼〉にとっては、正面から…かけられた声が、二人の視線の繋がりを断ち切った。
びくりと体を強張らせた健太は、おずおずと背後を盗み見る。すると予想通り、怒ったような顔で腕組み、仁王立ちをする父親の姿。
「『何処にも、触ってはならない』と言っただろう。それを、こんなに培養ポッドに近付いて…」
「…ごめんなさい、お父さん…」
しょんぼりと肩を落とした子供の姿に、諦め混じりの溜息を吐く。
「全く、仕様のない。さあ、もう帰るぞ」
「はあい。…それじゃあね、前田君。今度来る時までに、ちゃんと下の方のお名前も、考えてくるからね」
「…何だ。その『前田』というのは…」
「あの子のお名前。僕達、友達になったんだ」
「…あれと友達に?…ごっこ遊びの一種か?」
「違うよ!ちゃんと前田君だって、僕に笑いかけてくれたんだから!」
「『笑う』なんて、そんな事ができる訳がないだろう。あれは、まだ未調整なんだから…」
声は、次第に遠ざかっていく。そして、〈彼〉の意識もまた、深い闇の中へと沈み込んでいこうとしている。
あれは、何だったのだろう。今のは、夢だったのだろうか。…そうかもしれない。永い永い眠りの見せた、一時の夢だったのかもしれない。
人間の手によって造り出された、人工生命体。〈サイバノイド〉と呼ばれる彼等の眠りの中に、夢、などというものが、存在するものであるのならば。
健太によって、『前田』という名を与えられたサイバノイド、〈SA−03Γ〉は、再び、ゆっくりと己の意識の中に、その身を横たえた。



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