楽園幻想 +++ ACT.0 アダムの系譜





彼は、『人間』というものに対して、何の感情も抱いた事はなかった。そもそも、感情、などというものを意識した事などない。定期的に己に与えられる諸々の不快な事柄も、その時さえ過ぎてしまえば、何という事もない。『人間』は彼の体調には気を配っていたようだったから、例え、大きな苦痛が襲っても、しばらくすれば元通りに修復される。
重力チェック。限界圧力チェック。限界電圧、最大筋力、身体代謝機能、知能指数、反応速度。エトセトラ、エトセトラ。
多岐項目に渡る実験。そのデータを収集する為の、彼は大切な試験体だったから、再生不可能なまでの損傷を負わされる事は決してないのだと、教えられてもいないのに、識っている。
何故か、などと考えた事もない。そういうものなのだ、とそう理解していた。
実験、損傷、修復。そして、また実験。電子錠のついた個室と、様々な器具、精密機械の氾濫する実験室との果てしない往復。彼にとって、日常というものは、そんな事の繰り返しに過ぎなかった。その時までは。



扉の向こうに感じられる気配に彼は、室内で唯一の家具である固い小さなベッドから、その身を起こした。扉のロックの外れる音は、研究所自慢のその性能に反比例して、些か呆気ない程に軽い。…別に彼は、その性能について身をもって知りたい、と切望した事などなかったから、それは一般的な知識に過ぎなかったが。
薄暗い部屋に、ドアの隙間の分だけ、光が射し込んだ。逆光のため、『人間』ならば判別し難かろう人影は、しかし、赤外線を感知する彼の眼には、はっきりと映っていた。
実験の度に迎えに来る、いつもの男ではなかった。が、彼は目の前に現れた男をも知っていた。実験室で彼を待っている人間の一人。いつも身に纏っている白衣は、今はない。その為、常とは全く違って、至極穏やかそうに映る。
男は、彼が自分を見つめているのに気付いたらしく、大きく扉を開いた。光が大きく室内に広がって、暗さに慣れた彼の眼を射る。
「出ろ」
端的に掛けられた言葉に無言のまま応じて、ゆっくりと扉を潜る。それを確認して、男は軽く顎をしゃくると、前に立って歩き出した。そして、そのままいつも通り、実験室へと至る方角に向かう。その事に、何とはなしの安堵を覚える。常とは違う現象というものに不安がっているのを自覚して、彼は己を叱咤すると、しっかりとした足取りで後を追った。
男は、廊下のT字路を、いつもの方角とは全くの反対方向に折れた。些かの揺るぎもないその歩調に、少し遅れてついていく。その歩みと共に、己の内に育っていた推論が、確信に近くなっていく。
試験体は、自分だけではないのだ。初めて個室に通された時、そこここに存在していた他者の気配が、それを裏付けていたではないか。一定期間…多分、その個体から、データを取り終えるまで…を過ぎると、新たに造成された個体に、実験体を切り換える。そして、あの部屋は新しい試験体のものになるのだ。
その後、旧試験体はどうなるのだろうか。今まで自分のいた場所には、存在しなかった。…彼の知っている場所など、ほんの小さな区域に過ぎなかったが。
今まで課せられてきた、肉体の耐久度ぎりぎりを試す実験の数々。その修復の必要性のなくなった旧試験体。存在意義をなくしてしまった旧試験体を?
導き出される答えは、ひとつだけだった。
それでもその時、悲しみや怒り、恐怖といった感情は少しも浮かんでこなかった。強いていうなれば、何だか残念な気持ちをしか、感じなかったのだ。
生物とは、本能的に『死』を恐れるものだという。なのに、今、歩む先にあるのだろう、一歩ずつ、確実に近付いている『死』に対して、負の感情を抱かない己は、一体何なのだろう。
己のような存在は、生物であるとはいえない。『生きている』などと言えない。
人間のDNAを核に、あらゆる生物の体細胞を組み込まれ、それら全てを超LSIで収束されたもの。
人と獣と機械との合成生物(キメラ)
そんなものが、機械人形(アンドロイド)と、どう違うというのだ。
いや、機械人形の方が、まだましだ。彼等は、与えられた疑似人格プログラムに則って、『人間らしく』振る舞う事が可能なのだから。
前方を歩いていた男が、目の前の扉を開く。自分がこれからどうなってしまうのか。そんな事は、どうでもいい。眼前に広がった、造成されて初めて見るはずの外の世界も、彼の感情を動かす事はできなかった。山も木も、建物も車も。自然物も、人工物も。その瞳に映っているだけの存在。
その集合体。ただ、それだけに過ぎなかった。



彼は、ふと我に帰った。瞬間的な軽い記憶の混乱。一体、ここは何処だろう。しかし、すぐに答えは見付かった。
そうだ。通用口を通り抜けてすぐ、用意されていた車に乗せられたのだった。
無意識の内に浅い眠りに落ちてしまっていたのが、ブレーキ時のGで覚醒した、といったところか。
しかし、そんなに遠くまで来た訳ではない。体内の原子時計も、先程から10分と経ってはいない事を告げている。
視線を前に向けると、丁度、男が運転席から降りようとしているところだった。そもそも、廃棄したいだけであろうに、何故こんな所まで連れてくる必要があるのだろうか。要領を得ない点は多々あったが、取り敢えず今は男に従わなければ仕方がない。
そして、彼が車から降り切ってもいない内に、男は目の前の家の呼び鈴を押した。
屋内に響いているであろうベルの音が、小さく洩れ聞こえる。そして、パタパタと軽い足音。
「お父さん?!お帰りなさい!」
澄んだ高めの声と共に、玄関の扉は勢いよく開かれた。
「…あれ?稲場さん?」
そこにいたのは、小さな人間だった。多分『子供』といわれる部類の。
見張られた目が、純粋に驚きのみを映してはいない事は、その視線を注がれている当の男にも、判っただろう。人間に興味のない彼に判る程、はっきりとその子供の表情を彩ったのは、多分、落胆。が、稲場と呼ばれた男は、それでも子供に笑顔を向けた。
「今日は、井口博士からの贈り物を届けにきた。言づてもあるぞ。『12才の誕生日おめでとう』だそうだ」
途端に、子供の瞳が輝く。
「お父さんから?!何?!」
「これだよ」
稲場がその大きな体をずらして、彼を子供の眼前に晒した。正面から見た子供は、大きな瞳を更に大きく見開いて、彼を見つめている。
「今日から、お前の物だ」



「渋谷君、寝てるの?」
4年前よりも少し低くなった、だけど変わらず柔らかく澄んだ声に、渋谷はゆっくりと目を開く。
「んにゃ。起きてる」
後から知った。彼が、健太の『もの』となったのも、実験のひとつだったという事を。
人工生命体のDNAへの刷り込みによる、一存在に対する定義付けは可能か否か。
それが、彼への最大かつ最後の実験だった。殆ど、その為だけに造り出された個体〈SR−11Λ(ラムダ)〉。そして、その一翼を担った『一存在』、研究室のチーフであり、研究所の所長でもある、井口博士の一人息子、井口健太。
「…ちょっと、思い出してたんだ…」
記録(レコード)を読み込んでいた、とはいわない。健太が悲しむだろうから。4年前は、意図的に言い直していたこんな言葉も、今では極自然に口をついて出る。研究所にいた時には、想像すらしていなかった変化だ。そもそも、『想像』などという事すら、した事はなかったのだ。
あの頃の自分が正しい人工生命体の姿だったのなら、今の自分は、一体、何だというのだろう。
好奇に輝く健太の問うような眼差しに、渋谷は軽くウインクして見せる。
「いやさ。『井口健太』が、井口でよかったな、って思って」
きょとんとした健太に、渋谷は笑いながら、じゃれつくように抱き付く。
「…〈SR−11Λ〉が、俺でよかったなあ、ってね」
その言動を理解した訳ではないだろうが、そのまま背に回された健太の腕の感触、その胸内に納まった温もりに、渋谷はうっとりと酔ったようにその瞳を閉じた。
いや、確かに酔っているのだろう。健太の為に造成(うま)れた人工生命体が自分であった、という幸運に。『井口健太』が目の前の少年に他ならない、という偶然に。健太の傍らにいるのが自分である、という、その奇跡に。
「…渋谷君…」
「…ちょっと黙ってろよ。今め一杯、幸せ噛み締めてるんだから」
「…何だかよく判んないけど。火にかけっ放しのお味噌汁、煮詰まっちゃうよ」
「黙ってろってば。…実力行使で、黙らすぞ」
「ちょっと、渋谷く…」
きっと、健太が彼を『人間』にしてしまったのだ。
真っ直ぐな瞳で彼を見つめ、笑い掛けた時。彼を『渋谷』と名付けた、その時に。



        これこそ、ついにわたしの骨の骨
        わたしの肉の肉
        男(つち)から取ったものだから
        これを女(いのち)と名づけよう

                創世記第2章23節



END
(1995.8.19発表)



原作が、バレーボール少年達の熱血スポ根マンガだという自覚皆無。
本当に、好き放題のものを書き散らしていたのねー。
今でも大して変わらんが。








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